組織知識創造、その再生のカギは「自分の頭で考える」と「身体で対話する」 その4 |
それを共有するには身体で同期するしかない
「身体で対話する」醍醐味はそこにある
(2)身体語からの気づき
日本人とその集団組織を前提とする日本型経営、その知識創造過程において重要な役割をしているとされるのが「暗黙知」である。
「暗黙知」とは、つまるところ身体で感受し記憶し表現する「身体知」であると思う。
そして、個人レベル、集団レベル、組織レベルの「暗黙知=身体知」があり、
それぞれに言語化、つまり明示知化できるものと、できないものがある。
日本人と日本型経営がなぜ「暗黙知=身体知」の感受と記憶と表現、つまりは「暗黙知=身体知」を活用した対話や交流を重視しまた得意とするかと言えば、それは日本語という言語の特徴に由来する。
私が日本人の発想思考の特徴との絡みで注目しているのは、
(1)多様多彩な擬態語の多用
(2)多様多彩な身体語の多用
(3)多様多彩なモダリティ表現の多用
である。
本項「その3」では(2)身体語について論じたい。
身体語を用いるのは何も日本語に限ったことではない。
ただ日本語に特徴的な身体語がある。
日本語ならではの擬態語もそうだったが、日本語ならば一言で表現する言葉がある内容を、外国語だと複数の言葉を繋げないと表現できない場合、その内容を外国語が重視していないが日本語が重視していると理解して間違いない。
また、逆に日本語と同じような身体語があれば、同じような身体を媒介とした発想思考を外国語に認めることができる。
こうした観点に立って、私は日本語と中国語と英語の身体語を、身体の部位ごとに比較していった。
(参照:「日本語の身体語の特徴を中国語から探る(0) 」〜「同(19)その他2/2」)
その過程で先ず気づいたとてもタンジュンなことは、
身体語が和語、つまり漢字で書きはしても訓読みである
ということだ。
音声的には大和言葉のままできている。
それは、漢字を導入しても大和言葉の特性を温存したことを意味する。
一通りの身体の部位の身体語の比較検討をして、日本語ならではの身体語とその特徴が明らかになった。
こうした検討は素朴に過ぎるのか専門家の書籍などが見当たらず、自分で素人なりに電子辞書に首っぴきで荒削りにやってみるしかなかったのだが、それでも大きな発見があった。
たとえば「骨を折る」は、中国語に直訳すれば「卖力,尽力」だが、それでは表現から抜け落ちている身体語を使ったゆえの大切なニュアンスがある。
そこに外国語では重視されない日本語ならではの感受性と表現性がある。(無論、英語も比較して。)
それは、日本語ならではの擬態語でも認められた「身体感覚をともなった情緒性」である。
さらに日本語によるコミュニケーションとしては、それを「暗黙知」として共有しているとか、共有してほしいという気持ちだ。
ここで、前項「その3」で擬態語について指摘したのと同じことを再び指摘しなければならない。
つまり、
「『身体感覚を伴った情緒性を表現をする<身体語>』の内容を外国語で表現しようとすると、一語では代替できず、身体感覚を表す語と情緒性を表す語とそれが同時に起こることを表す語を組み合わせなければならない。つまり、日本語の場合、それが一語で済んでいる
何でもないことのようだが、これはじつは凄いことを伴っている。
何が凄いかというと、
そんな複雑な内容をもつ一語が、一対一で複雑な身体感覚の反応を呼び覚ますようになっている、
ということなのだ。
私たちが日々日本語を使って暮らし生きているということは、そういう身体を育んできて、常に持ち合わせているということである。
そして、身体感覚と感情(心理学的には情動と感情)とが不即不離の関係にあることは神経事象学で科学的に証明されている」
ということだ。
ある言葉を発話した時、あるいは思い浮かべただけでも、それに対応した身体反応が微妙だが即座に起こり、それに不即不離の関係にある感情が喚起されることは、どの国の言葉でも同じ人間の神経事象である。
しかし、そこに言葉の特徴が影響する。
ひらがなあるいは漢字の訓読みの音声を聴けばそのまま意味を特定できる和語の場合、その代表が擬態語や身体語だが、
「身体感覚と感情がセットで、両者にタイムラグがないように、発声により即座に反応があるように言葉が形成されている、そして形成されていく」
