日本型集団独創2タイプの内の1つ「信長志向」、その現代世界における活性化を目指して(3) |
(間章:2)
http://cds190.exblog.jp/14656214/
からのつづき。
中国人の「家族主義」「親戚主義」vs日本人の「お家至上主義」
著者は、「①<家族の固い絆>」という項目でこう述べている。
「中国人は、(筆者注:建前でなく本音で)何よりも家族を信頼し、大切にする。親子兄弟を自分と一体的な存在と考えており、いかなる犠牲もいとわないし、喜びや悲しみもすべて家族と分かち合う。(中略)家族は強い絆で結ばれており、絶対に裏切らないという信頼関係で結ばれている。(中略)
親族の子供の学費や病人の医療費を用立てたりするのも、この絆の感情の自然の表われである。絆を守るためには、あらゆる自己犠牲を喜んで受け入れる」
日本では「兄弟は他人のはじまり」と言われる。確かに兄姉が苦労して弟妹を大学に行かせたといった話も聞くが、それが日本では美談となっていることに中国との差がある。中国では当たり前なのだ。まして日本では、叔父叔母たちがお金を出し合って甥姪を大学に行かせるなんて話を聞いたことがない。日本の方が中国より一般的に経済的なゆとりがあったにも関わらずだ。
また、加藤徹氏はその著「本当は危ない『論語』」のはじめにでこんな例をあげている。
「戦国武将の斎藤義龍(斎藤道三の息子)や伊達政宗は、実父を殺した。親を殺した彼らは、その後どうなったか。平然と大名の地位にとどまった。当時の日本人は、誰もそれを怪訝に思わなかった。
『論語』の教えを建前としてきた中国社会では、こうはいかない。(中略)もし殺せば人格破綻者として、即座に社会的生命を抹殺されたろう」
以上のような日本人と中国人の違いは何に由来するのだろうか。
それは家族形態の類型の違いに由来する。
家族形態はさまざまな家族と国家を媒介する「中間団体」に転写され、そこで各国の各民族は言わば集合的無意識的にその枠組みを発想思考のパラダイムとして血肉化されてしまう。だから、家族形態が現代化して「核家族」化しても国民の発想思考のパラダイムはさほど変わらないということが起こる。
中国、ロシア、ユーゴの家族形態は、親と成人した子の全員が同居する「拡大家族(共同体家族)」である。
これに対して、
日本の家族形態は、親と成人した子の一人が同居する「(非単系の)直系家族」である。
(詳しくは
「世界の家族形態の類型とそれがもたらす発想思考の違い(整理)」
http://cds190.exblog.jp/24655299/
を参照して欲しい。)
では、なぜそのような家族形態の類型になったのだろうか。
ここで、中国、ロシア、ユーゴの民族が単なる定住民ではない、ということが鍵になる。
戦乱や異民族の来襲が繰り返して、彼らはいざという時に転住民となる潜在性をもってきた。具体的には、家族群が集住することで一族郎党の家族群で難民となって協力しあう体制が常日頃から培われてきた。中国人の華僑はその海外展開版と言えよう。
集住の方式はいろいろであり、同姓の者が構成する村としては諸葛孔明の子孫が住む「諸葛八卦村」が有名である。また、対等な共同生活を送る住居形式としては円形集合住宅の「客家土楼(復建土楼)」が有名である。
ちなみに「客家」の源流は、紀元前1027年に周に滅ぼされた殷の民である。殷のことを商と呼んだことから「商人」という言葉がなった。商の民衆は土地所有の権利を奪われて、賤視された物の売り買いの仕事に従事するようになった。彼らの商売のほとんどは店売りではなく行商や屋台として始まったと考えられる。つまり、難民化した転住民か、根無し草の移動民かであったと考えられる。家族群が集住していれば、家族同士で川上から川下までの流通網が組織できるといった利点もあったのではないか。そうした長い年月で培われたサバイバルの知恵が「客家土楼(復建土楼)」には結集しているように思われる。
一方、日本では、縄文人が住んでいた日本列島に弥生人という異民族が来襲したのを最後に大々的なそうしたことは先の大戦で占領軍が進駐するまで経験しなかった。
無論、日本でも内戦は多々あったが、ユーラシア大陸のように逃げ場がある訳ではない島国だったため、戦乱で難民になった場合、中国人のように陸続きの新天地を求めることには限界があった。また、日本列島は大陸とは違って海と山が迫り平野が限られ狭いエリアで気候風土の変化が富んでいるため、サバイバルは、家族群で同一地域に集中するよりも、家族単位で異なる地域に分散する方が容易でかつリスク分散になったと考えられる。
