入院で要介護度を急増した父の在宅介護への挑戦(3) |
2/18(金曜)
(午前10時)
朝食は父は眠りがちで、母がスプーンで運んだものを口を開けて食べたが、自分でスプーンを口に運ぶことはほとんどできなかった。そのトライは昼食と夕食ですることにしよう。
今日は2時にケアセンター(はばクリニック)、ショートステイ、ヘルパー派遣(十字の園)、看護士派遣のケアマネや関係者の方が我が家に集まって、父の様子見をして今後のことを話し合う。
◯父関連のこと
すでにケアセンターは、ケアマネの鈴木さんから、多少の介助で自立したり歩行できなければ受け入れられないと申し渡されている。ケアセンターの通所が再開できるのはかなり先になるか、一生ダメかだ。
ショートステイは、介護メインで車椅子の人も受け入れているから、父が食事を拒む意思を頑なにもっていたり(ある種の精神疾患)、誤嚥を発生して吸引が必要となったり喉をつまらせて意識を喪失する危険があったり(医療機器の使用、救急医療の可能性)が有るかどうかを確認し、無ければ受け入れてくれるのではないか。
この点は、帰宅後すでに無くなっている。
入院前まで週2で通っていたケアセンターと、月一で三泊四日していたショートステイで入浴をさせてもらっていたが、前者が当面無くなり、仮に後者も受け入れないとすると、ベッド上での身体拭きだけでは足らず、訪問入浴支援(浴槽持ち込み)が必要になる。
これには、掛かり付け医師の指示書に従う看護士が作業に参加しなければならない。この看護士の方も今日の会議に参加してくださる。
◯介護する家族(母と私)の関連
ケアマネの鈴木さんやヘルパーさんが心配してくださっているのは、要介護度が急増した父の介護をする家族のことだ。
特に、母は会う人会う人に合うたびに「腰のふらつき」を愁訴し、大変だ、大変だを連発してきた。今回の入院に際しても同じだ。
ところが、まず父が入院したここ一ヶ月、母の父関連ですることは、夕方私が病院に連れて行っての夕食の介助だけになっていて、労働的には特段に楽になっていた。ところが、母には鬱傾向なのか物事をネガティブにイメージする性格なのか、先々のこと今のことこれまでのこと、おしなべて大変だというイメージを抱きそれを人に訴えることで現実感として強化している嫌いがある。
臨床心理の認知療法では、具体的に現実を認識させることで、こうしたネガティブに歪んだ誤認を修正する。
私の反省は、父の入院中、私も母のネガティブ認知に引きずられてしまったことだ。
具体的には、母が「一日でも父を入院させておいてほしい」と医師に懇願し私も医師とともに「病院は介護施設じゃないのだから」と説得した。ところが、母の眼科の手術入院のことがあり、これがまたはあとふるの事務のミスで、眼科医が紹介状を書くのに必要な書類の返送が半月も滞ったままになっていて、それが私の問い合わせで発覚、私が受け取り眼科医に持って行くといった経過の絡みもあって、私と医師で母の不安をなだめようと父の退院を先送りにしてしまった。しかし、この入院の長引きが父の、意思の鈍化、体力の低下という様態を招いてしまったのだ。
今は、母もこの振り返りの説明に対して、済んだことを言ってもしょうがないとは言いつつ、自分が父の入院の延長を望んだことがかえって災いしたと理解している。
そして、いまも、母には現実を正確に理解し確認してもらう必要がある。
というのは、ケアマネの鈴木さんも彼から伝聞しているショートステイやヘルパー派遣の関係者も、母のネガティブ認知に無自覚的に引きずられているからだ。
鈴木さんが、ヘルパーの追加や病院と同じ電動ベッドのレンタルをすすめてくれたのも、彼が何かにつけて母の腰のふらつきを枕詞にした愁訴を聞かされてきたことが影響している。
つまり、母の父への介護負担の印象が、現実よりネガティブになっていて、これを正確に是正するところから始めなければならない。
具体的にはこういうことだ。
(あ)母が父の入院前にしていて退院後しなくて済んでいること
(い)母が父の入院前にしてなくて退院後しなくてはならなくなったこと
(う)母が父の入退院前後で変わらずにしている父の介護
(え)母が父の入退院前後で変わらずにしている自分の衣食住や家事
以上をちゃんと区分して明快にする。
ちなみに母の「腰のふらつき」は全てに関わる。
