組織知識創造、その再生のカギは「自分の頭で考える」と「身体で対話する」 その8 |
2010年 03月 12日 |
明示知化できない暗黙知というものがあり
それを共有するには身体で同期するしかない
「身体で対話する」醍醐味はそこにある
(3)モダリティ表現からの気づき
その2 「言うという行為」における「話し手の視点」について
日本人とその集団組織を前提とする日本型経営、その知識創造過程において重要な役割をしているとされるのが「暗黙知」である。
「暗黙知」とは、つまるところ身体で感受し記憶し表現する「身体知」であると思う。
そして、個人レベル、集団レベル、組織レベルの「暗黙知=身体知」があり、
それぞれに言語化、つまり明示知化できるものと、できないものがある。

日本人と日本型経営がなぜ「暗黙知=身体知」の感受と記憶と表現、つまりは「暗黙知=身体知」を活用した対話や交流を重視しまた得意とするかと言えば、それは日本語という言語の特徴に由来する。
私が日本人の発想思考の特徴との絡みで注目しているのは、
(1)多様多彩な擬態語の多用
(2)多様多彩な身体語の多用
(3)多様多彩なモダリティ表現の多用
である。
本項「その8」では(3)モダリティ表現について引き続き論じていきたい。
モダリティ表現の日本語ならではの特徴はずばり、「言うという行為」(speech act)における「話し手の視点」にある。
「わきまえの語用論」で著者井出祥子氏は、その構造が文化によって異なることを英語と対比する下図で明示する。

「英語では、相対的にみて命題が大きく、モダリティとコンテクストの領域は小さい。
それに反して日本語ではモダリティとコンテクストの比重が大きい。」
「渡辺(1988)は日本語の文法は『文の内容作り』と、内容と話し手自身との関係をのべる『文作り』の二つから成り立つと捉えているが、命題内容だけでなく、話し手がその命題内容をどう捉えているか、態度を表明するモダリティが必要不可欠である。
そのことを、命題とモダリティの境界が弱いということを表わすという意味で点線で表わしてある。(筆者注:*上図ではスクリーントーン面が実線なしで隣接と表現)
渡辺(1988)による『文作り』とは、コンテクストの状況に応じて、モダリティ表現を選択して、話し手の発話に対する態度表明をすることである。このように、モダリティとコンテクストの
密接な関係を示すため、ここの境界も点線で表わしてある(筆者注:*)。
さらに、コンテクストとその外側の境界線も、点線となっている(筆者注:*)。
これは、手紙のはじめに季節の移り変わりを適切に述べる時候の挨拶や俳句の季語にみられるように、コンテクストが自然にまで広がって外界とつながっていて、それがモダリティ表現となっていることを表わすためである」
「話し手の視点がコンテクストの中にあることにより、話し手がコンテクストの一部となっていることにも注目してもらいたい。
つまり、話し手がコンテクストの中で自分がどのような存在であるかを自ら認識して、それにふさわしいモダリティを使い分けている。(中略)
世代、役割あるいはジェンダーをどのように認識するか、そのアイデンティティに応じた言語形式の選択をしている。話し手はこうしてコンテクストの一部として話しているということをこの図に示している」
前項「その7間章」で、私は、
「ある国民や民族が、『一なる全体』として画一化する傾向はどこにもある。
しかし日本人の場合、善くも悪くも『一なる全体』の思考が極から極に大きく振れる、という特徴がある。
攘夷から和魂洋才へ、鬼畜米英からアメリカ礼賛へ。
バブル崩壊という経済敗戦によって、日本型経営が短絡的に全否定されたことにも同じダイナミズムが見て取れる」
ということに触れた。
そのダイナミズムには、日本語の「言うという行為」(speech act)における話し手の視点と、それに基づく語用をした明示知と暗黙知の有り方が仕掛けとして連鎖的に働いている、と考えられる。
「英語の場合、三層の境界はいずれも実線で描かれている(筆者注:上掲図)。
それは、命題が発話として表わされる際、相対的にみるとコンテクスト要素が日本語ほどには影響を与えることがない、従ってモダリティ表現が付加されることが必ずしも必要ではないことを示す。
言い換えれば、命題がコンテクストにあまり関わることなく独立している傾向が強いことを表わしている。
英語では『言うという行為』をコンテクストを含めて外の視点からながめ、客観的な認識に基づいて話す傾向が強いことを示している」
日本語と英語の対照において際立つのは以下のことである。
「高コンテクスト文化においては必然的にプラグマティック・モダリティが豊かになる。
一方
低コンテクスト文化の文化・社会での『言うという行為』には、プラグマティック・モダリティは比較的少なくてすむ」
「暗黙知=身体知」との絡みでは、