また、稲作の灌漑農耕が普及した弥生時代以降の話としては、家産相続の兄弟関係が関係してくる。
日本は家督を長男が一括相続するのが当たり前できたが、中国は兄弟姉妹が分割相続する。
欧州では、自作農が多かったドイツが日本と同じ「親と成人した子の一人が同居(直系家族)× 家産相続で兄弟関係は不平等」である。
同じ欧州でも、小作農が多かったフランス・パリ盆地は日本とは違う「親と成人した子は別居(核家族)× 家産相続で兄弟関係は平等」である。
中国は、ロシアと同じ「親と成人した子の全員が同居(拡大家族)× 家産相続で兄弟関係は平等」である。
農民に話を限れば、
中国は、大陸において耕作可能ないし開墾可能な平野が広大であることと、戦乱によって難民化した時に一族郎党の家族群として行動をともにする前提がつねに潜在していて、平等なリソース分配とリスク分担の体制の方が家族群としての結束を保全できたということが働いている。定住農耕していた地を追われてしまえば、耕作地という家産は何ら意味をなさない。新天地での恊働可能性の安定確保を優先した筈である。
一方、
日本はヤマト王権成立の以降、話す言葉の違う異民族の来襲や征服のような事態は、米軍の沖縄上陸と無条件降伏による占領までは、女真族による「刀伊の入寇」(1019)、元とその属国高麗王国による元寇(1274、1281)のわずかな一時的な事例に限られた。起るのは内戦ばかりで、領主同士が戦争してもその勝敗によって領民が田畑を奪われることはなく、ただ年貢の納め先が変わるだけだった。
この場合、海と山が迫って耕作可能ないし開墾可能な平野が少ないことと合わせて、代々にわたって耕作地が散逸しないことが重視される。仮に、地縁血縁にある家族群で灌漑用水路を共同利用していたとすると、その統一的な管理運用が求められる。各家族の利害を家長が代表するとして、それを束ねる家族群の代表が必要で、さらに彼は地縁血縁のない隣接する家族群の代表と川からの取水などの交渉調整をしなければならない。領主が交替してもこうした制度的な共有財の利用も維持される訳で、それに家族と家産の所有権の代表者が明快な「親と成人した子の一人が同居(直系家族)× 家産相続で兄弟関係は不平等」の家父長的な家族形態がうまく働いたと考えられる。
このような中国人と日本人の農耕民の有り方の違いを考えてくると、
中国人は何かあればどこかに行く覚悟があり(潜在的な転住志向)
親戚関係の家族群の機会均等を前提とする恊働でサバイバルする
(空間軸で普遍的な)<社会人的な心性>を発達させた
一方、
日本人は何があってもここに留まる覚悟があり(顕在的な定住志向)
親戚関係の家族群の中で対外的な代表である「家長」や「本家」を想定し
(時間軸で永続的な)<社会人的な心性>を発達させた
と言える。
そして、このような農耕民の<社会人的な心性>は、農耕民から派生した商工民や戦闘民の<社会人的な心性>ともなっていった(「中間団体」への家族形態の転写による発想思考パラダイムの集合的無意識的な共有を経て)。
日本人にとって、「お家大事」の「イエ」とは、家長が代表する代々続くことを前提とする家族集合体の概念であり、親戚関係にある家族群は対外的には「本家」が代表するという制度的な前提をもつものである。
日本人が大切にしてきたのは「お家」であり、支配被支配の社会関係において「お家」が衰えないためには代表者が一括相続するのが合理的であるという考え方により発生し定着したと考えられる。
中国では、分割相続した兄弟姉妹=親戚が何かの時に経済的に助け合う訳で、それが中国人の「家族大事」「親戚大事」ということに帰結している。
これに対して日本人は、何かの時に「お家」が残ればよしとする、「本家」が残ればよしとする。
長男は「家長」としての責務とプレッシャーを負い、次男三男は、武士ならば士官できない部屋住みの身となったり農家ならば一生妻帯できずに冷や飯を喰わされても忍耐する。
このような日本人の家族は現代ではなくなったが、さまざまな「中間団体」にその痕跡が転写されて残っている。
