日本人にとっての「霊性」の意味合い(1:はじめに) |
日本型の集団独創、そしてその2タイプの内の1つ「信長志向」
そのファシリテーション方法論を探ってきた旅程と今後
日本人が集まって対話をすれば、それが自動的に「日本型の集団独創」になる訳ではない。
日本人に限らず誰かが集まって対話をすれば、その集まった人たちに共有される文脈に対話内容は制約される。
たとえば組織のシガラミや集団のマインドセットなどだがその制約に意図的にか無自覚的にか従う時、既存パラダイムの枠組みの中での発想にならざるを得ない。
既存パラダイムとは、平たく言えば、社会や組織や集団の常識や固定観念や不文律のようなものだ。
新規パラダイムへの転換は、その制約と制約を成立させている背景を俯瞰して意識化し意図的にキャンセルして生まれる。このキャンセルをしないでした発想の転換とは、既存パラダイムの枠組みの中での新機軸に過ぎない筈だ。
私は、独創というものを、そんなパラダイム転換発想として想定している。
ただ、独創というからには、その過程と成果において独自性がなければならない。
いったい「日本型の集団独創」の独自性は何によって生まれるのだろうか?
それが私の研究課題である。
私が自分の実務体験を踏まえ雑学的な検討をして重要視するようになったことが、いくつかある。
(1)「日本型の集団独創」をする集団の人間関係が、
「交換」ではなく「贈与」を基調としていること。
「贈与」は第一贈与者として人間を超える存在が想定されていて、
日本人の場合、無自覚的に「神道的な霊性」であること。
世のため人のために、あるいは母を楽にさせたい孫子のために、といった素直な
利他の気持ちを起点に発想が浮かぶことが多々ある。
日本人に限ったことではない。
しかしそれをこそ理想とする情緒と文化が誰に教わるでもなく共有されていること
は日本人に特徴的であり、それは日本語の特徴に由来している。
私はこうしたことの総体に一貫しているのは「神道的な霊性」であると考える。
そして「日本型の集団独創」をする集団の人間関係は、
人間同士の関係としては、
競争タイプではなく共生タイプの「贈与」関係を基調としていること。
共生タイプの「贈与」は、第一贈与者である人間を超える存在の前で、
それを畏怖する人間同士としての対等関係を前提に成立する。
(参照:「『交易する人間』の無意識的な求めとその現れ」(1)〜(6))
(2)「日本型の集団独創」がうまく運ぶ時、
私たちは(1)の内容を思考し計画して行っているというよりも、
成り行きで結果的にそうなってしまったということが多い。
その際、私たちは無自覚的に「気の流れ」を尊重したり、
尊重していたと後から振り返ることができるような素直さや自然体で事に臨んで
いること。
「気の流れ」の大本そして回帰する先が宇宙や大自然であることと、
「贈与」において第一贈与者である人間を超える存在を想定されていることとは、
理屈抜き、知識以前の不可分の関係にあると思われる。
(参照:「日本人の間で「気という言葉」が多用されることの意味合い」
(1)〜(3:結論))
(3)「日本型の集団独創」は、
「家康志向」
=「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」知識創造体制
「信長志向」
=「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制
の2タイプある。
このことは、小難しい知識経営論に照らすまでもなく、まだ社会に出ていない学生
や学童でも経験的に実感していることに過ぎない。
たとえば、学校が「家康志向」で、塾が「信長志向」だ。
ただ、そういう観点で頭で整理していないだけだ。
ここで学童が学校と塾の違いを何において一番感じ取っているかと言えば、それは
理屈無しの「気の流れ」である。
「家康志向」の「気の流れ」は、
大前提として上下=垂直関係があり、
常に「内か外か」「身内か余所者か」が問われる縄張りという閉鎖的時空に
ある。
一方、
「信長志向」の「気の流れ」は、
大前提として横=水平関係があり、
楽市楽座のような「出入り自由」の開放的時空にある。
そして成功的な組織とその活動は、
「家康志向」と「信長志向」の合わせ技をしていること。
(参照:
「『家康志向の改善』と『信長志向の革新』、その合わせ技の知識経営」
(1)〜(6))
これはどういうことかというと、
世の中は、組織のシガラミや集団のマインドセットなどの制約に満ちあふれた
「家康志向」一辺倒状態が一般的であり、
そこにおけるパラダイム転換発想は、「信長志向」を導入しその成果を役立てる
つもりになれば、たった今、ここ足下からでもできる
ということに他ならない。
(4)「信長志向」を導入したり活性化するためには、
何よりも「家康志向」一辺倒状態の現状と限界について組織や集団が理解して
その問題性と解消必要性を合意しなければならないこと。
このために、
モノ割り縦割り、ないしは高度に専門分化したタコツボの
「家康志向」が陥りがちな<送り手側のモノ提供の論理>の問題性を振り返り、
コト割り横ぐし、ないしは異分野コラボレーションの
