今問われる日本人の「甘えと義理」(2:間章) |
今問われる日本人の「甘えと義理」(1)
http://cds190.exblog.jp/15390651/
からのつづき。
他者を経由する自己、その集団志向の2タイプ:「家康志向」と「信長志向」
前項(1)で検討したように、日本人に特有の「他者を経由する自己」とは以下の図のようなことであった。
こうした自己同士の関係が、「自己が相手と同じものになる」義理や、「〜してもらいたい」つまりは「相手に自分と同じものになってもらいたい」甘えを成立させる土台となっている。
日本人の集団志向は、「他者を経由する自己」同士の関係であることによって、日本人に特有のものとなっている。
そして、日本人の集団志向、そして集団独創には2タイプある。
「家康志向」=集団を身内で固める。
「信長志向」=自由に活動する個々を適宜に集団に構成する。
そして注意すべきことは、
いわゆる「世間学」や「義理や甘え」の研究者が前提にしているのは、ほとんど前者の「家康志向」である
ということである。
それは、260年の江戸の幕藩体制で「家康志向」が日本人の血肉化し、私たちが無自覚的に自然体でやってしまっているのがそれだから当然と言えば当然である。
中世までは為政者の支配原理としても活性化していた「信長志向」は、信長が体制の根幹として総括しようとしていたにも関わらず、その短命ゆえにそうはならなかった。
しかし、江戸の町人文化の担い手のような武家支配に対抗した者や、維新の立役者の坂本龍馬や勝海舟のような幕藩体制の限界を補完した者は、明らかに「信長志向」の有志たちであった。
「信長志向」の文化的遺伝子は、戦後のホンダやソニーなどの後に世界企業に成長するベンチャーの創業や、現在のジャパンアニメや東京カワイイ系ファッションなどに代表される世界に人気のサブカルチャーの草の根的発展に継承されてきた。
この「信長志向」の集団志向、そして集団独創も、日本人に特有の「他者を経由する自己」同士の関係が土台になっている。
私が重視しライフワークとして研究しているのはこちらであり、一般的な「家康志向」の「他者を経由する自己」同士の関係の有り方とは真逆の様相を示していることは、最初に断っておきたい。
たとえば著者は、こう述べている。
「この日本という国において、他者を経由しないでいたらどうなるでしょうか。あるいは、自己のうちに他者を経由させないとしたらどうでしょう。
日本には『長いものには巻かれろ』という素敵なことわざがありますが、その俚諺(筆者注:りげん=世間に言い伝えられてきたことわざ)に従わず独立独歩でいくとしたら、『つき合いの悪いやつだ』とか、『身勝手なやつだ』というように、世間の反発をかうことになるのは間違いないでしょうね」
確かにその通りなのだが、
「長いものには巻かれろ」という行動原理、人間関係原理は、集団を身内で固める<世間>を前提としている「家康志向」である。
一方で、言わば「みんな揃って長いものに巻かれてるだけではマズいだろう」「保身よりも大切にことに身を投じて出る杭として打たれても悔いはない」といった行動原理、人間関係原理もあった。
それが、自由に活動する個々として自らも参加し集団を構成してそれを自分たちの<世間>とする「信長志向」である。
そこでの「つき合い」は、地縁血縁のように幼心ついた時から死ぬまで自動的に続く受動的ないし依存的な「つき合い」ではない。主体的な意志と自由な意欲によって参加した者同士の能動的ないし自律的な「つき合い」であり、出入り自由な時には一過的ないし変容的なものとなる知縁志縁である。
「信長志向」の「つき合い」では、志を違えても一緒にいたり何かを一緒にするのは、「つき合いの良いやつ」とは看做されない。「自分の志を通さないやつ」「自分の信念がないやつ」として軽蔑される。
「家康志向」「信長志向」、両者の<社会人的な心性>は、ともにその根源を人類普遍の<部族人的な心性>に求めることができる。
どちらが良い悪い、優っている劣っているという問題ではない。
社会でも部族でも、どちらも必要不可欠で相反補足の関係にある。
問題はあくまで、一方に偏ったりどちらかが他方を排除すること、一辺倒化なのである。
集団を身内で固める「家康志向」の「長いものには巻かれろ」は、
自分と家族の生命を保全する「安全基地」を求める本能である。
自由に活動している個々を適宜に集団に構成する「信長志向」の「みんな揃って長いものにまかれてるだけではマズいだろう」は、
敢えて危険をおかしても狩猟したり新天地に向かう「冒険・探索」を求める本能である。
これらは人間だけでなく動物ももっている生存本能に他ならず、両者が相互補完的に連鎖することで種が保存されてきた。
人類は、その原初において家族移動する移動民であり、それが集団で転住する転住民となり、やがて定住する定住民が生まれ定住社会が生まれてくる。
しかし同時に、移動民と移動民的ライフスタイル、転住民と転住民的ライフスタイルも残り、定住民と定住民的ライフスタイルと三つ巴で役割分担と相互補完をすることで人類は種を保存し生存域を拡大してきた、と言える。
人類普遍の<部族人的な心性>として、<異界との重なり領域>における外なる者との交易がある。当初は沈黙交易やポトラッチのような祝祭時空で展開した。そこには外なる者を歓迎することで内なる者同士では得られない物事を享受することへの期待や喜びがあった。
来訪神、マレビト(稀人・客人)を敬う感性は古今東西ある。
私はこれこそが、「みんな揃って長いものに巻かれてるだけではマズいだろう」という行動原理、人間関係原理の端緒だと考えている。
