「信長志向」の総括に信長が向かった経緯を確認する(5:結論) |
(1)http://cds190.exblog.jp/15162423/
「改革者」としての信長
信長が「改革者」にいたる3ステップ
(2)http://cds190.exblog.jp/15164045/
「都市型領主」と「ムラ型領主」、あなたの会社の経営は?
第一ステップ=尾張時代の軍隊の「信長志向」化
第一ステップ=尾張時代の軍事体制の「信長志向」化
第二ステップ=岐阜時代の経済体制の「信長志向」化
(3)http://cds190.exblog.jp/15341919/
第二ステップ=岐阜時代の軍隊の「信長志向」化
第二ステップ=岐阜時代の知識創造体制の「信長志向」化
(4)http://cds190.exblog.jp/15611660/
第二ステップ=岐阜時代のナレッジワーカー集団の体制と育成
第三ステップ=安土時代の商業体制の「信長志向」化
信長の天下統一を阻んだ最大の敵は、足利義昭と連合した大阪本願寺と諸大名のいわゆる「信長包囲網」だった。
それは、
信長の「環伊勢海を経済基盤とする政権」
と
義昭の「環大阪湾を経済基盤とする政権」
との対立だったことは前項(2)で触れた。
この対立は同時に、
「環伊勢海を経済基盤として新たに成長しようとする新商業体制」
と
「環大阪湾を経済基盤とする既得権益を守ろうとする旧商業体制」
との対立だった。
後者は、中世の商工業拠点であった境内都市、そのネットワークを経済基盤とするものだった。
ここで注目すべきは、当時の織豊時代を転換期とした、貨幣経済の規模と内容の変化である。
戦国時代までは貨幣は雑多な中国銭だった。ザックリ言えば貨幣経済としては日本は中国圏にあったと言える。それが戦国時代にかけて東アジアの基軸通貨が中国銭から銀に代わり、まず世界情勢が大きく変化してくる。
また戦国時代までは、公家を除いて武家を含むほとんどの日本人が自給自足の生活をしていて、貨幣を必要とする生活は自給や物々交換ができない産品や娯楽の取得などに限られていた。よって、貨幣経済の規模としては、生活経済よりも軍需経済の方が活況を呈していく。さらに信長が堺に恭順の意を示させるべく要求した「矢銭徴課(軍用金)2万貫」も貨幣だから、信長からすれば軍需経済は支出だけでなく収入も貨幣経済化したと言える。
軍需経済は、モノとしては武具や鉄砲や兵糧である。武具は古来、仏具も扱うハイテク商工業拠点である境内都市が生産流通させていて、伝来した鉄砲も開発流通させた。
信長が従わせようとしまた攻撃した主要な境内都市は、鉄砲の生産拠点であり砲術の知識創造拠点であった。鉄砲の火薬に必要な硝石は輸入品でありその貿易も彼らが直接にか間接にか、いずれにせよ「環大阪湾の経済基盤」が担っていた。
信長は、義昭と対立する以前から、鉄砲を有利に占有するためにハイテク商工業拠点である境内都市を支配することを課題とした。
それは、信長が「環伊勢海の経済基盤」から銀を収奪しても、最先鋭の鉄砲を敵より大量に購入しようとする際、敵との価格競争によって多大な出費を強いられたためである。
境内都市を拠点として「聖(ひじり)」という遍歴僧が勧進して諸国を回遊していた。彼らが戦時情報を取得流通させて鉄砲をはじめとする軍需物資の販売促進に役立て特に鉄砲価格の高騰を誘導していたのではないか。
高い鉄砲を買わされ続け、しかも自分の戦時情報が敵方に流出しているならば、堺などの鉄砲生産流通拠点を含めて我が物にするか、我が物にならないならば殲滅してしまった方が良い、そう合理主義者である信長が考えて不思議はない。
こうした経緯も絡んで信長と義昭との対立が、
「環伊勢海を経済基盤として新たに成長しようとする新商業体制」
と
「環大阪湾を経済基盤とする既得権益を守ろうとする旧商業体制」
の対立となっていった。
