「日本人を考える」司馬遼太郎対談集を読む(2)犬養道子との対談 その1 |
犬養道子対談「”あっけらかん民族”の強さ」(昭和44年/1969年)発
日本は相対的思考の国
注目される論述を拾っていきましょう。
犬養
「日本というのは、別に批判的な意味じゃなくて、あらゆる面で相対の国ですね」
司馬
「相対的思考法の国です。(中略)
一神教というのは裁くないし荒地から生まれたものでしょう。アラビアの大地で寝ころがっていると、上に天しかない。無数の星があって、その運行を統一している絶対者がいるという絶対的感覚が、体でわかってしまうかもしれませんが、日本のような山あり川あり谷ありの錯綜した地理風土では、この山に神がいて、あの谷川にも神がいて、どうしても一神教的思考が成立しにくい」
一神教をベースとする文化的遺伝子は、第一原因を想定する因果律(Aが原因になってBという結果が生じる)を重視する発想思考の特徴に行き着きます。
一方、八百万のアニミズムをベースとする文化的遺伝子は、いま、ここ、この場における偶有性を意味のある必然性に捉え直していく縁起を重視する発想思考の特徴に行き着きます。
司馬・犬養両氏の対話は、前者が絶対主義的な権威を基軸とする一方、後者がそれを嫌い、形式的に取り入れたとしても、必ず相対化してきたことを論じていきます。
司馬
「たとえば明治維新で絶対君主制をとり入れたけれでも、なかなか身につかなくて、庶民の世界では天皇についての猥雑なことをいってたわけです。結局は80年ほどでその絶対制が剥げちょろけてしまって、いまはもとの日本古来の相対的世界に立ち戻っている(筆者注:戦後天皇制)。
日本人というのは、絶対的権力・権威を一つのものに与えるのを嫌がるんですな。同じものが二つか三つないとどうも力学的に落ちつかないところがある。(中略)
東大があれば京大、早稲田があれば慶応、(中略)光琳に対しては宗達・・・最澄が居れば空海。平安朝からずっと朝廷での祈祷は天台と真言のバランスの上に立っておこなわれてきました。そういうふうに必ず対になっている。(中略)
それが政治にも社会生活にも現われる。日本では二つの権威が成立するんですね。これは長い間の不思議な民族心理ですな」
犬養
「そういうところが日本人をかくも好人物にしていると思うんです。(中略)
たとえば非常に強くて、頑固で、何でも体系づけないと気がすまないような民族があるでしょう。そういう民族は一つ間違うときは、大変なことになるのよ。
日本人なら間違っても相対的に間違うんだけれども、向こうは絶対的に間違っちゃう。その間違いが理屈で体系づけられていくから、物凄いことになるんです。
一神教をひとたびひっくりかえしたところに出てくる西洋のメフィストフェレスの世界の恐ろしさは、とても日本人には想像もつかないものですね」
ここで犬養氏が言っているのは、彼女が滞在していたドイツのことであり、アメリカのことではありません。冷戦終結後、一国大国主義になったアメリカを知る私たちは思わずアメリカのことを思い浮かべますが、対外政策のダブルスタンダードなどナチスドイツの一貫性とは異なります。また、昭和44年/1969年の冷戦下の対談であり、アメリカよりも無神論を掲げて宗教を弾圧したソ連のことでありましょう。
司馬
「よくいえばお人好し、悪くいえば無責任。
だいたい太平洋戦争のボタンを押したのが誰なのか、いまだにわからない。今後も分からんでしょう。
こんな不思議な国ってないですよ。日本中がある種の気分の中で、なんとなく押しましょうで押しただけで・・・」
日本国憲法は、進駐軍からもらった憲法だから、自主憲法を作りましょう。それによって日本人の精神的支柱を正しましょう、という考え方があります。
私は、この考えに条件付きで同意します。
条件とは、司馬氏の問い「太平洋戦争のボタンを押したのが誰なのか?」を究明して分かる、ということです。そこがうやむやのまま、戦後の再出発だけは自分たちでやり直しました、では家を土台から建て直したようなもので、ちょっとした集中豪雨で土台の下の地べたがぬかるんでしまいます。