たとえば、官僚社会でキャリア組は同僚が局長に昇進した際、局長になれなかった彼と同期の課長たちは自発的に退官するのが慣例になっている。そんな官僚制度は、明治政府が範とした欧州のそれにもないし、体裁的にそれに復古した筈の律令制度にもない。これは、出世トップの同期を長男に見立てて機会集中させることで(同じ経過を辿った)下位による上位への追随を直系化させる転写と捉えることができる。武家の家父長制では、次男三男らは優秀ならば他家の養子となり凡庸ならば部屋住みの身となった。古代の天皇家では皇太子とならなかった兄弟は、武家の祖とされる清和源氏のように臣籍降下した。官僚の退官、武家や天皇家の跡継ぎ以外の兄弟には同じ家督相続の構造がみてとれる。
さらに、戦前日本の天皇を元首とした国家は、じつは神に天皇を媒介として対峙する臣民の「中間団体」だったと捉えることができる。
実父を殺した斎藤義龍や伊達政宗が平然と大名の地位にとどまり、そのことに現代の私たちも違和感を抱かないのも、私たちが無自覚的に「イエ」をベースに「お家大事」で物事を発想思考しているからに他ならない。
ところが日本人とは異なり、いざ難民化した時に家族はもちろん親戚で協力しあってサバイバルする「家族大事」「親戚大事」で物事を発想思考している中国人からすれば、それは考えられないことである。
中国古代の戦記物ではよく君主が大義を重んじるとか、大義に反するという話が出てくる。儒教の倫理が中国人の<社会人的な心性>のベースであるからだ。
日本人も中国人同様に同じ漢語の儒教由来の「義理」や「忠孝」という言葉を重視するが、言葉で汲み取っている内容の実質には、本質的ないし構造的な違いが多くあることは留意しておくべきだろう。
日本人の特徴として注目すべきは、
「お家大事」に徹して犠牲をいとわないこと
「お家」概念が「家族」という血縁者の枠組みを超越していること
つまりは、
「お家至上主義」
である。
家長の座を受けつぐ者が家督を継承する訳だが、たとえ実子がいても「お家」を守って行くに不甲斐ない場合、血のつながりのない相応しい実力者を養子にした。
つまり世襲制において、本来は必ずしも血縁者が継ぐことが絶対視されてはいなかったのだ。
その周知の典型が、歌舞伎役者や落語家の非血縁者の実力者が「何代目◯◯◯◯」を襲名したことである。
歌舞伎や落語は、屋号的な名字だけでなく名前を含むフルネームの「襲名」を特徴とする。
歌舞伎役者や落語家は、出世魚的に「襲名」しては襲名興行を繰り返した。これは血統で継げるものではなく人気のある実力者だから継げるものであり、その信頼感が興行収益を安定させた。ちなみに、その系統で最高の権威を持ち、それ以上の襲名を行わない名跡のことを「止め名(留め名)」と呼ぶ。
「家元制度」で名跡を非血縁者が受け継ぐ場合、婿養子になって制度的に血縁者になるか、そうしない場合は多額の金銭を対価として売買される。
これは、名跡がさまざな既得権益や経営リソースを伴うからである。
江戸時代に創成した落語のような大衆芸能においては、もっぱら実力主義の「襲名制度」でそうした事情が希薄だったが、現代のテレビで人気の落語家の一門には血縁者の世襲が増えて、有名であることによる利得をめぐる「家元制度」になっている。テレビ芸人は、寄席芸人と違って、知名度が視聴率を左右するからだろう。
テレビ芸人ではないが、今や国会議員の多くも二代目三代目の世襲議員というご時世で、総じて「世襲=血統証つき」になってしまった。
いすれにせよ、現代になっても「お家至上主義」において「直系家族」を「中間団体」に転写する日本人ならでは展開がさまざまに続いていることは明らかだ。
日本人の「お家至上主義」の苛烈さは、「お家」を守るためには血の繋がる「家族親戚」の自己犠牲を強いたり受け入れるところにある。
大名家のような多くの武士とその家族の生活の拠り所となっている「お家」は、江戸時代にはお上の厳しく取り締まるところとなった。
「お家大事」の理念と制度は、幕藩体制において士農工商そして公家を含む日本社会全体に一貫し、260年の江戸時代の間に日本人の常識や感受性や慣習として血肉化していった。
それは現代の日本人の生活観、人生観、仕事観にも無自覚的に反映している。
たとえば、共同体性を本質とした本来の日本型経営が一般的だったバブル崩壊直後くらいまで(1990年代初頭以前)は、日本人にとって勤める会社は「お家」であり勤める自分は「お家の家臣」であるという感覚が色濃くあった。
日本人が暮らしている「ムラ社会」と「流動社会」