そして、定住する部族や社会の構成員のほとんどが定住民である以上、大方が「長いものには巻かれろ」であって当然である。そうしないと定住共同体が存立しないしその秩序が安定しない。
しかしだからと言って、それで部族や社会が維持発展するかと言えばそうではない。
そこで「みんな揃って長いものに巻かれてるだけではマズいだろう」という考え方や感じ方も容認された。つまり部族や社会の定住民も、自分は<異界との重なり領域>を行き来する移動民にはならないし、<異界>に新天地を求めて向かう転住民にもならないが、そういう者がいてもいいと容認した、否むしろいて欲しいと期待した。異なる考え方や感じ方やライフスタイルの者を並存させて役割分担と恊働連携をしなければ、部族や社会を維持発展させることができなかったからである。
今、盛んに言われる「ダイバーシティ=多様性」の大本はこんなタンジュン明快な<部族人的な心性>から始まっている。
つまり、多様性を認めない集団や組織や社会は衰退する、というのが人類普遍の摂理なのである。
人類普遍の<部族人的な心性>は、現代人の場合、深層心理として潜在し、環境や条件によって活性化され意識化され、その内容によってある方向性の言動が促される。
私が日本の企業社会で体験的に捉えたことに以下のことがある。
日本ではおおよそ1991年にバブルが崩壊し、2001年にITバブルが弾けた。
それまでの企業社会では、日本型経営の各業界大手企業を中心に、
◯敢えて危険をおかしても狩猟したり新天地に向かう「冒険・探索」を求める本能の先鋭化
◯自由に活動している個々を適宜に集団に構成する「信長志向」による
事業部門横断や異業種異業界恊働、異端社員や異なる観点の外部ブレインの活用
◯「みんな揃って長いものに巻かれてるだけではマズいだろう」という気持ちを共有した、
外向きオープンな人間関係や専門分野の垣根を越えた自由な連携による未知の不確実な可能性の追求
といったことがセットで活発だった。
ところが長引く平成不況のもと、それまで日本型経営をしてきた各業界大手企業を中心に、短絡的に日本型経営をその美点もろとも全否定しアメリカ型グローバリズムを標榜した機械論的合理化をする動きが蔓延していく。
結果、企業社会では、
◯自分と家族の生命を保全する「安全基地」を求める本能の先鋭化
◯集団を身内で固める「家康志向」への一辺倒化による
事業部門分断経営(相互不干渉)や専門分野タコツボ化の中での産官学共同、社内の異端排除や異なる着眼や意見の外部ブレインの敬遠
◯「長いものには巻かれろ」という気持ちを共有する、
内向きクローズドな人間関係で専門分野的にも慣れ親しんだ縄張り分野での既知の確実な可能性の追求
といったことがセットで活発になった。
問題は、「家康志向」への一辺倒化が企業社会にとどまらずに、日本社会全体の動向になっていったことである。
たとえば官僚社会は、もともと縦割り行政や省益優先の縄張り争いなど「家康志向」一辺倒化の弊害が指摘されてきた。しかしバブル期に向かって、民間活力の活用(1986年民活法)や地方における第三セクターの促進など「信長志向」も合わせ技するようになっていた。ところがバブル崩壊とともにこれを後退させた。確かにそれらが、バブル経済下の風潮に流され非現実的な想定を下に計画が策定されたことや、全国一律のハード整備など反省すべき点が多々あったのは事実である。しかし、その反省点を正してやり方を改善したり革新することなく、内需拡大という立法目的を達成したとして打ち切ってしまった。そして、「民に出来ることは民に」という構造改革に舵を切っていった。これは「官のすべきことは官でする」という「家康志向」一辺倒化への逆戻りであった。
「家康志向」一辺倒化の弊害として、企業のプロダクトというアウトプットが送り手側の都合でかつ業界横並びのためまったく受け手側のニーズに対応せず、経営悪化や業界低迷に拍車をかけた業界大手が多々あった。
素人目にも分かる典型例としては、大画面テレビの3D化を大手家電メーカーが横並びでやって不発に終わる、ということがある。家電量販に行って専用メガネによる体験型の商品展示がなされているの見た人は多いだろう。一方、3Dテレビを誰かが買うとか買ったという話を聞いたことはどの位あるか思い出してほしい。
頭がいい優秀とされるエリートたちほど、素人目にも分かるあまりに近視眼的な暴挙を自分たちの言い分を身内で正しい正しいと言い合ってやってしまう、ということがある。集団を身内で固める「家康志向」に一辺倒化した組織では、保身にとらわれずに「そんなモノは売れる訳がない」と言い放つ人材がいなかったりいても口を噤んでしまうのである。これは、自由に活動している個々を適宜に集団に構成する「信長志向」を排除した弊害に他ならない。
日本型経営において両志向の合わせ技の知識経営が行われた以前であれば、まず疑問を抱いた経営トップが待ったをかけるか、周囲の状況から言いにくい場合は社内とは異なる観点をもった外部ブレインに言わせる、という展開があった。もし私がその役割を依頼されていたら、理屈で説得するのではなく、開発責任者に想定ターゲットを提示してもらって、それに相当するモニターを集めてヒヤリング調査をした。なぜなら、そうすれば現実に家電量販の店頭で体験型展示に靡かなかった想定ターゲットの反応を事前に生に目にすることができたからだ。(よく外部ブレインを、専門知識の塊と決めつけ、その位の知識ならオレの方があると見くびる人がいる。しかし外部ブレインは、専門知識で勝負している訳ではない。あくまで外部からの観点で内部からの観点では見えないことを見せる職能、外部の立場で内部の立場では言えないことを言う役割なのである。)
