組織認識論を再読する (1)「日常の理論」と「スキーマ」とコンセプト思考術 |
この本は1988年に初版された「パラダイム論の原点」の書です。
著者は、まず序章において、経営者はじめ実務家の理論を学者の理論と区別して「日常の理論」と呼び、社会学者マートンの顕在機能と潜在機能を区別する考えを紹介します。
「顕在機能とはある行為あるいは制度にたいしていだく主観的な意味であり、
潜在機能とは、その社会的行為や制度がもつ客観的な『意図せざる気づかれない結果』である」
ということです。
(本論で最初にこのことに触れるのは、コンセプト思考術においてパラダイムを「考え方の基本的な枠組み」とし、パラダイムには意識のパラダイムと無意識のパラダイムがあって「世の中の問題性のほとんどは無意識のパラダイムがもたらす構造的な問題である」と解説しているからです。これはこの『意図せざる気づかれない結果』の内の無意識的な側面を重視すべしという主張で、マートンの意識的な側面を重視する主張との違いを明示しておきたかったからです。
しかし微妙な話ですが、意味を軽視する機能主義への偏りを払拭するという条件を付ければ、コンセプト思考術も「社会学的分析は、行為や制度に付与された主観的な意味(→送り手側論理における皮相的な意味)よりも、行為がもつ客観的な意味(→受け手側論理における画期的な意味)、つまり潜在機能に重点をおくべきだ」というマートンの主張を踏まえるものではあるのです。)
著者は、ここで重要な指摘をしています。
「この機能(客観的な意味)の発見にかんして、学者がより優位な立場にあることを前提にしている」ことに基本的な疑問があると。
「学者の見方も、時代の精神、学者自身の理論によって影響されているということを考えれば、学者の発見した結果が客観的であり、実務家のいだく意図が主観的であると主張する根拠はない」と。
(物事を短絡的に経営やマーケティングの学者の理論に照らすことを回避し、まずは独自のアブダクションやブレインストーミングの成果をうまく引き出そうとするコンセプト思考術も、同じ基本的な疑問から出発しています。)
マートンの主張は当時(1949)の社会学の「機能主義」という基本的態度を反映していて、60年代から70年代にかけての組織論はこの機能主義的な考え方をもとに展開されました。著者は、こうした方法論は「現実の制度が、その内部にいるひとびとの信念や理論によって支えられているという側面をまったく無視している」と批判し、「組織や社会のさまざまな制度は、その内部のひとびとの『日常の理論』をもとに、少なくとも主観的には合理的なものとして正当化されている」「制度はひとびとの『日常の理論』によって創り出されたものである」と「日常の理論」に着目します。
(著者は、「『日常の理論』は、企業を発展させる原動力になると同時に、企業の発展の障害にもなる」と指摘します。ここで擁護するのは「行為や制度に付与された主観的な意味」の内のあくまで積極的な側面です。具体的にはオペレーショナルな定義を欠くために機能主義から除外される徳などの概念です。)
そしてこのように総括します。
「経営学者はこれまで、『日常の理論』に代わるより普遍的で体系的な理論を展開することによってその期待に応えようとしてきた。しかし、『日常の理論』がどのようなもので、それがいかにして発展するかにかんしては無関心であった。」
「その様なメカニズムを明らかにできれば、競争的な淘汰に頼らずに、『日常の理論』をそれ自体として発展させるための方法が明らかにできるかも知れない。」
このような基本的な問題意識から、著者はパラダイム論を展開していきます。
序章で、「日常の理論」と学者の理論の違いについてこのように解説します。
「『日常の理論』は、実践的な必要から生み出されたものであり、一般妥当性という点にかんしては劣るかも知れない。事実、理論の普遍妥当性は実務家の関心事ではない。」
「『日常の理論』はすべての前提や命題が明示的に示されているわけでもないし、概念が明確に定義されているわけでもない。むしろ、曖昧さやとらえがたさは、『日常の理論』の特徴であり、利点でもある。」
つまり、「日常の理論」は、意識のパラダイムと無意識のパラダイムが渾然一体となった現実の理論であるということです。
(ちなみにコンセプト思考術は、あるテーマの現状に対して「日常の理論」を洞察しそこに問題を発見して、本来あるべき理想とそれを正当化する「日常の理論」を発想する手立として考案しました。)