しかし私の主張も、自主憲法論者の主張も、現実的にはさほどこだわるべきものでもないのかも背入れません。それが太平洋戦争のボタンを押したのが誰か判明したとて、新しい自主憲法を成立させたとて、あまり日本人は変らない可能性が大きそうで、それは必ずしも悪いことではないという主張もあるからです。
犬養
「人間の欠点というものは長所の裏返しでしょう。
だから西洋の物すごい執念は、日本には真似のできない巨大なものを有無ということも、一方にはありますね。たとえば500年かけて一つのカテドラルをつくるとか、100年ぐらい先を考えて運河をつくるとか埋め立て工事をやるとか、(中略)なんていうのもそれでしょう。
音楽にしたって、ベートーベンの音楽なんか、テーマを何楽章もこねくりまわして、土壇場までもっていっちゃうでしょう。日本の三味線とは違うわけ。音楽の形態がどうとかいう以前に、しがみつき方がまるで違う」
こうした比較文化論で言うと、中国は、万里の長城や兵馬俑のような巨大建築を作ります。西欧と似てるようで違うのは、皇帝の意志が必要を感じ人民を強制してあっという間に人海戦術で作ってしまう、というところでしょうか。いずれにしても、木と紙で作った補修したり建て替えるのが基本の日本建築と、西欧や中国の石やレンガづくりの建築では大きく異なります。
<家康志向>が<信長志向>を否定したのが江戸から戦前まで
そこでは<信長志向>は一過的な例外として登場しては潰された
それが戦後、<家康志向> と<信長志向>の合わせ技という理想型が一般化
司馬
「西洋とくらべればビフテキとお粥の違いだけれども、日本にもいくつか絶対思想みたいなものがありますね。
さっきちょっといった一向一揆なんか、まあ、お粥的体制ながら絶対主義的な匂いのする運動です(筆者注:一向一揆が、様々な階層の主体的な集結集団で、転住志向と交易志向が強かったことに留意)。(中略)
一時は教勢がつよくて、室町末期、加賀の守護大名富樫氏を倒して、一向坊主と地侍の連合国家ができた。これは信長という仏敵に滅ぼされるまで、加賀で一種の共和政治を20年間続けたわけです。つまり日本的絶対主義の流行。
そうそうそれと同じ時代、家康がまだ二十代のころに三河一向一揆というのが起こっています。徳川家というのは主従の結びつきが強いのに、家臣の半分が一向一揆側についちゃう」
つまり家臣が、個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する知識創造体制である「信長志向」の一向一揆側に応じてしまった。
つまりこの時にはまだ徳川家は、集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する知識創造体制である「家康志向」になっていませんでした。
司馬
「いわば徳川株式会社草創期の大ストライキです。もっともこれは戦争だから、生き死にの争議だったわけだけれども、これが家康の三河統一の試金石になった。
このストライキを煽動・指揮したのがのちの本多忠信ので、いわば組合委員長といった役どころですね。
家康は戦闘面ではさんざんやられたが、懐柔政策でもってこの騒ぎを収めたわけだけれども、正信という人材を得た。家康後年の策謀・奸計のほとんどがこの本多のアドバイスなんです。いま(筆者注:昭和44年/1969年の高度成長期末期)でいうなれば学生運動や労働組合運動から成り上がったものほど、冷酷辣腕の経営者になるというケースですな」
「家康志向」は幕藩体制において完成しただちに実施されていく訳ですが、そうした体制づくりをするための知見を、家康とその家臣団は三河統一当時から蓄積していたと考えて良いでしょう。「信長志向」の権化・筆頭であった本多正信は、それを封じ込めるにはどうしら良いか熟知していてそれが「家康志向」の体制づくりを遺漏なきものとしたのだと考えられます。
さらに、「信長志向」の最大の雛形は織田信長でした。
家康は、今川家の人質として駿府に行く途中で織田家に捕らわれ6歳から9歳の三年間その人質となります。その後、信長が亡くなるまで盟主として従った訳ですが、「信長志向」の主体と組織と制度について生に体験したことは、「信長志向」の可能性と限界の両方について熟考する機会となったことは間違いありません。