「家康志向」一辺倒化の弊害である、本来優秀な筈の人たちがおかす身内の考え方や感じ方だけで凝り固まった優秀とは言い難い過ちは、企業社会だけでなく官僚社会や学校社会そして日本社会の全体で、もっと重大なことで繰り返されていった。
学校社会では、イジメられて自殺した生徒が遺書にイジメられたと書き遺しても、学校や教育委員会が、生徒の自殺とイジメの因果関係は不明だ、と公式見解を出したりした。これも一般市民の多くは、優秀な筈の人たちの身内の考え方や感じ方だけで凝り固まった優秀とは言い難い過ちと捉え、第三者委員会の設置が要請されるという動きになった。
第三者委員会は、 利害をもつ当事者とは関係の無い第三者による委員会であり、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」である。
本来の日本型経営は、知識経営としては、「家康志向」と「信長志向」の合わせ技だった。
私には、それを「昔は良かった話」にとどめるのではなくて、骨太の創造的な人間関係原理、集団独創原理として現代的に再生することが日本社会の多方面で急務になっている、と思えてならない。
このことは非力な私がわざわざ強調するまでもない。
創造的かつ挑戦的な実践をしてきたエクセレント企業や、
官僚主義的なお役所仕事や縦割り行政では行き届かない弱者への対応に専念するNPOやボランティア組織など、
「信長志向」を成功裏に実践してきた人々がいる。
たとえばサブカルチャー系の業界企業は、江戸時代の町人文化の文化的遺伝子を継承するのか、自由に活動している個々を適宜に集団に構成する「信長志向」であるし、いわゆるベンチャーの起業は原理的に起業家たちによる「信長志向」から出発せざるを得ない。
いわゆる「空白の10年」「空白の20年」に起業したベンチャーで急成長した新興企業は、日本人の集団志向を自然体で現代化していて、現代の諸事情に即応した形の「家康志向」と「信長志向」の合わせ技をそれぞれ個性的に展開している。
さらに、ユニクロやニトリなど国際的にも事業展開する成長企業や、バブル崩壊後こぞって日本型経営を短絡的に全否定する各業界大手にあってトヨタやIYグループ(セブンイレブン)は例外的に、日本型経営の強みだった「家康志向」と「信長志向」の合わせ技の知識経営を解消せずにむしろ現代化・世界標準化する形で発展させた。
「信長志向」の組織知識創造の中核的手段とは何か。
経営トップが外部ブレインを抜擢して直轄プロジェクトで活用することはよくあったし有効な手立てでもあったが、経営トップの資質に左右されるため、やる人は積極的にやるがやらない人は全くやらない。つまりは組織知識創造の普遍的な中核手段とは言えない。
この点、野中郁次郎氏は、日本型経営の組織的な知識創造ダイナミズムとして「ミドル・アップダウン・マネジメント」を指摘していることが注目される。
これは、ナレッジマネージャー(ないしナレッジエンジニア)としてのミドルが、トップの意味的メッセージを現場エキスパートに向けて機能的メッセージに変換して伝えたり、逆に後者の機能的メッセージを前者に向けて意味的メッセージに変換して伝えたりする、というものだ。
これが垂直方向のナッレッジマネジメントとすると、彼らの中には水平方向のナッレッジマネジメントも行う「信長志向」の者がいて、事業部門横断の連携や異業種異業界との恊働や外部ブレインの活用を推進した。
「信長志向」の組織知識創造の普遍的な中核的手段はこれだった。
ところが、日本型経営を短絡的に全否定した企業はアメリカ型のグローバリズム経営と称して組織を機械論化するばかりのフラット化をした。フラット化とは、前述したような日本型経営にあった組織の上下左右と内外のナレッジのネットワーカーであったミドルを「中抜き」と称して一掃するものだった。
当時、現場への権限委譲、ということがよく言われた。それは、与えられたノルマを達成するための自由裁量でしかなく、ノルマ以外のことは考えるなするなという人材の機械部品化が前提であった。結果的にどうなったかと言うと、機械論化した組織と機械部品化した人材でこなせる仕事しかできなくなり、そういう仕事によるアウトプットしかプロダクトにならなくなってしまった。
ちなみに、ソニーはバブル崩壊後の長引く平成不況において世界的に成長した例外的な家電大手メーカーだった。短絡的な日本型経営の全否定をしなかったエクセレント企業だった。しかし2003年のソニーショックから変わっていった。アメリカ型のグローバリズム経営に舵を切り組織の機械論化と人材の機械部品化を進め低迷を長期化させた。
たとえば、市場を創造して先行していたロボット事業から撤退した。その最大の理由は成長性を見込めないことだった。しかし、その後のロボット市場やAI市場の興隆は誰もが知るところである。ロボット事業の生みの親の幹部はグーグルに転職し、開発スタッフは仲間で起業した。それは、彼らが社内で排除されたソニーの「信長志向」の文化的遺伝子を継承した、ということでもあった。
ソニーの「信長志向」の成功譚としては、ソニー・コンピュータ・エンタテインメント(SEC)の起業と世界的企業への成長が秀逸だろう。ゲーム市場への参入は社内の「家康志向」でやっても勝算はないと考えた経営トップが、ソニー本体とは切り離した子会社としてベンチャー的に事業を立ち上げて、広い世間の自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」を展開した。
