日本型集団独創2タイプの内の1つ「信長志向」、その現代世界における活性化を目指して(5:間章) |
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http://cds190.exblog.jp/14672646/
からのつづき。
中国人や欧米人を開放的と感じる日本人自身の特殊性
私たち日本人は、外国の◯◯人はこうだああだと論じる前に、日本人の特殊性を知るべきだ。
なぜなら、日本人自身の特殊性を基準にして外国人を見れば、自分たちが普通で外国人が特殊だと見えてしまう。
中国人のコミュニケーションが開放的であるという著者の主張も、じつはそのほとんどはアメリカ人にも当てはまる。つまり中国人が特殊なのではなくて、そう感じてしまう私たち日本人の方が特殊だったりする。
著者は、「⑤<開放的なコミュニケーション>」という項目でこう述べている。
「他人の気持ちを慮って、いいたいことをいわないことは、逆に失礼なことと考えている。
まず、相手の気持ちに関係なく、まず自分の意見をそのまま主張することが、相手に対するいちばんの礼儀だと考えている。双方がそうすることによって、開けた議論がはじまると考えている」
これは、discussionするアメリカ人もそうだ。
一方、日本人が実際にやっているカタカナ英語の「ディスカッション(議論)」では、時に、自分の意見をそのまま主張しないことが、相手に対する礼儀とされる。また、自分の意見をそのまま口にしないことが自分の保身になる場合、それを大人の物言いなどと正当化しもする。このような言葉を慎むことを正当化するケースは中国人にもあり、その点ではむしろ日本人と中国人は変わらない。
さらに著者は中国人の<開放的なコミュニケーション>について、
「とにかく、その場でオープンに何でもいいあって、持ち越さずにその場で決着してしまうことが大切なのである」
と、中国人がそうしていることを解説する。
これは欧米人もそうしている。
ただし、中国人と欧米人には他の要素が絡んで違いがある。
たとえば夫婦喧嘩をしたとする。
中国人の夫婦喧嘩にはこんなことがあった。奥さんが家の外に出て大声で喚き出して近所の人を巻き込んだ争議に発展させる。隣人たちも、旦那が悪い、いや奥さんが悪いと夫婦喧嘩に加勢するのである。それは昔の平地の安普請の住宅環境の話であって、今の高層マンションではやりようがなくなってしまった。
しかし今はこんなことがある。浮気された妻が亭主の出演しているテレビの生番組に乱入して夫の酷さを視聴者に訴える、それをテレビで目撃した視聴者も、それは亭主が悪い、と騒ぎ出す。時代や環境が変わっても夫婦喧嘩を公開して公論に発展させる妻のメンタリティは変わっていない。
こういうメンタリティは欧米人にはない。(夫婦喧嘩を見せ物にするテレビ番組は世界中にあるが、それはすべてがパブリックな場の展開である。妻が家から公道に出て喚き出したりいきなり私事が公共の電波に乱入するのとは違う。)
欧米人は、個人や夫婦のプライベートな時空と、公道やテレビ番組のパブリックな時空とを分けている。公道で喧嘩を勃発させることはあっても、道行く人を喧嘩に巻き込むことはない。むしろ他人から夫婦の問題に干渉されることを嫌う。
この件で日本人の夫婦喧嘩はどうかというと、「お家大事」の意識が顔を出す。
夫婦喧嘩が家の中で勃発すると、妻が「大声を出さないで。ご近所さんに恥ずかしいでしょ」と夫をたしなめたりする、夫もそれには素直に従って声をひそめて喧嘩を続けたりする。
テレビ絡みの話では、たとえば歌舞伎役者の夫の浮気が写真週刊誌で暴露され話題になったりすると、元芸能人の妻が取材に押し寄せた記者に応対して「夫がご迷惑を掛けました」と詫びを入れたりしている。世間様に対して、妻は夫についての文句を言わずに夫とともに謝ることで「お家大事」を貫いている。
公正を期して、昔の都市部庶民の派手な夫婦喧嘩の展開を上げれば、落語に出て来る江戸町人のそれだろう。長屋の夫婦が喧嘩をしてどうにも決着が着かないと大家さんの所に相談に行く。「大家さん、きいてください、うちのヤドロクったら云々」「うちのカカアの奴ときたら云々」と。なぜ、大家に相談しにいくか、なぜ、大家の言うことなら店子の夫婦は言う事をきくか。それは、大家といえば親も同然、店子といえば子も同然、と長屋の賃貸関係に家族関係が転写されていたからである。大家と店子は言わば擬制的な家族だった。
大家は単に店子に家を貸しているだけでなく、店子たちの税金をまとめて支払いその見返りに厠の糞を肥として業者が買い取る代金などの長屋に発生する利権を得ていた。長屋は実利的な生活共同体でもあった。大家としては、夫婦別れでもされて店子が欠けては、家賃も肥代も少なくなってしまうから、当然穏便に事を収めようとする、それが親心の実相だった。大家は親として、店子という子供たちが兄弟姉妹のように仲良く暮らすことをモラルとして説いて見守った。それも、借家人同士がいざこざを起されたら困るからである。つまりここでも「お家大事」の意識が働いていた。
結局、派手さにおいて、家の外に出てご近所さんに話を聞いてもらう中国人の夫婦喧嘩に劣るものの、特殊であることについては日本人の夫婦喧嘩も負けていない。
では日本人の特殊性の根源は何なのか。
それは、日本人のアイデンティティの捉え方である。
それが「お家大事」の意識だけでないいろいろなことの根源になっている。
外国人からすると、日本人には「個人」と「社会」がないという。
私たちは、え、そんなことはないと思う。