昔も今も日本には、明らかに「お家至上主義」ではない世間(集団や組織)も息づいてきている。
たとえば、
「お家至上主義」の筆頭、華道や茶道の血縁主義の「家元制度」の組織は「直系家族」の転写世界であり、
組織の権威と体制の維持を最優先の目的としている。
これに対して、
落語家の一門の実力主義の「襲名制度」の集団は「直系家族」の転写世界であるものの「お家至上主義」ではなく、
また、
いわゆる「ムラ社会」は、
タテ型の支配被支配の構造にあって、
かつ「家康志向」にあり、
明らかに「お家至上主義」である。
「直系家族」の親子関係(親分と子分、親方と弟子)や兄弟姉妹関係(兄弟子と弟弟子、先輩と後輩)を転写した集団群や組織群や界隈群が、
ヨコのネットワークの恊働関係にあって、
かつ「信長志向」にある、
さまざまな自然発生的な動きがあり、
それらの総体として「流動社会」が展開している。
これは部分的にも全体的にも明らかに「お家至上主義」ではない。
以下のような概念マトリクスに整理できる。
以上の概念マトリクスが示す日本の「中間団体」群の全体像は、
ざっくりとしてはいても明快かつ具体的な二項対立および相互補完の構造として、
江戸時代でも成立し、現代社会でも成立しているということである。
よって、当面、日本社会の全体構造を説明するものとして普遍性と不変性をもつと考えられる。
たとえば、
「ムラ社会」は、ムラの外の者と内の者を分けて取り込むか排除するかし、内では上の者と下の者を分けて序列化する。
つまりは、集団を身内で固める「家康志向」をダイナミズムとしている。
このダイナミズムが重視して再生産するのが、いわゆる「メインカルチャー」というものの実態である。
現代で言えば、文科省が管轄する文化行政が重視する権威的なもので、該当する文化の権威性で文化行政は権威化され、該当する文化の側は文化行政によって権威化されるという相互依存の関係にある。
文化行政はスポーツ行政を含みまた教育行政と連携しているが、同じダイナミズムや行政手法が一貫している。
大手新聞社が主催しNHKが同時中継する甲子園の高校野球大会が象徴的だが、「天下一」とか「地元代表」が鍵となるパラダイムにある。都道府県代表が日本一を競うこの大会は、事前に行われる地区予選を伴うもので、そうした祝祭的イベントの全体が、「ムラ社会」のメンタリティの維持強化を反復してきている。
韓国には全国大会があるが、韓国で高校で野球をできるのは一部のエリートだけという。甲子園の地区予選に4000校以上が出場するのに対して、韓国はわずか60校余りという。
甲子園は、高校生の野球大会としては世界に比類なき巨大大会なのである。
甲子園は、江戸時代の殿様の前で行われた天下一を決める御前試合を、殿様を主権者たる国民に置き換えた転写であると考えられる。
(ちなみに、軟式野球では全国大会として、国体(国民体育大会)と並んで天皇賜杯全日本軟式野球大会がある。後者は、殿様を天皇に置き換えた御前試合を国民の観戦にも供しているの感がある。一般的には天皇杯と呼ばれる記念杯だが、なぜか大相撲と軟式野球だけが天皇賜杯という正しい名称が使われる。)
「ムラ社会」のダイナミズムは、「ムラ」を主導する主体という送り手の論理にある。
それは、一般庶民に身近な地区では「上意下達」であり、全国区では国家的な「中央集権」(中央に地方が従う)である。
「流動社会」のダイナミズムは、これと真逆で、
一般的には情報を商品として消費する一般庶民という受け手の論理にある。
消費者は、面白い情報はカネを払っても求め、つまらない情報はタダでも拒むのだから当然だ。
上位者が下位者に情報を押しつけたり、押しつけておいてカネをとったりするのは暴力的であり、ファッショの支配被支配関係に他ならない。
「ムラ社会」で何かを権威化する場合、2通りのやり方がある。
1つは、送り手の論理で上意を下達するという政治的手法であり、
いま1つが、民に競わせてトップとなった者を報償するという祝祭的手法である。
前者ばかりをしていると民にストレスが溜まる。それを後者で晴らさせる。
「流動社会」は、
まず「ムラ社会」の権威化のすべても情報化=商品化して飲み込んでしまう。権威化の政治的手法も祝祭的手法も取り込んでしまう。(ex.全国高等専門学校ロボットコンテスト、ダンス甲子園、俳句甲子園、学校対抗のアメリカ横断ウルトラクイズなど)