ここで最も重大なのは、
境内都市の旧商業体制も、信長の押し進めた城下町ないしその周縁市場の新商業体制も、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」だったことである。
境内都市はそもそも「戦乱の世」において、難民化した庶民の転住民や全国を遍歴する商人や聖の移動民にとって出入り自由の「無縁所」であった。門前町を含めて様々な商工業者が自他のニーズに応じて参入したり退出したり、移動したり転住したりしていた。
私個人としては、
手に職がなく店を構えた商売もできない者が僧形で全国を遍歴しながら巧みに生活の糧を得た、というのが、寺社の学侶・行人につづく最下層で最多数の衆徒「聖」の実態だったのではないか、
そして彼ら「聖」と、近江商人の萌芽のような行商、斎藤道三や秀吉がそうであったという賤視された遍歴商人とは、売り物が違うだけでさほど距離のある存在ではなかったのではないか、
と想像している。
そして、
一向一揆にしても自由都市堺の有力商人たちにしても、主体性をもった実力者たちが自由意志で連携し自治を目指したのであって、それは社会体制としては同じ、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」であった
と言える。
つまり、この新旧の商業体制の対立は、「信長志向」同士の社会体制対立であったと捉えられるのだ。
ともに商工業拠点ネットワークを社会体制のインフラとするのであるが、
旧体制はあくまで境内都市ないしその周縁市場を拠点としようとし、
新体制はあくまで城下町ないしその周縁市場を拠点としようとした。
私は、堺が信長に早々に屈服した背景には、彼らが中央権力に通じる国際商人の立場を得ていたために境内都市ネットワークから自立していて、旧商業体制の柵から自由な実力主義にあったことが大きく影響していると考える。
あくまで商売人として形勢を見て、信長側に立った方が、中央権力に通じる国際商人の立場を温存し、かつ新商業体制において自らの発展を期せると判断したのではなかろうか。
そして実際に、国際商人は信長によって大名に取り立てられるなどしていった。
大阪本願寺が信長と講話した時点で、義昭の「環大阪湾を経済基盤とする政権」は滅んだ。
そして、信長は安土築城に専念する。安土城は琵琶湖を介して「環伊勢湾経済圏」「環大阪湾経済圏」そして日本海の交易港「若狭湾」を繋ぐ位置関係にあることは論じるまでもない。
信長短命のため長くはなかった第三ステップ=安土時代だが、その前後で商業体制は大きく変わり、江戸時代に向けて近江商人が台頭していった。
この過程は、公家や寺社が商人に市での商売を認可していた既得権体制に決定的な打撃を与え、戦国大名が収奪していた関所の通行税を撤廃させる大改革でもあった。
安土城の城下町は新しい商業体制改革の象徴的拠点として構想され、時代を担う実力ある商人たちを一気に集積させた。
本項(6)では、こうした商業体制の「信長志向」化の様相についての著者の論述を追いながら、それが後世に与えたインパクトを検討して本論シリーズの結論としたい。
著者は、「町人で構成される共同体としての『山下町』が成立し、信長が保護した」として城下の「町人地」について、信長が発布した「十三条の掟」から解説していく。
「第一条は、有名な楽座を宣言したものである。
つまり安土城下町での坐商売は否定され、営業税など一切の負担から解放されるという画期的な規定であった」
「坐」とは、公家や寺社がもつ 荘園で、同じ種類の仕事をしている商工業者や芸人がつくった組合のことであり、既得権益に守られた身内を構成した。
つまりは、集団を身内で固める「家康志向」だった。これを信長は否定したのである。
「第二条では城下を貫く下街道の通行と宿泊の強制を、第三条・第四条では普請役・伝馬役の免除」を規定している。