しかし、私たちが「社会」と思っているのはじつは、自らが帰属している人間関係の総体である「世間」であり、「個人」と思っているものはじつは「世間」での位置づけである「分際」としての「自分」でしかない。
欧米人は、一神教の神という人間を超越する存在に、単身で、直接に対峙している。これが「個人」である。そんな「個人」の集合が全体として「社会」を形成している。
中国人も、天の<意>=<気>という人間を超越する存在に、単身で、直接に対峙している。よって欧米人とは違うが「個人」ではある。そして欧米人とは違うがやはりその集合の全体が「社会」を形成しているという点で同じだ。
一方、重要なことなので繰り返すが、日本人は、自らが帰属する人間関係の総体である「世間」に暮らしている。そして「世間」での位置づけである「分際」としての「自分」を自らのアイデンティティとしている。
たとえば、欧米人や中国人が不思議に思うことに日本人の「過労死」がある。
生きるために働いているのに、なんで働き過ぎて死ぬのか、死ぬ前に仕事を辞めればいいのに、と思う。
彼らは、日本人が自分たちと同じように「個人」として生きていると誤解しているから分からない。
日本人は、会社という「世間」に暮らしてそこでの位置づけ、つまりは職場で仕事に勤しむサラリーマンとしての「自分」を自らのアイデンティティとしている。「過労死」は、アイデンティティの崩壊を回避し続けた結果である。
日本人に特有なものとして、通勤鉄道のホームからの「飛び込み自殺」がある。なぜわざわざ通勤途中に一目につくやり方で自殺するのだろう、と外国人は不思議に思う。通勤するサラリーマンの「世間」を前提にしてその一員という「自分」を自らのアイデンティティとして文字通り死守している、そう解釈することができる。
このような日本人のアイデンティティの捉え方の特殊性は、当然、日本人同士のコミュニケーションにも特殊性を現象させずにはおかない。
日本人にとって「自分」というものが、帰属する「世間」での位置づけである「分際」という人間関係から相対的に割り出されるものである、ということがポイントとなる。
日本人の「我」は、欧米人の「我思うゆえに我あり」的な自律的なものではない。
相手がいて、その相手が自分をどう思っているかや、どう思うべきとするかが「我」の有りように密接に関わる、という他律的なものなのだ。
相手や周囲の日本人もそういう他律的な「我」であるため、相手や周囲との人間関係はとても複雑でデリケートなものにならざるを得ない。
良く展開すれば、お互いに相手をきめ細やかに慮った「我」で相対して心地よい人間関係となる。いわゆる良い「おもてなし」も基本的な構造はここにある。
しかし悪く展開すれば「なんでこちらが◯◯しているのに△△してくれないのだ」などとお互いに相手を察しの悪い「我」や思いやりのない「我」として決めつけあう葛藤をもたらす。モンスターなクレーマーが店員を土下座させて写メで撮る(相手が土下座する「我」を確保して満足する)などということの基本的な構造はここにある。
この図のように(韓国人や)欧米人は、他者を経由せずに自己をもっている個人同士として「我と汝」の関係をもつから、対人関係は往過程のやりとりとなる。
一方、日本人は、他者を経由して自己をもつ自分同士としての「我と汝」の関係をもつから、対人関係は、自分の内側で起こる往還過程のやりとりとなる。
正確に言うと、「我の『汝における我』」と「汝の『汝における我』」との関係という微妙かつ厄介なものだが、日本語と日本文化がこれを私たちにすんなり無自覚的に行わせている。
(参照:「今問われる日本人の「甘えと義理」(1)」
http://cds190.exblog.jp/15390651/)
そんな日本人と欧米人の違いを象徴的に体験したことがある。
私が40代、神宮外苑の銀杏並木が日曜日に歩行者天国になりそこでインラインホッケーをしていた時のこと。主に30代の日本人と欧米人のプレイヤー個々が適当に集まってきて成り行きでチーム分けをして、ペットボトルをパックに見立ててゲームをするのだった。
2つの対照的な出来事があった。
1つは、ちょうど冬期オリンピックのアイスホッケー決勝戦がアメリカとカナダであった翌日のこと。その勝敗絡みで苛立ちがあったのだろう、元ホッケー選手のアメリカ人とカナダ人(30代の銀行マンと英語教師)がプレイ中に喧嘩を始めた。スティックを投げ捨てグローブでファイティング・ポーズをとって向き合った時、たまたまそばにいた私は二人を制しようと思わず間に割って入ってしまった。しかし私は彼らの迫力に圧倒されて腰が抜け跪いてしまい膝立ちで下方から制するという格好わるさを呈してしまう。だがそれで二人の戦意が萎えたのか殴り合いは回避された。
私が感動したのは、歩行者天国が終わってみな路肩で帰り支度をしていた時に、二人が歩み寄って握手を交わして仲直りしたことだった。その後も彼らはわだかまりなく、喧嘩のことはきれいさっぱり水に流していた。
いま1つは、インラインホッケーから代々木自宅に帰った私が近所の女友達を誘って近所の韓国家庭料理屋に行った時のこと。店に入ると日本人のプレイヤーたちが集まって何やら話し合っていた。以前プレイ後、そこに連れてきて飲んだことがあった。どうしたのかたずねると「欧米人のプレイヤーたちの態度に我慢ならないことがある」と言う。私はその瞬間、どうして自分が誘われなかったかも了解し「ああ、そうなんだ」とだけ言って自分のテーブルに戻った。
