「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(7) |
江戸人文研究会編 廣済堂出版刊 発
*今回は「[え]から始まる言葉」についてのメモでございます。
「[永楽通宝]えいらくつうほう
室町時代に明国から輸入されたコインでございます。[寛永通宝]が国内で造られる江戸初期まで使われました。
できの悪いものも多くあり、それを[鐚銭(びたせん)]と呼びました」
「びた一文払わない」の「びた」とはこの[鐚銭]のことだったのか。
「[絵看板]えかんばん
文字ではなく絵や形で示した看板を申します。
商い物の姿を看板にしたものや、弓と矢を掲げて[湯屋]とするなど駄洒落系のものまで色々ございました」
弓と矢の絵で[湯屋]を表す、こういう洒落を「判じ絵」という。
歌舞伎役者の三代目尾上菊五郎の「良き事聞く」格子柄の模様が有名だ。斧(よき)と琴(琴柱)と菊とを組み合わせている。これが元ネタで、横溝正史の「犬神家の一族」で相続権を示す犬神家の3つの家宝になっている。
じつは、江戸の庶民が旺盛だったのは遊び心だけではない。弱きを助け強きをくじく意気地こそ旺盛だった。
判じ絵は遊び目的だけでなく字の読めない人のためにも用いられた。判じ絵の絵暦や般若心経である。
喜多川歌麿の浮世絵にも美人の名を判じ絵にしたものがある。これは寛政の改革で人名を出すことがうるさくなったためである。プライバシー保護法を判じ絵で切り抜けた、といったところだ。
判じ物も面白い。
判じ物は、江戸時代から存在して今でも見かけることがある。
「十三や」という看板は、九四=櫛屋だ。
焼き芋屋の看板によくある「十三里半」は、九里(栗)四里(より)うまい(上だ)という洒落である。
「[江戸三座]えどさんざ
幕府は芝居が盛んになると『風紀を乱す』との理由で、強い規制をかけまして、芝居興行を許可制としました。
『櫓』を上げることのできる『官許』の芝居小屋はどんどんと少なくなり、最後は中村座・市村座・森田座・山村座だけになりました。これを『江戸四座』と申します。
しかし、山村座は正徳四年(1714年)の[江島生島事件]に巻き込まれて廃座となり、それ以後[江戸三座]となりました。
ただ、官許以外にも[宮地芝居]という寺社境内や火除け地などで興行される芝居がありました。
こちらは蓆掛けの仮小屋で舞台以外に天井のないものでした」
旅回りの一座が興行したのは、後者の仮設小屋による[宮地芝居]の方だろう。
「[江戸三富]えどさんとみ
谷中・感応寺(天王寺)、目黒・滝泉寺(目黒不動)、湯島・湯島天神の三箇所で行われます[富くじ]のことでございます」
そもそも[富くじ]は、瀧安寺(りゅうあんじ)の富会(とみえ)に始まる。当せん者にお守りを授けるだけだったものが、次第に金銭と結びつき[富くじ]として氾濫するようになった。徳川幕府は元禄5年(1692年)禁令を出したが、寺社にだけは修復費用調達の一方法として発売を許し、これを天下御免の富くじ「御免富(ごめんとみ)」と呼んだ。
(幕府公認の御免富[江戸三富]だが、その後天保13年(1842年)の「天保の改革」によって禁止され、明治になってからも明治元年(1868年)の「太政官布告」によって厳しく禁じられた。昭和20年、敗戦直前、軍事費の調達をはかるため「勝札」を発売する(抽せん日を待たず敗戦し「負け札」と呼ばれる)まで、天保の禁令以来、103年もの長い間、日本では[富くじ]は発売されなかった。)
寺社が行う[富くじ]や[宮地芝居]、そして官許の[江戸三座]、これらを監督したのが寺社奉行だ。勘定奉行・町奉行と並んで評定所を構成した三奉行の一つ。奉行になったのは主に旗本であり、老中所轄に過ぎない勘定奉行・町奉行に対して別格扱いで、寺社奉行は三奉行の筆頭格といわれた。
主な任務は全国の社寺や僧職・神職の統制だが、門前町民や寺社領民、修験者や陰陽師らの民間宗教者、さらに連歌師などの芸能民らも管轄した。当時の庶民の戸籍は寺社が全て管理していたため、結婚と離婚(今日でいう戸籍に関する訴訟や審判)の管理など現在の法務省が担う行政も担当していた役職だという。
ここで言う戸籍とは、宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)のことだと思う。
