「空気全体主義」がより顕著にはびこってきている |
「KY」と、空気の読めない者を批判するようになって久しい。
でもよく考えると、空気の読めない者が至らないとされるのは、古今東西の道理であって、今に始まったことでもないし、日本に限ることでもない。
ではなぜ、空気の読めない者のことを言う「KY」という短縮形名称が、この時期、この日本で流布してみなが多用するようになったのだろうか。
急に空気を読めない者が大量発生した訳ではない。
結論から言えば、誰かを「KY」とレッテル張りをしてみんなで批判しようとする機会が大量発生したからである。
ここで注意すべきは、「KY」という言葉は、空気を読める読めないという能力について言う言葉のようでいて、言葉の存在の本質はもっと深くまた広いところにあるということだ。
たとえば、場の空気は読めている、しかしその空気があまりに非創造的であるがゆえに、あえて場の空気を破壊し創造的なものに再生すべく行動したり対話する場合もある。
しかし、誰かを「KY」とレッテル張りをしてみんなで批判しようとする機会とは、「KY」とレッテル張りされては仲間はずれにされたり村八分にされる機会なのであって、そうした「既存の秩序や規制に従う場の空気の破壊を禁じる圧力」こそが大量発生した、ということが基本的な社会背景としてある。
だから「KY」という言葉の発生は、その言葉を使った、あるいは使わずとも言わずもがなの秩序や規制の新たな形の圧力の発生に他ならない。
この職場で仕事していきたいのならば、このクラスに通ってきたいのならば、この「空気に従うべし」という圧力が徹底強化される、そのような機会が大量発生したのである。
そこでは「空気を読めるか読めないか」は実は問題ではない。
読めようが読めまいがとにかく「空気に従いさえすればいい」のだ。
多感で反抗的な者を排除し、むしろ鈍感で従順な者を歓迎する、そういう集団や組織が大量発生した。つまりはそうでなかった多くの集団や組織もそのように変容したということだ。
そんな集団や組織の暗黙のイデオロギーを私は「空気全体主義」と名づけた。
「空気全体主義」とごたいそうな名づけをすることには理由がある。
それは、「空気全体主義」が従わせる「空気」の本質が不条理や不公正であるからだ。
不条理や不公正を集団や組織が秩序や規範にしている、しかしそれを露骨に言葉や文章に明示知化することは多方面に都合が悪い。
そこで「空気」という暗黙知に漂わせ共有することにする。
そしてそれを徹底するために「KY」という言葉が自然発生し日本社会の全体で共有されるようになったのだ。
この言葉の日本人全体の実用的な広がりと心理的な深さに注目するとそれは、敗戦までの軍国主義下、日本人が皮膚感覚で感じまたそれに身を委ねていた「大東亜共栄」「欲しがりません勝つまでは」「一億玉砕」といった言葉を多発した「全体主義」に匹敵すると思う。
何が違うかというと、軍国主義の明示知の道理がまがりなりにも暗黙知にも通っていたのに対して、現在の読むべき空気には、明示知の合理性から不条理であること明らかな暗黙知の黙認が含まれていることである。
たとえば、サディストの上官が「畏れ多くも天皇陛下の云々」と言って部下を殴るのは、言葉の上では合理的であり、目に見える直接行動をとっている。一方、現在の読むべき空気には合理的な建前からすれば不合理だったり、公明正大な建前からすれば明らかに不条理な目に見えない陰湿なイジメの可能性が含まれていたりする。命の関わる極限状況ではないが、にも関わらずなのか、だからこそなのか、言葉の道理を放棄した陰湿さという点で現在の「空気全体主義」の様相の方が苛烈と言える。
「空気全体主義」が従わせる「空気」の本質が不条理や不公正である、と述べた。
その典型は、大手マスメディアが一致団結して特定の情報を遮断する「遮断報道」や、特定の政治的思惑に誘導する情報に偏向する「偏向報道」である。
大手マスメディア企業の社内では、それを善しとする方向の皮膚感覚、それに身を委ねることを強要する「空気全体主義」が一貫している。
またかつてはあんなに自由で多様な発想を発揮していたあるメーカーが、いまや不自由で画一的な発想とも言えぬ想定内の思考しかしなくなってしまった。
そんなメーカーの社内にも、それを善しとする方向の皮膚感覚、それに身を委ねることを強要する「空気全体主義」が一貫している。
おそらくこうした企業に人材を送り込む大学や大学院にも、そこに生徒を合格させるべく受験勉強をさせている学校や進学塾にも、それ相応の「空気全体主義」が一貫しているのだろう。
地域社会において話題となっている「公園デビュー」、あのめんどくささも「空気全体主義」として説明できるのかも知れない。
