日本人の<社会人的な心性>が<部族人的な心性>をベースに形成されたこと(8:間章つづき) |
(8:間章)
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からのつづき。
(「3章 平安朝-----女性文化の確立
-----日本における『成熟社会』の典型は、ここにある」の検討のつづき)
(前項のおさらい)
◯男性原理は、イコール、ロゴスとすれば「分ける」思考に代表され、客観的に完璧であること「パーフェクション」を求める志向と言える。
言語、理性、思考、意味、論理、行為、合理的秩序の世界、左脳、男性的な世界、表層意識などであり、分析、論理、分離、差異、個別化、能動性による「システム化能力」とも言える。
これにのっとったコミュニケーションの目的は<知>の理解や共有である。
◯女性原理は、イコール、エロスとすれば「包む」感情に代表され、主観的に満たされている感じ「コンプリートネス」を求める志向と言える。
感情、イメージ、調和、芸術、愛の原理、関係づけの原理、右脳、潜在意識、女性的な世界であり、統合、融合、調和、芸術、創造性、受容性による「場形成能力」とも言える。
これにのっとったコミュニケーションの目的は<情>の喚起や共感である。
「女性原理・男性原理二重奏」「文化・文明二重奏」の現代状況
著者の「平安朝-----女性文化の確立-----日本における『成熟社会』の典型はここにある」という主旨を受けて、現代の実践的なマーケティング観点を試論して本項(8:間章)の結論としたい。
現代世界の経済至上主義には宗教性がある。
それは、経済を最優先して発展させることで、自分と家族、自分の所属する会社と同僚、国家と国民、そして世界の人々が幸福になると信じているとすれば、それは二重の意味で信仰である。
一つは本当にそれで幸福になれるのか、なれる根拠がなかったり根拠を確認していないのは信仰に過ぎないという意味。
いま一つは本当に経済だけを最優先して発展させるなどということが破綻なくできるものか、その検証をせずに漠然と幻想しているのは信仰に過ぎないという意味。
いや、ほんとは、幸福になれるのは国民の一部でありそれも世界の一部の国家だけの話で、その他大勢は経済的な敗者となりイコール不幸になるのだ、ということならば悪魔の信仰に他ならない。
よって、経済至上主義という<意>は、信仰としてすべてを包括する関係づけの原理でありすべてを経済活動として関係づくる場形成能力であることから、女性原理なのである。
正確には、
経済至上主義という<意>=目的が女性原理であり、
目的を達する手段である、因果律にのっとった経済合理性という分析的な<知>が、実際は特定の経済活動を選別的に促進することから、男性原理なのである。
経済至上主義の本質=目的は信仰であり、同様に信仰である拝金主義に、そしてフェティシズム(呪物崇拝)に通じる。
いわゆる「99%を支配する1%」の富豪はすでに使い切れない金を持っているのにもっともっと金儲けすることに熱中するというのだから、そこにも信仰のような中毒なり、中毒のような信仰なりを見ない訳にはいかない。彼らは何かのためにお金を拝むのではなく、お金を拝むことが目的になっているかのようだ。
そして、彼らを頂点とする富裕層が経済的に豊かになることで、一般民衆もそのおこぼれに預かることで豊かになるというトリクルダウン論が洋の東西を問わず各国の経済政策になってしまった。金を貯めて拝む信仰の者がどれほどのおこぼれを落とすか、誰も確証がないのにそうと信じているのも信仰でしかない。
このような信仰の基本はフィーリングであり女性原理なのである。
これをざっくりと現実の具体論に大過なくブレイクダウンすならば、
実体経済は男性原理だが投機経済は女性原理である
と簡潔に言うこともできよう。
実体経済、投機経済ともに経済というものは「手段が目的化してしまう」のだろう。
それが如実に言えるのは戦争ないし軍事という経済である。文化人類学的には、戦争は交易の一形態として位置づけられるから、このことに論理の飛躍はない。