このような成功譚があっても、いったん「家康志向」への一辺倒化が始まると「信長志向」はいろんな理由をつけて排除されてしまう。「選択と集中」だの「スクラップ&ビルド」だの「過去の成功物語に固執するな」だのいろいろな理屈をこねて正当化されるが、排除者の本音は経営陣レベルから現場レベルまでそれぞれの保身や生き残りや足手まといと看做しての切り捨てであった。つまりは、そうした利害の一致者による「長いものには巻かれろ」の空気全体主義、要は反知性主義なのだった。
だが、一番の問題は、「家康志向」一辺倒化が招く組織と人材の「内向き・後ろ向き・上向き」の実態が、長い目でみれば「長いもの」と思ったものを「長いもの」ではなくさせていく、つまりは自滅に向かわせることである。
首を切った者がいずれ切られる側に回って本人にとって「長いもの」ではなくなる。
あるいは「長いもの」が「短いもの」となりついには「無きもの」になったりする。
そうなった時に、事ここに至ったそもそもの遠因なり分水嶺なりがどこにあったかを問えば、「信長志向」の排除に遡るのである。
部族や社会が維持発展するためには、「みんな揃って長いものに巻かれてるだけではマズいだろう」と、敢えて危険をおかしても狩猟したり新天地に向かう「冒険・探索」を求める本能を失ってはならないのである。
ここで、
家電大手が「家康志向」一辺倒化の中でテレビの巨額設備投資など、目論みが外れたら会社が確実に傾くと分かっている大ばくちに出たことは、けっして新天地に向かう「冒険・探索」ではなかった。それこそ「過去の成功物語への固執」だった
ということを確認しておきたい。
新天地とは、未知の不確実性としてゼロから1、1から10へと向かうものである。いいテレビを世に出せば売れる筈だ、というのは過去の確実性の亡霊を現在に蘇らせているだけで、まったく新天地になど向かっていない。
目論みが外れたら会社が確実に傾くと分かっている大ばくちは、時に打つ決断をする必要がある。ただしそれは、成功したら着実に新天地が切り拓かれるという仮説に確実性があるものでなければならない。次のテレビの新製品が売れたとしてそれは過去を延長した延命でしかなかった。それは新天地ではない。
目論みが外れたら会社が確実に傾くと分かっている大ばくちだが、成功したら着実に新天地が切り拓かれるという仮説に確実性があるもの。
それは、典型的にはソニーが先行していたロボット事業に将来的な成長性を見込んで撤退ではなく逆に投資をすることだった。ソニーはゲーム事業をSECという子会社からベンチャー的に立ち上げて成功した。その文化的遺伝子として「信長志向」を踏襲してロボット事業も子会社化し、そこに外資ベンチャー企業の投資を仰いでコラボするという手立てもあった。そのことを生みの親である幹部のグーグルへの転職は示している。なぜアメリカ型のグローバル経営に舵を切った筈のソニーがそれができなかったのか。つまりは、「家康志向」一辺倒化がそれを妨げたのである。
なお企業社会全体の話として、組織が機械論化し人材が機械部品化されると、人材の側もどんな業界のどんな会社へでも交換される部品としてエキスパートになろうとするようになった。
国の政策も人材の流動化としてそれを促している。
しかし、組織の機械論化と人材の機械部品化は、守備範囲の狭い決まったルーティンをノルマとしたり、企画や開発でも既知の確実性の高い(*正確には確実性が高いとその業界でされる)試みしかさせなくなるため、若くて安い画一的労働力を求めるようになる。要は、人材の使い捨て体制になっていった。
(*たとえば自動車業界は猫も杓子も運転の自動化に躍起で、運転の自動化は達成され市場化するということが既知の確実性の高い話となっている。しかし、それは先の話であって、しかも競合は今から活発化している。一方、長距離高速バスの事故が社会問題化していて、バスが高速道路の車線からはみ出さないスピードの出し過ぎを抑えるといった、運転の自動化に比べればローテクで達成できるソリューションのニーズがある。また、主に高齢者によるアクセルとブレーキの踏み間違えによる各種店舗への突入も多発している。これも店舗側に何らかの発信装置的なものをつけて、近づいたクルマの受信装置的なものと連動して運転の誤操作をさせない、そんなローテクで達成できるソリューションのニーズもある。自動車業界にはこのような現下の社会的ニーズに応える企画や開発が求められる。しかし、こうした発想や取り組みが抑制されてしまうのが、組織の機械論化と人材の機械部品化の弊害なのである。)
組織が機械論化し人材が機械部品化すると求められる知識や情報が細分化しかつ画一化する。すると、後から新しい知識や情報をもって社会参加してくる新入社員や海外からの外国人社員や海外現地法人への現地採用社員など、人材競合が量と質の両面で苛烈化していった。
かつてはリストラと言えば50代以上の年配者というのが相場だった。それが30代40代でも同じような知識や情報の持ち主である人材がダブつくから整理されてしまうようになった。
これに時期的に重なって非正規社員の拡大が国策として進められた。
こうした動向の中で、人々の間で就労機会の獲得と保持をめぐる競争圧力が日常的に高まっていったことが、人々の保身や生き残りの意識を苛烈化させ、集団を身内で固める「家康志向」一辺倒化にいっそう拍車をかけたことは間違いない。
さらに日本の社会全体、つまりは国という観点からは、バブル崩壊後の長引いた平成不況において、アメリカの要請に応じた政策的な国内公共事業の無駄含みの拡大もあり、もともと「家康志向」の最右翼であった官僚社会がその一辺倒化を行政主導的に各種業界と全国自治体に対して展開した。