次に著者は、第1章日常の理論と組織論で、かつて「日常の理論」の重要性を指摘し分析を行ってきた研究を展望し、それらの特徴と問題を解説します。
伝統的な組織論、コンティンジェンシー理論の特徴と問題
①相対主義の分析視角
「どのような状況のもとでも普遍的に有効な組織構造と組織過程が存在するという普遍主義と対立する視点」
これは次項のような機能主義で考えれば当然のことですが、人間が集団で営む組織について他の観点からすればある種の普遍的な理想主義を求めることもできます。
②機能主義と客観的な結果の重視
「ある組織構造や組織過程がどの様な意図で生み出されたかではなく、それらが、組織の生存にとって重要な機能をどの程度果たすことができるかという側面に注目」
「どんなに崇高な理念のもとに作り出されたものであっても、ある組織構造や組織過程をもつ組織の有効性は低下し、ついには競争によって淘汰されるであろうと主張」
「組織における制度や行為の主観的な意図、意味ではなく、それらの客観的な結果、機能に注目」
つまり、マートンのいう潜在機能に注目して機能的な分析を展開しました。
③全体論的な視点における組織の中の行為者の意思や目的の軽視
④静学的な比較分析
「組織がいかにして変わるかという問題には正面から取り組まなかった」
このことは意思決定と行動の同一視と両者の違いについての理解不足に通底します。
⑤中範囲の理論と実証主義
「壮大な一般理論ではなく、経験的なテストが可能な中範囲の理論を志向」
このことは測定可能な公式的な分業と権限配分のパターンとしての組織構造の改変重視に通底します。
コンティンジェンシー理論の限界に気づき、その限界を克服するために提出された一連の雑多な理論の集合体、
ポストコンティンジェンシー理論の重大な発見と課題
①組織の慣性力の存在
「組織構造と組織過程の間に適合的な関係が一旦できあがってしまったときに、組織の慣性力がもっとも大きくなる(チャイルド、1977)」
「ある種の組織は、外界からの脅威に対して、常に防衛的に対応するし、ある種の組織は常に攻撃的に対応しようとする。適応パターンの変更はめったに起こらない」
「この発見は、コンティンジェンシー理論が理想と考えた適合状態、整合状態が、現実の組織にとってはかならずしも望ましいものではないことを示す」
「一定の適応パターンが現れるのは、組織のなかでの問題の立て方が変わらないため(マイルズ&スノー、1978)」
②意識的な不均衡の有効性
「意識的な不均衡がときに『組織学習』を活性化し『日常の理論』を変える(伊丹、加護野、1986)」
ここで、なぜ問題の立て方は容易に変わらないのか、変わろうとすればどのような条件のもとで変わるのか、なぜ大きな不均衡があるときに「日常の理論」が変わるのか、といったパラダイム論の究明が求められます。
③組織文化の有効性
「コンティンジェンシー理論は、組織の中の直接に観察可能な特性、とくに組織構造と組織過程に、分析の焦点を合わせていた。しかし、組織の目に見えない特性が組織の情報処理に影響を及ぼすことが分かってきた。これを組織文化と呼ぶ」
「従来も、環境や仕事の特性に応じて適切な組織文化が異なる、組織文化と環境の間に不適合があらわれたときには、組織成果は低下し組織内に組織文化を変革するための適応過程が生じるだろうなど、コンティンジェンシー理論の発想に添う発見もあった」
しかしここで、人々によって「組織文化」がいかに内面化されるか、なぜ人々は内面化した文化に従うのか、どのような時に人々は内面化された文化を捨てるのか、といったパラダイム論の究明が求められます。
④人間関係論や近代組織論の限界性
「人間関係論は、集団規範が集団の行動にとって重要な意味をもつことを指摘したが、集団規範がなぜ遵守されるかについては、集団凝集性という目に見えない力の存在や、規範からの逸脱がもたらす社会的制裁の存在を指摘するにとどまっている」
ようは寄らば大樹の陰ということですね。
「近代組織論は、教育や訓練、あるいは社会化によって、組織の価値や規範が内面化されると考えたが、そのメカニズム自体はブラック・ボックスとなっている」
「組織文化の研究者は、文化人類学を参考にしながら、神話(クラーク、1972)、英雄(ピーターズ、1978)、儀式(ディール&ケネディ、1982)が組織文化の共有と内面化にとって重要な役割を演じることに気づいたが、それはなぜかという疑問には、ついに答えを与えることができなかった」