ということが指摘できる。
その結果として、日本語ならではの擬態語や身体語が、「身体感覚をともなった情緒性」を表現しているという特徴を有し、付け加えるに、その表現の認知が中国語に比較して、漢字をイメージしなくて済む分、即座になされるという特徴を有している。
こうした大和言葉の特徴は、漢語の導入という課題を前にした時に、その導入をいかにするかという思考において初めて、中国語と比較して強く認識されたのではあるまいか。
漢語=中国語の場合、日本語の漢字使い音読みの場合も同じだが、「コウエン」という発話を聴いてもそれが意味するのが「公園」なのか「講演」なのか「好演」なのかは、話の前後の文脈から推察しなければならない。
同音異義の漢字はとてもたくさんあるから、このことは擬態語や身体語においても基本的には同じだ。
ただ、発話者が語気に感情を込めたり表情や身振り手振りをまじえるのを聴く者が見聞きできれば、いちいち相当する漢字をイメージする必要はない。
ここで留意して欲しいのは、それは中国人が文字を獲得する以前からしていたコミュニケーションである、ということなのだ。
つまり、こういう解釈が成り立つ。
日本人は、文字のない時代の話し言葉、歌い言葉のコミュニケーション特性を、和語によって中核的な文化的DNAとして温存してきた。
一方、中国人は、文字の生まれた時代以降、書き言葉のコミュニケーション特性を、漢字によって中核的な文化的DNAとして温存してきていて、中国語において文字のない時代の話し言葉、歌い言葉のコミュニケーション特性はあくまで補完的な位置づけになっている。
そして、発声を聴いた瞬時に言わば<知>だけでなく<情>や<意>も感受するのは、まさに歌謡の構造であるが、日本語は和語によってこの歌い言葉の構造特性をとても忠実に温存してきていると言える。
さらに別の角度から検討してみよう。
母音が有意味音である言語を「母音主義」の言語という。
日本語とポリネシア語だけだそうだ。
逆に「子音主義」は子音が有意味音であることで、英語も中国語も韓国語もそうだ。
私はタンジュンに考えて、上歯の先を下唇につけたり、舌を歯で挟んだりする子音の発音の方が、何もしない母音の発音よりも後発の筈だと思う。(同じヨーロッパ語でも、南の歴史的に古いイタリアやスペインなどラテン語系の方が母音主義的なニュアンスが強いことも連想する。)
さらに言語は、動物の物真似や鳴き真似から、踊りや歌が生まれるのと並行して誕生してきたとされる。
言葉遣いにおける擬態語や擬声語・擬音語の先発を想像しても間違いではあるまい。
以上のことを総合すると、どうも母音主義の日本語の擬態語は、人類の言語の歴史のかなり原初にまで遡れる特性を担っていると考えられるのである。
蛇足だが、日本語の擬態語の言語形成のメカニズムやその背景にあるダイナミズムが原初的である、ということであって、日本語の擬態語そのものが有史以前言語だという訳ではない。
むしろ、時代の常に先鋭をいく言語形成を見るのである。
私は、女子高生が言い始めた「チョー」や宮崎駿監督のアニメの主人公が名付けられた「ポニョ」などにも、この擬態語の言語形成のメカニズムやダイナミズムが働いていると想像する。
力強い言語形成エネルギーを感じる訳だが、それと通底する同じ構造のメカニズムやダイナミズムが、漫画やジャパンアニメの制作者や読者視聴者の間で共有されているのではないか、と想像している。
それは単に先鋭的であるだけではない、人類普遍に原初的には共有し、現代人も深層心理としてその機構を温存していると考える。それゆえの、世界における若年層からの漫画やジャパンアニメの隆盛とその定着なのではないか。
母音主義に関連して、動物の鳴き真似を比較してみよう。
日本語で鶏は「コケコッコー」と鳴く、英語では「cock-a-doodle-doo」である。
私たちは母音を有意味音として聞く日本語脳だから、英語の「cock-a-doodle-doo」を鶏の鳴き声だとは言われてみないと分からない。
これと逆に、アメリカ人は子音を有意味音として聞く英語脳だから、日本語の「コケコッコー」を鶏の鳴き声だとは言われてみないと分からない。