その弊害が、現在最大の社会問題である原発人災や、国民の過半が望まない原発の再稼働を推し進める原子力ムラの政官財の結束にも繋がっている。東日本大震災のために集めた復興税がとんでもない地方のまったく復興に関係ないことに使われている、なんてこともその弊害が可能にしている。
また、同様の政官財の結束の軍需ムラが軍拡を推し進めれば、日本国民の生活や人生を危うい方向に向かわせる結果を導くかも知れない。
政治的な論議として戦前回帰が懸念されているが、私は日本人の集団志向の観点から、戦前の最大最強の官僚体制である軍部が先導した政官財報道の翼賛体制のような「家康志向」一辺倒化の弊害の現代的な極まりを懸念するものである。
いずれにせよ、日本社会の膠着状況を打開するにも、日本国民の生活や人生を危うくするような暴走を防ぐためにも、オープンかつフェアな形で「信長志向」が展開することで「家康志向」一辺倒化を喰い止める必要がある、ということは日本の歴史が教えている。
(こうした国家レベルの「家康志向」一辺倒化については国民として大いに監視し問題あればその都度批判していかなければならない。
ただ日本人の場合、古来、単一民族幻想に基づいた純血主義というまさに「家康志向」一辺倒化の状態にある精神構造がある。それは日本人が「家康志向」一辺倒化に容易に向かいやすい潜在的な土台であると考えられる。
そこを改めることは遠回りでかつ困難のようだが、じつは歴史を顧みれば、統一国家としての日本のそもそもの始まりであるヤマト王権がその創成期には、自由に活動するさまざまな由来の渡来人勢力を適宜に束ねていったという「信長志向」を周知の事実として確認できる。日本と日本人の起点においてインターナショナルな「信長志向」が介在していた史実の再認識は、必ずや現代の日本人がかかえる諸問題について深い示唆を与えるに違いない。)
「家康志向」という<社会人的な心性>のベースは、古来「定住社会」のパラダイムと「農本主義」のメンタリティである。
現代日本の商業や工業と言えども、業界を代表する大手企業とそれを管轄する国の省庁は、集団を身内で固める「家康志向」はもともと根強い。それは何も戦後日本の高度成長を支えた行政主導の護送船団方式といった一時期の動向に留まらない。
歴史を振り返れば、
「定住社会」のパラダイムが「移動社会」や「転住社会」のパラダイムを排除する、
「農本主義」のメンタルモデルが「交易主義」のメンタルモデルを排除する、
そういう一辺倒化の空気全体主義が最終的に組織を硬直化し社会を膠着化させる結末を呼び寄せてきた。
そういうことが日本では古来からあって戦後日本でも現代日本でも繰り返されてきている。
「農本主義」のメンタルモデルのもっとも象徴的な展開は、日本の役所(官僚社会)、学校(学校社会)、会社(企業社会)、つまりは日本社会全体が春(四月)とともに始まる年度単位で活動を円環的に反復していることである。
それは稲作農耕のタイミングでありリズムである。年度の切り替わりが滞りなく進むように活動の維持や改変が行われている。それは、私たちは当たり前とも思わずにやってきているが、日本ならではの習わしに他ならない。
たとえば、年度の後半は次年度の事業計画と予算編成、次年度の人事と異動に備えた引き継ぎ、年度の前半は更新された人事の地ならしと事業計画の発進と推進、これが日本社会全体の行程になっている。
この行程は、
4月頃(本代かき 田植え)
5~6月頃(草刈り・中干し)
8月~9月頃(稲刈り)
10月以降(たい肥と稲わらのすきこみ)
2月(種もみの準備)
3月頃(播種や育苗 元肥の散布 荒代かき=田の準備)
という稲作の行程に重なる。
日本の根幹をなす省庁と業界大手で繰り返される天下りも「定住社会」のパラダイムと「農本主義」のメンタルモデルにある。
天から地に下るという垂直軸は「定住社会」を前提にしていて、天下る元官僚はお上の恩恵を企業にもたらすパイプ役であり農耕文化における豊穣神やその降臨に重なる。
しかし、水平軸で新天地を求めて転住する転住民の「転住社会」では、こうした前提が成立しない。また「転住社会」は広義の交易(戦争を含む)の拠点(戦争においては敵と対峙する橋頭堡)であり<異界との重なり領域>という側面が濃厚である。そこに(軍事官僚以外の)一般官僚は左遷されることはあっても垂直軸で天下ることはない。
ちなみに移動をルーティンとする移動民の「移動社会」は、家族が暮らす拠点を持っていて、定住民の「定住社会」同士をネットワークする役割を担う。(中には平時は海運に関わり戦時は水軍となる民もいた。近代国家ではそうした階層は解消したが、太平洋戦争で民間船舶が兵站輸送に駆り出されるなど構造的な相似が認められる。)
しかし移動民の「移動社会」の本質は拠点ではなく移動媒体であって、そこには官僚が左遷されることも垂直軸で天下ることもありえない。古来、水軍の民が時の政権から自由な存在だったことは、中央集権の官僚体制が支配下におけなかった構造を示している。支配下におけないところに官僚の天下りはあり得ない。
「信長志向」「交易主義」「転住社会」そしてその「義理」について
「転住社会」のパラダイムは古来「交易主義」である。
資本主義の産業革命以前の王権の絶対主義体制下の貿易や戦争を通じて貴金属や貨幣を蓄積して国富を増す「重商主義」も、現代の国家を凌駕する存在感を高めてきた「グローバリズム」もその文脈にある。
当たり前のことだが、交易は、国が発生するずっと以前に発生している。ということは人類の歴史においては「交易主義」の根源性と大筋での一貫性は否定しえない。