私が口に出さず思ったことは「どうしてその場で言わないんだ」だった。しかし私がそう言うだろうタイプだからこそ彼らは私を誘わなかったのだ、と場の「空気」が教えていた。
彼らは、前述の直情型で喧嘩をしてその後紳士的に和解してわだかまりを残さなかったアメリカ人とカナダ人とすべてが正反対だった。
その後、店に集まっていた日本人プレイヤーたちは、わだかまりを欧米人プレイヤーたちに一方的に抱きつつ笑顔でプレイしていた。
ただ私は、日本人プレイヤーたちが何よりも「場」に波風を立てないことを大切にしていると気づいた。それは良くも悪くも世間一般にみられる、私ふくめた普通の日本人の対応である。ここは日本なのだから彼らの対応こそが正解なのだろうと思った。
ただそれでも、私は彼らの何かについて違和感が消えなかった。
それは、彼らの発想思考が「なんでこちらが◯◯しているのに△△してくれないのだ」に終始していたことだった。
やはりそこは、欧米人プレイヤー本人たちに直接言うしかないだろうと私は思うのだが、言うことで失われるかもしれない何かを彼らは大切にしているらしい。
前述のカナダ人がいつもバイリンガルの日本人ガールフレンドを連れて来ているから、微妙な内容でも通訳を介して伝えることができた。歩行者天国になる銀杏並木はとても長く、プレイ場所には十分余裕があるから、お互いに納得できなければ別々にゲームをしてもいい。当時の私はいくら考えても、彼らが大切にしているものが何か分からなかった。
今にして思えば、他律的に規定される「我」を自分で納得できる状態にして守りたかったのだ、と理解する。
そうであれば、問題は欧米人プレイヤーたちではなくて自分の納得の仕方である。
そしてその納得の仕方は、個々の一人一人では成立せず、日本人プレイヤー仲間という「世間」で共有して成立する。だから集まって話し合っていたということなのだ。
著者は、
「とにかく、その場でオープンに何でもいいあって、持ち越さずにその場で決着してしまうことが大切なのである」
と主張する。
おそらく、理屈としてはほとんどの日本人が賛成するだろう。
しかし、それが往々にして出来ないことには、
日本人の「世間」とそこでの位置づけ「分際」である「自分」や、
日本人の「我」が「汝における我」であり、
さらに日本人同士の関係が「我の『汝における我』」と「汝の『汝における我』」との関係ということが根源的な土台となっている。
そこは理屈なしの血肉となっているから、
私たちは無自覚的な自然体のままでは往々にして、「とにかく、その場でオープンに何でもいいあって、持ち越さずにその場で決着してしまう」ということができない。
しかし、それをそのまま放置したのでは、日本人が中国人や欧米人と創造的な恊働をしていけない以前に、日本人同士の人間関係においても集団や組織を硬直化させ社会を閉塞させていくのは明らかである。
私は、
日本人にストレートな物言いをさせないのも、その場の「空気」であるが、
日本人にストレートな物言いをさせるのも、その場の「空気」である
という事実を踏まえて、
日本人にとっては<開放的なコミュニケーション>をさせる場の「空気」づくりこそが打開策だと考える。
これは理屈ではなく、私自身が社会に出て20代、30代、そして40代とそのような「空気」のある場で仕事をしてきた経験から言えることだ。
これは私の「昔は良かった話」などでは決してない。
当時でもメジャーなのはストレートな物言いをさせない場とその「空気」の方だった。たまたま私はストレートな物言いしかさせない、ストレートな物言いしか誰も聞いてくれないマイナーな場とその「空気」の方で働いてきた、ということでしかない。
そして、そのような場とその「空気」は、今でも新興ベンチャーに充満しているし、日本型経営を温存してその欠点を除き美点を国際標準で現代化した例外的な世界的なエクセレント企業が要所要所で確保している。だから、組織の硬直化の斬新な打開策という訳でもない。
ストレートな物言いをさせる「信長志向」とさせない「家康志向」一辺倒化
「他人の気持ちを慮って、いいたいことをいわないことは、逆に失礼なことと考えている。
まず、相手の気持ちに関係なく、まず自分の意見をそのまま主張することが、相手に対するいちばんの礼儀だと考えている。双方がそうすることによって、開けた議論がはじまると考えている」
著者は、このように中国人のストレートな物言いを解説する。
私は、自分が中国人ではないかと思うくらい、そのようなストレートな物言いを仕事で実践してきた。なぜならそれを相手から期待され求められ、それに応えることが仕事だったからだ。
まず企業社会において、ストレートな物言いをするかしないかが、本質的に重要である物言いとはどういうものか、を問おう。
それは、相手や周囲が前提している考え方の基本的な枠組み「パラダイム」を否定したり、転換しようとする物言いに他ならない。
既定の「パラダイム」を肯定し温存する物言いにおいて、ストレートな物言いをして多少の波風が立ったとしても、それは単なる意見の違いであって、異なる意見を折衷する変更や新しい意見に転換する変更が容易に認められる。体制に影響がないことから、ここは物言いする者の顔を立ててそれを受け入れるといった駆け引きも容易に行われる。
つまり問題にならない。
重要なことなので繰り返すが、
ストレートな物言いをするかしないかが問題になるのは、相手や周囲が前提している考え方の基本的な枠組み「パラダイム」を否定したり、転換しようとする物言いである。
おそらく若い世代には、かつては業界の大手企業ほど、自分たちが社内で話し合って向かっている既定路線に対して、敢えて異なる意見や反対意見を聞くために外部ブレインを雇った、という事実が信じられないのではないか。
