創造性の礎としてのB認識、成長動機とその方法論化 |
自己実現シミュレーションを促す発想ファシリテーションを求めて(3)
創造性の礎としてのB認識、成長動機とその方法論化
自己実現に関係する基本概念をマズローは以下のように説明しています。
それを確認しつつ、自己実現シミュレーションを促す発想ファシリテーションの方法論を検討していきます。
第1章「緒言 健康の心理学へ」
基本的欲求について
「基本的欲求(生存のため、安全のため、所属や愛情のため、尊重や自尊のため、自己実現のための)、人間の基本的情緒、基本的能力は、一見したところ中立、モラル以前、あるいは積極的に、『善』である」
「人間のこの本質的な核心が、認められなかったり、抑えられたりすると、人はときに明瞭なかたちで、ときに微妙なかたちで、早晩病気になる」
「この精神的本性は、(中略)弱くて、デリケートで、微妙で、習慣、文化の圧力、誤った態度によって容易に圧倒されてしまう」
第2章「心理学が実存主義から学び得るもの」
欲求に注目すべき理由
「ヨーロッパ実存主義の(われわれアメリカ人にとっての)核心とするところを、別のことばでいえば、人間の要求と限界との(ありのままの人間と、ありたいと願う人間、あり得る人間との)ギャップが示す人間の窮境を、徹底的に追求していることである。この問題は、はじめ感じられるほど、同一性の問題(筆者注:真の「われ」とは何か、という問いでもある)と無関係ではない。人は現実的存在であるとともに、また可能的存在でもある。
このずれに対する重大な関心が心理学に大変革をもたらした」
可能的存在への要望が欲求であり、その最善、究極の形が自己実現欲求に他なりません。
第3章「欠乏動機と成長動機」
そもそも動機とは
「わたくしは、欲望、願望、あこがれ、希求、欠乏を感じた場合、動機づけられる。これらの主観的報告とうまく対応した、客観的に観察できる状態については、まだ発見されていない。すなわち、動機についての行動上のよい定義は、まだ見つかっていない」
欠乏動機とは
「長期にわたる欠乏の特徴は次のようなものである。
1 その欠如が病気を生む。
2 その存在が病気を防ぐ。
3 その回復が病気を治す。
4 ある(非常にこみ入った)自由な選択場面では、それを阻まれている人は、他の満足にさきがけてこれが選ばれる。
5 健康な人では、低調で、衰えているか、それともはたらかない。
ならば、それは基本的あるいは本能的欲求である」
「これら欲求は、有機体において本質的に欠けている空ろな穴であり、それは健康のためにみたされねばならず、しかも、主体以外の人間によって外部からみたされねばならない。わたくしはこれを説明するために、欠損欲求あるいは欠乏欲求と呼び、別の非常に違った性質の動機(筆者注:自己実現欲求に関係する成長動機)と対照的におこうとするのである。」
成長動機とは
マズローが成長動機という概念を説明する前に、その必要性について解説しているところで、以下のように当時の精神分析と創造性の動向に触れていることは、彼の考える成長動機の枠組みを示します。
「3 精神分析 何人かの分析者、とりわけフロムやホーナイには、神経症でさえ、成長、発達の完成、人間における可能性の実現へと向かう衝動の、歪められた姿と考えないと、理解できないことがわかったきた。」
人間の可能性への実現へと向かう衝動には、本来的で正しいエロス・ベクトルと「歪められた姿」とするタナトス・ベクトルがあるとし、前者を「正しい成長動機」と規定するということがマズローの考える成長動機の枠組みです。一方、フロムは前者の歪められたものが後者であるとはしていません。
「4 創造性 創造性という一般的課題について、多くの解明が行われているが、これはとくに、病人と対照して健康な成長をとげつつある人間、あるいは成長をとげてしまった人間の研究によるものである。ことに、芸術論や美術教育は、成長と自発性の概念を求めている」
「創造性は成長と自発性に密接に関係する」という現在の常識が、当時の研究成果を土台にしていることを知ります。今やこの常識はあまりに通俗化し、かえって現代の私たちはその本質を忘れているのかも知れません。