注目すべきは、アメリカ人の日本語学習者は、いったん母音主義に慣れてしまえば、馬の「ヒヒーン」でも山羊の「メェ」でも雀の「チュンチュン」でもほぼ一発で憶えるようになる。一方、日本人が子音主義に慣れたとしても馬の「whinny」、山羊の「bleat」、雀の「tweet 」は何度か辞書を引き直さねばならない、ということだ。
このことは、
母音主義はプリミティブな言語の人類普遍の特性であり、人間の基礎的な身体機能および深層的な心理機能と関連して、現代の外国人も持ち合わせている言語能力であるのに対して、子音主義はより複雑な言語の特性である、
ということを示していまいか。
(「人間の基礎的な身体機能および深層的な心理機能と関連して」とは、具体的には、驚いたり危険に怯えたりの情動反応の発声が母音主義であることだ。
たとえば「おっ」も「Oh」も母音主義だ。
「キャー」という悲鳴を英語では「eek!=eeeeeeek! aiiieee! yipe!=yiiiiipe!」と言うと説明されるが、ホラー映画を見ている限り絶叫している登場人物は同じ母音主義の「キャー」を発しているように聴こえる。)
子音主義を発達させなかった日本人は、あくまで子音主義を外国語学習によって<外界からインプット>しなければいけないのに対して、外国人は母音主義を日本語学習によって<内界から引き出す>ということをしているのではないか、と想像する。
大和言葉が母音主義で、漢語の漢字による導入に際しても母音主義が音読みとして温存され、英語のカタカナによる導入にも母音主義がカタカナ英語として一貫されてきた。
そうまでして日本語が母音主義を尊重してきたのは、いったいどうしてだろうか?
時期と状況によって理由は違うだろうが、古代ではそもそも、そして現代では深層心理的に「とてもプリミティブな認知表現の世界を生き続けようとする民族の欲求」のようなものがあり、それが今も言わば「言語のエンジン」として共有され続けているのではないか、と私は仮説する。
それは、個人、集団、組織レベルを一気通貫する「民族レベルの暗黙知ネットワークを形成するエンジン」でもある。
「とてもプリミティブな認知表現の世界」とは具体的には何なのか?
たとえば、アニミズムの世界である。
アニミズムの世界と同じ構造の言語形成が、たとえば日本語の身体語にあるかどうか、ということも私の関心事であったが、その答えについては後で触れたい。
ここでは、以下の概念表のように「2つの心性」を想定できることを解説したい。
歴史的にも神経事象学的にも、一つが他方より先行していて、かつ他方の基礎なり起点になっていることをもって「プリミティブ」だと考えていいと思う。
そして、実際的にこの「2つの心性」が渾然一体となって個人、集団、組織レベルの「心性」を形成している、と考えて間違いはない。
あくまで私のざっくりと荒削りな仮説に過ぎないが、物事を整理して考えるには役に立つ。
歴史なり文化人類学なりの特定の概念、たとえばアニミズムもそうだが、それを持ち出してすべてを割り切って解釈するよりは客観的だし、かつアニミズムのメカニズムも内包されて説明可能であれば、それに越した事はないとも思う。
前述した、
「日本人は、文字のない話し言葉、歌い言葉の時代のコミュニケーション特性を、和語によって中核的な文化的DNAとして温存してきた」
ということは、
具体的には、
以上の概念表の「部族人的心性」を意識的にあるいは無意識的に、認知表現の土台あるいは発想思考の起点にしてきた
ということと考えられる。
ここで、「部族人的心性」も「社会人的心性」も、個人レベル、集団レベル、組織レベルとある。
それらの相互関連は複雑で混沌としているが、言葉によって文脈あるいは物語として連携していることは明らかだ。
その際、おおよそ、
「部族人的心性」は「人間論化」を求める認知表現の土台あるいは発想思考の起点となり、
「社会人的心性」は、ともすると「機械論化」を求める認知表現の土台あるいは発想思考の起点となり得る、
ということは言えそうだ。
前項「その2」で、
「専門分野の用語と文脈だけで考えない
今ここにこの状況にいる自分ならではの言葉と文脈で考える
それだけが『自分の頭で考える』ということだ」
という主張を展開した。