江戸時代、幕府はキリスト教禁止令を発布し、やがて寺請制度を確立させ、民衆がどのような宗教宗派を信仰しているかを定期的に調査するようになる。これを宗門改と呼び、これによって作成された台帳を宗門改帳と呼ぶ。本来の目的は、信仰宗教を調べることであったが、現在で言う戸籍原簿や租税台帳の側面も持つ。
18世紀になると宗教調査的な目的も薄れ、人口動態を確認し、徴税などのための基礎資料として活用されるようになった。
改帳の作成は、町村毎に名主や庄屋、町年寄が行った。改帳には、家族単位の氏名と年齢、檀徒として属する寺院名などが記載されており、事実上の戸籍として機能していた。
婚姻や丁稚奉公などで土地を離れる際には寺請証文を起こし、移転先で新たな改帳へ記載する。こうした手続きをせずに移動(逃散や逃亡など)すると、改帳の記載から漏れて帳外れ(無宿)扱いになり、居住の制約などを受けるなどの不利益を被る。これらの人間を非人と呼んだ。
つまり寺社奉行は全国区で、定住社会の定住民と、定住社会に属さない移動民を把捉して管理していた。
幕藩体制において最重要の機構だったと言える。
「[江戸払]えどはらい
江戸市中から追い払われる刑でございます。
[町奉行]の管轄内への立ち入りが禁止されますが、それ以外は自由でした。
また『江戸十里四方御構(おかまい)」はもっと広く、江戸より十里(約40キロメートル)四方への居住や商売などでの立ち入りが禁止されました」
[江戸払]は、江戸市内に居住を許さず、具体的には品川・板橋・千住・四谷の大木戸、および本所・深川の外に追放するもので、幕府直轄の江戸市中エリアが特区のような存在だったと分る。
18世紀初め40万近い人口を抱えていた大阪と京都も、大阪城代や京都所司代が治めた幕府直轄だったが、大阪払や京都払といった言葉は聞かない。それは、幕府が罪人を立ち入り禁止にする必要がなかったり、追放されても罪人にさほどデメリットがなかったからではないか。
とすれば、幕府お膝元の江戸市内は、幕府が罪人を立ち入り禁止にする必要が大きくあり、追放されると罪人には大きなデメリットになった、ということだ。このこと自体が、全国的な例外である特区性をよく表わしている。
「[江戸詰]えどつめ
江戸の藩邸に勤める武士のことを申します」
幕臣の屋敷と全国の諸藩の江戸屋敷があって旗本や[江戸詰]が集合して一大消費都市を形成している、ということが江戸の特区性のそもそもの始まりだったことは間違いない。
幕府としてはそんなお膝元で悪さをさせたくないし、意欲的な庶民は江戸でしか手に入らない商機をつかみたい。
大阪や京都は同じ幕府直轄地でも武士は少なく、古来、町人は公家と寺社との関係性の中で商工を発展させてきたが、幕藩の上級武士が集中しどんどん商機を拡大した江戸と比べればその商機は相対的に小さかったと言えよう。戦国時代から公家と寺社の勢力は衰頽していったのに対して、幕藩体制で武家が経済官僚化し城下町およびその周辺の公共事業で地域経済を発展させたということがあった。それに伴って民間経済も発展しそこでものを言うのが人口だが、人口は江戸が圧倒的だ。
さらに日本の江戸時代に独特な事情も配慮すべきだろう。
それは、支配階級が身分は高いが経済的には疲弊し続けていった、ということだ。
幕藩のまともな宮仕えの役目のある家臣は長男による世襲で、次男以下は奉禄少なく出仕しなくていいから自分で稼げという身分の者や部屋住みの身の者が多かった。役目のある家臣でも困窮する者は多く、商人からお金を借りたり商人に持ち物を売ってお金を工面したりした。
身分の高い支配階級が身分の低い被支配階級に経済的に依存する体制、というのは世界にそんなにある訳ではない。大掛かりなものとしては、キリスト教世界において金貸業で栄えた被差別民のユダヤ人くらいではなかろうか。ただそれは体制側が意図した訳ではないが、江戸時代の場合、幕府自らが士農工商の身分制度を定め札差などを公認して金融システムを体制化したのだから事情が違う。
札差とは、蔵米取りの旗本・御家人に対して、蔵米の受け取りや売却を代行して手数料を得ることを業とする者で、享保九年(1724)に株仲間が認許され、一万数千人の蔵米取りの旗本・御家人を相手に彼らの俸禄米を 担保とした高利金融をわずか109人の札差で独占した。その結果、巨万の富を得たという。