ここで、マズローは創造性に密接に関係して「成長」の方を注視して「正しい成長動機」を規定している訳です。つまり、創造性に同じく密接に関係する筈の「自発性」は、「B認識は受動的である」という考えからか、あくまで「たかめられた自発性(筆者注:受動態であることに注意)」という成長動機のひとつの記述的、操作的な特徴としています。
私たちはマズローに傾聴し「成長動機」の考えを現実的に役立てるためには、「成長に先立つ自発性」をいかに誘発するかを考えるべきだと思います。
「成長動機の人びとの問題や葛藤が瞑想的な方法によって、内面に向かい、いわばだれか人に助けを求めるよりも、自己探究によって、自分で解決されていることを忘れてはならない」
「成長の後期の段階では、人間は本質的に孤独であり、頼れるのはただ自分のみである」
とマズロー自身も述べています。
「動機の状態に関するかぎり、健康な人びとは、安全、所属、愛情、尊敬、自尊心に対する基本的欲求を十分に満たしている。そこで、第一に自己実現(可能性、能力、才能の絶えざる実現として、使命<あるいは、天職、運命、天命、職責>の達成として、個人みずからの本性の完全な知識や受容として、人格内の一致、統合、共同動作へと向かう絶え間ない傾向として規定された)への傾向により動機づけられるのである」
この一般的な定義のあとに、その記述的、操作的な特徴を13列挙した上で、
「成長が、人を終局的な自己実現までもたらすさまざまな過程としてとらえるならば、これは生活史のなかで絶えず進行しているという観察事例ともよく一致する」とします。
「そこでは、基本的欲求が一つずつ完全にみたされて、はじめて次のより一層高次の欲求が意識にあらわれるのである。そこで、成長は単に基本的欲求が意識から『消え去る』ほどその欲求が発展的満足をとげるだけでなく、これらの基本的欲求を土台に、たとえば、才能、能力、創造的傾向、素質的可能性のかたちで、特定の成長動機が示される」
明快な段階論であり重層論です。
欠乏動機と成長動機の違い
「たぶん、動物は欠乏動機のみをもつのであろう」
「成長動機は長期的性格をもつかもしれない」
「かれ(オルポート)は『欠乏動機が実際、緊張の解消と平衡の回復を求めるものであること、一方、成長動機は遠くの往々にして到達できない目標のために緊張を保つもので、その意味で、人間と動物の生成は区別され、また大人の生成と子どものそれとはわけられねばならないこと』を認める」
以上の欠乏動機と成長動機の違いについて異論はないのですが、私は「成長に先立つ自発性」の概念を尊重して、大人の生成と子どもの生成を類型化して両者が異なるとするよりも、「成長に先立つ自発性」を保った大人や子供と、保てないでいる大人や子供との違いにこそ注目すべきと考えます。その方が現代日本においては、片や卓球の愛ちゃんのような子供(彼女は中国語をマスターし日中友好の架け橋を自負している)、片や30代のニートを見るにつけ観察事例に合致していると言えるからです。
この捉え方に立つと、
企業社会では「指示待ち人間」と「機会開発型の人間」が、
同じ「機会開発型の人間」には「既存パラダイムに安住する課題前提型の人間」と「新規パラダイムを模索する問題発見型の人間」がいて、
それぞれにおいて前者が「成長に先立つ自発性」が無いか不足しているゆえに欠乏動機、後者が「成長に先立つ自発性」が有るか満ちているゆえに成長動機の持ち主ということになります。
そして一人の社員がそのどちらの状態にあるかは、コリン・ウィルソンの提唱した「無関心の閾」(一台目の車のような会社)にいるか、それとも「関与する閾」(二台目の車のような会社)にいるかによって影響されると考えられます。
快楽の質的差異について
「かれ(エーリッヒ・フロム)は、欠如性の快楽と豊かな快楽、欲求充足という『低い』快楽と、生産性、創造、洞察の発展というような『高い』快楽とを区別する」
明らかに「低い快楽」が欠乏動機に、「高い快楽」が成長動機に対応する訳ですが、フロムが、動物にもある低い快楽の追求がエロスだけでなく宿命的にタナトスにも繋がり、人間だけがもつ高い快楽の追求は理念的にはエロスのみに繋がるという思潮だったことを捨象しています。マズローは決してフロムに反対するものではなかったのですが、エロスに繋がる「正しい成長動機」を本来的とする性善説に立って、その「歪んだ姿」がタナトスに繋がる「誤った成長動機」であると主張する彼が、その論理を一貫するためには「タナトスはエロスの歪んだものである」としなければなりませんが、それは事実に反するのでその問題には触れないようにしたのではないかと想像します。「完全なる人間」という本においてそうであり他の著作においてもそうなのかも知れませんが、古典的フロイト主義を否定するための「タナトス」という言葉の使われる頻度に比べて、その対極概念である「エロス」という言葉は圧倒的に少ないというかほとんど使われていない不自然さからの想像です。
