私が想定する「文化力」とは(1) |
「文化力」という言葉を政治家や行政が使うようになって、私もそれをブログのタイトルに導入したのだが、言葉の意味合いが私と彼ら、つまりは一般とではまったく違っている。
そのことを一度、整理しようと思ってきた。
今回のシリーズでそれが十全にできるかどうかは分からないが、私が想定する「文化力」の意味合いの起点になった山口昌男著「文化と仕掛け」の「Ⅰ 光と闇」を検討してみたい。
文化の捉え方と「文化力」
「一般的にみると、文化について考える場合は、
文化の表層から出発して考える方法(我々が普段やる考え方)と、
逆に深層から出発して考える方法(深層心理学が開発したアプローチ)
の二通りがあります。
この極端に対立する方法を、いかにすれば綜合することが可能なのかという問題が我々に課せられているのではないかと思われます。
この二つの考え方を図式的にみますと、
人間の意識の表層から深層へという順序で考えることもできますが、
また逆に、人間の発達・成長の歴史という時間軸における変化をみていくこともできます」
「我々は他人とのコミュニケーションの手段を獲得していくことになる(中略)
コミュニケーションとは、意志を伝達するという面があると同時に、
共通のルールを守ることによって暗黙の裡に『これ以上のことはしない』というような、誓いとか約束などの体系をも意味している(中略)。
これらの誓いとか約束の集大成が、いわゆる現在の『文化』であると考えることができると思います」
「文化とは(中略)人間がだんだん飼いならされていく体系の全体-----であると考えることができるわけです。
こうして発達史的に人間を考えてみると、本来人間が持っている混沌としたもの(chaos----カオス)に対する執着を本当にふっ切れるのだろうかという問題が出てきます」
「文化の餌付けともいうべき物事を整序していくやり方は、二つの側面を持っていると思われます。
一つは、とにかく文化で積極的に飼いならしていくということで、
同時にもう一つは、物事の反面を排除することを教え込むことです。
つまり、これらは何かを選択するということであり、必ず暗黙の裡に排除されるものを作り出していくという過程を含んでいるわけです」
政治家や行政が言っている「文化力」は、文化の力を活用して社会を向上させたり市場競争力を高めようという意図からして、そのような主旨にそった文化を選択して主旨にそわない文化よりも優位においている、つまりは主旨にそわない文化を優位から排除している。
私の「文化力」の想定はそのような類のものではない。
選択と排除のダイナミズムは、
「支配的な物語」という既存パラダイムを存在させると同時に、
「もう一つの物語」という新規パラダイムを常に可能性として潜在させている。
私は、パラダイム転換の発想を促進する立場から、この両者の対峙と前者から後者への展開の全体像を「文化力」として捉えている。
「我々が『身内』という時は同時に身内でない者を潜在的に排除しているし、あるいは『村の者』といえば、村の者ではない者を排除しています。
このように、人間に対してソーシャリゼーション(socializatioin)が行われる時にはいろいろなレヴェルにおいて、人間の行為には無意識のうちに排除の過程が含まれているのです」
行為だけではなく、発想や思考にも、「志向」として同様に選択と排除が含まれている。
そのために私たちは、外側から言われてみれば気づくようなことが内側で気づかなかったりする。
斬新な発想や洞察を効率的かつ効果的にえるには、身内ではない他者から得るのが容易く、努力すれば他者になり代わった自己によって得られる。
これを促進するには、選択されていた範囲に留まることから排除されていた範囲への逸脱を受け入れる展開が必要であり、選択と排除の全体像を知ったり意識化することが必須となる。
私はこうした有効手段のことを文化に「力」をつけて「文化力」と呼んでいる。
「『なるべくなら、自分はああいうふうにはなりたくない』と思う時は、人間は既に自分の反面を切り捨てようとしているのです。
人間は自分たちが排除したものになる可能性を決して失っていないことを知っているからこそ、排除することによって自分は社会の中心的な価値に入っていこうとするプロセスが存在するということになります」
ヴァルネラブルなもの
「人間は必ずしも合理的にできている動物ではなく、どこか合理的でない部分に引き戻されたいという衝動をも合わせ持っています。
こういう点についてある学者は、『人間は夢の中で合理的でない部分との関係を保つことによって理性的な生活とのバランスをとっている』といっています」
「結局文化の仕組みの中には必ず『非文化』、『文化以外のもの』として切り捨てる部分があるということがわかります。
