機械論化が招く「知情意のバランス」の崩壊 |
(twitterより)
「知情意のバランス」が大切という。ふつうマクロ経済的に、自分は知と情と意が調和してると考えがちだ。しかしミクロ経済的にはどうだろう。たとえば「資格」は知。ある仕事にどうしても就きたいなら意が濃厚だが、就職の際に有利つまりは他者との差別化のためなら意は希薄。就職した際の情はいかに?
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(ほそく)「知情意のバランス」の崩れその「資格」取得の場合、じつは夢で見た。なんでそんな夢を見たのか。きっと、昨日どこかで最近の中間管理職が強権発動するようになった弊害を論じている記事を読んだためだと思う。つまりその強権発動が誰が見ても「知情意のバランス」を欠いているからなのだ。
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「知情意のバランス」が大切という。ふつうマクロ経済的に、自分は知と情と意が調和してると考えがちだ。しかしミクロ経済的にはどうだろう。たとえば「英語公用語化」は知を偏重。母国語のように情をデリケートに交感しようという動機は欠落。意は、議論や交渉への意思という前提以上のものではない。
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(ほそく)企業社会では、組織や制度、人間関係や知識創造などに「機械論化」が見受けられる。その共通する特徴は、「知情意のバランス」の崩壊だ。何かが機械論化すると、機械を構成する経営者>機械パーツを操作する管理職>機械の部品になる平社員という階層社会化が画一的な知と数量への意を強要。