信長は全国の街道と城下町そして港湾の整備を進めていったが、それは広域商業を担う商人たちを支援し拡大することを意味した。
こうした流通インフラの整備は、普請役・伝馬役といった様々な負担から解き放った、自由に活動する広域商業者の個々を、城下町を拠点とする恊働集団に構成する「信長志向」の仕掛けだった。
これは、前述の境内都市を商工業拠点ネットワークとした「環大阪湾を経済基盤とする既得権益を守ろうとする旧商業体制」に対抗するに有効かつ必須の政策だった。
現代で言えば、規制撤廃によって護送船団方式を解消した、ということか。
「第八条は徳政の免除を規定している」
徳政とは、商業者が蓄積した債権をチャラにする命令、商人にとっては貸し倒れの泣き寝入りである。為政者の代替わり、あるいは災害などに伴い改元が行われた際に、天皇が行う貧民救済活動や神事の興行(儀式遂行とその財源たる所領等の保障)、訴訟処理などの社会政策として行われた。
既得権益によって商売を独り占めしていた坐の身内の商人ならば、まだこの命令に従っても再起できた。しかし、坐の余所者の商人には致命的で再帰不能の大打撃だっただろう。信長はこうした危惧を商人一般から一掃した。
坐の身内は定住民が占め、坐の余所者は根無し草の移動民や信長やその家臣とともに転入した転住民が多かったことから、信長のこの政策は移動民や転住民を支援して、特に広域流通と広域商業の担い手を保護しその活発化を狙ったものと考えられる。
「第九条は他所から引っ越してきた場合、前主人との関係が断ち切られ解放されること」を規定している。
これほど明快な転住民への支援はない。自由に活動する個々の流入と町人地でのさまざまな集団の構成を促した。
「第十条では喧嘩・口論をはじめ質取り・押し買い・宿の押し売りなどの禁止、第十一条は町奉行としての福富秀勝・木村高重の役割の規定」をしている。
中世は「自力救済」が基本原理だった。つまり、何らかの暴力の持ち主が持たざる者を押し切ってしまう、これに抗するにしても自力で頑張るしかないというのが基本だった。それが、信長の城下町では、町奉行が監視監督するから、一般庶民が不条理な暴力に圧倒される心配なく安心して商工業に励めるようになった。
「第十二条は町人の租税免除」である。
当時は秀吉の一族を筆頭に「商農未分離の者」あるいは未分離の世帯が多かったが、「町人の租税免除」は明快な商農分離を促進した。
ただし、一方で信長は、御用商人を経済官僚化したり、国際商人を大名に取り立てたりしたから、士農工商の内、士工商の連携を深めて、農の村落での農耕専業化を進めたと言える。
士農工商の内の「農の村落での農耕専業化」は、農本主義体制ともとれるが、私は、信長があくまで工商が密接に連携する重商主義体制を主軸として、農を分離することで、士を商工担当の経済官僚と農担当の農政官僚(後に太閤検地を指揮したような)に分けようとしていたのではないか、と捉えている。
天下統一後の全国区を前提して、農を専業する「定住民社会」と、工商が密接かつ国際的に連携する「転住民社会」と「移動民社会」とを、全く異なる構造として捉えて異なる支配原理を働かせようと信長は考えたのではないか、と想像するのである。
戦国時代の通貨は雑多な中国銭だった。「中国銭が日本のみならず東アジアの基準通貨の地位を確立していたのであり、現代でいうところのドルに相当した」と著者は言う。
「ところが十六世紀になると、スペイン領となった南米で産出された大量の銀が中国に流入して、税制が(中略)銀本位制になり、中国銭の価値が不安定になってしまう」
その影響で、
「日本国内では特に生産力の高かった畿内を中心に、金や銀、あるいは米で商取引がおこなわれることになる。(中略)信長もそうした状況に直面し、非情に苦慮した」
結果、
「中国銭にかわって畿内市場で用いられた貨幣は米であった」