しかし、実際に私は社会人となった25歳の時から顧客企業のそういう要望に応えて「パラダイム転換」を提案してきた。
5年間の会社勤めで担当したある流通グループが、大阪郊外に当時としては破格に大規模な商業施設の開発を大手建築事務所の設計で進めていた。ところがクライアント窓口の部長が会長に直訴してこれに反対する。長方形の敷地全体をロの字型に内側に向かって階段状の建物が取り囲む設計だったのだが、延べ床面積が巨大すぎて採算が合わない。部長の求めに応じた私たちは、百貨店棟を含む半分を残して残り半分を低層化したり小さい建物にして町並み化するという変更を提案した。結果的に、この方向で開発申請からやり直すことになった。
その流通グループは会長のワンマン経営と個性的な店舗革新で有名だったのだが、社員にストレートな物言いを求める社風が末端まで、私のような下請け企業のスタッフにまで一貫していた。一介の部長でも会長に直訴し、店舗建設部のやっていた開発を店舗装飾部が横槍を入れる形でやり直しになったこと、そしてその動きの中で私のような下請けの新米社員が抜擢されたことは、若い私にとって衝撃的だった。
開発申請を済ませて基本設計を終えていた大手建築事務所の大阪社は猛反対したが、これに対してこんな動きがあった。
部長の手配で、流通グループが経営する舞鶴の農園リゾート施設で、建築事務所の担当所長とその部下、そして私の会社の取締役ADと上司のデザイン部長と私で膝詰めの議論をした。建築事務所の中堅所長と変更プランをプレゼンする新米社員(修士卒で27~8歳)の私の論戦となった。
当時の年配者たちは、かなり大胆に若い人材にチャンスを与えて活用したものだと今にして思う。
会議に出張する前日に急きょデザイン部長の私の二人が日曜出勤して、私の変更プランをデザイン部長に模造紙にゾーニング図として描いてもらった。最終的に建物が竣工して視察に行くと、その絵の通りに建物が出来上がってしまっていてビックリした。中央パティオに描いたマナーハウスがそのまま建っていて、細かい建物の路地裏に描いた窓口部長リクエストのゲイバーも出店していた。
その流通グループの仕事は、当時、出店ラッシュで苛酷を極めたががとてもスリリングで楽しかった。
クライアント窓口の部長は、構想段階の会議には面白い若い奴を連れて来いと言い、いつも狭い会議室が若者で寿司詰めだった。そして何も意見を言わない奴は来るなと言い、当たり障りのない通り一遍のことしか言わない者は相手にされなかった。
部長は、決まっている既定路線に疑問を投げかける意見やアイデアを常に望んでいた。そのためにわざわざ社内の若手ではなく、下請け企業の若い人材(アルバイトを含む)を会議に参加させたのだった。
その流通グループの革新的な店舗づくりは有名で一時代を画した。私は、店舗構想が企画現場から立ち上がっていくのを目の当りにした。流通グループ各社の店舗開発関連の部長が会長にプレゼンして決裁を受けては開発が進んでいったが、大目玉をくらって差し戻されることも多々あった。
だが構想現場のスタッフはいつも冗談を言いながら笑顔で複数の仕事を同時進行させた。いつもリラッスクしてセンスを尖らせていたのだ。
ちなみに前述の舞鶴の農園リゾートで温室を見学したのだが、なんとデザイン部長は本店百貨店の地下食料品売場のリニューアルを構想中で、それをヒントに温室風のガラス屋根をメインストリートの上に展開し「オランジェリー」と名づけて会長プレゼを通して実現させた。
今にして思うと、社会に出たての若い私は、あの流通グループの企画現場で「パラダイム転換」の発想思考と、その内容をストレートな物言いでコミュニケーションしてする恊働を叩き込まれた。
30歳で独立して、当初は「パラダイム転換」的な発想思考を都市再開発に求めるゼネコンや大手建築事務所、店舗のAV化計画に求めるAVメーカー、見本市のテーマゾーン計画に求める新聞社などの空間絡みの仕事をしていた。
やがて、モノからコトへの「パラダイム転換」的な発想思考の求めが高まり、新商品開発に求める家電メーカーやクルマメーカー、新業態開発に求めるコンビニ企業、新型ITサービス開発に求める事務機メーカーなどの仕事にシフトしていった。
(本業の傍ら顧客企業の依頼に応えて「パラダイム転換」の発想思考に特化した研修をするようになった。その内容が「コンセプト思考術」http://conceptos.exblog.jp/24467324/ である。)
「パラダイム転換」を主張したストレートな物言いで、駆け出しの頃の象徴的な話としては、地方の商店街活性化と生協のリゾート開発で既定路線を覆した独立当初の話がある。
商店街活性化の件は、高木が中央に並び立った珍しいオープンモールの商店街組合がクライアントだった。
顧問先の東京の大手建築事務所の依頼で急きょ現地を視察することになった。その際、アーケード化を望む商店街組合に対して「アーケード化などしないでオープンモールをそのまま活かした方がいい」という意見を言って下ろされてしまった。
ところが商店街で画商を経営する組合長が、私と同じ考え方で孤軍奮闘していたということで、下ろされた筈の私に直接仕事を依頼してきたのである。私の構想は、ハード的にはステンレス製の家型のゲートをオープンモールに羅列させて天候に応じて船の帆のような天幕をはるというものだった。そしてこのようなオープンモールをフリーマーケット等のイベントで活かすべく、各店舗にも恊働歩調をとってもらうための商店主研修と数十店舗のコンサルティングをした。