江戸時代を通じた貨幣経済の進展に伴い、諸物価の基準であった米価は下落を続け(米価安の諸色高)、それを俸禄の単位としていた旗本・御家人の困窮が顕著になっていったのだった。
(参照:「江戸にもあったサラリーマン金融(消費者金融)。しかもそのサラリーマンとは国家公務員クラスの立場の旗本・御家人限定。」http://www.viva-edo.com/fudasasi.html)
つまり江戸には、単に優良消費者の人口密集地という世界の主要都市と同様の条件に加えて、日本独特な「身分の高い支配階級が身分の低い被支配階級に経済的に依存する体制」の拠点であった、という特区性を指摘できる。
土地資本を基盤とする年貢由来の俸禄で暮らしながら土地所有者ではない支配者層、という独自な立場に立たされた武士の生活の安定と、安定成長政策とは必ずしも上手く融合できず、江戸中期には金融引き締め的な経済圧迫政策が打ち出されて不況が慢性化した。
江戸後期には田沼意次が、それまでの農業依存体質を改め、重商主義政策を実行に移した。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を株仲間として公認、奨励して、そこに運上・冥加などを課税した。銅座・朝鮮人参座・真鍮座などの座を設け、専売制を実施した。町人資本による印旛沼・手賀沼の干拓事業を行った。埋め立てをした町人は、土地の所有権と 名字帯刀などの名誉も受けられたので意欲的に関わった。
この時期、江戸町民は景気よく文化を盛り上げた。
ところが田沼政治を批判した松平定信が1787年(天明7年)に登場し寛政の改革を推進。
田沼時代のインフレを収めるため質素倹約と風紀取り締まりを進めて超緊縮財政で臨んだ。
抑商政策が採られて株仲間は解散を命じられ、大名に囲米を義務づけて、旧里帰農令によって江戸へ流入した百姓を出身地に帰還させ、棄捐令(きえんれい・債権者である札差に対し債権放棄・債務繰延べをさせた武士救済法令)を発して旗本・御家人らの救済を図った。七分積金や人足寄場の設置など今日でいう社会福祉政策を行ってもいるが、思想や文芸を統制し、全体として町人・百姓に厳しく、旗本・御家人を過剰に保護する政策を採り、民衆の離反を招いた。
重商主義政策の放棄により、田沼時代に健全化した財政は再び悪化に転じた。
この時期、江戸町民は景気が落ち込み文化も厳しく統制された。
以上のように江戸の経済と文化は山有り谷有りだが、商売や文化創造においてチャンスやピンチといった大きな変化が常にあるのが江戸であり、その特区性だったと言えよう。
「[江戸前]えどまえ
①江戸後期に、食文化が華やいで生まれた言葉です。
西沢一鳳の『皇都午睡(みやこひるね)』によりますと、『[大川]より西手、江戸城より東手、つまり下町の地域を江戸前』とあり、当時、江戸前とは江戸湾ではなく下町を指しました。(中略)
②『江戸流』という意味でも使われます」
実質的にはこの[江戸前]こそが町人の商業が集積した特区であった。
また、この特区ならではのビジネス・スタイルやカルチャー・スタイルが[江戸前]と言われた。
「[衣紋を繕う]えもんをつくろう
衣紋とは『襟口』のことでございます。体を使う職人でない限り、着物の襟をピチッと着るのがマナーですが、家にいる時は、ゆったりと着るのが[粋]ですな。(中略)
しかし、お客さんがいらっしゃったり、[棒手振(ぼてふり)]が来て、ちょっと野菜なぞを買おうと外へ出る時は、襟を正します。これを『衣紋を繕う』と申します」
この説明で、マナーと言っているが、お客さんに対してはそうだが、[棒手振]に対しては保つべき体面と言うべきだろう。それも下働きの女中が[棒手振]に対して保つべき体面がどのくらいあったかと言えば、身分の高い武家なり大店でなければ、気やすく受け答えして襟を正すなんて仕草は実際にはしなかったのではないか。
つまり実際の仕草としては、[衣紋を繕う]とは衣紋掛けに掛けるような着物を着ている人の応対なのであろう。
で、武家でも商家でも、衣紋掛けに掛けるような着物を着ている人が応対するのは、女中を雇う余裕はないが、さりとて体面は保たねばならないというケースに多い、ということになる。私は、困窮気味の侍屋敷の勝手口などを想像してしまう。