本書で著者は、以上のように自ら提示した課題に回答していきます。
これらの課題は、基本的には21世紀初頭の現代においても未整理のものがあり、日常的な課題として、私たち自身の「日常の理論」を刷新すべしと示唆するものであります。
ちなみに最後の④の課題について、著者は本書で回答していません。
終章で、
「創造的な問題解決あるいは企業家精神との関わりで重要な意味をもつが、本論では十分に議論できなかった問題は、感情や情緒の問題である」
「人々の認識過程は、感情や情緒と緊密に絡み合っている」
としています。
初版された1988年当時、「感情や情緒の問題は最近の認知科学のもっとも苦手な問題の1つである」とした上で、
「認識と感情の積極的な結びつきについての研究が進めば、創造的活動にとってなぜ情熱や執念が必要なのか、情熱や執念は情報探索の強度を強めるだけなのか、それとも他に働きをもっているのか、などの疑問に答えることができるかもしれない(金井、1987)」
という意見を紹介しています。
こうした課題は、21世紀初頭の現代において、1990年代に高度に進展した脳科学の知見をもって解決できるのでしょう。
そこで、神話、英雄、儀式などの「組織文化」も再体系化できるのではないでしょうか。
小生としては、こうした課題意識をもって、パラダイム論の原点たる本書を読み直した次第です。
本論では以下、パラダイム転換発想を誘発し深化させるコンセプト思考術との関係で鍵になる考え方を改めて抽出し整理しておきたいと思います。
組織認識論の分析視角
組織認識論は、情報処理モデルの限界を超克しようとするものです。
「情報処理モデルは、組織や個人の認識過程を、意思決定という中心概念によってとらえようとしてきた。しかし、情報処理モデルの概念装置では、組織における認識過程の複雑さを十分に捉えることができない」
著者は情報モデルの限界を解説しますが、それはおおよそ現代組織の抱える問題性であります。
「情報処理モデルの第一の限界は、「決める」「選ぶ」「解く」という認識過程に重点が置かれ、それに先立つ「見る」「知る」「分かる」等の認識過程に十分に注意が払われていないことである」
以上のことは、縦割りモノ割りのメーカーや役所の機能主義的な特徴であり、組織の構造的な問題でもあります。
「第二の限界は、情報処理モデルが、人間や組織を、その処理能力には制約があることを認めながらも、あたかもコンピュータのような合理的な存在としてとらえていたことである。」
「しかし、計算論理ではうまくいかないものがある。」
この前提は、組織に関わる人間が、交流分析心理学で言えば5つの自我状態の内の「大人Adult」の自我状態のみにあるということで古今東西の組織の現実から乖離しています。
「第三の限界は、組織における人間の認識過程が、それを取り巻く社会的な文脈と切り離して捉えられていたことである。その結果、組織の中で共有されたものの見方、集団の目に見えない圧力、集団や組織の規範などの認識過程への影響力が考慮できない」
このことは、集団が到達しようとする合意や結論に対して異議をさしはさむのがはばかられ極めて危険な行為コースが選択される「グループシンク現象」に対処できないばかりでなく、むしろ情報処理モデルが社会に一般化することによって、いまや「グループシンク現象」自体が無意識的に蔓延した社会が組織を規定しているかも知れません。
「第四の限界は、組織におけるものの見方や考え方の変化というダイナミックな現象に十分な注意を払っていなかったことである。これは、知識の獲得、組織学習の問題といいかえてもよい。」
「情報処理モデルは、組織学習が漸進的に起こると考えていた。しかし、漸進的な学習だけでは対応できない問題に直面することもある」
これは組織が既存のパラダイムに呪縛され、必要性が理解されていても容易にパラダイムを転換することはできないといった状況に対して無力であることを示します。
ちなみにコンセプト思考術は、モノの画一的な機能(数字と単位、型式やシステムで表現される内容)を土台とする<送り手側のモノ提供の論理>で現状を色眼鏡で見ることで、情報処理モデルが内包しそのパラダイムでは掬い上げることのできない問題を発見します。そして、コトの画期的な意味(抽象名詞や抽象句で表現される内容)を土台とする<受け手側のコト実現の論理>で本来あるべき理想という、情報処理モデルでは見出しようのない、つまりそれとは異なるパラダイムにある課題とその解決策を導出します。
「認識は2つの相互に関連し合った活動に分けることができる。