その織田信長の「信長志向」ですが、前項(1)で述べたように、中世的なるものの、自由奔放な芸術家肌とも言われる織田信長という一人の人間による集大成という側面が強い。だから、秀吉はじめ家臣の誰かにそれがうまく受け継がれたとは言いがたいのだと思います。
ただ、それまでの「信長志向」の政策を展開した為政者たちとの大きな違いは、信長が、天皇にとって代わって自ら皇帝になろうとしたことでした。それを阻むための明智光秀による本能寺の変という説もあるくらいです。
(ちなみに、秀吉は天皇にとって代わろうとする思いはなく、天皇によって関白として権威づけてもらいます。秀吉の「唐攻め」は信長の遺志を継ぐものとの説がありますが、国際的な重商主義の信長ならば、ポルトガルやスペインとの共同作戦による主要貿易港の割譲を狙っていた可能性を否定できないと思います。信長のしようとしていた「唐攻め」は、秀吉が行った朝鮮征伐と性質が異なった可能性があります。後の「朝鮮併合」がこうした可能性を見させない方向に多分に働いているのではないでしょうか。)
信長が、天皇にとって代わって自ら皇帝になろうとした、この点は注意を要します。
私が「日本型の集団独創」の2タイプを「家康志向」と「信長志向」とネーミングして、この対語を聞いた人が、後者に絶対主義的なイメージを感じ取る、という誤解を生みやすいことと関係します。
私としては、あくまで「集団独創」のタイプですから、信長が天皇に代わって皇帝になろうとした絶対主義の権力志向は捨象しているのですが、この誤解は避けがたい。
しかし他に適当なネーミングが見つからなかった。根深い理由がありました。
「信長志向」の信長自身の絶対主義の権力志向を除いた知識創造体制の部分は、交易重視で海民を海運者として時に海戦者として活用する、水軍と強い繋がりをもった平清盛や奥州藤原氏なども展開したものです。私の個人的な見解としてはその祖型は、律令制度に温存された天皇により通行税を免除された供御人に由来する、つまりは古来自然発生したものだと思います。
一方、「家康志向」の知識創造体制は、徳川家康がその家臣とともに集大成した、いわば改善と革新によって人為的に形成したものでした。
ですから後者は「家康志向」と聞けばピンとくる。
しかしこれと対照する概念として「信長志向」と聞くと、同じく信長が人為的に形成した局面である絶対主義の権力志向をどうしてもイメージしてしまう。
ところが、これを捨象した「信長志向」の「日本型の集団志向」の部分は極めて自然発生的で、つまりは世界に普遍的なものでもあり、それを象徴する特定の固有名詞が見当たらない。
「家康志向」「信長志向」をやめて何か抽象的な対立表現にすることも考えましたが、それでは何を言っているのか分からなかったり、何より使い勝手が悪い。
そこで誤解を生む余地が多分にあることを覚悟でこの対のネーミングに落ち着きました。
絶対主義的な権力志向を捨象した「信長志向」は、世界に普遍的なものである、と述べました。
その筆頭は、やはり海民です。
象徴的な例としては海賊です。
西欧の著名な海賊の場合、船乗りは必要最低限、完全な実力主義で雇用されたと言います。船乗りの報酬は子供でも大人と同じく一律で、キャプテンは一般船乗りの2倍というのが不文律でした。陸の上での身分は問われず、奴隷身分の逃亡者も多かったそうです。
つまり、個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する知識創造体制である「信長志向」だった訳です。
この海賊船乗りの体制づくりは、大航海時代の遠隔地貿易の民間航海船にまで反映したと考えられます。
そして、この船乗りの体制づくりは、為政者や投資した国際商人が、自由競争している民間航海船(海賊船)を仕立てる体制づくりと相似して、入れ子構造でした。
つまりこれも、個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する知識創造体制である「信長志向」だった訳です。