ヤマト王権の初期勢力は日本列島における統一国家を形成していった。
一方、これに対立して滅ぼされた出雲は、(朝鮮半島東岸や沿海州沿岸を含む)環日本海交易ネットワークのハブ拠点として交易同盟の盟主であったという捉え方がある。
ヤマト王権の軍門に下る前の出雲のような交易拠点は、同盟する他の交易拠点から異人商人が集合して交流する<異界との重なり領域>であった。遠隔地からきた交易相手は異なる天なり神なりを尊崇しそれぞれに国から自立した存在であったため、どこかの国の天下り人がもつ威光なぞ通用する余地はなかった。
天下りは基本的には「定住社会」のパラダイムでのみ成立し、天下り人の威光は「農本主義」のメンタリティにおいてのみ有り難がられる。(その原形は、中央での地位にあぶれた末端の皇族が地方豪族に同化した機種流離譚なのかも知れない。)現代で言えば、東大卒というだけではグローバルな世界で通用しないことと重なる。
文科省は、義務教育過程から世界共通語としての英語を話せるようになればグローバルな人材が育つと言う。
確かにその通りなのだが、
グローバルな世界とは、国家を凌駕する<異界との重なり領域>のネットワークのことであり、特にその内の低コンテクストな交易だけを前提とするものである。だから、低コンテクストな交易に適した英語が世界共通語とされる
という前提を理解しているのだろうか。
私には東大卒の官僚がグローバリズムを積極的に導入していることが不思議でならない。タンジュンに言って日本の財界がグローバル化すれば天下り先がなくなる。東大が一流というのも日本ローカルに限られた高コンテクストである。さりとて彼らが省益や保身を度外視しているとも思えない。
同様に、電波利権のお陰で独占的に事業展開している民放テレビキー局がグローバル化を目指す政官財の動きに同調しているのも不思議だ。グローバル化の暁には電波利権など競争疎外要因として撤廃されるからだ。まず似たり寄ったりの民放数社は、家電メーカーの液晶テレビ部門やパソコン部門が統合する動きと同様の統合化をすることになろう。そして米資本の英語テレビ局(字幕と副音声で日本語で視聴できる)が開局するのだろう。民放テレビキー局には公私立の一流大学の出身者が多いが、彼らはこうしたことを予測して会社と自身について展望をもっているのだろうか。
日本で「グローバル」という言葉を世間で聞きはじめたのはバブル期だった。
バブル期までは「インターナショナル」という言葉の方がよく使われていた。
ここに重要な鍵がある。
「インターナショナル」は、国家間を跨いだ、という意味合いで遠隔地交易の一つの側面である。
「グローバル」は、国家を凌駕した、という意味合いで遠隔地交易のもう一つの側面である。
出雲は「グローバル」を志向し、ヤマト王権は「インターナショナル」を志向した。
鎖国政策において長崎の出島を海外との交易窓口とした徳川幕府も、御法度の密貿易をした薩摩藩も「インターナショナル」を志向した。
「海外貿易などをしながら、船でのんびり世界を見てまわりたい」「世界の海援隊になる」と言ったという逸話のある坂本龍馬は個人としては「グローバル」を志向したのかも知れない。
「インターナショナル」は相手国と自国を跨いだということなので、基本的にはどちらかの国の言語が共通語となる。この場合、相手国の商人と自国の商人の人間関係こそがインフラとなる。その信頼関係においてお互いに売り手になり買い手になる。
一方、「グローバル」は現代の国際金融が典型だが、世界市場というテーブルがインフラとなり、様々な売り手と買い手が条件をマッチングさせて取り引きを成立させている。取り引きした者同士は顔見知りである必要はないし、ネット証券の株取引と同じで条件入力しておけば自動発注システム、自動受注システムなど人間である必要すらない。
低コンテクストな取り引きだから世界共通語としての英語が必須とか言っているのは今の内で、AIが発達すればタンジュンな低コンテクストな取り引きはすべて機械化されていき、人間が介在するのは、たとえば経営破綻した日本メーカーを台湾メーカーと中国メーカーが競って買収するような高度な判断や交渉を必要とする取り引きに限られてくる。そうなると英語を話せるかどうかなど些末な話で有能な通訳をお互いが使えばいいということになる。
このような展望に立つ私は、文科省が英語教育に熱心なのは、グローバルな人材を育成したいからではなく、ほんとうは英語、特にアメリカ英語を日本の第二の共通語にしようとしているのではないか、と推察している。
タンジュンな低コンテクストな取り引きができる程度の英語力を日本国民の大方が持てばどうなるか。日本が参入障壁のまったくないグローバルな世界市場というインフラになるのである。
「インターナショナル」が古く「グローバル」が新しい進んだ概念だという誤解が一般的にある。
そうではなく、両者は異なる交易パラダイムとして並行して存在してきた。
大国主という交易ビッグマンが支配した出雲という環日本海交易ネットワークのハブ拠点は「グローバル」志向だった。
それは、日本最古の事例であり、ヤマト王権の初期勢力が統一王朝を樹立する前の話だから、日本においては国家を凌駕するもなにもない。しかし同様のハブ拠点が朝鮮半島東岸などにもあり、そこはそこの交易ビッグマンに率いられた国家から自立した存在だったと考えられる。
私個人的には、出雲と交易同盟を結んだ朝鮮半島東岸と沿海州沿岸の交易拠点、これらを支配した交易ビッグマンは国家の滅亡や戦乱を逃れてその地に来った遺臣や政商のリーダー的中国人で、拠点を行き来した遠隔地交易専門の商人たちは各地からの出身者で貿易交渉の共通語として中国語を話したのではないかと想像する。