この論旨の「自分の頭で考える」ということは、自分自身そして他者と「身体で対話する」ことを不可欠の前提とするが、「部族人的心性」を認知表現の土台、発想思考の起点とする、ということとイコールである。
これを「身体知による発想思考」と総括するならば、
各国語の身体語は、こうした「身体知による発想思考」を促す媒介として存在している、と言える。
そしてその中でも、母音主義の日本語の身体語は、最もプリミティブなメカニズムとダイナミズムを温存している。
以下、そのことを具体的に「身」という身体語を皮切りに例を挙げて解説していきたい。
内容的には、「足」や「気」などでも顕著に言えることである。
(参照:「日本語の身体語の特徴を中国語から探る(19)その他2/2」
「同(17)足」
「同(18)気」)
◯「身」(体)のメタファー使いの多様さと多用自体が東洋的な特徴であり、日本語と中国語はともにこの特徴を持ち合わせる。
その中で、「ヴァーチャルな身」一つを使った言い回しで多彩な中国語表現と同等の多様さと多用をしていることが、日本語ならではの大和言葉的な特徴である。
「ヴァーチャルな身」とは、実際の身体を意味する「リアルな身」ではなく、抽象化した意味合いを担うものである。
「ヴァーチャルな身」をどうするという動作、どうしたという状態をメタファー使いする、どちらかというと抽象的な表現内容の言い回しは、
「身」=自身,(集団や事物)本身
「身分」=身分fen
「身の程」=身分fen
「身の上」(境遇)=身世shi4,人身
「身元」=出身
など、中国語にも身体語使いの類似性ないし隣接性がある言い回しがあるものが多数ある。
しかし、日本語にしが見当たらないものも多い。
「中身」=内容
「身を処する」=处已chu3ji3
「身を引く」=退职tui4zhi2
「身を捨てる」=牺牲xi1sheng1
「身から出た錆」=自作自受
「身に余る」=过分guo4fen4
「身入り」=収入shou1ru4
「身になる」=有好处chu,有营养ying2yang3
「身に覚えがないこと」=没有干gan4的事
「身の回りのことは自分でしないさい」=生活要自理
「身の程を知らない」=没有自己之明
「身を持ち崩す」=过放荡fang4dang4生活
「身を立てる」=成功,以〜为wei2生
「身を固める」(身分を確実なものにする)=结婚,成家
「身持ち」 (おこない)=品行,操行
「身贔屓」=偏袒pian1tan3与yu3有关的人
「身内」(同じ組織や集団に属する者)=有关的人,自家人,亲属shu3
「〜に身を落す」=沦为lun2wei2〜
「〜に身が入る」=全神贯注guan4zhu4于〜
「親身になって」=亲如一家地
「仕事に身が入る」=干得起劲
「魚の切り身」=鱼的切块
「刺身」=生鱼片pian4
「〜すれば身も蓋もない」=〜就没有意思
「身を焦がす」=焦思,想得要命
「身なり」=服饰fu2shi4,打扮da3ban
「身だしなみ」=讲求修饰xiu1shi4(讲求は気を使う)
「身の振り方」(進退)
などである。
無論、中国語の「ヴァーチャルな身」の言い回しで日本語にないものもあるが比較にならないほど少なく、その抽象化の度合いは総じて低い。
身先士卒shi4zu2(陣頭指揮をとる)
洁jie2身自好hao4(身を清く保って悪に染まらないこと、
面倒なことに一切かかわらず自分一人いい子になること)
插cha1身(関係する、かかわり合いになる)
发身(体が大人びる、性的に成熟する)
翻fan1身(生まれ変わる、解放されて立ち上がる)
后身(後身の他に後ろ姿の意)
化身(化身の他に象徴、権化の意)
失身(節操を失う、不忠になる、貞操を失う)
正身(本人)
独善du2shan4其身(独りよがりになること)
などである。
以上のことは、大和言葉の「み」にそもそも「身体」以上の抽象的な意味合いが内包されていたことに由来すると推察される。
同様のことは「腕」などでも顕著だ。
「腕がたつ」=技艺高超chao1(技芸が卓越している)
「腕をみがく」=磨练本领 提高技能
「腕きき」=有本領(的人)
「腕比べ」=比本領
「腕揃い」=尽是能手、全是有本事的人
「腕達者」=有力気
「腕試し」=试试本事
これらの「腕」は技艺や技能、本領や力気、本事、つまりはすべて「腕前」のことであり「ヴァーチャルな腕」である。
中国語では他に「手艺」「一手」「身手」などの身体語で表して、