ところが一方では、この切り捨てられた部分は、我々が気付かないうちに影響を及ぼしてくるということもいえるわけです。(中略)
人間は一つのまとまりを考える時には、排除した部分をある程度考慮し、それを含めて全体について考えるというモデルを持っているわけです」
「たとえば子供がたくさんいるような家庭では、何となく排除される子供というのがいるということです。(中略)特に貧しい家族において排除される者がより明確な形で存在することがわかります」
「ヴァルネラブル(vulnerable)、つまり他人の攻撃を招き易い部分、攻撃を受け易い人というものが存在することがわかります。
この排除する人と排除される人との関係は、集団のレヴェルで考えれば、集団の内と外という形で反映してきます。
人間が集団の全体を考える時に、まず悪い部分を集団の外に排除し、次にそれを攻撃することで集団の内部が安定するといった過程は非常に根強いものがあります」
現代日本の学校でのいじめや家庭内暴力にも繋がる構造である。
「特定の民族に対する排斥問題は、ユダヤ人ばかりではありません。いわゆる未開発社会といわれてきたブラック・アフリカとか、その他第三世界の多くの国々に存在する部族主義にも当てはまる問題です。
そういう国々では、自分が属する部族以外の人間は潜在的に悪魔であり、一度何か事が起こると、すぐその原因を自分以外の部分に求め、それを排除することで自分の気持ちに始末をつけてしまうということが珍しくありません」
日本人の嫌韓感情や嫌中感情を煽る主張は、どこの国民にもあるこの性向を利用している。
「ヨーロッパ社会にはユダヤ人ばかりではなくジプシーのような例もあります。
ヒトラーがジプシーをユダヤ人同様に弾圧したという歴史には、農耕によって定住している人間の放浪している人間に対する恐怖心がはたらいています。
ユダヤ人はノーマディック(nomadic-----放浪生活)ですぐ移動して行くし、そもそもどこから来たのかわからない、彼等は結局はストレンジャーだ、という意識がヨーロッパの農耕民にはあるわけで、こうした放浪をユダヤ人よりも短いサイクルで行っているジプシーに対しては、恐怖感も非常に大きかったわけです。
この放浪者に対する定住者の恐怖感は、文字通りの恐怖というよりは、それらを排除することによって自分たちの定住社会が非常に安定した社会であることを確認するというメカニズムの一部であったと考えることができます」
日本も例外ではなく、定住民による、移動民や転住民への差別というもがあり、それは江戸時代260年つづいた幕藩体制で強化され一事が万事に蔓延して今日に至っている。
現代日本では、正社員と派遣社員の差別が社会的に制度化されていることや正社員が派遣社員をまるで身分違いのように差別することの土台にはこうした深層のメカニズムが働いている。
精神的メタボリズム
「人間が自分の知的エネルギーで大体理解できる範囲、協調していける範囲というものが日常生活である程度決まっているとすれば、新しいものが入ってくる都度、何かを外に出していかなければならないというように、精神的メタボリズム(metabolism-----新陳代謝)とでもいうべきものが人間にははたらいている(中略)。
このメタボリズムをネガティブにばかり考えるわけにはいかないのであって、
人間は精神的エネルギーをこのようなメタボリズムで補給しているところがあるのです」
「日本の庶民文化史の中にもこうした仕組みが存在します。
庶民の信仰には『御利益』という考え方があって、『あの神様は効く』ということになると、そこへドッと信仰が集まるという現象が江戸時代から仏様・神様・御稲荷様といった形でくり返されてきたわけです。
この現象は、信仰によって病気が治るということもあるけれども、実は『御利益』という言葉の中にはアイデンティティを獲得するという意味があるのです。すなわち、それによってエネルギーを得て、自分は社会の一番有利な部分で進んでいるといった確信を持ちたいという心理が含まれているのです。
ですから、『新しい』ものに対するちょっとした行為の中にも、既に『古い』ものを捨てるというイメージが付きまとってくるわけです。(中略)
我々は見慣れないものに対して非常な好奇心をそそられていて、そういうものをどこか自分の一部にしたいと思う反面、あまりにも見慣れないものに対してはそれを排除する。ですから、我々は適度に見慣れないものを必要としているということになります」
ビジネスの世界では、キーワードの変遷がこれに当たる。
古くは、マルチメディア、インターネット、それからウェブを経て、今はクラウド。ITを駆使する先端を行く者が使うキーワードは、合理的な実用の価値を超えて、不合理な呪文の威力も備えてきたことは否定できない。
マーケティングの世界では、常に新しい「◯◯マーケティング」という言葉が出ては消えていく。マーケティングの基本的な原則は不変であるが、その本質的な全体論が目新しいテクニックや皮相的な各論で見失われがちだった弊害も指摘できよう。