「西日本では、1560年代から70年代にかけて、一斉に銀遣いが米遣いに取って代わる(浦長瀬、2001)。
当時これを最終的に保証したのは、畿内自治都市とそれを保護していた大阪本願寺といえるであろう。
したがって天正八年における信長の大阪本願寺に対する勝利によって、信長を頂点とする領主階級が国内市場を掌握する前提条件が整ったのである。
信長は、悪銭間の換算値を設定したり、金銀貨幣の使用を促すことで、銭貨秩序の回復をめざした。信長に代わって秀吉は、銭貨の信用不安に対して、新たな支払い手段として米に着目する。当時、種々様々な枡が使用されていたのを『京枡』に統一したのは、その前提であり、太閤検地は信用不安克服のためにも、短期間全国に押し進められた」
信長が不慮の短命に終わったことから、こうした秀吉の政策は信長が構想していたものと考えて差し支えあるまい。
信長は、こうした米通貨の安定策の土台として「農の村落での農耕専業化」を図ったと捉えることができる。
「第十三条は近江での馬売買独占の規定である」
陸路の輸送を担ったのは馬であり、これを城下の近江で独占したのは、近江を確実に街道輸送の要としたということだろう。
(なお、「安土城のプランは、周囲に湖水があり、本丸御殿の背面に天主がそびえるという構成であり、東は馬場、西は 摠見寺というふたつの峰に連なり」とあり、また天正九年の安土城での左義長(馬揃え)では、10頭・20頭の馬を一組とし馬の後ろに爆竹を点火して早駆けさせ、安土城下へ乗り出した後、再び馬場へ戻ってくるという趣向を凝らし、見物人たちを感嘆させたとある。
つまり、天下がまだ統一されていない段階で最高の軍馬を独占する信長軍の機動力をアピールしている訳で、信長のお膝元近江での馬売買独占は近江を要とする街道整備と合わせて、信長軍の機動力を敵対する大名に裏付けたことになった。)
以上、十三条の掟書からは、「安土山下町を天下一の商都にしようという信長の意気込みが伝わってくる。
実際にこのような特権的な法が機能したならば、瞬く間に諸国から大量の商工業者が流入したであろう」。
著者は、このような現代で言えば「経済特区」のような状況を述べた上で、近江商人の源流になった「小幡商人」について解説していく。
「安土城下の建設に際して、近隣の農村商人が招致されている。たとえば小幡商人は、日本海流通と太平洋流通を結ぶ有力商人として、信長から期待されてのことであろう。
安土に小幡町を形成した。(中略)
彼ら農村商人は、特定の有力寺社に公事(雑税)を奉仕することによって営業特権を付与された坐商人と、それに従属し、主として商品運搬や行商に従事する足子(寄子)商人から構成された。(中略)
小幡郷周辺の村落には、小幡ばかりか周辺の坐商人の足子も多数存在していた。(中略)一村落に複数の坐商人の足子が散在することが推測できる。このように当時の湖東村落には、多数の商業従事者が存在したのであり、彼らの活動が狭隘で閉鎖的な農村社会を打破し、横断的な地域結合を可能とさせる前提ともなった」
「小幡商人は、元来保内・愛知川・横関などの有力農村商人と同様に、八日市庭(八日市市)に立って商売をおこなっていたが、伊勢通商について、石塔・野々川・沓懸とともに独占し、山越四本商人とよばれていたばかりか、田中江・薩摩・八坂・高島南市とともに五箇商人として若狭通商の権利も獲得していた。
したがって彼らは、日本海側と太平洋側の地域市場圏相互を結ぶ隔地間流通に従事したことがわかる」
つまり、小幡商人は、機動的な移動性を最も発揮する商人だったのだ。
「このような権限は、近江国内においても小幡商人のみに付与されていたものであった。おそらくこれは、当郷が東山道から伊勢国へ向かう三本の山越え街道---八風街道・千草越・伊勢道---の出発点に立地していたこと、および日吉神社の保護によるところ大であろう。