さらに、多様な目的や目標との関わりを考える。
◯短期的目標
来週予定されている三泊四日のショートステイが受け入れられること。
私も母もここのところの急変状況への対応で心身の疲れが蓄積していて、父のことから解放される休息が必要だ。
◯中期的目標
来月に母の目の手術の事前診察と手術入院があり、ともに父のショートステイを予約済みだが、これが受け入れられること。
仮に今日の関係者による父の様子見で断られても、今後、回復した様子を見てもらえるようにする(同じ十字の園からヘルパーが週1でくるので報告してもらう)。
4月来年度から、十字の園の4泊5日のショートステイを月2回にし、同じ十字の園の介護メインのデイセンターを週3回にすれば、母は父の入院以前と比べて格段に楽になる。
◯長期的目標
十字の園は、特別養護老人ホームを増設していて、運が良ければこれに父を入居させたい。
母の心身の負担ないし負担感が限界にくるといった最悪の場合、療養型入院をさせるという手段をとる。
ともに、一度入所ないし入院させたら父はそこで一生を終えると考えておくべきだ。
◯我が家ならではの目的
私がそもそも東京をひきはらい伊豆別荘地での両親との同居をしたのは、老老介護に限界が来たからだが、もっと正確にいうと、父の認知症が進みそこに持ち前の我が侭と母を蔑ろにする言動の苛烈化が重なり、母が高血圧と鬱を煩い救急車で運ばれるという事態が発生したのがきっかけだった。
それが5年前で、引っ越し準備に一年かかった引っ越し直前には、父が昼過ぎに母に駅近所に飲みに行くと言ってタクシーを呼んだまま、私が東京から家に着いた夜9時にまだ帰宅してないというので、警察に捜索願を出し、けっきょく東京は吉祥寺の交番で発見された。そこで電話で母と話した様子をみた警官がまともな人なのだと勘違いして解放してしまい、工事中のステーションホテルに泊まるつもりだったことから東京駅の鉄道公安に電話し、案の定終電の終わった東京駅で確保するという騒動もあった。私が翌日朝一の新幹線で丸の内署で一泊した父を迎えにいった。
今回の入院前には、一日一回、自分でゆっくり手すりを使って階段を上り下りしていた。身の安全に関わることにはえらく慎重な父は、階段の上下で家族が見守るだけで良かったのだ。
ただ、認知症が深まって、着替えができなくなり、トイレに行きはしても、そこから先の排泄行為が段取れなくなっていた。そこで母が付き添う。
居間でテレビを見ていた父がぬくっと立ち上がりトイレに向かう、そこを母が追う。日に何回もそうするが、実際に大小が出るのは1〜2回だ。
そして母の精神にとって最悪なのは、父がお尻を拭いてもらいながら母に威張った態度で文句や指図をすることが母には我慢ならないことで、毎日同様のことで諍いをしていた。
ちなみに、父が自立できず意思表明が不活発になった今は、こうした諍いのタネになるような不毛な介護行為が無くなって、母の心身はその分確実に楽になっている。
(あ)母が父の入院前にしていて退院後しなくて済んでいること
・朝二階父自室で、起床させ、
トイレ介助、パジャマから洋服への着替え
→食事と水分補給の少なくなり自立歩行できなくなった現在の父には、
オムツ交換を私と母ですることで対応
ベッドから起こし、ベッド端に座椅子をおいてそこに座らせて朝食に向かわせるのは、力仕事となり私がしている
パジャマで寝てガウンを着せて生活していて洋服への着替えはしてない
・昼一階居間で過ごす父がトイレに立った時の付き添い排泄介助
(何もでない時を含めて日に数回
この時母は父の隣で一緒にテレビを見ているか、
一階台所やベランダで家事をしていた)
→自立歩行ができない父にこの対応はなくなった
・夜二階父自室で、就寝させ、
トイレ介助、洋服からパジャマへの着替え
(い)母が父の入院前にしてなくて退院後しなくてはならなくなったこと
・父の食事の支度(母が自分の食事と同じ物を合わせて支度していた)
→介護食(流動食化)と投薬(錠剤の粉砕)の準備は私が担当
・母単独でのオムツ交換
(朝の起床時と夜7時過ぎの就寝時、
母が寝た夜10時以降から未明は私)
→ベッド上で臀部を浮かす力仕事を私が、
その間のオムツ交換を母がするコンビネーション
(タイミングは今のところ不定期)
着替え同様、父を立たせておいてのオムツの着脱は、
母の運動量と時間がかかり
