不肖のノンポリ息子が市民活動家でもあった父から唯一継承したこと |
もっとも避けたかった事態になった。
今後は予想や警鐘は不要だ。
目の前の現実が示していくのだから。
「国民性」とは、他国のそれと高低を比較してよく言われる「民度」ではないと思っている。
「民族性」であり、文化人類学的な検討によりその本質が分かるものと考えている。
日本人の場合、特に意識=明示知よりも、深層心理が無意識的に作用する側面=暗黙知と身体知が強い、とも捉えている。
(「こんな今だから『文化人類学の視角』が役立つ(1)」
http://cds190.exblog.jp/19280603/
「(2)」http://cds190.exblog.jp/19357079/)
私は、昨年亡くなった父から軍隊で体験したこと見聞きしたことを聴いた。
ノンポリの母からも、郷里佐世保で祖父のコネでやらされていた日産のタイピストを勝手にやめて、志願して軍医付きタイピストとして台湾に渡り、そのことで支配的な祖父も母の「お国のため」の一言に止めることができなかったことや、終戦直前に命からがら病院船で帰国したが、2隻で出港し1隻は米潜水艦に撃沈されたことなどを聴き、戦中から戦後にかけての日本国民一般の気分を知った。
両親の話を聴いて以来、私は日本人の「国民性」の中核は「民族性」であって、ずうっと変わっていないのではないか、と思うようになった。
最近では、中島京子の直木賞小説「小さなおうち」を読んで、その確信を強めていた。
奇しくも先月、山田洋次監督が映画化する話http://www.cinra.net/news/2012/11/21/122951.php
を知り、戦中と今の日本人の気分と重ねてみる人は私だけではないことを知った。
2013年以降公開の予定とあったが、すでにそのことは目の前の現実の方が先に物語りはじめたようだ。
よく「孫子の世代のことを思う」とか、「国家百年の大計をはかる」とか聞くが、
「一億玉砕」をみんなで叫ぶような「国民性」=「民族性」の日本人が言う場合、果たしてどの程度の本気度があるのだろうか、
という疑問。
それが不肖のノンポリ息子が唯一、市民活動家でもあった父から継承したものかも知れない。