小幡商人は、他の有力農村商人に対して優越した地位にあったと推測できる」
著者は、小幡商人をして、
「彼ら有力商人の安土移住は、日本海と太平洋の流通を結びつけようとする信長の意図に、まさしく適うものであった」
と総括している。
小幡商人がルーツとなって以後台頭していったのが「近江商人」である。
「近江商人」はいかなる特徴をもっていたのだろうか。
近江商人博物館のホームページには、以下のような説明がある。
「近江商人の基本は行商。
そこから『近江の千両天秤』という諺も生まれました。(中略)
近江商人は歩いて販路を広げるなかで、商品についての需要と供給の状況や地域による価格差などの情報を速やかに入手して商業活動を行ったのです。
それにより一定の販路を獲得し資本を貯えると、全国各地に出店・枝店と呼ばれる支店を積極的に解説しました。さらには江戸・日本橋、大阪・本町、京都・室町という三都にも進出するほどの豪商になって活躍したのです」
「近江商人」とは、一介の行商から天下の御用商人までに一貫した商売スタイル、商人ライフスタイルを指し示す概念である。
どのようなスタイルかを知るために、近江商人の一生をみてみよう。
同ホームページの「商人の一生」を見ると、おおよそ江戸時代に一般化し戦前の横浜の貿易商などでも見られた習慣が近江商人によって確立していたことが分かる。
男性が6〜7歳で寺子屋に入り、10歳頃に商家に奉公にあがり、丁稚となる。丁稚は、主人のお供、子守り、掃除、走り使いをし、読み書き算盤の練習、行儀見習いをする。盆暮れに小遣い銭と御仕着せが支給される以外は無給だ。
奉公して5年目、初登り、といって初の親元への帰省が許される。この時、登り=退職の形をとり、再勤を許された者だけが店に戻る、という。
元服後の16〜17歳で手代に昇進するも、中登り(初登りから2〜3年後)、隔年登り(中登りの後に2〜3回)があり、残った先鋭が30歳頃に番頭に昇格し、店の経営や家事の切り盛りをする。(番頭は、毎年帰省することが許される。これを毎年登りというが、大きな失敗をした時には即暇を出されたということではないか。)
大過なく勤め上げた35歳頃、別家を許され、本家から家名と財産を分与されて独立。別家後も本家との主従関係は続く。妻を娶り所帯が持てるのは、この時という。
こうした江戸商家の人材の育成と運用の全体を俯瞰すると、その体制自体がじつは厳しい実力主義と成果主義にのっとった、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」だったことが分かる。
丁稚奉公というと行かされた感があるが、他に青少年の行き場がない江戸時代、それは本人の自由意志によると考えるべきだろう。
商家は嫡男による世襲が一般的だったが、それでも前途有望な雇い人を養子にすることも少なくなかった。また、有能な番頭を暖簾分けして独立させることは、本家との主従関係が持続したから身内の拡大ということではあるが、社会全体を俯瞰すれば、実力ある精鋭には資本の分配があったということでもある。
社会全体としては、寺子屋で読み書き算盤を習ってから、あるいは商いのいろはを覚えて奉公先から離脱してから、天秤棒一本の行商で自立した者も多かった。つまり、独立自営を含めた雇用の流動性は商家内の昇進制度を超えて著しく高かったと言える。
こうしたことの背景には、庶民教育が寺子屋を通じて一般化していたがゆえの読み書き算盤の普及が前提になっていて、それは当時、世界で類例のない日本独自の事情だった。
同ホームページによると、寺子屋は室町時代に僧侶が付近の子供を集めて読み書きを教えたのが始まりとされる。五箇荘には10校の寺子屋があり、天保期以降に急増し明治時代の学制施行まで存続している。寺子数も、女子の比率も全国値より高いという特徴があり、五箇荘商人が輩出して商家への奉公に出る者が多かったためという。
