「日本人を考える」司馬遼太郎対談集を読む(4)陳舜臣との対談 その1 |
陳舜臣対談「日本人は”臨戦体制民族”」(昭和45年/1970年)発
「小部隊主義」と「ミドルアップダウン・マネジメント」
冒頭、司馬氏が「日本民族とは何か」、日常感覚から話してほしいと求め、陳氏が答え始めます。
「一番くらべやすいのは仏教でしょうね。インド、中国を経由してきた仏教は、日本に渡来したら、とても日本的に変形してしまった。そこらあたりに日本プロパーがもとめられる可能性があるんじゃないかと思うんです。
例えば、どの宗教でも祈祷に異常に熱心だったということ。禅宗だけはそうじゃないけれど、(中略)日本において、いかにシャーマニズムが根強かったかを物語るんじゃないでしょうか。
それに仏教国でお寺が兵隊を養っていたことはありませんね、日本の僧兵のように」
「中国にも少林寺拳法があるが、あれは健康法、体操の一種なんですね。しかも拳法を使って僧兵を養い寺を守っておったという事実はありません。
やはり、その点で日本は尚武の国だといえるんじゃないですか。
それからひじょうに派閥好きだということですね」
司馬
「中国は文をもって社会をまもろうとしてきたことはたしかですね。
武は権道であって、常態ではない」
ここで司馬氏は、空海が「中国の合理主義になんの関心も示さず、最初から真言密教を学ぼうとした。密教は、仏教でさえない。釈迦を教祖としていない。インド土俗のバラモン教で、それが唐に来ている」ことに触れ、こう結論します。
「中国やインドにおける密教は、カッチリと体系化されたものではなく、大きさはあるが多分に流れた存在です。それが空海という日本人の頭をとおすと、ぬきさしならなぬほどにカッチリしたものになる。理論を完璧なものにし、論理を構築して、一つの駒をぬくとガラガラ崩れるほどにカッチリしたものをつくりあげたのです。それが真言密教です」
「要するに空海は、海の向こうに存在しているものをもちこんで来るのに、そのエッセンスを抽出して、日本で再組織して、たとえ小粒であっても、完璧な結晶体にして高野山の山頂へ置いた。
日本文化は、そういう思考で成立しているとは思いませんか。ずうっとマルキシズムまで」
陳氏もこれにこう答えます。
「そうですね。
規模の大きさは望まない。小さな、たとえ、箱庭のようなものでも一分のゆるぎないものにしたいという性癖が、日本人にはありますね」
「どうも日本人は、そういうふうに閉鎖的に閉じこもってしまいがちなんですよ。閉鎖的でいる方が有利だと思っているのと違いますか。
鎖国というものも、やはり日本的なものの表われといえる。なにも幕府が命令を下したから鎖国ということではなくて、日本人にはもともと鎖国を受け入れる精神性があったのではないでしょうか」
これは、中国人から見た日本人観ですが、私たちが「鎖国が長かったから日本人が閉鎖的になった」と思いがちであるのに対して、「もともと閉鎖的だから鎖国を受け入れた」と見るのは目から鱗の落ちる思いがします。
「箱庭というと悪口めいてきこえるけれど、空海もそうであったように、日本人は隙のない完全なものをめざす。そのためには、鎖国した方が民心がまとまっていい、ということもあるんじゃないですか」
「あれこれ苦心して、外へ洩れないように、拡散しないように、日本人は努力するんじゃないでしょうか。コンパクトで機能的であることをめざすようですね。
国家の体制についていえば、(中略)理想は手足のごとくうごかせる精鋭の小部隊を編成することです。大軍になってしまえば、動きが鈍くなる。維新後、外国と接触したけれど、そのかわり、思い切り内をひきしめましたね。明治日本の成功は、小部隊的勝利で、日本の十八番といえるでしょう」
この「小部隊主義」は、戦後にアメリカのやり方を日本ナイズして取り入れた「日本型経営」の集団志向にも重なります。
そこでミドルマネジメントが日本独特の活躍をしたのですが、それは「小部隊の長」として、トップ=司令部とチームメンバー=部下とを媒介し、「小部隊の長」同士が連携もしたということだと思います。
(参照:「私たちが無自覚でいる『日本型』の構造 その7=『ミドルアップダウン・マネジメント』の組織知識創造」http://cds190.exblog.jp/12100944/)
中国人の現実主義と理念尊重主義、そして対照的な日本人
司馬氏が「中国人のほうが現実的なくせに、反面、民族共通の一理念に対してはひどく忠実なのではないか」と問題提起して、こんな象徴的な話をします。
「宋の時代に大医がいて、官の許しではじめて罪人の解剖をおこなった。内臓をひらき出してみたが、どうもちがう。ちがうというのは、陰陽五行説という大原理に照らしてちがうということです。中国の医学、つまり漢方は陰陽五行説からでていますね、例えば内臓は五臓六腑である、とか。