かつて東西冷戦において米ソが大陸間弾道ミサイルの配備競争をして、人類を何十回何百回も絶滅させられる程に所有してしまったこと、軍拡競争は両国の財政を悪化させソ連崩壊の一因になったことは、「手段の自己目的化」の最たるものだ。
本来は国民の生命と財産を守る国防のための手段だった筈なのに、いつの間にか逆に国民を戦争に駆り立て生活向上を阻むファクターになってしまった。
これはフェティシズム(呪物崇拝)一般の陥りやすい罠である。
要は、最新流行のブランド品を借金してまで買いあさって破産する買い物依存症の国家版に他ならない。
ちなみに買い物依存症は、「CBD」(Compulsive Buying Disorder)と呼ばれ、アメリカ合衆国の全人口のうち約6%が患っている。後払いのクレジットカード決済の浸透が増加に一役買っているという。アメリカが超ど級の軍事大国であることも基軸通貨ドルの発行と無関係ではあるまい。
身近な例で言えば、◯◯が好きで◯◯を収集するようになったが、集めている内に収集という行為自体に中毒になる。
完璧=「パーフェクション」に収集することに意義を見出してしまうのだが、元々は好きな◯◯を見ていさえすれば「満たされている感じ」=「コンプリートネス」になれる、そういうことが目的だった筈なのに。
これも「手段の自己目的化」である。
女性原理の達成を目的とする枠組みの中で、手段である筈の男性原理が、本来の目的を破綻させるほどに究極化するパターンと言える。
米ソの大陸間弾道ミサイルの配備競争の前提となる「核防衛論」は一見理路整然とした男性原理のようだが、二つの軍事経済大国が競合すれば一発も打ち合わないまま双方の負担だけが天井知らずに増すことは論理的には分かっていた。つまり、これも空理空論の信仰でしかなく、両国の軍産複合体の関係者だけが潤い一般国民は疲弊することに向かうすべてを内包して物語化する神話=女性原理であった。
ベトナムの共産化を防がないといずれドミノ倒しのように共産化の波がアメリカにも押し寄せるとした「ドミノ理論」も、まったく同じ様相と経過と帰結となった。アメリカはベトナム戦争を仕掛けておいて結局撤退したが、ベトナムは共産化するどころか、中国とともに資本主義化している。
こうした論理=男性原理と神話=女性原理のパラダイムは、そのまま世界の原発政策と原発産業の様相と経過と帰結にも当てはまることは、チェルノブイリに続いて福島第一原発が爆発事故を起こした現在、言うまでもないだろう。
私はフェティシズムが悪いと言っている訳ではない。
フェティシズムとは、文化人類学・宗教学では「呪物崇拝」、経済学では「物神崇拝」と訳される。
経済と宗教=信仰は文化人類学では一繋がりで理解される。
その文脈の典型の一つがフェティシズムである。
その私たち日本人に象徴的な例は、大鑑巨砲主義の徒花「戦艦大和」である。
国家予算の3〜4%と言われる巨費を投じて、一回も敵を攻撃することなく撃沈された。その艦首には大きな菊の御紋がついていた。その艦名もヤマト王権の大和である。
文化人類学の視角から見ると、経済と宗教=信仰を一繋がりにさせるのは戦争という祝祭の特徴でもある。戦争景気神話、神国不敗神話、大鑑巨砲無敵神話とさまざまな神話が結集し、皮相な理想主義と過剰な冒険主義を煽動した。
ちなみに、大震災もそれを天災と受けとめる人間の想念を活性させて様々な神話を結集させる。戦争と同様に極端な理想主義と冒険主義を触発する。
物神崇拝も、それに連なる拝金主義、それに連なる経済至上主義も、それだけを取り上げて善し悪しを論じることは虚しい。
他の主義や信仰、他の生活や仕事との関わりや、目的と手段の見極めや手段の自己目的化などを踏まえて、女性原理と男性原理のあり方や関係性をケースバイケースに検討すべきである。
たとえば、高級ブランド志向というのも物神崇拝で、拝金主義そして経済至上主義と目的レベルでも手段レベルでも近しい関係にある。
この場合、高級ブランドを身にまとえば、ちょうど免罪符を買えば天国に行けると信じられたように、何らかの満たされている感じ=「コンプリートネス」になる。それを目的として達成しているのは女性原理である。
しかし、それが最新流行のモノでなくてはならないとか、最高級のモノでなければならないとか、客観的な他者との比較が濃厚になってくると、手段に「パーフェクション」を求めるのは男性原理である。