一般的には情報市場社会いう枠組みがあり、情報源、情報の送り手(作り手と伝え手)、情報の受け手で構成されるが、その体制が規制されたり検閲されたり自粛したりといったファッショ化をしなければ、基本的には情報ニーズ、生活者の情報商品への期待と満足といった受け手の論理で自然発生的に形成され自然派性的に展開していく。
生活者は、各自それぞれの興味関心や必要に応じて、情報や知識を分野横断的に求めて、適切に分野連携的に得られれば満足する。
それは、子供であれば学校に行けばみな受け入れなければならない授業科目のような「分野自己完結」のものではなく、それと真逆の構造の「隣接分野連携」のものとなる。
江戸時代であれば、歌舞伎の世話物の内容と浮世絵の美人画の茶屋女がリンクし、茶屋女が着ているのと同じ柄の着物がヒットしたりしたのが「流動社会」の「隣接分野連携」である。権威主義的な幕府御用達の狩野派ではこうはいかない。それは「ムラ社会」の「分野自己完結」に留まる。
こうした「隣接分野連携」の構造を一貫させる「流動社会」こそが、いわゆる「サブカルチャー」というものの実態なのである。
私たちは、「メインカルチャー」と「サブカルチャー」というと、カテゴリー=分類をコンテンツの分野として想定しがちだ。
しかし実態の本質は、コンテンツの分野ではなくて、コンテンツがどのような情報構造および知識構造において受発信されているかなのである。
国家的な権威を画一的に至上とする「ムラ社会」で展開しているか
庶民的な人気の多様性への即応を至上とする「流動社会」で展開しているか
という分類こそが、
目前の可視的な現実を見て、その不可視の構造的な本質を見抜く術と言える。
日本社会は「非単系」、建前的な父系社会と本音的な母系社会が錯綜対抗してきた
戦後の核家族化や現代の核分裂家族化で、さらに離婚の増大、晩婚化や非婚化で、家族そのものについては「父系の直系家族」的な「お家至上主義」はほぼ解消してしまった。
何が何でも子供に結婚させて「お家」という家庭をもたせよう、何が何でも長男は結婚して「お家」をもとう、という意識は昔に比べれば確かに希薄化した。
家族そのものとそれについての意識が変化しているのは日本ばかりでなく、中国も激しく変化している。いわゆる「一人っ子政策」で、それまで3世代や4世代同居が一般的だった大家族が解消した。子供の世話や老人の介護を大家族で共同するということがなくなった。さらに、かつては結婚が神聖視されて社会的なタブーであった離婚が、改革開放政策後の経済成長とともに増加の一途を辿るようになった。
結果的に日本人と中国人は、家族そのものについてはともに「核家族化」および核家族の破綻である離婚の増大、という同じ状況になっているが、そこに見る人間模様には著しい違いがある。
私の見るところ、それは事の本質が、
日本人の場合は「お家至上主義」の崩壊であるに対して、
中国人の場合は「親族至上主義」を温存した上での核家族化への対応である
ということに起因する。
このことのベースには、中国では男女が結婚しても夫婦共にもともとの姓を名乗り続ける夫婦別姓であること、日本が夫婦同姓であることが大きく働いている。つまり中国人の場合、女は妻になっても出身の親族の一員であることを社会的にアイデンティティの土台とし続けるのである。
そして親族が一番こだわるのが何をおいても「経済力」であり、あるいは「経済力」だけであり、改革開放政策後それが露骨になった。
一人っ子政策の下、男性が生まれると名誉だが家族の経済負担が大きい、一方、女性が生まれると貯金は少なくても気にならず結婚後は相手の財産が共有になるのでラッキーという言葉(生儿子是名气、生女儿是福气)が流布した。しかし最近、「結婚する前に結婚相手の両親が子供のために購入しその子供の名義で登記されている不動産については、離婚後も両親がその子供に贈与した財産として配偶者との共有財産とは見做さない。また結婚後夫婦二人で一緒にローンを返済したとしても、離婚後は登記人の財産となる」という法律(婚姻法第7条)が発表されて、男とその家族の側は喜んでいるという。
中国社会では、こうしたことが「核家族化時代における親族のサバイバル」として展開している。
一方、日本社会では何が展開しているのだろうか。
さまざまな経過によるさまざまなタイプの核分裂家族が発生した。
たとえば、①未婚非婚の単身生活者や、②母子家庭や、③独身者が高齢の親を介護する世帯などの「核分裂家族」である。