これは平清盛以来の日本の為政者による交易体制でも基本的に同じです。鎖国以後の管理貿易になると、海外交易機会が制限され幕府直轄、ないし特権藩直轄の官製航海船の体制づくりのニュアンスが強くなり、集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する知識創造体制である「家康志向」となっていきます。
遠隔地貿易の民間航海船の体制づくりについて述べました。
これが定期航路化するにつれ、中継港の港湾都市に基地が作られるようになります。
山田長政が活躍したシャム(現在のタイ)の日本人町などです。
ちなみに長政が朱印船でシャムに渡ったのは1612年で、家康が征夷大将軍に任官されて江戸幕府ができた9年後、明以外の船の入港を長崎と平戸に限定して鎖国体制が始まる4年前で、いまだ「信長志向」の遠隔地貿易の民間航海船の体制づくりが残存していた時期と言えましょう。
こうした日本人町のような基地は貿易中継港に各国人が競って作ったもので、国が後ろ盾になる古い例としては任那日本府(任那官家)がありますが、それ以前から各国民間の海賊において規模の小さいものが自然発生し連綿と続いていたと考える方が自然でしょう。そうした古来からの国際的な海民の土壌があってこそ、後の倭冦(かならずしも和人ではない)の台頭があると思われます。
山田長政は、アユタヤー王朝の国王ソンタムの信任を得て、第三位の官位を授けられ、チャオプラヤー川に入る船から税を取る権利を得た、と言います。
海禁政策をとらない言わば開放性の絶対主義的な権力が、個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する知識創造体制である「信長志向」をとることも普遍的でした。
大航海時代のスペイン女王が、イタリア人航海者のコロンブスの船団を組織しセビリヤ港から出発させたことが象徴的です。国内の反対者に有無を言わせぬ絶対主義的な権力の発揮でした。新大陸を発見して帰ってきたコロンブスに、彼でなくても誰でもできたと暴言をはく者までいたことは、「コロンブスの卵」で有名です。とかく身内には他人の足をひっぱるだけの閉鎖的な保身主義者がいるものです。
身内の内向性が「家康志向」の限界性だとすれば、それを打破するのが「信長志向」であるという力学は何も日本だけのものではありません。
大航海時代のスペイン、ポルトガルも、イギリス(イングランド王国)も同じです。当時の航海の性格は、略奪、探検、冒険航海の色が強く、絶対王権がその後ろ盾となって特許を与えたのでした。そしてイギリス東インド会社やオランダ東インド会社という特許会社に繋がっていきます。ちなみに、前者は1602年に後者は1609年に平戸に商館を設置しています。山田長政が活躍したアユタヤ王朝ですが、1603年にオランダに外交使節を派遣していて、商館設置と通商に関わるものだったと想像されます。
私たちは、信長の上洛あたりから江戸幕府成立までの時期、国内合戦と朝鮮征伐にばかり目を向けますが、こうした国際的な交易事情にもっと目を向けるべきであり、少なくとも織田信長自身は石山本願寺を下した後、国内統一は家臣に任せて国際戦略を練っていた筈なのです。
ところがこの信長が短命に終わり、家康が開いた江戸幕府が260年に及ぶ太平を築いたことから、日本人のメンタリティから信長的な国際志向が減衰し、同時に集団独創の方法論として人材の階層移動性を容認する「信長志向」も中心から周辺に追いやられてしまいました。(ちなみに江戸時代の武家社会に対抗した町人社会の、文化娯楽の世界では「信長志向」が継承発展のメカニズムとなりました。)
遠隔地交易における船乗りの体制づくりと、民間の航海船(海賊船)を組織する絶対主義的な権力の入れ子構造の関係は、現代日本の企業社会でも、その「信長志向」の展開においてまったく同様に見受けられます。
たとえば私が参画したコンビニ企業2社の新業態開発は、ともにトップ直轄プロジェクトでした。