そして、単身生活者以外が育んでいる家庭、もしその家庭までが「空気全体主義」に冒されているといるとしたら、創造的な個性を発揮したいという当たり前の人間性をもっている夫や妻や子供はどうなるのだろうか。
世間での「空気全体主義」に打ちひしがれたストレスを癒されることがないばかりか、中にはその鬱憤を自分より弱い家族に向けて晴らす者になってしまうこともあるのではないか。
巷で見聞きする「空気全体主義」の様相
今週、月曜から昨日水曜まで、久々に上京してきた。
複数の業界の若い人たち(30代前半男性と40代前半女性)に会って職場や家庭の話をきいてきた。
まだ世間に馴染みきることない年齢の男性、いろんな事を抱えながらも自分なりの世間を構築する活動を日々している女性、そんな彼らに触れたいという気持ちがあった。
要は、「空気全体主義」という言葉は使わないがそれが表現するような諸々の様相に皮膚感覚で問題意識を感じ取り、日々の実践としてそれと格闘したり創造的に逃走している人たちに会いたかった。
若くてもというか、むしろ若さゆえに「空気全体主義」に従順になり苛烈な先兵になっている人々も多いし、逆に歳をとっても柔軟に「空気全体主義」の渦中をうまく飄々と泳いでいる人もいる。
そんな中なぜ彼らに会ったかと言えば、彼らは「積極的に他者と繋がろうとする人たち」だからだった。
彼らは組織人でありながら組織に囚われていなかったり、自分ならではの自営業をしていたりする。つまり個人としての目的をもって遊牧民のような自分のベースとスタイルを確保している。だからその目的を媒介に同様の遊牧民と「繋がろうとする」のだ。その繋がりは決して固定的だったり独占的だったりせずに、変容的で重複的であるために繋がったお互いにとってその繋がりに束縛感がない。
こういうタイプの人たちは、勤める会社や業界が変っても、自営する業種や場所が変っても一貫している個性の持ち主だ。
私の経験からすると、こうした個性が「ブレナイ人たち」は、組織人や商売人としてはまったく囚われがないために良い意味で逆に「ブレル人たち」である。
だからこそ私としては、個人として信頼できるし創造性豊かな恊働可能性を期待できるのだ。
私は、その人から会社をとったら何もないようなタイプや、その人から店をとったら何も残らないようなタイプには、個人として魅力を感じないし信用もしない。その人の絡みで信用するのはその人の会社とそこでの役割や、その人の店と出すメニューでしかない。それで相手も良いと思っているのだから問題はない。
他者と「繋がろうとしている」タイプを自負する人は多い。
というよりみんなそうだろう。
しかし大きく2つのタイプに分かれるのだ。
1つのタイプは、
自他を「手段」の保持者とみなすだけで、
「手段」が連携することで何かが達成できるとだけ考えるタイプ。
ポイントは「だけ」という捉え方です。
このタイプにとっては、自他がどこの業界大手に属していて何をやってきた人間か「だけ」が重要だったり、どこでどんな店をやってきた人間か「だけ」が重要だったりする。
いま1つのタイプは、自他を何のために生きているのか、仕事をしているのか、という「目的」の保持者として本質をみとめ、「目的」の共有可能性において何かに挑戦できる恊働可能性をイメージするタイプ。
このタイプにとっては、いくら自他がどこかの業界大手に属して過去にどんな経験があったとしても、あるいはどこでどんな店をやってきたとしても、いま明日に向かって何かに挑戦しようという気概がなかったり、お互いの「目的」に重なりが見出せなかったら、恊働可能性が無いか有ってもあまり意味がないのである。
私は後者のタイプを実践するフリーランスとして生きてきたつもりであり、この2タイプを直感的に嗅ぎわけてきた。
しかし歳をとり、また別荘地での高齢の両親との暮らしにいわば引きこもるようになって、その直感がいまだに健全に働いているか判らなくなっていた。
また特に若い世代の後者のタイプから、私自身の問題意識や求める課題が共感されるかどうか、同じ後者のタイプとみなされるかどうかも判らなくなっていた。
今回の上京はそれを確かめたいという思いがあった。
企業社会の中核とは、企業に何らかの形で関与する就労者同士の人間関係である。
同様に学校社会の中核とは、学校に何らかの形で関与する先生や生徒の人間関係である。
それは会社や学校に立ち入らなくても都会の巷に日々いろんな形でにじみ出ていて感じ取ることができる。
そして東京は日本のその先鋭的な様相をそこかしこにいろいろに表出している。
3ヶ月ぶりに上京した今回感じたことは、
「空気全体主義」が強まる所ではそれがより苛烈になっていて、
そもそも「空気全体主義」とは無縁だったり弱い所はより自由に創造的になっている、