昔はおらが村や町のベストで済んだのが、日本国内広しといえどもになり、最終的に現在のように全世界で最新最高級を競うようになる。
そのような他者の比較対象を必要とする「競争的な他律性」における「他者の全世界化」に他ならない「グローバル概念」が確かにある。
それは当然、自己の内面において満足する「コンプリートネス」の自立性を見失わせる。
一方、同じファッションでも東京カワイイ系の安価なものを自分好みに選択したり自作したりするのも物神崇拝である。それは目的レベルでも手段レベルでも、言わば生活主義や文化至上主義であり拝金主義や経済至上主義とは真逆の位置にある。
この場合、部族社会で若者が似たような民族衣装を着ながらも自分流のアレンジで自作したモノを着て満たされているのと同じ<部族人的な心性>が介在している。そして<部族人的な心性>は人類普遍で、現代の世界各国の人々の深層心理にも根深く息づいている。よって、東京カワイイ系のファッションによって深層深くから満たされている感じを抱いた人々が、わざわざ世界各地から原宿や渋谷にやってきたり、それぞれの地元でコスプレ衣装を自作して同好者の集う草根イベントに参加する人も出てくる。
そのような自己の内面において満足する者として自律し同様の仲間と集う「共生的な自律性」における「仲間の世界化」と言える「グローバル概念」も確かにある。
それは当然、自己の内面において満足する「コンプリートネス」の自立性を強めるとともに現実への仮想現実の介入を広げる。
好みのモノを着て満たされている感じ=「コンプリートネス」になる、そうした目的が女性原理であるのはブランド志向と同じだ。しかし、その手段となる男性原理の「パーフェクション」の内容が主観的な自分好みの徹底である点が異なる。
ジャパンアニメや漫画が好きで日本語を勉強して来日する人々がこのパターンの典型と言えよう。
ブランド志向は、欠乏動機をベースとしたhave+doで完結するのに対して、彼らは成長動機をベースとしたbeを追求する。
同じファッションでもこうした言わば「棲み分け」があり、真逆の「グローバル概念」があることに注目したい。
ファッション産業やファション市場を十把一絡げに女性原理と一括りにするのはひどい短絡だ。
ここで、
ブランド志向を「A 目的=女性原理 × 手段=男性原理 but 手段の自己目的化」の組み合わせ
カワイイ志向を「B 目的=女性原理 × 手段=女性原理」の組み合わせ
とすると、
ファッション産業やファッション市場という括りだけで物事を見ない方が世の中の実体なり生活者の生活の諸相を俯瞰できることに気づく。
たとえば、
ファッション産業やファション市場と、ハウジング産業やハウジング市場と、生活雑貨産業や生活雑貨市場という異業種が、
「A 目的=女性原理 × 手段=男性原理 but 手段の自己目的化」のブランド志向同士で繋がっている。
「B 目的=女性原理 × 手段=女性原理」のカワイイ志向同士で繋がっている。
タンジュンに、
ブランド志向はブランド志向で
カワイイ志向はカワイイ志向で
連携している市場が存在するのだから、
異業種連携した方が産業として活性化する筈だ。
しかし、産業の区分けはあくまで<モノ割り縦割り>なので、そのような<コト割り横ぐし>の連携は一過的あるいは部分的にしか展開しない。
ブランド志向は、
客観的な比較のできる「因果律にのっとった<知>起点の発想思考」である。
カワイイ志向は、
主観的な徹底のできる「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」である。
連携させる繋ぎ方も違ってくる。
ここがポイントになって、109と百貨店の差異や、ブランド系ショップとカワイイ系ショップの違いについてその部分と全体の一貫した説明ができる。
本来はこれを構造的におさえることで、店舗開発や販売促進はもちろん、人材開発、組織開発の基本戦略をより明快化できる筈だ。
たとえば、経産省が進める「クール・ジャパン」という政策がある。
以上述べてきた観点からすれば、
◯ 男性原理のブランド志向つまりは本物志向=選別志向
