こんな今だから「グローバル・ヒストリーの視角」が役立つ(4:間章その2) |
*NHKスペシャル「中国文明の謎 第2集 漢字の誕生 王朝交代の秘密」
「中国文明の謎 第3集 始皇帝 "中華"帝国への野望」 発
周王朝から分かる「中華型グローバリズム」と「アメリカ型グローバリズム」の違い
次に参考にするのは、
NHKスペシャル「中国文明の謎 第2集 漢字の誕生 王朝交代の秘密」
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/1111/
である。
第2集の番組内容の内、本論シリーズと関わりのあるところを整理するとこうなる。
◯(漢字の発生と当初の使われ方の話)
漢字を生み出したのは、今から3000年前の殷。
最初の漢字は神に対して用いられる極めて特殊なものだった。
100年前、殷王朝後半の都、殷墟で亀の甲羅や牛の骨に記された甲骨文字見つかる。
3000年も前なのに読める文字あり。
漢字は、文字の形も文法も変わらぬまま生き残ったただ一つの古代文字。
突然に5000字が出現している。
甲骨文字の使用のほとんどは占い。
焼けた青銅の棒を甲骨にさすと生じる卜という形のヒビで吉凶を占う。
これを王が口にする言葉が卜+口=「占」という字に。甲骨には結果も記す。
吉凶を尋ねる相手は祖先。
占うのは王で、その場に居れるのは僅かな側近だけ。
漢字とは王と僅かな者しか目にすることができない神聖なもの。呪術的なもの。
「羌」=生け贄が、一つの占いで一つの穴分捧げられた。
人骨には頭部がない。神は人の頭を好む。14000体発見。
漢字とは、王と神との密接な関係を踏まえた、神と王を結びつける媒介。
◯(漢字の大革命の話 前半:周の勝利に貢献した漢字)
殷の属国に漢字が流出する。
殷の西の周原で殷と同じ漢字が発見される。
2センチ四方の小さな甲骨。300字程度。
周は殷とは話し言葉が異なるが、自分たちの言葉に応じて使いこなす。
表意文字だから理解し合える。
周は殷に従順にみせかけじつは微という殷に従わない部族と殷打倒を準備。
その連絡を漢字でしていた。
周が叛乱し殷を滅ぼして、紀元前11世紀に中国第三の王朝になる。
(筆者注:この周が200年ちょっとで滅んで春秋戦国時代になる。
この周に後の孔子(B.C.551~B.C.479)が礼の規範をもとめた。)
殷は絶大な軍事大国だったが、周との戦いでは一日で敗退。
前線の兵士が敵前逃亡。
なぜそのような事態になったのか。
司馬遷の史記によると、周軍には8つの部族が参加。
南方の仮面文化の蜀など多様な文化で当然言葉も通じないが、
表意文字の漢字で連携していた。
歯のサンプルの分析から生け贄の「羌」は、
殷墟から800キロの中国西部の甘粛省の殷に従わない部族ばかりと判明。
見せしめにしていた。
(筆者注:殷打倒すべしの動機が多くの部族間で共有されていたと言える。)
殷の兵士としては自国が超軍事大国のつもりでいたが、
自分たちに匹敵する大軍が目の前に出現して面食らってしまって敵前逃亡。
(筆者注:長い者には巻かれろの事勿れ主義者が、
じつは従っていたのが長い者ではなかったと分かった瞬間、
歴史が動く現場でありがちな反転。)
◯(漢字の大革命の話 後半:周王朝の多様な民族の統治と漢字による文化圏の変容)
10年前、楊家村で青銅器に記された大量の周の漢字が見つかる。
周が配下の部族に配ったもので、内容は土地を保障するから税を納めよという契約。
河南省の青銅器には、有事の際は兵を率いて参加せよ。
江蘇省の青銅器には、諸族をまとめて兵を指揮せよ。
口約束ではない文字を用いた契約。
周は数百の部族と新たな契約を結んだ。
封建制度の誕生。
湖北省、曾候遺跡で周になかった漢字「桑」「挙」などが発見される。
周とは違う文化圏で新たな漢字が作られて行く。
漢字は、言葉も文化も違う圏域を同じ文化圏にしてい行った。
(筆者注:中心が周縁に一方的に漢字使用を強制するのではなく、
周縁が漢字を中心から吸収しさらに新しい漢字を作り
それが全体に波及していった。)
◯(漢字の危機の話)
異民族の征服王朝であった金や元は漢字をやめて自らの文字を普及させようとした。
清も、表音文字である満州文字を公文書に使おうとしたが失敗。
漢字教育を最初に施された王子が4代康煕帝。
5万字を掲載した康熙字典を編纂。