生協の件は、大阪の顧問先の依頼で神戸灘生協のリゾート開発の責任者に引き合わされた話だ。
その際、箱モノのリゾート施設開発を前提していることを聞かされ、私は「生協なのだから農場とか農園とかの体験型リゾートを構想すべきでいわゆるコンクリートの箱モノは作るべきではない」と即答した。
先方としては、どのような箱モノを作るべきかを相談したつもりだったが、その責任者は「箱モノを作るな」と言われたのは初めてだ、言われてみればその通りだ、といたく感動してくれた。顧問先の依頼で農業酪農体験型リゾートの構想書を作成して提出した。
その後、バブル崩壊とともに箱モノのリゾート施設は閑古鳥が鳴き、さらに後にはあの阪神淡路大震災が起こった。箱モノのリゾート開発で財務的な大きな負担を追わないで良かったと思った。
徳島の商店街組合長も、神戸の生協幹部もそうだが、30ちょいの駆け出しコンサルタントの既定路線を覆すストレートな物言いにわざわざ耳を傾け、しかもそれを活かしてくれた。
そんな主要な立場の年配者が、かつては日本全国にいたのである。
当時もストレートな物言いをさせない場とその「空気」がメジャーだったのは今と変わらない。
しかしだからこそ、マイナーな例外的な実力者が、ストレートな物言いをさせる場とその「空気」を大切に育んでいた。
そして、組織の内外、実績の有無、地位役職などの分け隔てなく、フットワーク軽く既定路線の延長線上にはない意見を求めて活動していたのである。
今は、特段の新興ベンチャーや世界的なエクセレント企業に限られる、既定路線から外れてもいいからストレートな物言いをさせる場とその「空気」だか、かつては、ごく普通の組織やごく普通の人々によって担われ実践的に役立てられていた。
私はそれを「昔は良かった話」にするつもりはない。
現代世界でも活用可能な方法論として伝承する責任を感じていて、「信長志向」の現代世界での活性化を自らの責務としている。
すでにお気づきだろう。
以上の私の話も、私が仕事をしてきた人間関係も、すべて、自由に活動している個々を適宜に集団に構成する「信長志向」が一貫している。
それは必然である。
集団を身内で固める「家康志向」は、既定路線を踏まえた「カイゼン」には向くが、既定路線を否定する「カクシン」には向かない。
なぜなら、既定路線に異論を唱えずに進める者同士がお互いを身内と認め合っていて、そこを逸脱して波風を立てる者は身内とは看做されないからである。
既定路線を否定する「カクシン」に向けた「パラダイム転換」の発想思考を恊働するには、過去からの柵や現在の保身の入り込む余地のない、一過的で出入り自由、離合集散が前提の集団がいい。
それは、自由に活動している個々を適宜に集団に構成する「信長志向」に他ならない。
最近では、経営方針に異論を唱える者は会社を去るべし、という論調が蔓延している。社員に右向け右を強いているのだから、そこで外部ブレインが左を向いたら即、ほされてしまう。
アメリカ出羽守曰く、なぜ日本の会社では経営方針に平気で異論を唱える社員がいるのか、アメリカの会社では許されない、と。
確かにアメリカの会社はトップのディシジョンが最優先で、それを具現化するために社員がいる。そういう契約で人間関係が成立している。しかしアメリカのトップは、その立場に立つまでに徹底的な議論をライバルとして勝ち抜いてきている。そのジャッジには株主までが参加している。
一方、日本の会社はどうだ。伝統的な基幹部門や好採算部門の長が回り持ちで、いわゆる調整型の社長になっていたりする。既定路線は、経営実権を握る一部の部門の利害を代表するお偉方の寄り合いによって決定されている。だからたとえば、伝統的な基幹部門が不採算になっても経営実権を握り続けて、新興の好採算部門が売却されるといった株主からすれば明らかな本末転倒もまったく相談無しに行われてしまう。
そんな日本で、経営方針に異論を唱えるな、はアメリカのような合理的なものでは決してなく、実質的にはただの、「空気」を読んで波風を立てるな、になっている。
かつての日本型経営では、「家康志向」と「信長志向」の合わせ技の知識経営が為された。
「家康志向」に一辺倒化すると、組織は硬直化し、集団の自由な発想が損なわれていく。これを「信長志向」が合わせ技で介在することで回避された。
しかし、バブル崩壊以降のいわゆる「空白の20年」を通じて、大方の業界大手企業が短絡的に日本型経営を全否定し、「信長志向」が排除され、「家康志向」に一辺倒化してしまった。
結果的に、組織は機械論化し、人材は機械部品化して、たとえば家電メーカーでは経営方針がごく一部の勝負プロダクトを生産することに矮小化された。プロダクトには商品とサービスがあるが、サービス的な要素が重要に関わる業務用市場への対応も割愛された。組織の機械論化に馴染まないからである。
機械部品化された人材の仕事は割り振られたノルマを達成することだけに矮小化された。既定路線に異論を唱えることがタブー化されただけではない。上司に命じられた以外に自分で思い立って主体的な活動をすることもタブー化された。
こうなると「空気」の拘束力も機械論化し、かつての漠然としたものの比ではなく組織だった「空気全体主義」と言うべきレベルに達している。
しかし最大の問題は、それが一般化して普通になってしまったことで、「空気全体主義」ではなかったかつてを知らない者ばかりとなり、問題が問題として認識されなくなってしまったことである。
これを「無意識のパラダイムの呪縛」という。