◯ 女性原理のクール志向つまりは共感志向=包括志向
の整理を明快化せずに一緒くたにしているの感が拭えない。
そもそも官僚が法制度と予算を整備して監督業界を指導する、という時点で手段=男性原理である。
しかし建前の目的は日本ならではのユニークな物事を外国人にカッコいいと感じてもらう「コンプリートネス」=女性原理にある。そこは誰もが賛同する。
しかし、官僚主導のその手段となると違和感を持つ人も多い。
たとえば、江戸時代の浮世絵の版元、蔦や重三郎ならば、「お上の世話になりたかねえ、しゃらくせい」と言うに違いない。確かに、お上が抑圧した浮世絵は、日本が輸出した陶磁器の包装紙だったものを外国人が注目して世界的な人気と評価を得るに至っている。お上が推進したのは陶磁器の輸出で浮世絵の言わばゴミ扱いは見過ごされていたのである。
今の経産官僚がやっていることも、人気アニメのキャラクターを外国に進出した日本企業の広告や販促に使ってもらうように働きかけるなどで、ちょっと浮世絵の包装紙扱いと重なる気がしないでもない。
日本企業の現地法人も馬鹿じゃないし現地社員は現地事情に精通しているから、そのようなやり方がコスト対効果があるなら言われなくてもやっている筈だ。
旧通産官僚がホンダの自動車参入を阻んだり、クロネコ大和の宅急便事業を阻んだりしたことは有名である。そうした血筋の経産官僚が現地日本法人よりも知恵や見識があるとはにわかに信じられない。
官僚は、既に起こったことのしかも閉ざされた世界の「因果律にのっとった<知>」をしか前提にしていない。しかもそれは明示知である。
一方、多様なそれぞれの現場に向き合う企業人は、それに加えて今起こりつつあること、これから起こるであろうことを「縁起にのっとった<情>」起点で感じ取っている。それは皮膚感覚の暗黙知や身体知になっている。そこで見出す問題や課題は、人気アニメのキャラクターを使えば解決するような皮相的な些末なことではない。日本人の仕事文化や生活文化をいかにして現地の人々に対して分かりやすく伝えたり、歓迎されるように現地化するか、といった本質的な根幹の課題を優先している。
こうした観点に立つ時、
総理大臣による海外への原発セールスを頂点にして、経産課長による日本アニメのキャラクターの現地日本法人への売り込みを裾野とする国家主導、官僚主導の日本側の男性原理を、現地側の男性原理に持ち込んですり合せるというやり方ではなくて、
民間レベル、庶民レベルの日本側の女性原理と現地側の女性原理を多様多彩に交感させるやり方の必要性と有効性が見えてくる。
それは、なるべく多様多彩な民間人同士の自由闊達な交流によって達成される文化論的課題であることは論を俟たない。
国が支援するならば、そうした民間人同士の出会いや対話そしてその成果の事業化を促進活性化するプラットフォームの支援であろう。
しかし経産官僚はそれを効果的に達成できない宿命にある。
その象徴が、外国語教育である。
当たり前過ぎる話でするのも憚られるが、世界各国の現地の人々と日本人が創造的に成果豊かな対話するには、対象国の言葉が話せなくてはならない。
文化論的課題として民間レベル、庶民レベルで日本側の女性原理と現地側の女性原理を多様多彩に交感させる、となればかなり高度な語学力だけでも足らない。対象国での生活経験も必要だから、世界各国と交換留学生制度を充実するなどして、日本人全体として世界各国との交流交感の達人を育成すべきである。
しかしそれは文科省の専管事項であり、かつ文科省が推進しているのは、あくまで「世界共通語としての英語」の教育の充実と低年齢化、そしてTOEICのような資格制度の大学受験への導入なのである。
そして官僚体制は厳格な縦割りという男性原理だから、経産課長は文科省の専管事項には深くコミットできない。
相手国の母国語を尊重しない者にどうして文化交流ができよう。
よって、あくまでグローバリズムの経済活動の推進策の枠組みでしか主導できない経産省課長が文化論的課題に対応することには限界があるのである。
官僚体制は省庁縦割りだが、それはモノ割り縦割りである。