1つは、知識の利用の過程で、狭義の認識過程と呼ぶことができる。
第2は、知識の獲得過程であり、学習あるいは発展過程と呼ぶことができる。
組織認識論はこの両者を対象とする」
とした上で、著者は以下の議論ではまず知識の利用という側面に焦点を合わせます。
意味の決定と知識の体制化
「情報処理モデルは、人々は情報に反応すると考えていた」
「しかし、人々は情報に反応するのではなく、情報から引き出された意味に対して反応する」
ここで意味とは、「人々が主観的に想起する状態や事象」のことです。
そして著者は、「人々が情報を取り入れそれをもとにある一定の事象や状態を想起するプロセスを解釈過程あるいは意味決定(sense making)の過程と呼ぶ」とします。
そして、
「意味の決定は、受け取られた情報(フローの情報)と記憶のなかに蓄積された情報(ストックの情報)との選択的な連結の過程である」
「心的な表象の意義を強調するのは、現代の認知心理学の特徴であるが、心的表象は、認知心理学ではじつに多様な名称で呼ばれている。ここでは心的表象をスキーマと呼ぶ」とします。
そしてこう定義します。
「『日常の理論』はスキーマの集合体である」と。
そしてこう総括します。
「スキーマは個人の知識として蓄積された体制化された情報である。それは、情報を結び付け、関連づける情報である。
このように考えれば、人々がもつ知識は少なくとも2種類に分けることができる。
第1は、関連づけられる対象となる知識であり、
第2は、スキーマのように情報を関連づけるための知識である」
著者は、これは記憶情報におけるエピソード記憶と意味記憶に相当し、言語によって表現できないスキーマは「イメージ(心像)」と呼ばれることに触れます。
「スキーマの第1の機能は、情報処理の軽減である。
スキーマは、人々の外界から得る情報に対して意味を与えるのを助ける。
スキーマは、情報の選択的な連結の手段である」
このことは脳科学で論じる「志向性」(メタ認知やメタ思考を助ける)に関係します。
「スキーマは、それに合わない情報に対して選択的に注意を向けさせるという機能をもっている。典型的でない情報が含まれておれば、人々はそこに注意を向けることができる。
第2は、人々が新たな情報を探索するとき、探索の方向、注意の焦点を定めるという機能である」
このことは西洋人の注意や記憶が文脈自立型であり、東洋人のそれらが文脈依存型であるといった文化差による認識現象の違いなどに関係します。
「第3に、スキーマは、推論(アブダクション)や問題解決を助ける。
スキーマが存在することによって、僅かな情報から、状況についての判断や対応の手がかりをえることができることもある」
「第4に、スキーマは世の中、とりわけ社会的な事象についての予測可能性を高めるという役割を果たしている。」
以上のことは、社会心理学の帰属理論に関係します。
「帰属とは、行為者が他の行為者あるいは集団の行為に対して、それがなぜ起こったのかを解釈し、その原因を理解する活動である」
注意すべきは、第1と第2は脳が無意識的かつ継続的に行っている営みに関係し、第3と第4は意識的にかつ一時的に行っている営みに関係していて、後者はよほどメタ思考してコントロールしない限りは前者の延長範囲内に留まるということです。
悪い事態の原因は、組織の外部にある、組織内部にあるなら自分以外にあるとしやすいことや、一時的なものであって継続的ではないとしやすいこと、さらには自分も原因の一部であってしかも原因解消の見込みが立たないとなるとそもそも問題自体が存在しないか、問題が存在することは不可避であると決めつけやすいことが指摘されています。このような誤った原因帰属は、それを正当化するスキーマの存在によって確固たるものとなります。こうしたスキーマの弊害を「逆機能」と言います。
ちなみにコンセプト思考術は、<送り手側のモノ提供の論理>と<受け手側のコト実現の論理>で4つの概念要素を原因→結果の関係で組み立てて、問題ある現状パラダイムの洞察から本来あるべき理想パラダイムの発想へと思考を起承転結させるものです。これは、現状の問題の原因帰属を客観視すると同時に、理想を招来する原因帰属を客観的な納得性をもって仮説するという作業に他なりません。
「スキーマの逆機能の第1は、過度の単純化の弊害である」
「第2の逆機能は、スキーマの存在が新しい情報の取り込みを阻害するというケースである」