この呪縛を解くには、それがじつは当たり前の状況ではないことが理屈なしに分かる「もう一つのパラダイムの可能性」を意識化することから始めなければならない。
私が、自分が体験した具体的な昔話をするのも、今とは違う「自由な人間関係や恊働」が当たり前だったことや、今も例外的な環境では「自由な人間関係や恊働」が当たり前に行われていること、そして意欲と方法さえ持ち合わせれば「空気全体主義」を「自由な人間関係や恊働」に変革できることを知ってもらうためである。
私の体験と見聞きはとても限られている。しかしその中には学者の説く理論にはない、「自由な人間関係や恊働」を体験した者でなければ知り得ない有効な暗黙知や身体知がある。
それを私は、先人たちが整えてきた制度的な慣行や、たまたまの出会いで若者を応援してくれた諸先輩の導きのお陰で得ることができた。
そうしたことどもは一つの体験世界となっていて、その全体を可能な限り後進に伝えることが恩返しという私の責務だと思っている。
どのように「信長志向」は合わせ技され、どのように排除されていったのか
日本型経営の本質はその共同体性にあった。
では、その共同体性とはいかなるものだったか。
大きくは2つの側面があると思う。
1つは、制度的な側面で、個人差のない低コンテクストな明示知によって成っている。
たとえば、入社したての若い頃の給料が働きの割に安いが、子供が大学に通うくらいの年配の給料は働きの割に高い。これでなぜ不公平にならなかったかと言えば、終身雇用が前提となっていて、若い頃の損を年配になって取り戻すことが順送りで行われていたからだ。こうしたことが給与体系という明示知になっていた。
だが実際は、新入社員として入った生え抜き社員がそのまま定年まで社員でいるという人が、大企業やその支社の少ない地方ではスタンダードとはされたが、多い東京や大阪では就労者の大半を占めたとは言い難かった。
まず、日本型経営自体が戦後昭和の高度成長期以降の産物である。名だたる世界的な大企業も中小企業から出発している。急成長した企業ほど、即戦力となる転職者の中途入社を受け入れた。
また、オイルショックやバブル崩壊で経営悪化したり破綻する会社が出れば、リストラされる社員や失業する社員がでてきた。また逆に、高度成長やバブルの好況期にはより条件のいい会社に転職したり独立や起業する社員も多かった。
そして、一流大手企業の正社員に限れば好況期・不況期に関わらず、転職、独立、起業は、終身雇用が完備していた昔の方が活発で、終身雇用が実質的に崩壊している今の方が不活発なのが実際である。
その理由は、昔の方が転職、独立、起業が成功しやすかったからではない。成功不成功は個人差があり、みなその時代時代で成功しやすいチャレンジをしている。確かに好況期に活発化して不況期に不活発化するという循環はあるが、総じて、バブル崩壊後の「空白の20年」の前後で大きな違いが生じている。それは、むしろ文化的な側面で説明できる。
日本型経営の本質である共同体性のもう1つの側面は、文化的な側面で、個人差のある高コンテクストな暗黙知や身体知によって成っている。
これは学者が論じてないことで、私も自身で体験的に見聞きしたことを踏まえるしかない。
たとえば、私が「コンセプト思考術」研修を年に数回、二十年ほどやらせてもらったメーカーはもともとはオーディオメーカーで、レーザーディスクやプラズマテレビを手がけつつカーナビのトップ企業となった。
私はこの会社で文字通り十年一日のごとく新入社員や中間管理職を見てきた。同じ講座で同じ内容を話してもその反応が変化したことを肌身で感じ取った。そんな実地調査をしている学者は一人もいないだろう。
明らかにバブル崩壊後の「就職氷河期」の前後で人材の様相が変わった。それはクライアントだったクルマメーカー3社の人材にも見られた変化だった。
かつては、オーディオが好きだ、クルマが好きだという学生が、好きなメーカーを第一希望として、第二希望以下にその競合各社という具合いに上位を選択。下位に部品メーカーや輸入品販売会社などを選択。入社試験を受けて受かった中の最上位に就職というのが普通だった。
ところが「就職氷河期」に難関を突破して入社してきた新入社員に話をきくと、まず、いろんな業界の一部上場のグローバル企業をたくさん抽出してどんどん受験して合格した中で一番良さそうな会社を選んだ、という。いろんな業界の巾は、個人差があり、メーカーに限る者からメーカーも受ければ銀行も受けたという者もいたが、自分の好き嫌いはあまり反映していない。自分の能力が活かせそうかにこだわっているようだった。ある意味、かつての学生が夢見心地だとすれば、現実を踏まえ足元をしっかり見ている。
ここで分かるのは、
かつて活発だった転職、独立、起業は、自分の好きなことを好きなやり方でやりたいという動機が強かったことである。
一方、いまは、贅沢を言える人は一部上場のグローバル企業といった企業のブランド性にこだわり、贅沢を言えない人はブラックでないまともな企業で正社員になれれば御の字となっている。転職、独立、起業は、得るものより失うものの方が大きいとする人が多くなっている。
これは、人々がどのような仕事をどのようにしたいかに関わる、仕事文化の変化に他ならない。
そして、前述の日本型経営の本質である共同体性の文化的な側面の話に戻るが、
それは、同じ物事が好きで同じような仕事の仕方をしたい者同士で擬制的な家族を形成していた、ということなのだ。
だから、会社を離脱する者もまた、同じ物事が好きで同じような仕事の仕方をしたい者同士で擬制的な家族を形成したし、会社に残る者たちもまたそのような擬制的な家族であり続けて、両者はまるで親戚のような心理的な関係性をもった。