江戸時代の都市には、幕府が直轄する江戸・京都・大阪の三都と大名が支配する 城下町があり、それらの土地は基本的に幕府と大名が所有。つまり侍にとって屋敷は仕える主人から与えられる、言わば借り物だった。出世や降格などにより地位が変われば屋敷も相応のものに替えられ、主人が転封となればその屋敷は明け渡さなければならなかった。
で、侍の「お家」にとっての体面とは、仕える主人から与えられた役目そして屋敷が保つべき体面に他ならない。たとえいくら困窮しても、この体面をつぶす訳にはいかないから出費が嵩み、それゆえに困窮が深まったと考えられる。
私は[衣紋を繕う]という言葉はこうした背景から生じていて、「襟を正す」には含まれていない体面を「繕う」ニュアンスが濃厚にあるように感じる。
俸禄だけでは食べていけない侍は内職をした。とは言え、浪人なら傘張りもしようが、宮仕えの身であれば体面を保ちつつそれなりに稼ぎが大きい働き方をしなくてはならない。
たとえば江戸の朝顔市のルーツは、化政期、御徒町の下級武士、御徒目付の間で朝顔が盛んに栽培されていたことに始まる。侍屋敷の敷地内での栽培なら人目につかず、また侍屋敷が集まってできた侍町で隣近所みんな栽培しているとなれば体面も保たれる。
朝顔の手入れをしていた奥方が、勝手口に来た棒手振のところへ向かう、そこで[衣紋を繕う]仕草をする、そんな光景が目に浮かぶ。
「[縁座]えんざ
御咎めを受ける本人に加え、親類縁者も罰せられることでございます。
当時は『連帯責任』が普通で、家族の犯罪は監督責任のある親や親族にも及びました。
ですから、どうしようもない放蕩息子などを放置して犯罪を犯されますと、縁座によって親類まで『財産没収の上[遠島]』なんてことになりかねません。
それゆえ、普段から親類縁者が口うるさくいって来ることになり、改心の見込みがなければ勘当して、相続権の断絶と[人別帳]から籍を削除して[久離(きゅうり)]を切りました。また、そこまでしない場合は『勘当帳』に記載され、同等の扱いを受けます」
現代でも、甲子園常連の高校が野球部員の非行を理由に参加を辞退するのしないのと揉めることがある。これは[縁座]のメンタリティが綿々と息づいている言えよう。
私は、[縁座]は足を引っ張り合う「負の相互扶助」であり、「正の相互扶助」である助け合いと表裏一体の関係にあると捉えている。
「普段から親類縁者が口うるさくいって来る」とは、「負の相互扶助」の防止ばかりではない。いい見合い話をもってくるなど「正の相互扶助」の促進もある。
現代の日本のメーカーでも、稼ぎ頭のA事業部門が、巻き返しを狙うB事業部門の博打とも言える巨額投資に対して口を出さずにカネだして「正の相互扶助」である助け合いをするかと思うと、それが奏功せずに巨額赤字を出すと一転、「負の相互扶助」を防止すべくB事業部門の切り捨て売却を進める。
合理的に考えて最初から反対して無理な巨額投資をさせないで、人材や特許や生産設備などの資源活用をはかる業務向け事業化といった縮小均衡策路線や事業部門連携策を進める、そんな選択肢も現場からは上がった筈だ。しかし、A事業部門とB事業部門の経営幹部は阿吽の呼吸なのか、以心伝心なのかそうした選択肢の検討は一切無しだった。
こうした展開がおおよそ同時期に日本のメーカー各社で並行したのだが、そこには「正負の相互扶助」=「助け合い」+「縁座」という日本人独特のメンタリティが働いている。
「[遠慮]えんりょ
武士の刑罰のひとつで、[籠居(ろうきょ]のことでございます。
屋敷の門を閉じ、自室で謹慎して昼間は誰にも会わないように命じられました」
武士の刑罰には、幕府や領主などから命じられて行う場合と、命じられる前などに自発的に自宅に謹慎する場合もあった。
[遠慮]は、夜間のひそかな外出は黙認された。他者の出入りを制限しない点で、逼塞などと異なる。自主的に行う意味合いが強く、公に申し付けられる場合は「慎み」となる。
つまり、自主的に行う謹慎の意味合いが強いのが[遠慮]であり、その自罰的・自責的なニュアンスが私たちが日常的に使う日本語「遠慮する」に繋がっている。
中国語の熟語、遠慮深謀とは関係なかった。
*次回は「[お]から始まる言葉」についてのメモでございます。