商材は遠隔地交易の海上輸送の能力で安全に運べてそのコストに見合う儲けを上げられる比較的小さくて軽い宝飾品などの貴重品で、それは購買能力からして中国の王朝の支配層や富豪への御用達品であったと考えられる。
出雲が具体的にどのようなハブ拠点インフラをもっていたかについては、他のブログ記事で仮説を論じている(「出雲大社への旅の道すがらの雑考(7:結論 その5 仮説総括/前半)」http://cds190.exblog.jp/22729362/) が、神門の水海という水深の浅い内海に船を出典ブースとして浮かべた水上見本市をしたり、その周辺の川の上流の四隅突出型古墳をステージにした王朝祭祀の万博をしたのではないか。さらに同盟拠点の交易ビッグマンたちが種類の異なる宝石を持ち寄りアッセンブルして完成品にするという恊働ビジネスモデルを展開したのではないか、と想像逞しくしている。
私が想像する出雲の「グローバル志向」とは、具体的には以上のような活動である。
無論、私の想像は想像でしかない。
しかし、ブース出展者が集合する見本市と、デモンストレーションを見たビジネスマンたちと見せたビジネスマンたちが売り買いのマッチングを自由に交渉するメッセ、といった交易インフラの原型は、すでにヤマト王権成立よりずっと昔から中国にはあった。それは、交易で栄えた都市国家がその城塞の中の広場で主催した中央市である。後世、そのノウハウが中国人の交易ビッグマンによって出雲を含む環日本海交易ネットワークの拠点インフラとして展開した、と考えることはまったく無理はない。
ちなみに「ビッグマン」とは、文化人類学の用語で「経済的手腕を発揮し、集めた富を人々に分け与えることにより抜きんでた人」のことである。
部族においてビッグマンは族長や祈祷師のように世襲ではなく実力で選ばれ、ふつうの部族の構成員と同じような生活をする。
日本人の私たちに馴染み深い「ビッグマン」は、清水の次郎長のような江戸時代のヤクザの親分で、地方都市ならば戦後昭和までいた地域の土建や興業を取り仕切った顔役である。
ようやく話題が「義理」に戻ってきた。
私は前項(1)で、日本人の「義理」は漢字で書くが、中国語の「義」や「理」のような<社会人的な心性>とは異なる、もっとプリミティブな<部族人的な心性>である、という主旨を述べた。
著者が指摘する「義理とは何か」の結論はこうだった。
「相手の意向をそのまま自分の意向として受け入れること」
それはどのようにして可能かというと、
「自分を相手に合致させてひとつになる」
「相手と同じものになる」
ということだった。
その分かりやすい例が、自分が原因で相手に与えた喪失感度と同じ喪失感度を自ら負う、ヤクザが指を詰めて落とし前をつけることや、武士が腹を切って詫びることと述べた。
これは負い目感情を相殺する贈与のやりとりである。交換ならば慰謝料のように相手の損害を購うやりとりをする。
よって「義理」は、交換を前提とする<社会人的な心性>が生まれる以前の、贈与を前提とする<部族人的な心性>に由来すると考えられる。
そうのように考えた私だったが、一つ大きな疑問が残った。
なぜそのような人類普遍の<部族人的な心性>に由来する「義理」が、「義理」という漢語で表現され漢語の発音を誰もがしてきたのだろうか。
漢語や漢文の素養のある武士や武士に仕えた僧侶が言い出したのだろうか。しかしそうだとしたら、「義」や「理」のようなロジカル性やイデオロギー性を欠いている日本人の「義理」の実態に対してあまりに不自然な漢語の借用である。
そこで歴史を遡って「義理」の関係性を探していって、ヤマト王権成立以前の出雲のヤクザの親分のような存在である「交易ビッグマン」に行き着いた。
環日本海交易ネットワークの出雲や朝鮮半島東海岸や沿海州沿岸の拠点を取り仕切った交易ビッグマンは中国人か中国語を共通語として話す者だった。
そして彼らが、交易ビッグマン同士が同盟を結んだ関係性のことを、中国語のいわば業界用語として「義理」と表現した、それが始まりだった、と考えられる。
具体的にはこういうことである。
交易拠点のネットワークを行き来して貿易する商人たち同士は、交換のやりとりをする。その関係性に「義理」は必要ない。
しかし、交易拠点という場を交易ネットワークの拠点として成立させる交易ビッグマンたち同士は、贈与のやりとりをする。その関係性に「義理」が欠かすことができなかった。
たとえば、交易ネットワークという全体価値があってこそ各交易拠点という場の部分価値も成立するのだから、交易拠点Aの交易ビッグマンAが交易拠点Bの交易ビッグマンBに損害を与えたら、交易ビッグマンAは交易拠点Bと同じ喪失感度を自ら担うことで同盟を維持した。
さらに、交易拠点Cの交易ビッグマンCが内外の敵から攻められた場合、交易ネットワークの全体に類が及ぶから交易拠点Aの交易ビッグマンAと交易拠点Bの交易ビッグマンBはいわば集団的自衛権を発動して交易拠点Cの交易ビッグマンCに加勢したり救援したりした。交易ビッグマンCと同じ喪失感度を交易ビッグマンAおよびBも自ら担う、そういうトップ同士の信頼関係で同盟を維持した。
これは、戦国大名の同盟関係やヤクザの親分の同盟関係でもある。
大国主はヤマト王権成立後は国神になり、大名も徳川の幕藩体制の下で領民を大切にする撫民政策をとるようになり、ヤクザの親分も土建や興業を取り仕切った顔役だったのが現代はもっとブラックになり、とても三者に共通性があるようには見えない。