こうしたことの背景には、新しいキーワードを使いこなす人が選択され、使いこなせない人=古いキーワードに留まっている人が排除される、という選択と排除のメカニズムが働いていた。
「ヴァルネラブルなものは社会的に弱い者ばかりを選んできたのかというと、決してそうではありません。
人間はヴァルネラブルなものとしての対象を次々と外へ送り出すと同時に、今度は内の内、中心の中心というものに対して自己のアイデンティティをなるべく関係付けようとしつつも、
一方ではそれとは逆の心理も隠し持っています。
すなわち、人間はこの中心に帰依する心と同時に、潜在的にこの一番大事なものを殺したいというような欲望も持っているのです。
しかし現実的には、自分の身の周りでそれを実行することができないので、その身代わりとして何か他のもので象徴的に代償を求める。
ですから、歌手や俳優が没落したなどという話は、どこかすっとするところがあるわけです。(中略)
結局、社会は過去をそれ(筆者注:帰依する中心)と共に葬ろうということで、できるだけ象徴的に強い人間を必要としていることになります。
弱い人間は身のまわりに置いておき、好きなときに蹴っ飛ばしたりしていればいいわけで、ですから多くの人の穢れをまとめて背負ってあの世へ行ってもらうためには、なるべく社会の中心的人物、英雄的人物が必要だというわけです」
「今日までのいろいろな文化は、奇妙にも我々が合理的ではないと思っていたところで合理性を培っていた傾向があります。
たとえば、かつてのチベットやそれ以外のいろいろな地域では、ある一定の期間が経つと王様を追放してしまうというような風習があります。また、王様の前で数日間は民衆はどんなに大様の悪口をいってもよく、それでスカッとした気分で翌日からまた王様を尊敬の念で迎えていくといった習慣も存在します。(中略)
田中さん(筆者注:田中角栄元総理)がたたかれた時には、日本もそういう社会に近づきつつあるのじゃないかという気がしたわけですが、よくよく考えてみると、もともと日本でも天皇制というものに対して伝統的に前述のようなイメージをどこかで持っていたのではないかと思うのです」
「人間は絶えず秩序の中で日常生活を送っていると共に、何らかの形で『落ちこぼれ』、『はみ出し』との対話を少しずつ、いろいろな場で持つことによって、自分を更に豊かにするという可能性を持っているのではないでしょうか。
ですから、人間の持っている醜い分身を全部切り捨ててしまうということは、結局我々にとって非常に危険なことであり、むしろこうしたものとの積極的なコミュニケーションの必要性とその在り方について、今や我々は新たな認識を確立すべきではないでしょうか」
著者、山口昌男がこの本を書いたのは1984年、昭和59年で、今から30年ちかく前である。
現在に至る間に、日本のテレビが「落ちこぼれ」「はみ出し」との対話をエンターテイメント化しかつ24時間年中無休で発信するようになった。
残念ながら、それは個々の日本人が生な体験として自らを豊かにするというものではない。むしろ逆に、自らの日常の生活世界からは「落ちこぼれ」「はみ出し」を排除していて、テレビはそうした無菌状態の代償なり誘引になっている。
田中角栄がロッキード事件の報道攻勢で政界から追い落とされた経緯も、その秘められた背景含めて今では当時けっして語られなかったことが知られている。著者の言う「合理的ではないと思っていたところで合理性を培っていた」ということは、政治的な陰謀の合理的展開ということでは当たっているが、国民を豊かにする経過をそこに見ることはできなかったと言えよう。今も国民を豊かにしようとした政治家が同じやり方でその立場から追い落とされているからだ。
著者は、以上検討してきた「文化の痛み」の最後で面白いことを述べている。
「結局、いやいやながら排除される人間と、
エンジョイしながら排除される人間がいて、
後者のような人間がたくさんいるほど世の中が面白くなるんじゃないか」
後者のようなタイプは、なかなか定住社会で定住民としては存在しにくく、やはり移動民や転住民として定住社会で存在するか、移動社会や転住社会というものを形成してみんなでそういうタイプになるかであろう。
しかし、江戸時代の長きにわたった幕藩体制を境に息苦しい日本および日本人になったのであって、中世以前は、そうした多様な民がふつうに存在し相互補完的に交流して、今とは違う広くて開かれた世間も流動的に形成されていた。
私は、そのような中世以前は当たり前にあったダイバーシティ(多様性)を取り戻すことこそが、今の日本の閉塞状況とそれを生んでいる硬直した人間関係を打開するに不可欠であると思えてならない。
この私の思いについては、項を改めて「文化の中の光と闇」の検討を通じて述べていきたい。