「腕前を披露する」=露lou4一手
「腕前を発揮する」=大显xian3身手
といった言い回しがあり、
「大腕」=エンターテイナー
という現代語もある。
しかし全体としては、
「ヴァーチャルな腕」については、日本語の方が「腕」一つで多様な言い回しをしてかつ多用する
ことが着目される。
(参照:「日本語の身体語の特徴を中国語から探る(16)腕」)
◯日本語ならではの言い回しとしては「バーチャルな身」の内の、
落胆や残念など、「身体感覚をともなった情緒性」を含意する「身を持ち崩す」「身を落す」(「骨を埋める」「骨をおる」と同様)
マンガのような非現実的仮想により情緒性を強調する「身から出た錆」「身を焦がす」(「目を三角にして怒る」「足が棒になる」と同様)
身体の特定部位に主体性を想定し、意識ではなく無意識が主体性を持つ動作状態を表現する「〜に身が入る」(「足が向く」「目が覚める」と同様)
もう一人の自分が自分の動作状態をメタ認知して主体の情緒性を表現する「身に覚えがない」「身につまされる」(「足を運ぶ」「手を煩わせる」と同様)
などが上げられよう。
「落胆や残念など、『身体感覚をともなった情緒性』を含意する」
という日本語ならではの身体語の特徴は、日本語ならではの擬態語の特徴と同じである。
「マンガのような非現実的仮想により情緒性を強調する」
「身体の特定部位に主体性を想定し、意識ではなく無意識が主体性を持つ動作状態を表現する」
という日本語ならではの身体語の特徴は、万物に魂が宿るアニミズムが反映していると解釈できる。
「もう一人の自分が自分の動作状態をメタ認知して主体の情緒性を表現する」
という日本語ならではの身体語の特徴は、部族社会の文化に共通する<自他の未分化性>や<人間と自然の未分化性>が反映していると解釈できる。
こうした特徴は、大和言葉の「み」がそもそも持ち合わせていたと考えられる。
そして、
◯多彩な漢語をそのまま使うよりも、一つの大和言葉の「み」=「身」という身体語キーワードに置き換えて多様な言い回しを多用することで、日本人は自他の人間関係や人間と自然の関係の調和を尊重することを、コミュニケーションの第一義としてきたのではなかろうか。
と私は結論した。
日本語を通じて働いている感性が、外国語を通じて働いている感性よりも複雑で高度ということでは決してない。
そうではなくて、かって人類が普遍的にもっていた「部族人的な心性」のむしろ素朴な<情>(情緒)が喚起されるように、日本語というものが構造的にできている、と考えるのだ。
それを現代的な因果律で分類分析して解釈しようとするから複雑に見えてしまうのだ。
つまり、身体感覚と感情(心理学的には情動と感情)は、科学的に不即不離の関係にあると証明された訳だが、有史以前の部族人は、そんな分別も事分けもなく、渾然一体の認知を渾然一体に表現していたに過ぎない。
そして日本語は、そんな素朴な認知表現のメカニズムを温存したままできているのだ。
英語脳は、ロゴス(理性)を左脳優位で、パトス(情緒)を右脳優位で認知表現するのに対して、
日本語脳は、パトス(情緒)をも左脳、つまり言語脳優位で認知表現する
とした実証的研究もある。(脳科学が発達する以前のもので精度の高い再実験が必要と思われるが。)
そこでは、アメリカ人にとって虫の音や川のせせらぎといった自然音が、雑音、つまり無意味音として右脳優位で認知されるのに対して、日本人には言語脳優位で認知されるとしていた。
実際に、自然の音や光を愛でる和歌や俳句のような短詩の言語活動が古来から現代まで盛んに行われていることを思うと、個人レベルの無意識的な認知表現としては個人差があるとしても、組織集団を形成する民族レベルの意識的な発想思考としては、そうした言語脳の働きがあると認められるに違いない。
「手」の身体語使いは、英語が中国語や日本語に比べて格段に豊富である。
英語handが動詞使いもあることを差し引いてもだから、動詞使いも入れればなお格段に豊富だ。
「ヴァーチャルなhand」の言い回しも多く、手=handは人類に普遍なメタファーであるが、それ以上に英語が手=handを重視する認知表現のメカニズムが、英米をして人工の文明、科学の文明に向かわせたのではないかと推察する誘惑にかられもする。
