「雲南の少女 ルオマの初恋」私なりのあれこれ |
http://www.youtube.com/watch?v=TejR53J6DVU
何度みても清々しい。
2002年の作品。すでに観光化していたから10年たった今はかなりと思う。
今回は、田植えの予祝儀礼の源流に注視した。
田を「囃す」とは稲を成長させる土のエネルギーを活性させることで、この言葉は、私たち日本人が場を盛り立てたり盛り上げたりすることの原型イメージのようなのだが、田を囃すと同時に若い男女の恋を「囃す」、それが集団で泥を投げ合う行為として登場していた。で、これが本作でも都会人の恋人男性との展開のきっかけになる。
日本の場合、田舞を舞台で巫女がやり、早乙女=植女(うえめ)が田に苗を投げ田植用の縄を張ったりするのだがこれを遊女が行うことに決まっていた。どこでどうなるとそういう分業化、複雑化するのか分からないが、根幹は変わらぬように思う。
男女の恋愛から結婚まで、こういうことは古今東西、同じように源流的な根幹と現実的な錯綜がつきまとうものなのだろう。
そして現実的な錯綜に振り回されている現代人は、源流的な根幹に触れると忘れていた自分を思い出すのかも知れない。
本作では、稲魂様を将来させるべく牛に大きな赤いリボンをつけるシーンもちょっと出て来る。これは日本の民俗芸能全般が持つ神観念の三つの分類の一つ、『招魂』(たまふり・床世から神を招く)に相当する。
残る二つは、『田楽』(田の神の助力による稲作の作法)と『厄神払い』(悪い事象を払う)なのだが、本作では『田楽』と恋愛が重ねられ、失恋の結末が『厄神払い』になっている。偶然かも知れないが、ドラマツルギーが日本人が無自覚的にもっている文化的遺伝子に一致している。
参照:「日本の基層文化の儀礼構造と日本人の集団独創(1/2) 」
「和人文化論」川元祥一を読んで http://cds190.exblog.jp/3632209/