私は端的に言って、日本では「核分裂家族のサバイバル」が展開しているのだと思う。
そして、
まず③の高齢の親が、男女の平均寿命の差から母親であるケースの方が父親であるケースより多い。
以上を総合すれば、「核分裂家族」の「母系家族的な様相を示すサバイバル」にこそ現代的な動向を見てとれる。
それは、
平安時代の貴族社会において、それまでの「氏姓(ウジ・カバネ)」から「家(イエ)」概念が登場し、後の武家社会における「お家至上主義」の「父系の直系家族」の一般化に繋がっていく動向に至る前夜の、まさに現代と同じように家族形態が不安定なカオスにある時期に、
貴族社会で展開していた「母系家族的な様相を示すサバイバル」*と
顕著な共通点をもって重なる
のである。
(*それは日本で先史時代から一般的だった「母系家族」の進化形であり、平安の貴族社会に残った最後の名残だったと捉えることができる。
詳しくは「日本らしさ、日本人らしさを方向づけた母系家族の由来とその様相」
http://cds190.exblog.jp/24663664/
を参照してください。)
母系家族とは、実質的には、女たちが男たちに対する優位性を活性化し継承する多様な家族形態のことである。
母系家族的な様相とは、そのような家族形態を志向する傾向のことである。
それが、平安の貴族社会と現代の日本社会において相似形のサバイバル方策として展開している。
私が着目するのは、象徴的には、有閑マダムのお母さんと小マダムの娘が姉妹か友達のように銀座を闊歩していたり、私立小学校に通う小マダムの娘の学芸会がそんな三世代母系で賑わっていることだ。
華やかに目につくのは富裕層だが、同様の母系家族的な様相は、上層に限らない。一般庶民の地元スーパーでも見掛ける中間層の様相でもある。
たまたま私の知り合いの小マダムが離婚して実家に戻って再婚しないまま、日々を三世代母系で楽しげに暮らし続けているのを見て、シングルマザーでも母系家族的な様相においては特段の問題なく暮らしていることに気づいた。
そして、彼らは平安貴族が「通い婚」を梃子に有望な婿とりを狙って遂げた母娘とぴたりと重なる、と気づいた。
学術的には、母系家族とは成人した女子が家に留まり男子が家を去るというものである。
日本人は一般的に、姉か妹のどちらかが家に残りそこで所帯を持つ「母系の直系家族」を想定する。しかし、母系家族の可能性としては、成人した姉妹ともに親元に留まりそこで所帯を持つ「母系の拡大家族」もある。実際に、戦争で男が徴兵されたり殺されて激減した際に世界的に発生している。
現代の日本の場合は、「非単系の直系家族」の核家族化が進んでそれが核分裂し「核分裂家族」の有り方が母系的様相を示してきたという「母系の直系家族」であり、離婚して子連れで実家に戻った娘がそこで親と一緒に暮らすケースが多い。
平安中期の貴族社会は、貴族人口の増加によって慢性的な官職不足となった。
課題達成の最も効率的で確実な方策は、位階制度によって登用と出世に限界がある息子を官職につけるという正攻法の父系的なアプローチではなかった。
具体的にはどうするか。
娘を何人か産んで美人が一人でもいれば儲けものだ。綺麗に髪をととのえ着飾らせ見目麗しい素振りを人目に触れさせる。
「女の血脈が伝えること」と「男の血脈で伝えること」を合わせ技する「非単系」継承形式(2)
「通い婚」で結婚に至るまでの経過で複数の婿候補の「夜這い」が受け入れられた。
と思うのである。
「夜這い」にくる複数の婿候補は顔をつき合わせる訳ではない。
人類原初、婚姻儀礼を伴わない「非父性一妻多夫」状態が、妻のもとに狩猟夫がいない時に漁撈男がやってくる、またはその逆で、食糧や栄養を安定化させる、そのようなサバイバルがあり得たと思うのだ。
貴族の女が男に対する優位性を発揮してサバイバルする方策としては、むしろ人類原初の素朴で強力な<部族人的な心性>が活性化していたと考えて自然なのである。
貴族の女が男に対して発揮する優位性とは、女の性の魅力・魅惑であることは言うまでもない。
一方、私が着目する現代の日本社会に特徴的な母娘や母娘孫娘による母系家族的な様相は、「すでに多くの資産を持っていたり持つことを約束された男の獲得」を狙うものである。(これがバブル期までならば「一流企業の正社員である男の獲得」を狙うものだったが、今は一流企業の正社員であることは、この手の母娘にとっては最低条件に過ぎない。)