ところが現実の内臓はちがうのです。そういう場合『理念のほうがまちがっている』と考える人とそうでない人とがありますが、この宋の大医は、『この罪人はまちがった内臓をもっている』として、かれはその解剖図をかくにあたっても、陰陽五行説のほうに合わせて、現実の解剖上の配置をデフォルメしてしまった」
このような中国人の発想思考パターンは、今現在でも息づいています。
中国はいまでは立派な資本主義の経済大国ですが、中国共産党は共産主義がまちがっていたと否定した訳でもなく、中国はいまだ社会主義国家だと自負しています。
これなんか、陰陽五行説=マルキシズム、現実の中国=過渡期の共産主義国家、という認識と言えましょうか。
「その解剖図がずっと日本にきていて、日本の漢方医の古典の一つになっていましたよ。
(中略)
ところが江戸中期、京都の宮中の侍医頭というきわめて保守的な官職をもつ、山脇東洋という当時の代表的な漢方医が、これはおかしいと思いはじめた。(中略)陰陽五行説的な解剖図に疑問をもち、ついに官許をえて、粟田口で罪人の解剖をするのです。
杉田玄白らの蘭学者の解剖より以前です。山脇東洋は解剖をやってみて、長年の疑問が一時にとけて狂喜するのです。
現実は、理念のようになっていない、理念よりも、この罪人の内臓の現実のほうが正しい、という。
かれの著書の『臓志』というのは、中国風の理念尊重主義に対する挑戦的な文章で満ちている。『理アルイハ顛倒スベシ、物ナンゾ<言巫>(し)ウベキ」理念というのは現実つまり物の前にはひっくりかえることがあるのだ、現実を理念でまげることはでいない、という」
「空海的な思想を結晶化することのすきな性格のほかに、こういう合理主義、つまり、西欧的な合理主義をうけ入れやすかった精神を日本人は持っているといえるんじゃないでしょうか」
司馬
「中国人には、古来一つの強烈な思想があって・・・」
陳
「それが邪魔になるんですね。重荷になっている。
小部隊ならすばやく散開したり、かんたんにUターンもできるけれど、大軍団はいっぱいよけいなものをくっつけて、身のうごきが自由でない」
ただ、今現在の中国からは、大軍団はいったん動き出したら誰も止められない大きなうねりになる、と言えそうです。
司馬
「日本人は『俺が現実に見たら、話と違っていたぜ』といわれると、すぐに変身する。幕末、伊藤博文と井上馨がロンドンへ行って、ゆく途中上海で西洋文明をみて、とたんにいままでの攘夷志士が、攘夷を捨ててしまう。それこそ全部捨ててしまう。
中国人と日本人には、そういう違いがありますね」
陳
「それは非常に大きな違いでしょう」
私は、中国人が理念尊重主義であり、理念起点であることは認めますが、合理主義にも行き着くし、実際に今では日本人以上に行き着いていると思います。
また日本人が、根っから合理主義だとも思いません。実際に、先に攘夷思想を情緒的に抱いた上での合理主義の開国論への転向だった訳です。
これは、
欧米人に特徴的な発想思考は「因果律にのっとった<知>起点の発想思考」
中国人に特徴的な発想思考は「共時性にのっとった<意>起点の発想思考」
日本人に特徴的な発想思考は「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」
という私の持論と重なります。
明治の志士の攘夷思想も転向した開国論も、列強の侵略を防いで祖国を守り通したい、という<情>を起点としていました。
一方、中国は列強から国を守るという<情>が清王朝から一般庶民まで一貫していたとは言いがたい。列強の進出を現実として受け入れ、その上での対応をしていた訳ですが、それは地政学的な理由からだけではないように思います。利害の異なるさまざまな中国人階層がそれぞれの思惑という<意>で動いていた。そういう意味で現実主義であり、その現実を見据える価値観は、易で捉えるような運気=共時性だったと言えますまいか。
司馬
「明治まで漢方薬を飲んでいた日本人が、文明開化とともにドイツの薬がいいとなると、一斉にそれへゆく。まったく大分列行進で、一瞬に方向転換するような盛大さです。こういう性格は、どこから生まれてきたんでしょう」
陳
「外から来たものだからじゃないでしょうか。古いものも新しいものも、もともと、みんな自分たちのものじゃないですから」
司馬
「もとからあったのは、シャーマニズムだけだから。自前で生みだしたものではなく、向こうから来たものだから、捨てるのは簡単ですね」
「日本人の合理主義もそういうところの根があるのかもしれない」
つまりは、日本人の合理主義は、欧米人のような「因果律にのっとった<知>起点」の合理主義ではないということです。