フロムの主張の頃20世紀半ばまでは、おおよそ「高い快楽」を求めるとした「生産性、想像、洞察の発展」に向かうものが自己実現欲求であると解釈できました。それは社会もそのような成長過程にあったからです。しかし20世紀後半から、スターリニズムやキャピタリズムの進展によりどんどんモノクロニック*な世界が蔓延するにつれて、求めるのがどのような生産性なのか、どのような創造なのか、どのような洞察なのかによって自己実現欲求であるのか、それともナワバリや保身への欲求に留まるものかを確認しなければならなくなったことは論を俟ちません。
「欠乏欲求がみたされた結果としての緊張喪失は、せいぜいのところ『気休め』と呼ぶことのできるものである」
社会心理の事例としては冷戦下の軍拡競走や、現代に至る企業の高性能低価格競争における一次的優勢です。
「成長動機では、その特徴としてクライマックスあるいは極致といわれるものもなければ、オーガズム的瞬間もない」
売り上げシェアで世界一ではなく、ヒューマンヘルスケアhhcで世界一を目指すエーザイの会社としての成長動機です。
「その代り、成長は連続的で、多少とも着実に上方あるいは前方へと発展するものである」
「行動すること自体が目標であり、成長に対する刺激と、成長の目標を分けることは不可能である。それらもまた同じなのである」
エーザイの社員は、hcc企業理念により、一人の人間として人格的な成長と会社の発展とを同じ土俵にのせることができるようになりました。(エーザイの場合、人の生命や健康をテーマとすることが会社、社員ともどもB認識によって「高い快楽」を求める「成長動機」に結びつけやすかったことは事実です。そこは、一般業界の会社はそれぞれに工夫しなければならないところです。)
「欠損欲求は人類すべての成員に共通するどころか、ある程度他の生物にも同じように認められる」
ナワバリや保身への欲求は心理学では基本的に動物と同じ欲求とされる訳ですね。
「自己実現はひとみなそれぞれ異なっている点で特徴的である」
「人びと(筆者:=社員)はすべてかれらの環境(筆者:=会社)から安全や愛情や地位を求めている。(中略)これはまさに実際の個性がはじまろうとする出発点である。(中略)それぞれの人びとは自己の個人的目的にこれらの必要物を用い、自己流のかたちで独自の発達をとげはじめるからである。(中略)発達は、それからは外部によるよりも、むしろ内面により決定されるようになる」
「人となり」を活かす適材適所における「自発性」の発揮です。
エーザイの場合、患者さまや看護婦さんたちの声という現場知を回収して様々な立場の人間が顧客の未充足ニーズに最大限に応えるべく思考と行動を展開しています。
以上のように、マズローの「成長動機」の概念の社員の意識改革とその知識創造プロセスへの反映は有効です。しかしその前提として、会社自身が「成長動機」をもつことと、会社が社員を「低い快楽」を求める「欠乏動機」の競走に追いやらず、脳科学でいう安全基地を提供することが不可欠です。安全基地があってはじめて冒険ができる訳ですが、その冒険をさらに「高い快楽」を求める「成長動機」に基づくものとするなら、安全基地はさらに社員の心理学的な健康までを保証するものでなければならない筈です。
そうした会社という精神的および心理学的な時空は、決して<モノクロニック>ではありえず<ポリクロニック>な場であるべきことは論を俟ちません。
明快なことがあります。それは
「低い快楽」を求める「欠乏動機」とは、必ず<送り手側のモノ提供の論理>にあり、
「高い快楽」を求める「成長動機」とは、必ず<受け手側のコト実現の論理>にある
ということです。
そして高度情報化の進展した現代において、前者は<モノクロニック>に高度化していて、後者がそれに対峙して自らの生存領域と生存意義を確保するためには<ポリクロニック>に高度化するしかない。