本論の主題は、
「アメリカ型グローバリズム」と「中華型グローバリズム」の本質的な違いの究明
である。
これについて、
NHKスペシャル「中国文明の謎 第2集 漢字の誕生 王朝交代の秘密」の内容からは、
以下のような整理ができると思う。
まず、前項(4:間章その1)で、夏王朝から解説した
中華型グローバリズムは、
求心的で、高コンテクストで、
かつ文化目的>文明手段(文化文脈を文明で達成する)のために
域内で経済ルールを共通化しても、
結果的に文化の多様性が維持される度合いが強い
一方、
アメリカ型グローバリズムは、
遠心的で、低コンテクストで、
かつ文明目的>文化手段(文明文脈を文化で達成する)のために
域内で経済ルールを共通化した際、経済効率化を共通目的化し、
結果的に文化の画一性が助長される度合いが強い
という「中華型グローバリズム」の「アメリカ型グローバリズム」との違いが、
漢字をめぐる
「中心が周縁に一方的に漢字使用を強制するのではなく、
周縁が漢字を中心から吸収しさらに新しい漢字を作り、
それが全体に波及していった」
という経緯でさらに確認される。
そして、
著者が「アメリカ型グローバリズム」と一致するとする「モンゴル型グローバリズム」がまさにその逆であることが、
そして著者は後者をあたかも「中華型グローバリズム」を代表するかのような論述をするが決してそうではないことが、
元が「漢字をやめて自らの文字を普及させようとした」
という経緯でさらに確認される。
漢字というものが「中華型グローバリズム」の必須要素である以上、この確認はゆるぎない。
特に、表意文字である漢字を導入し、韓国やベトナムのように漢字をすてて表音文字だけにしないで、現在でも和漢混交遣いをしている日本人にはなおのことである。
日本は文明開化して西欧の近代文明の概念を漢語訳して導入した。じつはそうした新しい漢字熟語を中国は大量に逆輸入している。そういう漢字熟語は近代的な概念を表すもの内7割もあるという。
それも「中心が周縁に一方的に漢字使用を強制するのではなく、周縁が漢字を中心から吸収しさらに新しい漢字を作り、それが全体に波及していった」と同じ「中華型グローバリズム」のダイナミズムに他ならない。
漢字を使う中国人自身の国民意識そして国民感情においても、
アメリカや列強そしてかつての日本帝国主義は「覇道のグローバリズム」であり、
自国の鄭和の大船団によって遠国に及んだ朝貢体制は「王道のグローバリズム」である、
という認識がある。
これは、モンゴル帝国に支配された中国を除けば、客観的な史実として否定の余地がない。
そして、中国人は「モンゴル型グローバリズム」を当然「覇道のグローバリズム」としている。それは中国人の都合のいい解釈などではなく、グローバル・ヒストリーの常識でもある。
この「覇道 対 王道」の二項対立は、中国人自身の歴史観および道徳観の主軸になっている。
そのことは三国志好きの日本人には常識だろう。
外国人の常識に照らすまでもなく、
夏と周は、中国人により「王道」の理想とみなされ、史実としても「王道」を実践したと言える証左がある。
一方、殷は、中国人により「覇道」の極地とみなされ、史実としても「覇道」を実践したと言える証左がある。
殷は、祭器に使っていた、ということは神と人間の関わりを正しく保つために役立てていた青銅技術を、武器に使い、かつ量産することで軍事大国になり周を滅ぼした。
そして殷は、吉凶を占うに際して、見せしめとして軍門に下らぬ部族を大量の「羌」として犠牲にした。
古今東西、対外的に「王道」を声高に言う国ほど、実際は「覇道」を行っていたりする。
そして、当たり前のことだが、
「王道」を国内外に展開する国は経済小国でもありえるが、
「覇道」を国内外に展開する国は軍事大国であることが必要条件である。
そして両者ともに十分条件は、「王道」なり「覇道」なりを特に対外的に実践していることである。
では第二次世界大戦後、「覇道」を実践してきたのはどこの国だろうか。
東西冷戦下、ベトナムに侵攻したアメリカ、アフガンに侵攻し、配下の国の叛乱制圧に乗り出したことのあるソ連であることは明らかだ。
ソ連が崩壊し、アメリカ一国が超軍事大国になって今日に至っている。
そのアメリカは、国連決議なしにイラクを先制攻撃した。大量破壊兵器があって自国の安全保障のためとのことだったが実際には存在しなかった。