日本語において「手」使いの言い回しが多いことから、ともするとそれを日本語の身体語の特徴だと見誤りがちなので、詳しく検討しておきたい。
(参照:「日本語の身体語の特徴を中国語から探る(15)手」)
私の個人的な感覚によるかなりラフな抽出と分類をしてみても、最も「手」使いの言い回しが多いのは英語で、その次が中国語、そして日本語は三者の中でビリであることが分かる。
しかも、表現が同じか似通っていて意味が同じ類似例も豊富である。
そうなると、類似しない主要例に着目することにより、日本語の「手」使いの言い回しの特徴を求めることになる。その際、量にではなく質にこそ注目すべきであり、しかも多様さの中身、つまりは微妙な情緒性の含意に求めるしかなくなる。
そして検討していくと、日本語の「手」使いの言い回しの特徴は、コミュニケーションの力強さや明快さではなく、繊細さや微妙さを支える土台となっていることに思い当たった。
思えば、ひらがなを「女手」、漢字を「男手」としたところから、文字上の、つまり書き言葉上の「手」使いの身体語は始っていた。
中国の儒教と漢字を受け入れた朝鮮には女だけが使う女文字があった。
一方、中国経由で仏教と漢字を受け入れた日本では、男女が「女手」と「男手」を併用するようになっていった。
そこには、明快に割り切る「男手」的な言葉遣いと、微妙に匂わす「女手」的な言葉遣いが、男女で分担することから、男女ともに混合併用する方向への転換があったのかも知れない。
大和言葉と漢語を併用すれば、言い回しが量的に多様かつ、質的に複雑になっても不思議はない。
しかし、実際に「手」使いの言い回しを検討してみると、量的には多くの身体語使いの漢語を捨象している。
その上で、質的には大和言葉の素朴なメタファーのネットワークを固守して、こだわりの感性における微妙な表現をする「手」使いの言い回しが、日本語ならではの身体語として確認される。
それは「ヴァーチャルな手」「リアルな手」を問わずである。
以下、具体例を上げて検討しよう。
「たとえば、『手をぬく』(ヴァーチャルな手)は後ろめたさをにじませる。中国語では、潦草liao2cao3从事(いい加減に仕事する)といい、『手』を使った言い回しはない。いい加減な仕事をする、という表現では、後ろめたさはにじまない。
その理由は、身体語が使われていると視覚的なイメージ、触覚的なイメージがわき、脳科学的に手をぬいた際の後味の悪さを再生してしまう。しかし、身体語を使わないニュートラルな表現では、無意識よりも意識が、情緒よりも知識や意志が先行する。そうすると、いい加減な仕事をすることの合理化も容易にできるし、それに対抗する情緒を抑圧することもできてしまうからだ。
『手を焼く』(リアルな手)には棘手(手にとげ)や扎手(手を刺す)といった、同様に手に傷害を追う言い回しがある。
しかし、手を害さない程度に持て余し気味の情緒性をにじませる『手に余る』『手に負えない』のような身体語使いの言い回しは中国語には(そして英語にも)見当たらない。
好評な日本人の商品やサービスについて言われる『かゆい所に手が届く』(リアルな手)も、中国語で直訳すると、体贴tie1入微wei1(思いやりが行き届く)となり、身体語使いはない。
『孫の手』は搔痒耙sao1yang3pa2、かゆみをかく熊手であり、孫も手も登場しない。ちなみに孫の手は中国語で孙子sun1zi的手だが、それは情緒性を一切含意しない。しかし、手の届かぬ背中を孫が掻いてくれるのは、うれしく愛おしい微妙な情緒性がある。それをかゆみをかく熊手に投影させるところが日本人ならではの感性なのである。
ある年齢やある目標などに『手が届く』(リアルな手)という言い回しがある。
ある年齢に達する、ある目標を達するでは含意されない情緒性を表現する時に用いられている。 『達する』と言わずに『手が届く』という言葉を選んでいる訳で、そこには無意識的ないし無自覚的であっても理由がある筈だ。その理由は、対話において微妙な情緒性を発信したい受信してもらいたいということではないか。
そして、日本の生活文化の個性に由来する言い回しは、表現が特殊な上に、さらに微妙な情緒性が含意されることになる。