文科省はコト割りではないか、と一瞬思えるが、割り振りとは他者との関係性であり、たとえば農水産物と絡む教育や科学や文化は農水省も踏み込める。たとえば工業製品やサービス施設と絡むそれらは経産省も踏み込める。結局、それ以外の教育施設と絡む残りの教育や科学が文科省というのが大枠で、これはモノ割り縦割りに他ならない。
私がテレビ番組で見た経産課長の海外現地法人への指導でも、モノの広告や販促に人気アニメのキャラクターを使うことなど、人気アニメのキャラクターをモノ化した切り口(著作権使用物の利用)の提案ばかりがレポートされていた。
私はつねに、
「送り手側のモノ提供の論理」を脱却して
「受け手側のコト実現の論理」を徹底するパラダイム転換
を提唱してきた。
それは具体的には、
従来の前者が男性原理で、これからは後者の女性原理で行きましょう
ということだ。
従来は、差別化、競争優位、市場占有といった男性原理のキーワードを目的とし、その達成手段を「送り手側のモノ提供の論理」の<知>起点ので整備してきた。
商品の販売、顧客の集客とは、他社の商品ではなく自社の商品を買ってもらうことであり、他店ではなく自店に来てもらうことであった。
しかし、今や商品を買わずにレンタルしたり、新品ではなく中古で済ます、あるいは人からもらう、そういう消費生活も台頭してきている。また、来店せずにネットで注文し宅配で受け取る、そういう購買行動も拡大してきている。これらは「受け手側のコト実現の論理」の<知>起点であり、<知>起点ならば、生活者や顧客という受け手側の方が圧倒的に主導権をもっている。
結果、
女性原理のキーワードである共感、共生、包摂を目的とし、その達成を「受け手側のコト実現の論理」の<情>起点で整備してはじめて、売り手と買い手ないしは利用者という関係性を持ってもらえるようになった。
そこを損ねると、これまで来店したり買ったりしていた顧客ですら離れてしまう。つまり送り手と受け手の関係性を断つのである。
なぜなら生活者や顧客という商品サービスの受け手がこだわっているのは、企業や店舗という商品サービスの送り手との繋がり感において「コンプリートネス」が確保されることだからで、それが確保できなければ関係をもつ意味がないからである。
逆説的に例解すれば、いわゆるシャッター商店街でもしぶとく生き残っている店がある。
そうした店は例外なく、この商品サービスの送り手と受け手の繋がり感において、大型商業施設やコンビニやファミレスなどのチェーン店にはない「コンプリートネス」が確保されている。
そういうことは個店レベルの店主と顧客の人間関係として可能だが、商店街全体としてはできないと何も試みずに決めつけるとしたらあまりに悲観的だ。商店街全体を、地域の生活者の保育拠点や介護拠点とする、何らかの方法で若い人々の居住拠点ともする、地域通貨の展開運営拠点とする、あるいは外国人の地域密着型の観光中継拠点とするなど、地域の諸条件に合わせた共生と共感の地域づくりを複合的に模索をするべきではないか。
シャッター商店街の組合店舗は、自分たちを地域経済からの落ちこぼれにさせるなと地域社会の包摂性を求めながら、地域の生活者や国内外からの外来者や移住者には積極的に包摂性を提供しないでは、何も始まらないのは自明である。
ここは地元自治体に依存するでもなく、また商工会議所の地元人脈に凝り固まるでもなく、女性原理でオープンかつフェアで包摂的な人間関係を基調にした恊働を現代化そして国際化していくことが必要かつ有効だろう。
(前項のおさらい)
◯男性原理は、イコール、ロゴスとすれば「分ける」思考に代表され、客観的に完璧であること「パーフェクション」を求める志向と言える。
言語、理性、思考、意味、論理、行為、合理的秩序の世界、左脳、男性的な世界、表層意識などであり、分析、論理、分離、差異、個別化、能動性による「システム化能力」とも言える。
これにのっとったコミュニケーションの目的は<知>の理解や共有である。
◯女性原理は、イコール、エロスとすれば「包む」感情に代表され、主観的に満たされている感じ「コンプリートネス」を求める志向と言える。
感情、イメージ、調和、芸術、愛の原理、関係づけの原理、右脳、潜在意識、女性的な世界であり、統合、融合、調和、芸術、創造性、受容性による「場形成能力」とも言える。