1つは、大阪出身のユニークな経歴(あるスーパーの会長と当時部長だった彼だけがコンビニ参入に賛成しコンビニ事業開発のキーマンに抜擢されたことに始まる)のワンマン経営者により直轄された外部人材のみのプロジェクトでした。
いま1つは名古屋に本拠をおく流通グループのコンビニ企業で、本体のスーパーと同じ集団合議制の経営により直轄された内部人材を中心としたプロジェクトでした。
前者の船乗り=プロジェクトメンバーの体制づくりは「信長志向」で、
後者は「家康志向」で外部ブレインは必要最低限、例外的に参画させ、要の済んだ者から切って行くというものでした。
そして前者が、古来からの普遍的なベンチャー・スピリットを発揮したのに対して、
後者はプロジェクト責任者となった課長の裁量によってベンチャー的なニュアンスは制限されました。
ちなみに前者では、新業態開発の仕事を終えた後もコンビニのIT事業への参入構想などの新案件を依頼され、私は「社長直轄総合コンサルタント」なる肩書きで顧問契約を結ぶことになります。
このような経験は、正確には1990年代前半くらいまでは、多少なりとも実績を評価されたフリーランスであれば誰もが経験していたことでした。
私は1986年、30歳の時に個人事務所を設立し、すぐに大阪と仙台の企業とも顧問契約を結び毎月通いました。全国のベンチャー・スピリットを発揮する企業はその社長なりキーマンが個人同士で活発にネットワークしていて、そのネットワークで仕事を依頼されたのですが、そのような依頼を受ける地方を拠点にするフリーランスもたくさん居ました。
「信長志向」で外部ブレインが活用される機会は、何も東京に集中していた訳ではありません。
たまたま私は東京で立地的に大手企業をクライアントとすることが多かったのですが、「信長志向」による外部ブレイン活用さは、地方企業をクライアントとして地方テーマで全国展開していた訳です。
整理すると、現代の企業社会においては、
(A)「家康志向」のプロジェクトとスタッフ構成
社員を中心スタッフとして外部ブレインを例外的に下請け的に投入する
=会社や業界の常識からの離脱を回避してベンチャー的ニュアンスを制限
(B)「信長志向」のプロジェクトとスタッフ構成
外部ブレインを中心スタッフとして社員を事務局として投入する
=会社や業界の常識からの離脱を意図してベンチャー・スピリットが旺盛
という2系統あると言えます。
さらに平成22年の今から、戦後日本の企業社会を推移を振り返ると、このように整理できます。
まず敗戦で「家康志向」の経営体制が途切れ、エクセレント企業の「信長志向」による創業と成長で復興しきて高度成長期に至ります。
典型的な逸話としては、一貫して「家康志向」である官僚社会ですが、通産省がホンダの自動車参入に反対しこれを押し切って参入した本田宗一郎が世界のホンダを作り上げたことが上がるでしょう。オートバイを作っていたホンダが多様な人材採用に踏み切った訳で、これは「信長志向」の原理を踏まえていると言えます。
さらにオイルショックを乗り越えたエクセレント企業は「家康志向」と「信長志向」とをウェルバランスさせ相関させる「合わせ技経営」に至ります。
典型的な逸話としては、一貫して「家康志向」である官僚社会ですが、運輸省がヤマト運輸の宅急便ビジネスに難色を示しこれを乗り越えて小倉昌男が宅急便成長期を招来させたことが上がるでしょう。宅急便ビジネスの開発は、業界の既成観念に染まっていない若手社員を中心としたワーキンググループが行いました。これは「信長志向」の原理を踏まえていると言えます。
そしてバブル期に向けてベンチャー・スピリットを発揮する企業ほど、上記(B)タイプのプロジェクトを多発するようになりました。
コンビニ企業だけではありません。私のような30代若造の零細個人事務所ですら、自動車メーカー2社の開発子会社創設や社内指名コンペなどに外部ブレインとして参画したことを、今の若い世代はどう思うのでしょうか。NHK番組の「フロントランナー」に出てくるほどのメジャーではないにしても、構造的には同じような抜擢経験のあるフリーランスが、どんな業界にも、そして全国にたくさんいたのです。
前項(2)で梅棹忠夫氏の