私は歴史に学びはするが、過去の済んだことにこだわるつもりはない。
一番大切なのは、「覇道」は良くない、という認識を持ち続け現在そして未来を見つめることだと思う。
そして、◯◯イズム、というものは、少なくともその信奉者や実践者の本人は、それを良いものとしてやっているという前提がある。エゴイズムでさえも。
「アメリカ型グローバリズム」もそうであり、実際にネオリベラリズムの信奉者が胸をはって実践している。
「中華型グローバリズム」も、中国人本人が良いものとしてみなしている事柄をその内容として捉えるべきである。
無論、「王道」を実践しきれたり「王道」のみをした国は有史以来、少なくとも大国としては存在しないのだから、中国もその例外ではない。しかし、中国人が「覇道」とみなし、現在は他の国を成立させているような外来民族(モンゴル人)に支配されていた時の「覇道」を「中華型グローバリズム」の典型とするのはあまりにアンフェアな決めつけではないか。
一方、世界中の人が知る歴史的事実や現代の様々な報道される事実を知っていながら、アメリカに「覇道」なしとすることは私にはできない。
まして、あたかもアメリカが「王道」のみを実践しているかのように報道したり前提する主張がフェアだとは私にはどうしても思えない。
そんな歴史や現在についてのアンフェアな認識において、果たして私たちはグローバル・ヒストリーを正しく活かしていくことができるのだろうか。
始皇帝から分かる「中華型グローバリズム」と「アメリカ型グローバリズム」の違い
次に参考にするのは、
NHKスペシャル「中国文明の謎 第3集 始皇帝 "中華"帝国への野望」
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/1202/
である。
第3集の番組内容の内、本論シリーズと関わりのあるところを整理するとこうなる。
◯(「中華」という概念の誕生についての話)
56の他民族からなる中国。それを2000年以上一つにまとめてきたのが中華思想。
中国独特の世界観「中華」という概念を作り上げたのは今から2000年前、
秦の始皇帝だった。
兵馬俑の兵士は、赤青黄黒白で彩色されていた。
それは、天地の万物を表すとした五色で、かつ中国各地、東西南北の土壌の色だった。
つまりこの5色で始皇帝が中国全土と多様な民族を統一したことを誇示。
史上初めて中国全体を支配した統一帝国はいかにしてできたか。
紀元前3世紀、群雄割拠し覇権を争った春秋戦国時代。
始皇帝が統一できたのは軍事力だけではなかった。
「中華」という世界観が鍵となった。
秦の都があったところの一画から5000個に及ぶ「封泥」が出土。
荷物の送り主や中身を示す文字を刻印する粘度の塊のハンコ。
金や塩など貴重な品物が大量に集められていた。
そして史記に記されていた「極廟」という重要施設があったと判明。
始皇帝が天を祀るため北極星をかたどったとされる。
衛星写真に当時に北斗七星を重ね合わせると、
「封泥」が出土した地点(極廟)と他の主要施設の位置が
北極星と北斗七星の星々に一致。
北極星は中国では太古から「帝」と呼ばれ、
人々に、天命を下す神として崇められてきた。
始皇帝は北極星という究極の権威によって多様な人々を統べる中華帝国を築いた。
広大な地域を統べるには力だけでは難しい、天の権威を借りた。
始皇帝はそれまでの「王」という呼び名をやめ、「皇帝」を名のった。
「皇帝」とは、天にまたたく帝、北極星そのものを意味。
(筆者注:ここで注目すべきは、
始皇帝が目に見えない天とか天意といった抽象的観念ではなく、
北極星や北斗七星の位置に主要宮を配置してみせるなど
目にみえる具体的事物を重視したことである。
何を天とし何を天意とするかは文脈しだいで勝手な解釈ができる。
一方、北極星や北斗七星の位置に重なる宮廷配置は誰もが同じに見える。
高コンテクストから低コンテクストへの置き換えをしたと言える。)
「中華」は、自分を中心に、周縁を東夷、西夷、北狄、南蛮と一段低く捉える思想。
夏、殷、周は黄河中流域の肥沃な平原地帯、中原に栄えた。
紀元前8世紀頃、春秋戦国時代に突入、中原は複数の国に分裂その周囲にも国が乱立。
秦は西方500キロの辺境の地に誕生。
秦を建国したのは西戎、戦争に欠かせない軍馬を育てる遊牧民族だった。