「近江商人」という商人ライフスタイルは社会教育体制でもあったと言える。
五箇荘における寺子屋教育体制は、様々な家柄の子供という自由に活動する個々が、奉公先の商家という集団を適宜に構成していく出発点となった訳で、町人世界の「信長志向」の土台として室町以降、江戸そして明治以降にも受け継がれていった。
豪商の歴史を辿ると、戦国期から近世初期にかけて活躍した大商人は外国貿易に従事した者、台頭してきた新勢力である大名と結んで戦時用物資の調達にあたった者などであった。
このような政商的性格および貿易商人的性格の強い初期豪商に対し、特定の専門商品を売買して城下町や江戸で商業活動を行う者が現れた。近江商人・京都商人・伊勢商人などである。
すべて、信長の押し進めた「環伊勢海を経済基盤として新たに成長しようとする新商業体制」において台頭してきた商人たちである。
近江商人の商法は、井原西鶴が「日本永代蔵」で「鋸商い」と読んだように、持ち下り荷(関西から関東や地方へ)・登せ荷(地方から関西や江戸へ)など、地域間の受給と価格差に着目して生産地から消費地へ生活必需品を流通した「産物廻し」であった。
多様な産地や消費地の生産者や卸問屋といった自由に活動する個々を、仕入れルート・販路のパートナー集団に構成するという意味で「信長志向」と言える。
近江商人の多くは金融業や質屋も営んだ。幕藩に対する「大名貸し」には名目貸しと郷貸しがあり、名目貸しとは徳川御三家や有力寺社の御用途金の名目で貸すもの、郷貸しとは村の領主に対する貸し付けでその村の年貢で返済された。米や大豆などの現物で返される場合もあり、近江商人が製造業を営む契機になった。
自らが製造業を営むばかりではない。「産物廻し」によって、東北地方へ麻布を持ち下りして、宇摩を登せ荷するのがその典型で、資本と技術を提供して地方へ原料を移入し製品を移出する産業構造を構築した。
つまり、異業種異業界の産品を金融で結びつけて加工品の製造販売を展開した訳で、様々な金の借り手という自由に活動する個人を、加工品製造販売ビジネスのパートナー集団に構成するという意味で「信長志向」と言える。
近江商人は経営の範囲が広がると、個人企業から何人かが資本を出し合い共同企業(乗合組合)をつくるという近代資本主義の形態へとシフトした。
様々な企業家という自由に活動する個々を、共同事業者集団に構成する、まさに「信長志向」の近代化である。
明治以降は、多くの近江商人が共同企業を拡大する資金を集めて供給する銀行設立に参加している。
近江商人の台頭とその後の発展は、
信長の押し進めた「環伊勢海を経済基盤として新たに成長しようとする新商業体制」が安土城下の町人地の商業流通拠点化の紛れもない成果であり、
着実なる日本商業と日本金融の近代化を用意していった、
と言えよう。
文化人類学的には、そもそも戦争は交易の一パターンであり「移動民」や「転住民」が主役である。そして、貨幣の交換およびその際の価値評価は、貨幣発行者の戦争ないし戦争能力と不可分の関係に今も昔もある。
一方、農耕と年貢とその徴収によって成り立つ農本主義体制ないしそうした社会の側面は、すべて定住民を前提としている。
信長は、国内で農本主義体制の側面を安定化させて通貨としての米の価値を安定化した上で、重商主義体制を飛躍的に発展させた。
そこでは安土城下の町人地と近江商人が鍵となった。
さらに対外的に戦争を含んだ交易主義体制を拡張しようと唐攻めを構想していた。それには政商的かつ貿易商人的な豪商が関与したのだろう。小幡商人がルーツとなって以後台頭していった「近江商人」だが、いかなる特徴をもっていたのだろうか。
近江商人博物館のホームページには、以下のような説明がある。
「近江商人の基本は行商。
そこから『近江の千両天秤』という諺も生まれました。(中略)