という二極化だった。
人間関係がそうなると、人間関係を表象する世界もそうなる。
その秩序や規制を目に見えた形に整然と分かりやすくするのが店舗空間や商品展示である。
新宿の伊勢丹や高島屋のデパ地下食品フロアに行って愕然とした。
食べ物のリアリティが希薄化してその分、食生活の階層性の象徴表現が前面に押し出されていた。
20年前、池袋の西武本店の食品館の基本構想に参画した際、エキサイティングな市場空間を構築したことを思い出すと極めて対照的だった。市場には大通りがあり路地裏があり、いろんな人々が売り手として買い手としてあるいは冷やかしとして行き交う。そんな空間デザインを仕掛けた。
あの光景を思い出した時、この猥雑な街である筈の新宿のデパ地下もが、言わば冷やかしを無言のうちに遠ざけさせる化粧品売場のような完全な「空気全体主義」の店舗空間と商品展示になっていた。
デパ地下のマーケティング的にはそれが正解なのだろう。
私が感じ入ったのは、それがマーケティング的正解となっている世間の方だ。
所得格差の広がりは今に始まったことではない。
高所得層に対応する秩序や規制に、中間層以下も追随することで買い物や食生活の喜びを感じる、あるいは感じたように思うようになっているという人間関係に感じ入ったのだ。
正直に言えば、ほんとうにそれが豊かな食生活だと感じるのぉ?と疑問を抱いた。
地方にいても先鋭的な世間の動きを感じることができるのが家電量販店だ。
そこで各社の3D大画面テレビ群にモノの送り手側の「空気全体主義」を感じていた。
方式は各社各様なのだが、そこに立体映像視聴ライフというコトの受け手側からすると、共通する曰く言いがたい違和感を禁じ得なかった。
この感想を、「空気全体主義」に囚われていないという意味で信用できる前出の若い男性技術者にストレートにぶつけてみた。
すると彼も同意見だった。
私としては、大昔カラーテレビが出始めの頃、そのカラーの「総天然色的な不自然さ」にとても買う気になれず、我が家は一般家庭にカラーテレビが普及しても長い間白黒テレビだったことを思い出した。
現状の3Dについての私の違和感は、あれと同じ技術の未熟さについての、あるいはそれゆえのものなのかと最初は思った。
しかしどうもそうではないような気がしてならなかった。
数年前にCEATEC JAPANで3D大画面テレビの試作機をみた時に感じた驚きとかワクワク感のようなものが、各社のどの方式にも感じられなかったからだ。あの時よりも技術的に後退した訳はないのだ。
私が試作機を先にみた初体験があったがためか。その疑問もあって、数年前の試作機をみていない、当時は他業界人であった若い技術者の感想を聞いたのだった。
そして彼も同感だったことは、立体映像を見ることのシンプルな楽しさに関わる本質的な何かの欠落を予感させた。
この件についての具体的な検討はいずれしたい。
ただ私としてはテレビを開発するモノの送り手側に、性能という「手段」を自己「目的」化するような各社の、そして業界全体の「空気全体主義」が作用した可能性がありそうだと感じている。
「総天然色的な不自然さ」にもかかわらずカラーテレビの登場に飛びついた階層がいたように、現状の3Dテレビにも飛びつく消費者はいるのだろう。
しかしそれがどの程度になるのか。そして今後の3Dの性能向上に伴って、カラーが自然色に進化した時と同様の普及をしていくのか。あるいはそうなるように私の感じる違和感も解消されていくのか。
とはいえ、私と彼が感じた違和感の正体はまだよく判っていない。
ただ、モノの送り手側にも身を置く者として、技術開発の課題設定において何らかの「空気全体主義」が作用した、その結果、各社各様の方式にも関わらず同様の違和感があるのだろう、ということが推察される。
そしてこの送り手側の「空気全体主義」は受け手側の消費者には浸透しそうにないという予感もある。
そしてあまり売れなくても、送り手側は不景気や高価格のためだと思うのだろう、というのが私と彼の予測でもある。
伊勢丹や高島屋のデパ地下の店舗空間や商品展示は、そこで購入しない非ターゲットの階層にとっても、「一流高級のグルメはかくあるべし」という秩序と規制を認識させ共有させもする。
ある宗教の荘厳な神殿は、異教徒にとってもそれが神殿であることは認識されるようにだ。
一方、現状の3Dは一流高感度とみなされていない。その先に立体映像視聴ライフの未来があると信じられていないのではないか。あるいはそんな未来だったら私は要らないと感じられている節がある。
つまり、現状の3Dテレビを買わない人たちは、買いたくても買えない人なのではなくて、たとえ買えても買いたくない人なのである。そこをメーカー各社は判ろうとはしないだろう、とメーカー内部の「空気全体主義」を皮膚感覚で知る私と彼は判ってしまうのだ。