秦の支配下にあった部族の墓の遺跡から、死者をともらう馬車が発掘される。
金や銀で装飾された豪華な馬車。
西戎は野蛮な民族とされていたが秦は中原に劣らぬ発展をして西戎の覇王となっていた。
そして秦は中原に進撃する。
最初は敗れるが徐々に力をつけていき、中原の国々に危機感を抱き同盟を結び始める。
(筆者注:いわゆる合従連衡の合従のこと。)
中原の一画で真っ赤な文字が書かれた平たい石が出土。同盟の盟約書。
そこから読み取れるのは、
中原の国々の拠り所は、
最古の夏王朝以来の進んだ文明の中心地を受け継ぐという自負心だった。
そして中原以外の国々を文化的に劣った蕃、夷、戎、狄として排除しようとした。
(筆者注:これが「中夏」の概念。)
中原の国々は同盟を結ぶ際、夏王朝以来の伝統の儀式をして結束を固めた。
生け贄として神に捧げる牛の耳を切ってとった血に参加者全員が口をつける。
最も有力な国が儀式を仕切ったことから、牛事を執る、牛耳るがという故事が。
出土した盟約書は、この時、牛の血と赤い顔料を混ぜて書かれたもの。
同盟にあたって夏王朝の王を名乗ることで中原の正統性を強調する国も現れる。
やがて中原の多くの国々が自らを「華」と名乗るようになる。
(筆者注:これに中心を意味する中が加わって「中華」に。)
◯(始皇帝による「中華」概念の革新の話)
始皇帝は大躍進して屈辱を晴らすために大改革。
二十段階の爵位を設定、戦場でしとめた首と引き換えに爵位を与える。
身分を問わない徹底的な実力主義で兵士たちの戦意を驚異的に高めた。
軍事大国化。
(筆者注:客観的評価による成果主義の始まり。
その理念の支柱になったのが韓非子。
韓非子は性悪説を説く儒家の荀子に学び、
非違の行いを礼による徳化で矯正するとした荀子の考えに対し、
法によって抑えるべきだと主張。
この思想が始皇帝に評価された。
ちなみに孔子の仁や徳の考えを継承した孟子の性善説。
この観点からも、秦は覇道であって王道とは一般にみなされない。)
野蛮とされた秦が、やがて中原の一画、魏を破る。
その後、西方の巴と蜀、南方の楚の一部を攻めとる。
独自の法律で占領地を治めようとするが反発に合う。
特に反発が激しいのが、シャーマニズムが支配する元楚の属国。
反発の理由は秦の法律に地元の習俗に合わないこと。
力による支配の限界に気づいた秦が大転換をする。
野蛮とされ夏から排除されていた秦が自らを夏とした。
夏のエリアを中原から秦が支配下におさめた全体に拡張し自らを夏の中心とした。
(筆者注:秦の拡張した支配地、つまりは中国全土の人々が、
自らも「中華」の一員であると自負する契機となった。
番組が続いて解説する民族同化政策も同時並行してその契機となった。
ちなみに以上の論は多くの中国人から評判が悪いように感じる。
それは、日本人がヤマト王権は渡来人が打ち立てたと言われて、
多くの日本人が抱く複雑な感情に近いのかも知れない。)
◯(秦による「中華」概念の戦略的運用の話)
秦による支配した民族の同化政策はどのようなものだったのかというと。
・秦の女性を占領した国の権力者と結婚させる。
・その際、生まれた子どもに「夏子」という身分を与えた。
中国文明を正統に受け継ぐ夏の子どもという身分によって
同化される側の抵抗を弱める仕組。
・例えば占領した国の権力者と秦の女性との子どもの身分を秦の子だとした場合、
次の世代から占領した国の権力者は秦人となり秦に同化されるが、
それでは秦の支配を嫌う人々が反発する可能性があった。
そこでこの子どもを夏子と定め夏の権威によって抵抗を抑えた。
・こうして結婚と出産を重ね世代が代わる度に夏子が増え占領地を同化していった。
むきだしの権力によって支配というのはなかなかできない。
支配する側と支配される側の合意というものが必要。
支配される側に支配を受け入れさせるためには、秦の正統性が必要。
それが「夏」だった。
中華文明というのは、一つの文化の中に地域社会を染め上げて行く
一つの強大なエネルギーであった。
統一がなったのは紀元前221年、多様な文化をもつ国々を一つにした。
始皇帝が築いたのは「中華」という世界観を巧みに利用した強大な帝国だった。
◯(漢の時代に秦の仕組みを発展させた冊封体制の話)
冊封体制とは、
本来野蛮とされる周辺国も皇帝を敬い貢ぎ物をもって朝貢すれば、