高コンテクスト文化においては必然的に、「暗黙知=身体知」が豊かになり、個人レベル、集団レベル、組織レベルの知識創造を大いに方向づける。
<知><情><意>の絡みでは、
その際、<身体知>において他者の<情>に同化することが対話を深めるとっかかりとなり、その可不可によって反対するか賛成するかの<意>が形成され、最後に<知>が形成されていくという手順を踏みがちになる。
著者の言う
「話し手の視点がコンテクストの中にあることにより、話し手がコンテクストの一部となっている」
とは、具体的にはそういう対話状況ないし非対話状況のことでもあるのだ。
こうした<情>→<意>→<知>の展開ベクトルは何も日本人だけが持ち合わせている訳ではない。
しかし、その言語がこの展開ベクトルを大いに促進する仕掛けを内包しているとなると、日本語ならではの特徴と言わざるを得ない。
そして、母国語の特徴がそれを使用する民族の発想思考を個性化したり制約する以上、私たちはそのような発想思考を方向づけられている、と言うしかないのだ。
ここで、私たち日本人にとって「自分の頭で考える」とはどういうことか、
その解釈に2通りある。
1つは、日本人が「自分の頭で考える」ということを、
日本語ならではの個性化と制約を受け入れた、あくまでその内部の営みと捉える。
いま1つは、日本人が「自分の頭で考える」ということを、
日本語ならではの個性化と制約を認めながらも、
それをできうる限り外部から俯瞰しようとメタ思考する営みと捉える。
私は本論シリーズだけでなく、常に「自分の頭で考える」ということは、後者を自覚的に目指すものと捉えてきた。基本的に「パラダイム転換発想」を志向し実践してきたからだ。
しかし、その選択は、個々人それぞれに委ねられている。
こうした選択肢があることに気づいていない人はもちろん大勢いる訳だし、
気づいても敢えて考えないことも当然、本人の自由です。
ただ私が言いたいのは、
以上前者のような、日本語ならではの特徴である制約をただ受け入れた対話をし続けていれば、
必然的に組織知識創造は「家康志向」一辺倒になりがちで、すでになっていれば戻りようがない。
以上後者のような、日本語ならではの特徴である制約を意識的に超克しようとする対話をしていけば、
必然的に組織知識創造は「信長志向」をも併存させるようになる、なれる
ということなのです。
「空気を読む」という言葉が巷間よく聞かれるようになった。
それも若い人の間で、空気が読めない人のことを「KY」というようになって顕著になった。
小中学生では、「仲間外れにならないようにおしゃべりに参加して人の話に合わせる」という生徒が多く、直近の調査では女子で減少傾向が出てきたのに対して、男子が増加傾向を示しているという。
「空気を読む」にしても「仲間外れにならないようにおしゃべりに参加して人の話に合わせる」にしても、日本人ならではの様相としては、「場をわきまえる」という表現になる。
しかし、重要なのは、そのような「わきまえ」を求める「場」に、一人一人の個人が受け身であるいは消極的に「場をわきまえる」参加をしていても、それは集団や組織の全体としては揺るぎなく力強い大きな動きを現象させることなのである。
つまり、「特定の何かをわきまえるべき場を揺るぎなく形成していく」と表現すべき状況を蔓延させていくことなのである。
それは良いことでも、悪いことでもない。
良く作用すれば、江戸幕府を打倒する倒幕勢力の邁進する「場」を盛り立てていった。
悪く作用すれば、民主主義を圧殺する軍国主義の増長する「場」を盛り立てていった。
そこに何らかの選択肢があるとすれば、
そうした「場」を形成する日本語ならではの「対話のメカニズム」について
主体が
自覚していて意図的に対応したか、
無自覚的に対応したか、
である。
そして、そこにこそ、
前者が「自分の頭で考えている」
後者が「自分の頭で考えている」とは言えない、
という区別があると歴史は示唆しているように私には思える。
前項「その7間章」で検討した現代の社会構成主義もそう示唆していると私には思える。
もちろんここでも、
「場」を形成する日本語ならではの「対話のメカニズム」について
自覚して対話したり対話を促進するか、
無自覚的に対話したり対話を促進するかは、
それぞれの主体の自由な判断に委ねられている。
つまるところ「場」の「空気を読める人間」か「空気を読めない人間」かとは、
「場」の「内の人間=身内」か「外の人間=余所者」かという差別である。
そのことは言うまでもない。
誰もが<生活形式>において日々実感している。
きっと、人々はそんな「場」の実感においてそれぞれの価値観でケースバイケースの判断をしているのだろう。
以上のような立場と観点に立って
(3)多様多彩なモダリティ表現の多用
を引き続き次項「その9」で具体的に論じていきたい。
by cds190 | 2010-03-12 09:25 | 文化力発想なコンセプト ■■