「信長志向」が得意とする<受け手側のコト実現の論理>の理想性を求める
「コンセプト思考術」が役立つ。
「コンセプト思考術」は、話し言葉の4概念要素の組み立てに照らすもので、
心で思い想う思考術である。
<コトの意味><コトの感覚><モノの感覚><モノの機能>の4概念要素の
内、特に<コトの感覚><モノの感覚>が概念全体の結節点になることが特徴
である。
これは特に、日本人に特徴的な「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」に
おいて、無意識が浮上させた発想の断片からその行き着こうとする全体を推量
するメタ思考ツールとなる。
(参照:
「現実論として『情緒起点でする推量』と『パラダイム転換』の関係を整理する」
(1)〜(5)
「日本型の集団独創のポイントは、肌で感じ取る日本語と現場相対の触れ合い
(年度末総括)」)
「コンセプト思考術」のグループ演習は、インストラクションで「目的論志向」
を強調する。
発想が浮かんだ際、
それに対する一般的なメタ思考が「この発想はどこから来たのか(原因論)」を
問うのに対して、
「この発想はどこに向かうために授かったのか(目的論)」を問いかける。
すると発想を拡張深化させることができるからだ。
原因論にばかり向かうと、
「私たちはこういうことからこういうことを思いつきました。そこでこのように
ファーマットにまとめました」
と自己中心的な思考に終わってしまいがちだ。
一方、目的論に向かえば、
「このアイデアを自分たちが授かったことにどんな意味があり、
何を目指すことが最善なのかを探ったところこう気づきました」
と自己超越的な思考にもっていくことができる。
そのような結論に至るまではフォーマット記入は進まながいが、
集団対話の「気の流れ」は健やかで活発になる。
そして結論に行き着けば誰もが納得するフォーマットへの落とし込みが難なく
明快にできる。
(参照:「トランスパーソナル心理学を応用する」(1)〜(3))
以上の「コンセプト思考術」ないしは、それと同等の平易な話し言葉による発想
思考手法を展開する場合、
日本語ならではの特徴といえる多様な擬態語や身体語の多用が重視されること。
それは短絡的に、「多様な擬態語や身体語の多用」をすればいいということでは
ない。
「多様な擬態語や身体語の多用」をしなければ対話できないような暗黙知を日常
的に重視する知識経営を行い、独自の戦略的切り口を模索する暗黙知を集中的に
明示知化したり共有知化する集団対話の「場」をもつということだ。
(参照:日本語の擬態語や身体語の具体的な特徴について検討した本ブログ記事)
「コンセプト思考術」ないしはそれと同等の平易な話し言葉による発想思考手法
と、
「多様な擬態語や身体語の多用」をしなければ対話できないような暗黙知を日常
的に重視する知識経営テーマを共有すること、
そして、
独自の戦略的切り口を模索する暗黙知を集中的に明示知化したり共有知化する
集団対話の「場」をもつことは、
組織や集団の創造性の土台となる「気の流れ」を理屈抜きに活性し維持する。
私は、以上の今のところの重視事項を踏まえて、
本論シリーズで日本人にとっての「霊性」の意味合いの検討に進みたい。
「霊性」は、(1)の第一贈与者として人間を超える存在が想定される「贈与」とも関係するし、(2)の宇宙や大自然から来たり帰る「気の流れ」とも関係する。
「霊性」という言葉の意味合い自体が曖昧模糊としている。
しかし私の理解は、
そもそも日本人がそして人類が原初に感じ取って畏怖したり従ったりしていた何かは、現代人が言葉にして分けて捉えている物事が渾然一体となった曖昧模糊としたものだったのであり、日本人は現代においてもそれをそのまま自然体で受け止めている、そして無理のない範囲でそれでいて根深く生活や仕事や人生に役立てている、
というものだ。
本論シリーズで検討する「霊の発見」(五木寛之著/鎌田東二対話)は、このことの実相を俯瞰させてくれた。
本書の検討は「日本型の集団独創」の理解を深めてくれる。
また、「信長志向」の具体的かつ、日本人の感受性に適した実践的なファシリテーション方法論を模索する助けになると想う。
私が着目してきたのは「祈る」ことを起点なり基調とする発想思考である。
「祈り」自体は<知>の営みというよりも、<情>を<意>に転じる営みと言えよう。
「祈る」という行為は人類普遍であるが、何をどう祈るかという「祈り方」となると民族や時代によって千差万別だ。
パラダイム転換発想にしろ、支配的な物語をもう一つの物語で解消するナラティブ・アプローチにしても、同様に人類普遍である。
しかし、何をどう転換するかという「転換方向」となると民族や時代によって千差万別だ。
私は、日本人に特徴的な「祈り方」に、日本人の集団が自然体で得意とする「パラダイム転換方向」や「もう一つの物語の紡ぎ方」が重なるのではないか、と仮説している。
その仮説は、日本人にとっての「霊性」の意味合いを検討することで、より精緻に立てていくことができる筈だ。
今後の旅程は不確定であり、旅程表はない。
私の手元にあるのはこの仮説立てについての直感という羅針盤だけである。