中華の一員となり保護される、
というもの。
漢の時代に秦の仕組みを発展させて東アジア全体に広がった。
日本の「漢の那の和の国王」の金印も朝貢で賜ったもの。
(筆者注:卑弥子も魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられている。)
もともと中夏から排除されていた秦が、
中心と周縁を差別化しかつ周縁を中心に取り込むシステムを作った。
この「中華」という概念は、
これ以降、誰が権力を握っても使える便利なシステムに変わった。
異民族の立てた王朝にも継承された。
本論の主題は、
「アメリカ型グローバリズム」と「中華型グローバリズム」の本質的な違いの究明
である。
これについて、
NHKスペシャル「中国文明の謎 第3集 始皇帝 "中華"帝国への野望」の内容からは、
以下のような整理ができると思う。
先に、本質的な共通点を整理すると、
それは日本文明との違いでもあるのだが、
<目に見える実体>
=明示知を根拠にする低コンテクストな世界観であること
ということは、
世界観を<実体において可視化する>
=明示知化する、低コンテクスト化する傾向が強いこと
「中夏」の封建制度が「中華」の冊封制度にグローバル化する転換点となった
秦の始皇帝は、
天とか天意といった抽象的観念ではなく、
自らを北極星=皇帝と位置づけたり
北斗七星の位置に主要宮を配置してみせるなど
目にみえる具体的事物を重視した。
アメリカやソ連は、軍事力強化や宇宙開発という<目に見える実体>の世界の科学技術で覇を競い、最終的にはアメリカの軍事技術からインターネットという、世界観を<実体において可視化する>するITを発展させた。
また米ソの冷戦は基本的には経済システムという明示知体系が争点だった。
米の自由主義市場経済のグローバリズムもソ連の社会主義計画経済のグローバリズムも
・<目に見える実体>を根拠にする低コンテクストな世界観であること
・世界観を<実体において可視化する>、つまりは低コンテクスト化する傾向が強いこと
が<中華型グローバリズム>とも一致する。
これらと対照的に、日本は、一般的には日本列島に閉じこもる<ガラパゴス>と言われるが、考えようによっては<異次元のグローバリズム>にあるとも言える。
・極東の孤島に貪欲に外国の事物を吸引し日本ナイズした事物を世界に波及する
・最終的にはそれに魅了された外国人を移動民・転住民・定住民として孤島に引き寄せる
というものだ。
ジャパンアニメとそのファンの来日、世界各地出身の力士が活躍する大相撲がその典型だ。
人の移動はかなり限定されるが、その割に文物や情報知識の受発信は大量かつ多様である。
出ばって外に出て行ったり、外を自国色に染め上げる遠心的なグローバリズムとは真逆の求心的なグローバリズムの極地と言える。もちろん日本帝国主義が破綻した敗戦後の日本の話であることは言うまでもない。
それは、
・極東の孤島の現場に来なければ分からない何か=暗黙知や身体知をベースとする
・理解するには自らその場で身を以て感じたり体得することが必須である
そういうまさに「ガラパゴス」な文明である。
その成果である事物が世界で共有され、それを生み出す人々の中核的な活動が国内に集中する、
そういう全体を<日本型グローバリズム>と呼ぶならば、
それは<中華型グローバリズム>とも<アメリカ型グローバリズム>とも次元を異にしていると言わざるを得ない。
<中華型グローバリズム>と<アメリカ型グローバリズム>はともに明示知重視=低コンテクスト重視の<人間対人間>の世界が主軸であって、そこで人々を大きく動機づける「客観的評価による成果主義」が大躍進のダイナミズムになる。
それを最初に秦が身分の垣根をこえて徹底する強兵政策として編み出し、
最終的にアメリカが人種国籍をこえて徹底するグローバル・ビジネスのマネジメントにおいて完成した
と言ってもいいだろう。
当然、そこには<権威と権力の一致>という両者の共通点が前提になっていて、<権威と権力の分離>する日本文明はこれらと一線を画す。
次に、<中華型グローバリズム>と<アメリカ型グローバリズム>の本質的な違いを整理すると、
「秦の支配した民族の同化政策」と「アメリカの受け入れた移民の同化政策」との比較でこんなことが言えまいか。