都市部の中国人の富裕化した中間層の親同士が子の代わりに公園で「資産・家・クルマの所有」を提示して集団見合いすることが中国社会の現実主義であるように、
日本では、土台としてきた「お家至上主義」が解消しそれを建前とした「父系の直系家族」も形骸化し、分厚かった中間層が崩壊して下層が拡大したために「核分裂家族化」が特に下層で進行中であることだろう。
いずれも家族の必死のサバイバルが求められる社会状況となったが、
中国人には、ほぼ制度化された<社会人的な心性>として「親族主義」が力強く働き、
日本には、<社会人的な心性>のベースとして温存されてきた<部族人的な心性>である部族社会の「母系家族的な様相」が力強く働いている。
察して欲しい者だけがマダム小マダムの望みを忖度しうる高コンテクストな暗黙知でフィルタリングする日本人
このコミュニケーション構造の違いには両者の発想思考の特徴がよく現れている。)
孔子に始まった「志縁集団」の脱「親族主義×定住志向」とその日本化
孔子の 一門は、学問や思想で強固に結びついた、いわば「志縁集団」であった。
日本を含む漢語儒教圏における師弟関係のシステムの起源である、などとざっくりと言われる。
しかし、その日本での展開には自ずと日本化が起こっている。
何が本質として変わらず、何が変更された日本化なのか。
まず、親子関係がさまざまな「中間団体」の師弟関係に転写されることは古今東西に普遍的であり、漢語儒教圏に限ってもそのがすべてが孔子の「志縁集団」に由来するというのは、言い過ぎだと思う。
このことを踏まえれば、
日本人の集団志向2タイプの内の1つ、集団を身内で固める「家康志向」が、実際的には地縁血縁とその定住する縄張りである「ムラ社会」の転写なのだから、「家康志向」の集団は、孔子の「志縁集団」の系譜とは言い難い。
もう1つ、自由に活動している個々を適宜に集団に構成する「信長志向」の集団にのみ、孔子の「志縁集団」の系譜は求めることができる。
そして厳密に言えば、日本人には人間を超越する存在に直接、単身で対峙する「個人」がなく、それによって構成される「社会」がないままできた。
欧米人に一神教の神に直接、単身で対峙する「個人」があるように、中国人にも天の<意>=<気>に直接、単身で対峙する欧米人とは違う「個人」がある。
しかし、日本人は自然の森羅万象に八百万の神を見て、それに「集団」として対峙する<部族人的な心性>を<社会人的な心性>のベースとして温存してきた。
日本人には「個人」の集合である「社会」の代わりに、自分を取り巻く人間関係の総体である「世間」がある。そして「個人」の代わりに、「世間」における内外、上下の位置づけである「分際」=「自分」がある。
日本人は、複数の「世間」に帰属して複数の「分際」を並行させる存在として自らのアイデンティティを確保している。
ちなみに、過労死や通勤時のホームからの飛び込み自殺などの日本人独特の行為は、本人が帰属している「世間」において「分際」というアイデンティティを文字通り死守するものと解釈できる。構造的には、武士の切腹と同じである。
そのような日本人の集団志向2タイプとは、
集団を身内で固める「家康志向」の「世間」
自由に活動している個々を適宜に集団に構成する「信長志向」の「世間」
という2つの「世間」と言える。
よって、孔子の「志縁集団」の系譜に位置づけられる「信長志向」の集団だが、儒教のような原理や制度が継承されて普遍化するような「社会化」が展開しなかった。あくまで「信長志向」の「世間」として一過的に存在し、時と所を隔ててその物語としての伝承に共感した有志たちが自分たちなりに「信長志向」の「世間」を形成するという形で「世間化」が不規則に繰り返されてきたに過ぎない。
むしろ「社会化」に近い展開としては、江戸時代の幕藩体制で全国津々浦々に制度化されて日本人の血肉化した「家康志向」の「世間」の方が十年一日、規則的に継続し、容易に欧米の社会制度を取り込むほどに「社会化」していると言えるのかも知れない。
そして重要なことは、
たとえば、江戸町人文化の担い手たちは武家社会に対抗して、それぞれの分野で身分を問わず有志を受け入れて切磋琢磨して実力主義で継承者を決めていく新たな「お家」概念を打ち立てた。
すでに解説した実力主義の襲名制度集団のことである。