近江商人は歩いて販路を広げるなかで、商品についての需要と供給の状況や地域による価格差などの情報を速やかに入手して商業活動を行ったのです。
それにより一定の販路を獲得し資本を貯えると、全国各地に出店・枝店と呼ばれる支店を積極的に解説しました。さらには江戸・日本橋、大阪・本町、京都・室町という三都にも進出するほどの豪商になって活躍したのです」
「近江商人」とは、一介の行商から天下の行商までに一貫した商売スタイル、商人ライフスタイルを指し示す概念である。
どのようなスタイルかを知るために、近江商人の一生をみてみよう。
同ホームページの「商人の一生」を見ると、おおよそ江戸時代に一般化し戦前の横浜の貿易商などでも見られた習慣が近江商人によって確立していたことが分かる。
男性が6〜7歳で寺子屋に入り、10歳頃に商家に奉公にあがり、丁稚となる。丁稚は、主人のお供、子守り、掃除、走り使いをし、読み書き算盤の練習、行儀見習いをする。盆暮れに小遣い銭とお着せが支給される以外は無給だ。
奉公して5年目、初登り、といって初の親元への帰省が許される。この時、登り=退職の形をとり、再勤を許された者だけが店に戻る、という。
元服後の16〜17歳で手代に昇進するも、中登り(初登りから2〜3年後)、隔年登り(中登りの後に2〜3回)があり、残った先鋭が30歳頃に番頭に昇格し、店の経営や家事の切り盛りをする。(番頭は、毎年帰省することが許される。これを毎年登りというが、大きな失敗をした時には即暇を出されたということではないか。)
大過なく勤め上げた35歳頃、別家を許され、本家から家名と財産を分与されて独立。別家後も本家との主従関係は続く。妻を娶り所帯が持てるのは、この時という。
こうした江戸商家の人材の育成と運用の全体を俯瞰すると、その体制自体がじつは厳しい実力主義と成果主義にのっとった、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」にあったことが分かる。丁稚奉公というと行かされた感があるが、他に青少年の行き場がない江戸時代、それは本人の自由意志によると考えるべきだろう。
商家は嫡男による世襲が一般的だったが、それでも前途有望な雇い人や勤め人の番頭を養子にすることも少なくなかった。また、有能な勤め人の商人を暖簾分けして独立させることは、本家との主従関係が持続したから身内の拡大ということではあるが、社会全体を俯瞰すれば、実力ある精鋭には資本の分配があったということでもある。
社会全体としては、寺子屋で読み書き算盤を習ってからか、あるいは商いのいろはを覚えて奉公先から離脱してからか、天秤棒一本の行商で自立した者も多かった。つまり、独立自営を含めた雇用の流動性は身分を超えて著しく高かった。
こうしたことの背景には、庶民教育が寺子屋を通じて一般化していたがゆえの読み書き算盤の普及が前提になっていて、それは当時の世界で類例のない日本独自の事情だった。
同ホームページによると、寺子屋は室町時代に僧侶が付近の子供を集めて読み書きを教えたのが始まりである。五箇荘には10校の寺子屋があり、天保期以降に急増し明治時代の学制施行まで存続している。寺子数も、女子の比率も全国値より高いという特徴があり、五箇荘商人が排出し商家への奉公に出る者が多かったためという。
「近江商人」という商人ライフスタイルは社会教育体制でもあったと言える。
五箇荘における寺子屋教育体制は、様々な家柄の子供という自由に活動する個々が、奉公先の商家という集団を適宜に構成していく出発点となった訳で、町人世界の「信長志向」の土台として室町以降、江戸そして明治以降にも受け継がれていった。
豪商の歴史を辿ると、戦国期から近世初期にかけて活躍した大商人は外国貿易に従事した者、台頭してきた新勢力である大名と結んで戦時用物資の調達にあたった者などであった。