そもそも秦が周辺国を攻めて支配下においた遠心性と、アメリカに世界中から移民が押し寄せた求心性が大きな違いではある。
しかし、「中心対周縁のパラダイム転換」に着目すると、
秦がもともとは「中夏」という中心からすれば「西戎」であったのを領土拡張の後、「中夏」を含めた全体を「中華」とし自らを中心と置き換えた
という経緯と、
アメリカがもともとは東海岸沿岸部のイギリスという中心からすれば単なる「新大陸」植民地であったのを独立戦争や西進フロンティア開拓を経て、「欧」を含めた全体を「欧米」とし自らを中心と置き換えた
という経緯は、
見事な構造的な一致を示していると言わざるを得ない。
もって回った話のようではあるが、
私としては、そうした構造的な一致を前提に、そこでの違いを検討したいのだ。
番組に登場していた学者が言っていた。
「むきだしの権力によって支配というのはなかなかできない。
支配する側と支配される側の合意というものが必要。
支配される側に支配を受け入れさせるためには、秦の正統性が必要。
それが『夏』だった」
ということを思い起こしてほしい。
支配される側は主体性を放棄してただ全てを受け入れる、ということではない。
主体性を発揮できる余地が多分にあって、比較優位な選択肢として支配者の政策を受け入れるのである。
確かに、ヨーロッパから新大陸に移民した主体性と、支配者の政策を選択的に受け入れる主体性とは違う。しかし前者の初期の移民は、ヨーロッパで生きて行くのが困難になった人々の大移動だったのであり、これを消極的主体性というのであれば、後者の選択的な支配政策の受け入れと五十歩百歩と言うべきだろう。アメリカで現在も続いている、人道的見地から受け入れている難民の消極的主体性もそうである。
以上、比較検討することが妥当であることを確認した上で、
以下、同化政策の異同について検討したい。
まず、他民族による民族同化というと、私たち日本人はとんでもないことと断定しがちだ。
しかし、そもそも多民族国家であった場合、まったく抵抗がない。
その点、アメリカについては、
①欧州出身白人社会のアメリカがアフリカから黒人奴隷を連れて来て人種差別が続いていたキング牧師の時代までのアメリカと、
②黒人大統領が生まれヒスパニック系のためにスペイン語の授業もしている現代のアメリカとは、
事情が大きく違う。
①では、欧州国出身系に関して「理念共有化」が推進達成され、
先住民族インディアンと黒人に関して
人種差別の下に「民族非同化」こそが課題とされた。
②では、黒人に関して「理念共有化」の下に差別解消が推進達成され、
ヒスパニック系やコリアン系に関しても
「民族非同化」「理念共有化」の下に「多民族共生化」が課題とされている。
こうしたアメリカの統治体制の経緯に一貫しているのは、
<血による民族非同化>と<理念による民族同化>の合わせ技
と言える。
ただしこの理念は、抽象的な目に見えない高コンテクストな事柄が本質ではなく、
具体的な目に見える低コンテクストな事柄を本質とする。
よって「多民族共生化」もこうした理念、事柄として具体的に実現されている。
これは当たり前のことのようだが、日本人にとっては決してそうではない。
たとえば日本では、授業料無償化を朝鮮高校にまで適用するかしないか、で揉めている。日本人の言う「理念」には常に状況に応じた自由裁量が含まれていることに気づく。
つまりは高コンテクストな抽象的な目に見えない事柄をみんなで判断しなければならない。
アメリカでも同様の現象は起こる。極端なケースとしては、日米開戦後の日本人移民のキャンプへの強制収容である。しかし戦後かなりたってだが、アメリカはそれが間違いだったと公式に認めている。そういうことが可能になったのは、基本的には「理念」に自由裁量が認められていないためである。あの時は状況が状況だっただけに仕方なかった、というふうには司法が判断しないのである。
中国人および中国が統治体制や為政者に関して「理念」というものをどう捉えてきたか、について触れておこう。
中国が長い間「法治主義」ではなく「人治主義」と指摘されてきたように、日本と同じく「理念」には常に状況に応じた自由裁量が含まれている。
ただし日本の場合、<権威と権力の分離>が妥協点として浮上させる<世間>の空気が反映されがちなのに対して、中国の場合、<権威と権力の一致>する個人の意向が反映されがちである。