帰りの踊り子でまどろんで夢をみた。
夢の中の私はかつて万博パビリオンでみた3Dシアター、あの感覚をリビングで楽しんでいた。
その時、部屋は暗くしていて、画面は私の身体を覆うように湾曲していた。
その湾曲は3次元で有機ELならでは可能なものだった。
私が夢見る立体映像視聴ライフの未来はそういうもののようだ。
現状の3Dは平面画面を前提に立体映像をどう出現させるかを開発課題としている。
私ならば3次元有機EL画面を前提に視覚的臨場感をいかに出現させるかを開発課題とする、ということか。
他人事のようだが夢はそのように語っていた。
(参照:「FPD International 2009、有機ELテレビとカラー電子ペーパーが注目集める」
http://eetimes.jp/news/3518)
そして、メーカーの次世代3Dテレビ開発の会議でこんな夢物語を語れば、私はまず「KY」とみなされるのだろう。
ほんとうは3次元大画面のラフなダミー・プロトタイプをつくって疑似体験を生活者モニターにさせて、現状の平面3Dとの比較調査をすべきだ。
しかし「空気全体主義」はそんなことは無用だと決してとりあわない。
彼らは、私の夢物語の難点をダメ出しした上で、私の非専門性と未経験に言及してダメ押しするだろう。
それが「空気全体主義」の排他性の非対象的対話構造だ。
私は数年前から家電メーカーのクライアント企業から直接対話の場をもってもらえることは公式にも非公式にもなくなった。それで構わないと思っている。
私の仕事にしてみれば、私のアイデアを採用する会社が世界中に1社あればいい。
むしろその1社以外がとりあってくれない方がありがたい。
しかも私は目下、一身上の都合でモラトリアム状態にあって、アイデアが仕事やおカネにならずとも構わないのだ。
「空気全体主義」とは、身内の人間の保身的排他性のイデオロギーであるから、私という部外者との恊働はしたくないがアイデアだけはもらおうということはある。
私としてはそれでもいっこうに構わない。
何らかの形で、身内だけで画一的な意思統一を図る「空気全体主義」の限界と非創造性に少しでも思い当たり個々人が内省してくれればそれでいいと思っている。
さらに現実の社内様相としては「空気全体主義」は、知識創造活動において身内同士の対話においてもいろいろに発言を躊躇させるように働いている。
具体的には、ラフなニーズ・アイデアのレベルのブレインストーミングができなかったりする。どのように実現するかのシーズ・アイデアまで整った完全形のディスカッションしか許されなかったりする。
そしてそのシーズが自分たちが今持っている技術とその性能に限定されるのだ。
こうしたことが強要されるベースには、その技術と性能を実現できる自分たちの保身意識があるが、それは無自覚的なのか当たり前なのか決して限界的であるとは問題にはされない。
しかし、受け手側の生活ニーズから知識創造活動が立ち上がっていないことは明らかで、それを問題視せず当然視するところに「空気全体主義」の具体性がある。
こうした既存パラダイムに縛られないで受け手側のニーズ・アイデアから知識創造を立て直そうとするのは外部ブレインの役目だが、これを「空気全体主義」の推進者は嫌うのである。
私が、彼らの排他的保身意識に参画を阻まれることを分かってて、折に触れてはオープンに提案を繰り返す目的は、まっとうな知識創造活動をしたいと考えている内部人材の個性を、結果的にバックアップするためです。
あくまで「結果的に」であって、彼らのためでもなく、彼らに恩を着せるつもりもない。
こんな商品やサービスがあった方が世の中楽しいのではないか、という思いに素直に、広くて自由な世間でオープンかつフェアに発想思考しているに過ぎません。
「空気全体主義」の支配する会社の社員であってもそのようにしたいと思っているタイプの個々人と「目的」の重なりにおいて「繋がっていたい」。そしていつかその「繋がり」で何かに挑戦したいと思っているだけだ。
つまり、まずはそんな私自身のためにやっていることでしかない。
現実問題としては、なるべく外部の私が刺激的な極端なことを唱えている方が、内部人材が現実的な飛躍アイデアを提案しやすくなるし、それが「空気全体主義」推進者の幹部にも通りやすくなる。
幹部が、彼らのアイデアをプロトタイピングをして生活者モニターのチェックをしてみるか、となればしめたものだ。だか現実はなかなかそうはならない。
たいていはそんなことをして上手く行かなかったら誰が責任をとるのか、お前がとれるのか、といった類いの話をされる。
少しは「空気」を読めよ、という顔で。