たとえば、坂本龍馬は、勘当されて「お家」を絶縁した上で脱藩して藩という「お家」からも離脱し、幕藩の垣根を乗り越えて同志のキーマンたちに対等に相対して横串しにネットワークしていった。
自由に活動する個々を適宜に集団に構成する仕方には、中心人物がこれはと思う者を集めるケースと、中心人物の提唱に志を同じくする者が勝手に集まってくるケースとある。
さらに坂本龍馬の亀山社中のように、何かのきっかけで集まった志を同じうする者たちが仲間になって、その過程で中心人物が自然発生するケースもあった。
こうした展開は原理的な話なので、古今東西普遍的である。
しかしそれでも、日本と中国では少なからぬ違いがある。
たとえば、日本の「信長志向」は、やはり「信長志向」の「世間」のダイナミズムに留まる。
織田信長が天下統一に向かった頃までは、信長だけでなく、信長の敵対勢力の一向一揆や境内都市や堺なども「信長志向」の「世間」のダイナミズムだった。そのダイナミズムの発展は、あくまで人と人がリアルに相対して得られる暗黙知と身体知がエンジンになっている。
信長による天下統一という主要勢力の再編がなっていれば、「信長志向」の「世間」のダイナミズムの総合的な社会制度化=「社会化」が行われて、「信長志向」の集団志向の方が集団主義の日本人のメジャーな志向性になっていたのだろう。そしてその際は、ダイナミズムの発展のエンジンが制度化されて明示知に転換され、志縁あって集った同志「集団」やそれを構成する欧米や中国とは違った「個人」の集合としての「社会」が形成されていたのかも知れない。
一方、中国の「志縁集団」は、人間関係の総体である「世間」を出発点とするがその段階を創成期に終えて一気に「社会化」していく。
それには、およそ2つの大きな理由がある。
1つは、
大陸という広い国土においては日本列島とは違う、群衆がサバイバルするダイナミズムがあることである。
いま1つは、
漢文による明示知の体系的な伝達や伝承が発達していたことである。
「志縁集団」は、確かに孔子の師弟集団が最初である。
それはブッタやキリストに集って始った「宗教集団」と似ている側面もあり、多く同じくらい長い歴史をもってもいるが、「超越者を介さない人間同士の志の繋がり」という点で本質的に異なる。
信仰者は、必ずしも明示知やその体系によって同じ神を信仰するようになる訳ではない。奇跡を目にするような身体知や奇跡を感じ取るような暗黙知が起点となる。そうした事どもを伝承する物語は<知>ではあるが、語っているのは神の摂理に通じることであって、ロジックを積み重ねる知的体系の類いではない。
一方、論語は、孔子という人間の話したことを周囲にいた弟子が記録しておいたものをまとめたものと言われる。物語にもなっているが、そもそも孔子が理想の社会やそれを可能にする人間関係についてのロジックを語っている。
日本型の集団志向2タイプの内の1つ「信長志向」の集団の中には、特に江戸時代以降、明らかに「志縁集団」の流れをくんでいるものがある。
その構成員間の人間関係が理想としたのは中国の「志縁集団」のそれだった。
幕府が精神的支柱としたとされる朱子学に対して、維新の志士たちは陽明学に傾倒した。この後者の有志が門閥や身分を超えて集った集団である。
ただし、彼らに朱子学と陽明学の儒教的な違いについての緻密な理解が普及していたとは考えにくい。
前者が現体制を守る守旧派の「お家大事」のシステム
(ちなみに、千利休とそれに深く関わった商人や武士の茶人たちは、明快な集団を形成していた訳ではないが、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」でネットワークしていて、実質、社会的な影響力ある「志縁集団」ともなっていたのだろう。
そして結果的に、利休の茶の湯に関わる「志縁集団」のリーダーとしての矜持と、戦国の世の「信長志向」の政商としての矜持を全うしたために秀吉からの切腹の命を受け入れることとなった。
その後、茶の湯は江戸時代に大名茶に展開して幕藩体制に埋没していった。一子相伝の奥義継承を利権と序列のシステムとして保全するようになり、集団を身内で固める「家康志向」になってしまった。)
「志縁集団」については次項(4)で、本書の中国通の日本人から見た中国人の特性②<仲間との固い契り>の論述に照らして引き続き検討していきたい。
(4)
http://cds190.exblog.jp/14672646/
へつづく。