政府や自治体が<モノクロニック>に高度化していく分を、NGOやNPOそして地元やネットのコミュニティが<ポリクロニック>な展開を高度化して補完するしかありません。いわゆるグローバル化の進展を背景に、優位企業が<モノクロニック>に高度化する分を、劣位ながらも独自性を発揮する個性的企業が<ポリクロニック>な展開を高度化して対抗するしかありません。
<モノクロニック>な高度化は、必然的に一元的なグローバリズムに向かい、
<ポリクロニック>な高度化は、文化多元主義やグローカリズムに向かいます。
第4章「防衛と成長」(1956年5月の講演が基)
成長と安全について
「まったく自発的に、内部から外へ歩みが進められ、選択が行われる」
「人間はそれぞれみな自己のうちに、二組の力をもっている。
一組は、おそれから安全や防衛にしがみつき、ともすると退行し、過去に頼り、母親の腹や乳房との原初的な結びつきから脱け出すことをおそれ、偶然の機会をとらえることをおそれ、すでに所有するものを危険にさらすことをおそれ、独立、自由、分離をおそれる。
他の組の力は、自己の全体性や自己の独立性へ、かれの全能力の完全なはたらきへ、最も深い現実の無意識的自己を受け容れると同時に、外界に対してもつ確信へとかれを促すのである」(筆者注←マズローの欲求段階説を意識の領域だけのものと捉えるのは明らかに誤り)
「成長の喜びと安全の不安が、成長の不安と安全の喜びより大きい場合に、成長をとげる」
「安全性が確かめられると、より高い欲求や衝動を発現させ、優勢にする。
安全が脅かされると、とりもなおさず、一段と基本的な基礎に退行する。
この意味するものは、安全を断念するのと、成長を断念するのとを選択しなければならない場合には、通常、安全が勝つということである。
安全欲求は成長欲求よりも優勢なのである」
「数多くの人間の動機を結びつける単一の体制原理は、低次欲求が十分にみたされて、新しい高次欲求を生ずるという傾向にみられる」
以上、マズローは自己実現が個人レベルの心理では解決しないことを吐露しています。なぜなら「安全」は外界との関わり、つまり人間においては社会レベルの事柄だからです。
そして現実の社会は弱肉強食のエロス⇄タナトス循環の世界でまだまだある訳で、せめて会社という安全基地だけでもエロス=生と創造の、量ではなく質の高度化を競い合う世界とすべきである、ということを私たちはどうしても踏まえなければなりません。
現実的に会社には、保身とナワバリを求める欠乏動機レベルの弱肉強食が展開しています。展開していないとしたら、セクショナリズムが徹底し固定的な前提となっていて、それから逸脱することがタブーとされる「長い者には巻かれろ」心情が内面化した状態にあるということでしょう。そうした状態を超克しないことには、社員一人ひとりの「高い快楽」を求める「成長動機」を保持させる安全基地に会社はなりようがないことは明らかです。
かつて本田宗一郎はルマンレースで優勝を勝ち取った際に「これで株価が上がる」と喜んだことで社員から突き上げをくらい謝ったとのことですが、そんな会社になるということです。
第6章「至高体験における生命の認識」
至高経験について
「生命の状態(当座のみの、高次に動機づけられた、衝動でもなく、自己中心的でもない、無意図的、自己確認的、終局経験で、完全な目標到達の状態)」
「B愛情の(他人や対象物の生命のための)状態に関しては、(中略)これをわたくしは、生命の認識、あるいは簡単に、B認識と呼ぼう。
これは個人の欠乏欲求で構成された、わたくしがD認識と呼ぼうとする認識とは対照的なものである。」
「B愛情の経験、親としての経験、神秘的、大洋的、自然的経験、美的認知、創造的瞬間、治療的あるいは知的洞察、オーガズム経験、特定の身体運動の成就などにおけるこれら基本的な認識事態を、単一の記述でもって概括しようとこころみるものである。
これらの、あるいはこれ以外の最高の幸福と充実の瞬間について、わたくしは『至高経験』と呼ぼうと思う」
至高体験におけるB認識について
「B認識では、経験ないし対象は、関係からも、あるべき有用性からも、便宜からも、目的からも離れた全体として、完全な一体として見られやすい」