しかし、ビッグマンであることが共通し、ビッグマン同士の同盟関係を「義理」が成立維持している構造が共通していることが分かる。
そして、企業のトップの信条や行動規範をその社員が共有するように、出雲の交易拠点に集った貿易商人たちや、大名の家臣たちや、ヤクザの親分を頼る土建屋や興行師たちも、同じ「義理」を信条や行動規範とした。
こうした経緯において、出雲において中国語を共通語とした貿易商人たちが使っていたいわば業界用語の「義理」がめんめんと今日にまで至ったのではないか、と私は想像逞しくするものである。
しかし私の想像は、
「義理」が漢字を使った漢語であり中国語でもありながら、中国の国家が体制原理に活用した儒教の「義」や「理」とはまったく異質の意味内容であることと符号する
一つの仮説としては成立していると思う。
以上のような捉え方からすると、日本の現代農業の新しい旗手と言われるようなキーマンがやっている国際農業ビジネスにも、「グローバル」志向のものと「インターナショナル」志向のものがあると分かる。
日本の有機野菜を中国の富裕層向けに輸出しているなどは「グローバル」である。購買力のある富裕層が拡大すればどこの国でも市場を開拓できる。
一方、日本の農業企業がモンゴルで広大な農地を借りて耕作する新天地を切り拓くなどは、気候風土に密着した土地と国家の土地制度を前提とするから「インターナショナル」である。
ただし、新しい市場を開拓しそれを現地で維持するのも、新天地を開拓しそれを現地で運営するのもともに転住民であり、彼らは<異界との重なり領域>において取り引き相手や競合相手とともにそれぞれに「転住社会」を形成している。
ちなみに移動民は、開拓された新市場や新天地との定期的な行き来をルーティンとして生業とする者である。移動民は定住民と同様に確実性を生きるが、転住民は不確実性に生きることでその糧を得る。
ビッグマンは、「経済的手腕を発揮し、集めた富を人々に分け与えることにより抜きんでた人」であり、族長のような権力者でもなく、祈祷師のような権威者でもなく、ふつうの生活をしているというところが重要だ。
「定住社会」には定住民に期待され選ばれる農耕ビッグマンや漁猟ビッグマンがいて、
「移動社会」には移動民に期待され選ばれる海運ビッグマンや遊行ビッグマンがいて、
「転住社会」には転住民に期待され選ばれる交易ビッグマンや転戦ビッグマンがいた。
そして、
農耕ビッグマンや漁撈ビッグマンは、部族では農耕や漁撈のことなら何でも知っているような生き字引の知恵者だったが、やりとりの基軸が贈与から交換に変わった社会では、その役割を土地や漁船を所有する地主や網元が世襲で担っていった。
海運ビッグマンや遊行ビッグマンは、各地を遍歴する働き手や旅芸人や聖などの元締めや各地の流れ者の受け入れ主だったが、やりとりの基軸が贈与から交換に変わった社会では、その役割を清水の次郎長のような親分や顔役が担っていった。
交易ビッグマンや転戦ビッグマンは、事情がちょっと違う。
交易ビッグマンは新天地や新市場を切り拓いた者が最初選ばれるが、新天地や新市場が解消したり陳腐化した段階で存在価値がなくなり、新たな新天地や新市場を切り拓くことで存在価値を温存する。あるいは新たな新天地や新市場を切り拓く者の出現によって継承された。
転戦ビッグマンも新天地や新市場を新しい前線や支配域に置き換えた同様の存在である。清洲→小牧山→稲葉山(岐阜)の織田信長が典型で、日本武尊や源義経も軍勢に加わった者たちにとってそういう存在だったのではないか。
交易ビッグマンとしては、重商主義的な政策や活動を進めながら歴史の舞台から退場した出雲の大国主、福原の平清盛、安土の織田信長、長崎の坂本龍馬である。
現代世界では、実際に人がどこに住むかとか移動するとかは本質ではなくなっている。
人・モノ・カネについての知識や情報や関係性において、
ある分野に留まる人が定住民、その世間が定住社会
ある分野とある分野を連携して新たな分野を開拓する人が転住民、その世間が転住社会
知識や情報や関係性の流通だけをする人が移動民、その世間が移動社会
であると新次元の階層性が現象している。
この階層性の捉えでは、
たとえば同じ国際金融のグローバルなビジネスパーソンでも、
既存の金融商品の取り引きを繰り返すだけの人材は定住民
新しい金融商品を作って新しい金融市場を創出する人材は転住民
従来型および新型の金融商品をお客様に紹介して売る営業マンは移動民
ということになる。
このような現代的な捉え方において、
「信長志向」のパラダイムとメンタルモデルは、「転住社会」のパラダイムであり「交易主義」のメンタルモデルである
と言える。
私はこのことを、自分の仕事人生の経験として実感した。
いな正確には、自分の仕事人生で経験したことを構造的に把握し直してそう理解した。
私はバブル前夜にある会社に就職し、バブル期に30歳でフリーランスになり外部ブレインとしていろいろな仕事をしていった。
そんな若造の私に、いろいろな業界の諸先輩たちがいろいろな仕事のチャンスや人の紹介やアドバイスをしてくれた。
彼らは立場や関心事は違えどみな、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」の実践者だった。そして、同じ実践者を目指した私を応援してくれたのだった。
年配になってから分かったのだが、それは、その方たちがかつて自分を世話してくれた先達と同じになることで「義理」を果たす、ということだったと思う。
(3)
http://cds190.exblog.jp/15443697/
へつづく。