これにのっとったコミュニケーションの目的は<情>の喚起や共感である。
藤原時代の女性原理優位から、鎌倉時代の男性原理優位へ、という展開を著者は解説していく。
それについては次項(9)で別の角度から検討していきたい。
ここでは(8:間章つづき)の締めくくりとして、「権威」と「権力」」、女性原理と男性原理との絡みで、藤原時代までと、鎌倉時代以降、何がどう変化したのか、私なりに整理しておきたい。
まず、日本は欧米や中国と違って「権威」と「権力」が一致せず、「権威」と「権力」が分立してきたことが日本の歴史の通奏低音として常にある。
「権威」とは人類普遍に部族のシャーマンに発する<部族人的な心性>であるが、日本では<社会人的な心性>として「権力」と分立していく過程で「場形成能力」に特化していく。
神と人間が交流する場というものをシャーマンが形成する。これが天皇の「権威」としてそして日本全体の「場形成能力」として温存されてきた。
藤原時代は、そうした天皇を摂関家である藤原氏が擁立し、その「権威」を背景に「権力」を保持してきた。
「権力」とは人類普遍に部族の族長に発する<部族人的な心性>であるが、日本では<社会人的な心性>として「権威」と分立していく過程で「システム化能力」に特化していく。
ヤマト王権は中国の律令体制を導入し「権威」と「権力」の一致を図ったがその目論みは律令体制とともに破綻する。
藤原氏は、天皇を擁立する摂関政治で「権威」と「権力」の分立を安定化させた。
ただし、その「権力」はあくまで天皇の「場形成能力」の「権威」に依拠した「システム化能力」だった。あくまで全体は「コンプリートネス」を求める「女性原理」を枠組みとし、たとえば有職故実を体系化するなど部分は「パーフェクション」を求める男性原理で展開していく。
結局それは高貴な血筋家柄が物を言う世界だった。なぜなら部分部分の「パーフェクション」を藤原氏を筆頭とする公家が分担したからである。
しかし、やがて言わばガードマンに過ぎなかった平氏や源氏という武家が台頭してくる。平氏や源氏は、もともとは天皇の血を引く貴種であり中央から流離し地方豪族を従えるようになった。
平清盛政権に至る平氏と、源頼朝政権に至る源氏の違いは何かというと、
平氏は公家パラダイムの中の武家であったのに対して、源氏は武家パラダイムで公家パラダイムに対抗したことである。
つまりは、平氏政権は軍事力と経済力で台頭したものの、公家パラダイムにおいて藤原政権に成り代わろうとしたに過ぎない。
一方、源氏政権は軍事力で幕府という武家パラダイムを公家パラダイムを凌駕するものとして切り開いた。
将軍の「権力」は幕府体制の「システム化能力」であり、その武家バラダイムは全体は封建制(血筋家柄ではなく功績に対して領地を与える実力主義)の「パーフェクション」を求める男性原理を枠組みとし、部分は御恩に対する奉公(領地を安堵される見返りとして鎌倉殿のために尽力する)の「コンプリートネス」を求める「女性原理」を展開する。
つまり、公家パラダイムと真逆の構造のダイナミズムとなった。
そして、室町幕府、戦国時代、織豊政権を経て江戸幕府の江戸時代に至るまでこのダイナミズムは温存される。
ただし、江戸時代は幕藩体制によって幕府の「システム化能力」が全体から部分まで徹底して、部分の「コンプリートネス」を求める「女性原理」は、士農工商の身分制度に裏打ちされた血筋家柄重視の「お家大事主義」に展開していく。
部分の「コンプリートネス」を求める「女性原理」のダイナミズムとしては武家社会よりも、町人社会の文化が実力主義で台頭していく。
また全体の「パーフェクション」を求める「男性原理」のダイナミズムとしても武家社会よりも、町人社会の経済が実力主義で台頭していく。
そして幕末、黒船の来航という外圧もあって、幕府の「システム化能力」が全体から部分まで綻びはじめて維新に至る。
私の考え方の著者の考え方との違いは、
全体と部分の高エントロピーと低エントロピーが入れ替わるエントロピー論と重なる形で、
全体と部分で男性原理と女性原理が入れ替わるダイナミズムの変化を捉える
というところです。
(9)
http://cds190.exblog.jp/19955873/
につづく