ちなみにこのような会社の擬制的な家族の様相は、同じ物事が好きで同じような仕事の仕方をしたい者同士が起業した新興ベンチャーの創成期の企業風土にも自然発生している。
また、バブル崩壊後、大方の業界大手が日本型経営を短絡的に全否定した中で、例外的に付和雷同せずに日本型経営の欠点を排除し美点を国際標準で現代化して世界企業として成長したエクセレント企業が要所要所で温存している。
けっきょく、擬制的な家族の様相を欠落しているのは、かつて日本型経営をしながらバブル崩壊でそれを短絡的に全否定し、アメリカ型と言われた中間管理職を省く組織のフラット化をした会社だった。
広く流布した誤解がある。
それは、バブルが崩壊してそれが原因で経営が悪化した、という話である。
実際は、バブルが崩壊した1991年末の後、90年代前半までは、株や土地の暴落の影響をもろに受けた金融業界や不動産業界や不動産投資をした小売り企業などを除く業界一般では、経営悪化はさほど表面化していない。
家電大手などの経営悪化の表面化はおおよそ2000年以降で、それも不況による売れ行き不振が直接の原因ではなかった。
正確には、売れ行き不振が見込まれたのにも関わらず、自社だけには神風が吹くとした巨額な設備投資の大ばくちをしたためである。しかもそれは競馬で言えば単勝馬券の一点買いで、負ければ家が傾くと分かっている金額をぶちこんだ。
(この時系列のニュアンスは日本の財政とも重なる。財政悪化はバブルが崩壊したためと漠然と誤解している人が多いが、実際は崩壊以降に拡大した巨額な公共投資による。)
ではこの時期、会社ではどのようなことが起こっていたのか。
これは会社四季報には載らない人間模様についての暗黙知や身体知だが、たとえば家電業界の大手メーカー各社でまったく同じ経過があったところに、共通する日本型経営の汚点だけが拡大したことが見てとれる。
具体的にはこういうことだ。
バブル崩壊は、株価や地価の暴落という明示知で認識されたが、それで売上げの急減が起こるといった明示的な連鎖反応がすぐあった訳ではなかった。
しかし、経営幹部は先行き不安を抱いた。経営幹部は無能な者ほど何の前向きな手立てを打たずに防衛策ばかりとる。
たとえば、内部留保が溜まっても成長事業への投資策を打てずにただ先行き不安のために内部留保の積み増しばかりしたりする。それが安全策だという。だがそこには何らロジカルな合理性はなく、保身がその選択を良しとしているだけだ。単に下手な手を打たなければ損をしなくて済むという考えであり、本当は身を引いて上手い手を打てる人と経営を交替すべきなのだ。
バブル崩壊後に先行き不安を抱いた経営幹部も同じで凡庸な防衛策をとり始めた。それが人員の削減である。具体的には、給料の一番高い自分たちを除いて、その次に高くたくさんいた中高年の中間管理職の削減と、新入社員の採用の削減である。アメリカ型の組織のフラット化、トップと現場を直結して中抜きするというのは後からつけた口実に過ぎない。
(アメリカのメーカーがレイオフをする場合、生活負担の少ない若い就労者からして、経営が回復した際の雇用は彼らの再雇用からする。アメリカの方が合理的でかつ温情的ですらある。)
これで組織による知識創造がどう変化したか、を説明するには、それまでの日本型経営の組織による知識創造がどうだったかをまず説明しなければならない。
(詳しくは、
「私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その7=「ミドルアップダウン・マネジメント」の組織知識」http://cds190.exblog.jp/12100944/ を参照してほしい。)
日本型経営は、
①セマンティック・カタリスト(意味の触媒者=トップ)
②ナレッジ・エンジニア(知識の触発者=ミドル)
③エキスパート(専門家=ロアー)
の3階層において、
中間管理職の②が①と③を媒介するという知識創造エンジンで動いていた。
この①②③が社内の上下関係だけで完結するのが「家康志向」である。
だが私が自分の仕事を通じて実体験したのは、これに合わせ技された、社内外が連携する「信長志向」だった。
中間管理職の②の中に①と③を縦に繋ぐだけでなく、会社の異なる事業部門の②や会社外の異業界異業種企業の②や外部ブレインのフリーランスの②を横に繋いで、文字通り縦横無尽の活動をするハブ型のキーマンがいた。
私の仕事のクライアント窓口になった方々はこのハブ型のキーマンだった。彼らは、組織の内外の自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」の先導者だった。
あと、経営トップの①が直接に、私のような②の外部コンサルタントを顧問契約や業務契約で直轄するケースがあった。(ちなみにセブンイレブンの鈴木敏文元会長は、直属の市場調査研究員をおいて自由に調査研究をさせ報告させていた。社内関係ではあるが、私がコンビニ企業2社と契約したトップ直轄総合コンサルタント業務に近しい「信長志向」である。)
凡庸な人材削減策によって崩壊してしまったミドルマネジメントだが、この②ナレッジ・エンジニア(知識の触発者=ミドル)の削減、中でも「信長志向」のハブ型のキーマンの排除が致命的だった。
短絡的に日本型経営を全否定した会社が「空白の20年」低迷し続けたことの根っこはここにある。
高級取りのままでいたい経営幹部、就職氷河期にやっと入社した新入社員、その狭間のリストラの嵐に怯える一般社員やベテラン社員がいて、みながみな保身を優先するのが人情である。