以上を理念の運用の問題とすれば、理念そのものについてはどうだろう。
中国の場合、<目に見える実体>を根拠としたり<実体において可視化する>ことで、根本的な統治基準については自由裁量のブレがないようにヘッジしている。その典型が、都市戸籍と農村戸籍の区別である。今でこそともに「居民戸籍」と呼ばれて区別がなくなり、農村も都市並にインフラが整い年金など同じ支払いでもらいが農村の方がいいとも言われる。だが、同じ国の生まれた場所で異なる戸籍になることには変わりない。そして今でも、北京と上海の都市戸籍は取得が難しいそうだ。
日本の場合、理念についても<目に見えない観念>を根拠としたり<実体において可視化しない>ことで自由裁量が振れ幅最大で含まれていることが多い。その最たるものが、憲法9条だ。憲法というもの自体が、無視軽視はしてはならないが、その主旨と真逆にまで解釈できるものに、日本ではなっている。
「条文
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」
条文を一言一句改めることなく運用を大きく変化させてきたことは、良い悪いの問題以前に、外国からすると客観的合理性を欠いていると捉えられる。
日米中で、同じ「理念」という言葉で抽象的には同じ意味内容を捉えているが、実際の言葉の運用や解釈の具体的展開までみるとけっして同じとは言えないと痛感する。
アメリカの統治体制の経緯に一貫しているのは、
<血による民族非同化>と<理念による民族同化>の合わせ技
と述べたが、
それに対して中国の経緯に一貫しているのは何だろうか。
それは、
<血による民族同化>と<理念による民族同化>の合わせ技
と言える。
こうした異民族による民族統治は、<中華型グローバリスム>に限ったことではない。
大航海時代にスペインやポルトガルが特に南米支配で展開した、言わば<ラテン型グローバリズム>もこれだ。
彼らの場合、<理念による民族同化>の理念はキリスト教だった。<血による民族同化>は征服政策の一環で兵士に出先で好き勝手をさせたの観が強く、そこは秦が征服地の支配階層からシステマティックに進めたことと大きく違う。
あくまでスペインやポルトガルの場合は文明によって圧倒して異質な文化を押しつけたのに対して、秦の場合は支配した民族が受け入れうる合意形成を図る文化において取り込んだと言えよう。
グローバル・ヒストリーの観点から、大航海時代の少し前に展開した明の鄭和の大船団だが、これを続けていたら、当時、世界最高峰の文明を誇っていた中国の<中華型グローバリズム>は欧州を席巻していたのではないか、という論を聞く。
中国が遥か遠国にまで攻め込む<モンゴル型グローバリズム>は征服民族がした例外中の例外であり、実際に明が進めていたのは「厚往薄来」(不平等条約と真逆)の朝貢貿易による冊封体制だったことから、「平和的で文化的な意味での席巻」ということなら、私もそういう可能性もあったと考える。
ちなみに大船団を率いて東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海した鄭和は、雲南でムスリム(イスラム教徒)として生まれた。鄭和がイスラム教徒の出身だったことは、永楽帝をして鄭和を航海の長として使おうと考えた理由の一つだと考えられている。さらに鄭和は宦官であった。
総合的にみて、永楽帝が、遥か海の彼方の国を有無を言わせず軍事的に制圧しようなどとは考えず、多様な民族との対話を重視してそれぞれに互恵的な交易関係を構築しようとしたことは明らかである。
私がいま不思議に思うのは、
日米で形成される「中国脅威論」という世論が、スペイン・ポルトガル→欧米列強→日本帝国主義(みな中国に租借地や利権を漁った国々)に一貫してきた「覇道」の文脈でばかり語られることだ。
冷静かつフェアにグローバル・ヒストリーに照らして、少しは「王道」の文脈で<中華型グローバリズム>の可能性を見ても良さそうだが、世論形成に影響のある者ほどそれはまったくしない。無自覚的なのかとも思うが、例外がいないと共通の意図の存在を想定せざるを得ない。
そこで思うのだが、
おそらくそれは、
<アメリカ型グローバリズム>の可能性を阻む競合としてのみ中国を捉えて、
自分の姿を他者に投影している、
とういうことではなかろうか。