「これは、大部分の人間の認識経験であるD認識とは対象的である。D認識の経験は、(中略)部分的で不完全なものである」
「B認識のあるところ、認識の対象にはもっぱら、またすっかり傾倒される」
マズローは地と図の関係を用いて「このような熱中においては、図は図ばかりになり、地は事実上消えてしまうか、少なくとも重視はされない」と言っています。
ようは「あなたは私の太陽だ」と求愛するような女性と相思相愛状態の時に、その女性しか見えない、他の女性は目に入らないかの如くになり、他の女性と比較分類する方向の認知ではなく、その女性を愛していることにただ浸ってしまう方向の認知をするという話なのだと思います。
「B認識は無比較的認識、あるいは没価値的、没判断的認識と呼ぶことができる」
「自己実現する人間の正常な知覚や、平均人の時折の至高体験にあっては、認知とはどちらかといえば、自我超越的、自己忘却的、無我であり得るということである。それは、不動、非人格的、無欲、無私で、求めずして超然たるものである」
なかなか人間も、男女間の関係もここまでには至りませんが。至る人は至る、至る時は至るという話です。
「ソローキンなどは、至高経験の際には、観察者と観察されるものが一体となり、本来二つのものが一つの新しく大きな全体、並はずれた単一体に融合するとさえいっている」
「至高経験は自己合法性、自己正当性の瞬間として感じられ、それとともに固有の本質的価値を荷なうものである。つまり、至高体験はそれ自体目的であり、手段の経験よりもむしろ目的の経験と呼べるものである」
エーザイの社員が医療現場の人たちと結ぼうとしている絆はまさにそういうものなのでしょう。
「普通の認識は、非常に能動的な過程である。それは観察者がおこなう一種の構成と選択を特色としている。観察者が見ようとするものと、見ようとしないものを選ぶのである。かれが見ようとするものを、自己の欲求やおそれや関心と結びつけるのである」
これは、脳科学でいう思考レベルの志向性のことです。
「B認識は、もとよりまったくそうだとはいえないけれども、能動的というよりもはるかに受動的、受容的である」(文章全体に傍点あり)
B認識の捉え方について、マズローとコリン・ウィルソンは受動的か、能動的かで対立します。
しかし微妙な話ですが、受容的か、意図的かという点では、議論はすれちがっていて対立していません。マズローが(意識の領域の表現である)意図的ではないという意味で受容的(意識的にも無意識的にも受容するしかない認識)と言っているのに対して、ウィルソンの方は無意識の働きを含めて能動的であると言っていて、意図的とまでは言っていません。脳科学でいう「志向性」概念も、映像レベル、言語レベル、思考レベルの志向性が無意識、前意識から意識にシームレスに展開すると考えるべきで、能動的とは言えますが、(意識の領域の表現である)意図的に限ることができないからです。
「普通の認識は、高度に意志的であり、したがって要求し、予定し、前もって予想を立てるのである。ところが至高経験の認識にあっては、その意志は干渉しない。そのままにしておくのである。それは受け容れるが、求めはしない。
われわれは至高経験を命ずることはできない。それはわれわれにたまたまおこるのである。」
コリン・ウィルソンは、至高体験自体はたまたまの<ハプニング>で受動的あることを認めた上で、その体験における認識は受動的ではありえないと主張しています。そのことは「聖ネオットの閾」の実話からも明らかです。ヒッチハイクであのような二台に乗せてもらったのは偶然でした。
「無関心の閾」に対するところのいわば「関与の閾」に踏み込みこんだ人が、その関与を深く意味づけできればできるほど、深い意味をもったB認識に至るとウィルソンは考えました。その延長で考えるならば、B認識が受動的か能動的かは、体験者がもし他の人だったら自分のように認識に至ったかどうか、あるいは逆に他の彼彼女の体験を自分がしたとして認識に至ったかどうかを考えれば分かるでしょう。受動的であれば誰もが至る可能性が高く、能動的であれば自分あるいは彼彼女だから至った可能性が高い訳です。
さて、以上の検討を踏まえて、コンセプト思考術のパラダイム転換演習における発想ファシリテーションを通して、受講者の自己実現シミュレーションを促すには何をいかにすべきか、次の(4)で整理します。