当然、組織全体の人間模様が、集団を身内で固める「家康志向」の一辺倒化に向かった。
さらに経営幹部は保身のために株主や債権者の意向だけを重視するようになった。
彼らは短期的に利益が上がったり債権が回収できることを望む。経営幹部はそれに応えて、短期的な利益が(捕らぬタヌキの皮算用でも)数字として確定論的に割り出せる事業に集中した。中長期的な利益が不確定論的にしか想定できない事業を排除していった。
新しい成長事業を摸索する活動は後者で、10やって1でも化ければいいという考え方だがそれも排除された。「信長志向」のハブ型のキーマンが先導していたのがこの系統の新規事業だったが、キーマンもろとも一掃されてしまった。
また、ハブ型キーマンが先導者になっていたものに、業務用市場への対応事業の開拓があった。これは商品を売るだけでなく顧客企業のそれぞれに応じたきめ細かなサービスが鍵となりその分の人員が必要となる。これも、やっていた事業は撤退して人員削減し、新たな事業を起すことは人員増加に繋がるので敬遠された。
結局、経営幹部が考えた落とし所は、基幹事業の次世代商品で世界シェア・トップとなることだけに絞られた。
これが実際に達成できるかどうかよりも、捕らぬタヌキの皮算用でも株主や債権者には受け入れられるということがミソだった。
しかし競合他社の経営幹部も同じ考えで同じことをするのだから、たとえば家電メーカーの場合、高機能低価格の過当競争が想定される。そこで競合他社を突き放すべく巨額の生産設備投資の大博打に打って出たのだった。しかし、競合としてすでに海外の新興メーカーが力をつけていてボリュームゾーンで日本メーカーは勝てない。こうして大博打が裏目に出ての経営悪化だった。
その幹部が経営実権を握る基幹事業のサバイバルばかりが追求され、その次世代製品のの開発と生産と販売のみに資源を集中する機械論的な組織と機械部品化した人材の体制となっていった。中にはその原資を得るために、世界市場でシェアと成長性が認められる新興事業を売却するメーカーもあった。
共同体性を本質としたかつての日本型経営における、集団を身内で固める「家康志向」には、身内同士で助け合う互助的な側面があった。
しかし、リストラや正社員の限定化=派遣社員の拡大をともなった「家康志向」への一辺倒化は、単なる身内を削ぎ落とす動きだったから勢い足の引っ張り合いや非協力が蔓延する。事業部門間の連携などノルマ達成に直結しないことはやらず、事業部間は相互不干渉が暗黙の了解となった。
こうしたバブル崩壊後の企業風土の変化は、一つ一つの企業の内部の人間模様の変化として起こったが、それまで日本型経営をしてきて短絡的に全否定した大方の日本企業で同時進行した。
だから、日本型経営の欠点を排除し美点を国際標準で現代化してむしろ世界的に成長した例外的なエクセレント企業と、バブル崩壊後にゼロベースから出発した新興ベンチャーを除いた、日本の企業社会の全体の変質となった。
企業内部における「ミドルマネジメントの崩壊」は、正社員の削減と非正規社員の拡大をともなって、日本社会全体における「中間層の崩壊」に帰結した。
企業内部では、組織の機械論化と人材の機械部品化が進み、人材の側も与えられたノルマ以外のことはしない、考えない、話さないになっていった。
正社員は余計なことを言って職場で浮かないためであり、非正規社員は立場として許されないためである。
ある識者は、自己啓発本のような向上心を満たす本は中間層しか読まない、という主旨の一般論を述べている。上層は特権的な立場にすでにあり向上心を抱かない、下層は向上を望めない程に苛酷な状況に追い込まれている、というのがその理由だ。
そう言われてみると、かつては「人間学」的なビジネス書がビジネスマンに人気で、企業研修などでもよく「人間力」が云々された。企業も「企業市民」などと擬人化されその人格の向上が叫ばれもした。
かつての企業社会は「人間学」が役立つ、「人間力」が活かされる、就労者の人格を向上させる、そういう「中間層向けの教育機関」としても成立していた、と言える。実際はそんな企業は一部だったとしても、全体としてそういう建前だったりそれを理想とした、ということは言える。
つまり一言で言えば、「人間論的な企業社会」だった。
だから人々は、生え抜きで定年まで終身雇用されようが、途中で転職しようが、独立、起業しようが、その時々で成功しようが失敗しようが、そんな企業社会の一員としての人間関係を育んでいけたし、向上心をもって望めば人間関係を向上させていくことができたのだ。
しかし、今や「機械論的な企業社会」に変質してしまった。
かつては社長が社員だけでなくパートやアルバイトにまで「企業家」たれ、と訓示した。
どんな立場でも組織の全体最適を考えて行動し、常に生活者や消費者、顧客や潜在顧客という受け手側の論理で物事を考えよ、と訓示した。
生活者が商品AとサービスXを繋いで暮らしているのであれば、A部門とX部門が連携すべきだし、X部門がなければX業界の他社と恊働すべきだとされた。
まさに会社全体がストレートな物言いをさせる場とその「空気」に満ちていた。
既定路線を否定する「パラダイム転換」を主張することも求められ、また擁護され活かされもした。
しかし今は、正社員にストレートな物言いをさせない場とその「空気」で満ちてしまい、非正規社員に対しては物言いなど論外とする差別がある。
(6)
http://cds190.exblog.jp/14688540/
へつづく。