「情報産業といってもまだ黎明期で、なんか能率をあげるための手段だと思われている面がある。
しかしこれは能率とは関係がないんです。
創造というか遊びの精神にかかわりがある。
いまに才能のある非帰属遊戯者が沢山でてきますよ」
という予言を紹介しました。
オイルショック以後、バブル期に向けて、日本の企業社会は「重厚長大」の単純ハード産業から「軽薄短小」のソフト化産業に重心をシフトしていきました。
梅棹氏の予言した情報産業というのは、産業のソフト化のことと理解すべきでしょう。
そして実際、バブル期には、仕事を遊びとして自由奔放に活動する「才能のある非帰属遊戯者が沢山でてきますよ」が現実になっていたのです。
しかしバブル崩壊とその後の長引く平成不況において、(B)タイプのプロジェクトが形成されることはなくなり、もっぱら(A)タイプのプロジェクトが形成されるようになりました。
そして現在は、ルーティーンとして(A)タイプを活用してきた広告業界や出版業界、映画業界や音楽業界などを除いて、一般的な業界では社内スタッフのみで行うプロジェクトがほとんどとなりました。
その背景としては、バブル期をピークとした室町時代的に自由奔放な(B)タイプのプロジェクト(典型的には堤清二率いる西武流通グループの新興など)の体験者や成功談を知る者がいなくなった。自分たちの縄張り以外の異なる専門分野の知識創造者と恊働することの意義や感触を経験したことがなく、自分の知らないものを過小評価することで排他的な保身を図ることが一般的なメンタルモデルになってしまったことがあります。
江戸幕府の鎖国体制の時代にあっても、海外ではアユタヤー王朝に山田長政が重用されていました。しかし、幕藩体制で身分を保証された人間があえて海禁を犯して長政のような余所者を招き入れてまで恊働しようとはしない。それと同じで致し方ないのかも知れません。
しかし、そんな組織と制度と就労者のメンタルモデルの限界性が、現在の日本の企業社会の硬直性をもたらしていることは間違いありません。
企業社会の就労者のメンタルモデルは、学校社会の若者に即座に反映します。
海外に出たくない、東京や大阪などの大都市に出ずに故郷の地方都市で暮らしたい、そういう若者が増えています。
確かに、テレビとインターネット、ファッション誌とユニクロで、わざわざ海外や大都市に出なくても、地元で暮らしていて十分に都会的な生活を謳歌できるようになりました。
そして、外国人の友達もいず、日本人同士でも自分と異なる意見や知識の持ち主と対話しない者までが、TOEICの高得点をとろうと頑張っています。
こうした社会の一般的な様相のすべてに「知識偏重」が一貫しています。
それは、自ら他者とリアルに相対して恊働することによってできる「実践体験」の広がりを、「知識局面」に限定するものであることが明らかです。
「知識を重んじること」が悪い訳ではありません。
ただ、専門分野に埋没するタコツボ化、異なる専門分野との恊働への消極性、資格の偏重、有資格者同士で縄張りを守ろうとする排他的保身主義といった、一般的なその有り方が限界的なのです。
こうした限界的な「知識を重んじること」がそもそもの無自覚的な前提になっているから、自ら他者とリアルに相対して恊働することによってできる「知識局面」以外の「実践体験」を無しでも済ませられる、いな無しで済ませたいとするようになります。
そして、TOEICの高得点をとるために英語学習で忙しくて、とても外国人の飲み友達を作ってる暇などない、という本末転倒に陥っているのです。
このような「一億総◯◯」的なステレオタイプの事態は、いわば精神の「鎖国状態」に他なりません。
知識創造分野においては、「家康志向」一辺倒化が蔓延してしまっていることが決定的に影響しています。
いまこそ英語を公用語化するなどという画一性促進策ではなくて、
老若男女を問わず自分ならでは実感しているこだわりのテーマで、
「信長志向」の集団独創機会を求め、自ら他者とリアルに相対して恊働する「知識局面」以外の「実践体験」を主軸に据え直し、精神の「鎖国状態」を解放して欲しい、
そう私は感じます。