このような政商的性格および貿易商人的性格の強い初期豪商に対し、特定の専門商品を売買して城下町や江戸で商業活動を行う者が現れた。
それが近江商人・京都商人・伊勢商人などである。
すべて、将軍家や一向一揆に対抗して信長の押し進めた「環伊勢海を経済基盤として新たに成長しようとする新商業体制」において台頭してきた商人たちだった。
近江商人の商法は、井原西鶴が「日本永代蔵」で「鋸商い」と読んだように、持ち下り荷(関西から関東や地方へ)・登せ荷(地方から関西や江戸へ)など、地域間の受給と価格差に着目して生産地から消費地へ生活必需品を流通した「産物廻し」であった。
多様な産地や消費地の生産者や卸問屋といった自由に活動する個々を、仕入れルート・販路のパートナーたちという集団に構成するという意味で「信長志向」と言える。
近江商人の多くは金融業や質屋も営んだ。幕藩に対する「大名貸し」には名目貸しと郷貸しがあり、名目貸しとは徳川御三家や有力寺社の御用途金の名目で貸すもの、郷貸しとは村の領主に対する貸し付けでその村の年貢で返済された。米や大豆などの現物で返される場合もあり、近江商人が製造業を営む契機となった。
自らが製造業を営むばかりではない。「産物廻し」によって、東北地方へ麻布を持ち下りして、苧麻(ちょま、麻のような糸)を登せ荷するのがその典型で、資本と技術を提供して、地方から原材料を移入し地方へ製品を移出する産業構造を構築した。
それは、異業種異業界の産品を金融で結びつけて加工品の製造販売をネットワーク展開した訳で、様々な金の借り手という自由に活動する個々を、加工品製造販売ビジネスのパートナーたちという集団に構成するという意味で「信長志向」だった。
近江商人は経営の範囲が広がると、個人企業から何人かが資本を出し合い共同企業(乗合組合)をつくるという近代資本主義の形態へとシフトした。
様々な企業家という自由に活動する個々を、共同事業者という集団に構成する、まさに「信長志向」の近代化だった。
明治以降は、多くの近江商人が共同企業を拡大する資金を集めて供給する銀行設立に参加している。
近江商人の台頭とその後の発展は、信長が押し進めた「環伊勢海を経済基盤として新たに成長しようとする新商業体制」が安土城下の町人地の商業流通拠点化によって「環伊勢湾経済圏」「環大阪湾経済圏」そして「若狭湾を介した日本海側経済圏」がネットワークされた成果であり、着実に日本商業と日本金融の近代化を用意していった、と言えよう。
文化人類学的には、そもそも戦争は交易の一パターンであり、ともに移動民と転住民が主役である。
また、貨幣の交換およびその際の価値評価は、今も昔も貨幣発行者の戦争能力や戦争結果と不可分の関係にある。
一方、農耕と年貢とその徴収によって成り立つ農本主義体制ないしそうした社会の側面は、すべて定住民を前提としている。
信長は、国内においては、農本主義体制の側面を安定化させて通貨としての米の価値を保証した上で、国家の主軸として重商主義体制を飛躍的に発展させた。
そこにおいて中心拠点としての安土城下の町人地と、後の近江商人に繋がる小幡商人が鍵となったことは間違いない。
さらに信長は、対外的に戦争を含んだ交易主義体制を拡張しようと唐攻めを構想していた。
そちらは政商的かつ貿易商人的な国際商人が関与したのだろう。秀吉がどの程度、信長の構想を踏襲したかは分からないが、朝鮮から戦利品として陶工などの当時の豪華商品を製造する職人を連れ帰ったことに彼らの存在が見え隠れするように感じる。
信長短命でその新しい国家建設の構想が頓挫したために真実は誰にも分からないが、
信長は、
中世を通じて、集団を身内で固める「家康志向」の元祖である公家に対抗して、武家と寺社勢力が国内外でそれぞれに展開してきた多種多様な「信長志向」の交易活動(戦争を含む)を、
一つの総合的な産業体制、国家体制として総括しようとしていた、
と私には思えてならない。