父に言う事をきかせる気遣いもあったが今は機械的分業
(深夜から未明にかけて仕事しながら様子をうかがっていて
対応していた私も楽になっている)
(う)母が父の入退院前後で変わらずにしている父の介護
・父の食事介助
(入院前は食卓で父の隣に立って箸で、
退院後は椅子にすわってスプーンで)
(え)母が父の入退院前後で変わらずにしている自分の衣食住や家事
・自分の食事の準備
(ちなみに私が家族と家で一緒に食事をするのは、
水曜と日曜の昼食の2回だけだった。
他は自分のタイミングで自分の食事を用意したり外食。
これは退院後も継続している。)
・家族全員の洗濯物
(全自動洗濯機使用、
ベランダ干しが大変というがこれが唯一の運動になっている)
・日常的な掃除はヘルパーさん任せで、自分で掃除機をかけることは僅か
(屋内の片付け整理、庭の掃除、大掃除や模様替えは私が担当)
今回、いまケアマネさんら外部サービスの提供者の方々と相談しなければならないのは、
「(い)母が父の入院前にしてなくて退院後しなくてはならなくなったこと」
だ。
その際、
「(い)母が父の入院前にしてなくて退院後しなくてはならなくなったこと」
という母にとって良い変化も踏まえて、
母の、これまでと、今と、今後についてひっくるめて抱いているネガティブ認知に引きずられないようにすべきだ。
確かに母も86と高齢で「腰のふらつき」は要注意で、
「(う)母が父の入退院前後で変わらずにしている父の介護」
「(え)母が父の入退院前後で変わらずにしている自分の衣食住や家事」
についてもフォローしていくべきだ。
しかしそれは、目前の「◯短期的目標」においてではなく、
「◯我が家ならではの目的」を踏まえた「◯中期的目標」「◯長期的目標」においてである。
*これまで私が何をしてきたかを記録しておくと、おおよそこうだ。
◯認知症になる前まで父がしてきたこと
役所や金融機関の手続きや事務
住宅や庭の維持管理
防犯や安全の管理
昨年は深夜、仕事をしていて別荘荒らしに気づき警察を呼んだ。
その後、ポーチに防犯ライトを設置。
その後、前の家が別荘荒らしにあった。
◯母の世話
重いものを運ぶ
これには顛倒した父を起すことも含まれる
父母の救急の事態への対応
昨年は父が姿見に倒れて鏡の大きな破片が頭にささった
同居のきっかけになった母の血圧の急上昇で救急車を呼ぶような事態
父との諍いへの対応
父の側に問題があることがほとんどだが、
母の側に改善の余地があることも
買い物、気晴らしの外食、通院に連れて行ったり送迎したり
母の就寝時の肩もみしながらの心のケア
(愚痴聞きは、姉に国際電話でしてもらっている。
私は母のネガティブ認知を具体的にポジティブにすることに注力)
◯自分の仕事と遊び
基本的に以上のことをやった残りの時間と体力でやっている。
同居当初は頻繁に仕事で上京したり地方に出張できたが、
現在は父のショートステイの日程に重ねてでないとできない。
内輪の事情を話せば、私が両親と同居したのは、
私がフリーランスだったから伊豆ベースでもできる仕事があったことと、仮にできる仕事がなくなっても数年セミリタイアして復帰できると考えたこと、
両親の経済事情からすると父を高額施設に入居させた場合、父より10歳年下の母が父が亡くなった後20年生きるとしてその費用を賄うことができない。そこで、緊急に母の高血圧と鬱を改善させるという目前の課題を解決するに際して、父が亡くなるまで(あるいは母が亡くなるまでは)費用を節減できる私の同居による世話と介護支援という方向を選んだ。
母が救急車で運ばれた際、同乗した父が救急隊員に質問されて自分のことを答えてしまっていて、母はこれは限界だ自分の命が危ないと思った。私の同居はこうした母の生命の安全を守るというボトムラインから出発したのだった。
同居により生命の安全が確保されると、母の血圧は下がり、鬱も、具体的に説明すれば理解し修正するネガティブ認知程度になった。
しかし、同居したこの三年半の間に、父の認知症が深まり体力が減退して、私が直接父を介護をすることが徐々に拡大して今日に至る。
そして今回の入院の前後で、意思の鈍化、自分でスプーンで食事できないのかする気が起きなくなったかして、自立することもできなくなった、という要介護度の急増という急展開に至っている。/