コンセプト思考術では、誰もが嫌う「コトの皮相的な意味」に行き着く<送り手側のモノ提供の論理>で現状を色眼鏡で見ることで、現状スキーマによる過度の単純化の弊害を明示します。そして、誰もが求める「コトの画期的な意味」から説き起こす<受け手側のコト実現の論理>という広い世間で当たり前のスキーマによって本来あるべき理想を目指す課題とその解決策を導出します。それは、情報取り込み阻害を回避する対策でもあります。
「適応的で創造的な企業は、行動偏向とも呼ばれるほどの能動的な行動志向性を持っている(ピーターズ&ウォーターマン、1983)」
「これは、行為を通じてより多くの情報を得ることができ,より豊かな意味の創造が可能になるからである」
特に十分なる暗黙知を得るには身体的な行為をともなった場への関与が不可欠です。
ちなみにコンセプト思考術は、あくまでパラダイム転換発想を目指すアブダクションやブレインストーミングを活性化するいわば机上論の手立てですが、そうしたフィールドワークを重視するものです。
コンセプト思考術の成果を、フィールドワークという観察行為を必要とする根拠とする場合がありますし、またフィールドワークで得た観察事項を解釈したり活用する仮説を求めてコンセプト思考術を展開する場合もあります。
具体的に例を上げてご説明しましょう。
先日、ニート女子が「シャドーイング」という職場体験をするレポート番組を見ました。この職場体験は、ある職場で多様な仕事をこなすキーマンに影のように従って様子を見続ける、そして質問があれば適宜にそのキーマンに質問する。そんなことを何日かする方法です。
受け入れる職場側にも、従来の仕事をさせる職場体験のように受け入れ準備が要らないので好評なのだそうです。そして体験者側も、用意された体験カリキュラムを独り黙々としていると職場全体をみる見ることができないのですが、これが影のようにキーマンについて見続けるだけなので万全にできます。
こんなシーンがありました。彼女は老人ホームの職場体験をするのですが、キーマンの方が老人を風呂に入れて体洗いを介助していました。ある所まではキーマンの方がしたのですがある所から老人に任せました。この後彼女はどうしてそうしたか聞きました。すると「自分で洗ってしまった方が早いけど、ご本人ができる所はさせることで身体機能や自分でする気持ちを維持することができる」との答えをもらいました。後でインタビューに対してキーマンの方が「自分が人から問われて初めて自分の働き方の意味を考えて分かることもある」と話していたのが印象的でした。つまり、「シャドーイング」される側にとっても気づきがあるということです。
このようなフィールドワークをすると「体験者は観察によって、職場や働き手本人の側ではほとんど無意識にしていたこととその理由をも学べる」「その中には本人にとって仕事の選択判断の鍵になる情報が含まれている」と仮説することができる訳ですが、コンセプト思考術はそうした仮説を、
従来の職場側が用意するカリキュラム体験型の職場体験を<送り手側のモノ提供の論理>で、
シャドーイング型の職場体験を<受け手側のコト実現の論理>で対比的に提示することで、
前者から後者へのパラダイム転換をより俯瞰した全体論として思考実験して検証するのです。
それは、職場体験とはこういうものだという従来の常識=スキーマに対して、新しい常識=スキーマを対置して見せるということに他なりません。
コンセプト思考術を活用するポイントは、上記フレームワークに記入する内容を(文法的ルールに従った上で)鍵になる最小限の言葉に厳選して、誰が聞いても単純明快に納得できる起承転結の文脈に組み立てることです。
こうして完成したコンセプトを見るととても簡単そうですが、実際に受講者が演習で自分で完成させるとなると最初なかなかうまくできません。
それは私たちが普段日常しているつもりの思考というものが、じつは、一般的専門的を問わず「みんなが知っている知識を一般化した組み立て方で話にする」ことであり、それは創造的な思考ではないことと関係します。この創造的ではない誰もが似たり寄ったりの結論を導いてしまう手順は、特に問題自体を自分で発見しなければならない時や、状況判断するにも必要な情報がなくまた何が正解か分からない時、つまりアブダクション(推量)が必要な際にまったく無力です。
まして現状の無意識のパラダイムを洞察しその転換を発想するコンセプト思考には繋がらない。なぜなら、「みんなが知っている知識を一般化した組み立て方で話にする」のであれば既存パラダイムに留まるからです。