たとえば、逮捕されることを意味する『手が後ろにまわる』(リアルな手)は、後ろ手に縛る拘束方法が前提になっているが、身の前の手を手錠で拘束する場合にも使っている。情景ではなく叙情に表現の重心があることは明らかだ。
和解を意味する『手打ち』(リアルな手)は、手打ちの儀礼に由来するがそうした儀礼が行われなくなった今も使かっている。
これも、手打ちをしたからにはすべて水に流そう、という情緒性の受発信が託されている言葉遣いではないか。
自ら進んで何かに立候補することを意味する『手を上げる』(リアルな手)は、日本ならでは通じる言い回しである。英語の場合、英米文化を背景にして、lift hand、raise handは宣誓することを意味する。
英米人がこの身体語使いで神に誓う情緒性を含意するように、日本人は『手を上げる』で何らかの情緒性を含意している筈だ。
ただ日本語の場合、英語とは著しく異なるコミュニケーション特性がある。
含意する情緒性の内容が、話者本人の意図や対話対象との関係性において、ケースバイケースの暗黙知として感じ取られるところが、日本語ならではの特徴なのである。
しぶしぶ手を上げたのか、喜び勇んで手を上げたのかを、前後の文脈から読み取るか、話者の表情や仕草から読み取ることになる。また話者は、読み取られるように文脈を形成し、仕草や表情を意図的にか無自覚的にかしている筈だ。
使ってはいけない金などを使うことを意味する『手をつける』(リアルな手)
やらない方がいいような事を始めることを意味する『手を出す』(リアルな手)
関わってはいけない事に関わることを意味する『手を染める』(リアルな手)
は、たとえば『借用する』『横領する』、『開始する』『冒険する』、『関係する』『常習する』などでは含意されない微妙な情緒性を含意している。
さらに、話者本人がそうしたとする場合に発信し受信される情緒性と、話者が他者がそうしたとする場合に発信し受信される情緒性とでは想定が異なる。この違いも、前後の文脈や話者の表情や仕草から読み取られるし、また予め読み取られるように増幅している筈だ。
『手を切る』(リアルな手)は、中国語では分手(二手に分かれる)、断绝duan4jue2关系に直訳される。
しかし『手切れ金』など隣接するメタファーも共有する情緒性を知る私たち日本人には、単に関係を絶つことを意味するだけではなく、直訳では表現されない情緒性を含意していることが明白だ。関係を絶つためにお金がいるような情緒性があるのである。
このような情緒性も、前後の文脈や話者の表情や仕草から読み取られるし、また予め読み取られるように増幅している筈だ。
ちなみに、こうした日本語ならではの『微妙な情緒性の増幅』という特徴は、身体語使いにとどまらない。擬態語使いにもあり、普通の言い回しにもある。
たとえば、一般人は『外車に乗る』というニュートラルな表現で済ますのに対して、悪い人を印象づける意図的な言い回しとして『外車を乗り回す』がある。しかもこの『乗り回す』という動詞は、ほとんどこの『外車』とのセットでしか聞かない」
「外車を乗り回す」は、発話者が批判的な態度で物言いしていることを示す「モダリティ表現」と言えよう。
人類に普遍的なメタファーである「手」であるが、その身体語使いにおいて日本人がこだわった感性とは叙情性であり、<身体感覚をともなった情緒性>であった。
これは、人工と科学に向かった近代西欧文明の担い手である英米人、その「hand」の身体語使いが中国語と日本語に比べて格段に豊富で、ほとんどが情緒性のない機能論的表現であることと好対照をなしている。
私たち日本人は、和語を骨格とする日本語を使うことによって、好むと好まざるとに関わらず、
<身体感覚をともなった情緒性>を意識的、無意識的に主要テーマとするコミュニケーションを展開している。
それは、誰が誰に対してどんな態度で発話しているかという状況情報である「モダリティ表現」の日本語ならではの語用論に連なっている。
そこで、「自分の頭で考える」とは、
この無自覚的なコミュニケーション展開や「モダリティ表現」の呪縛に他律的に流されるのではなく、
逆に、「身体知による発想思考」を自律的にするべく、意図的に自己そして他者と「身体で対話する」ことである、
ということは確かだ。
引き続きこの立場と観点に立って
(3)多様多彩なモダリティ表現の多用
を次項「その5」で論じていきたい。