私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その7=「ミドルアップダウン・マネジメント」の組織知識創造 |
企業社会においてバブル期までありバブル崩壊後失われた知識創造の中核
この本が出版されたのは1990年末、まさにバブルが崩壊する前夜であった。
つまり、日本型経営に誰もが自信をもっていたその絶頂期に多くの協力者を得て著述されたものです。
いま、日本型経営というと即、終身雇用と年功序列とされるが、私は「知識経営」に関して言えば、それらは日本型の本質とは言えないと思ってきました。
実際に、私が社会人に成りたての本書の出版された20年前には、業種に限らず大手においても中途採用や転職は多かったし、独立した30歳前後の若造の小生もクライアントの中高年のキーマン・ミドルや経営トップから機会と権限を与えられ、そうしたヘッドハントや抜擢という名の実力主義は同世代でもよく見受けられたことでした。そして実際、様々な業界大手で抜擢されたフリーランス同士が仕事や勉強会や年輩者の伝手で知り合い、個人的にネットワーキングして私の事務所の当初のコラボレーションを展開しました。
そういう外部ブレインとしての実務経験において、日本型の集団知識創造があり、その成果がクライアント企業のやはり日本型の組織知識創造に組み込まれていた訳ですから、「知識経営」についてはどう考えても終身雇用と年功序列が日本型の本質だったとは思えないのです。
もちろんこの時点で、当時の日本型の知識経営が万全だった訳ではありません。
著者を筆頭にするいわば<知識創造論の識者たち>は、はしがき冒頭にあるように、
「最近の急速な情報化・国際化の進展は、これまでの日本企業の行動のあり方の再検討を迫っている。日本企業が真に世界の発展に寄与するためには、改めて日本的経営を見直し、その普遍の可能性と限界を明らかにする必要がある」
という認識を持ち合わせていました。
(ちなみに、日本型の知識経営の問題点の本質はその美点の本質と重なります。
端的に言って、アメリカ型が低コンテクストな明示知重視であることと好対照に、日本型は良くも悪くも高コンテクストな暗黙知・身体知重視であることです。
問題点は、会社四季報や日経ビジネスにのらない経営陣や事業部門長同士の言わば部族人的な人間関係という内向きな暗黙知に経営や事業方針が左右されてしまうことです。
美点は、マニュアル化されない臨機応変な対応をする現場ノウハウや、個人の短期的成果ではなくて集団の中長期的成果を最大化させる人事ノウハウが暗黙知として共有・蓄積されていくことです。)
しかし、バブルの熱狂と、バブル崩壊後の短絡的な「日本型経営の全否定」において、結局この「日本型の知識経営の見直しと現代的な普遍化」という課題が積極的に取り組まれることはありませんでした。
(その理由の一つとして、知識創造論や当時の組織認知論が知情意の内の<知>を偏重し<意>まではヴィジョンや理念などでカバーしても<情>を対象にしていなかったことがあります。
日本型の知識経営は、日本型の人間関係とくに集団志向を前提にしますが、それには良くも悪くも<情>が起点として深く関わっている以上、<情>を対象にしないでは、日本型経営およびその知識経営の人間論的な現実に肯定的にでも否定的にでも深く立ち入っていくことはできないのでした。
経営者を筆頭に人材を資源として重視する人本主義という考え方が現場で受け入れられていましたが、これも良くも悪くも<情>起点に発想思考する日本人の特性を捉えるものであったとは言えません。豊かな<情>が<知>を育み<意>を固くするという文脈、逆に貧しい<情>が<知>を狭め<意>を歪めるという文脈は、現実の企業社会に満ち満ちていると誰もが肌身で感じているものの、そうしたことを捨象して資源としての人材やその集団および組織の能力を語っていた訳です。)
バブル崩壊後の「空白の10年」と言われた1990年代、ほとんどの日本企業は、デフレ経済下の高効率化とリストラ圧力の慢性化、そしてインターネットやケータイの急速普及への対応において、自分たちの美点については自信を喪失してすでに過去のものとして忘れ去り、自分たちの問題点の一掃だけを短兵急にアメリカ型経営の付け焼き刃の導入に求めるの観がありました。
しかし本来は、自分たちの美点を伸ばして、現代化、国際化するという課題に取り組まねばならなかったのは明らかです。
そして、この間にむしろ世界的に成長した例外的な企業があり、それはみなこの本来的な意味の前向きな課題に真摯の取り組み続けた企業でした。
具体的には、トヨタやセブイレブンを擁するIYグループなどの、安易に終身雇用を否定せず、国際標準で実力主義を立て直しつつ、基本的には日本型の「知識経営」を現代化した企業です。
トヨタやセブンイレブンの経営陣は就労者の全員に自分の頭で考え、現場で仮説検証を繰り返すことを促しました。一方、その他大勢の短絡的に日本型経営を全否定した企業の経営陣には「アメリカ出羽守」がいて、「組織をフラット化し末端それぞれに権限委譲する」そんなタンジュンなやり方をインターネット時代のグローバル・スタンダードのように吹聴し、大方の企業人がそれを真に受けて多様な働きをしていたミドルマネジメントを崩壊させてしまいました。ちなみにこの経過と、日本社会の全体における中間層の崩壊が重なっていることは偶然ではないでしょう。
確かに、当時「ニューエコノミー」と分類された急成長した新興IT企業などでは、フラット組織で中間管理職の働きをシンプル化し可能な限り省いた機構が効率的かつ効果的に機能します。
しかし、「オールドエコノミー」と分類されたそれまで日本型経営で成長してきたいわゆる従来産業の企業にまで同じやり方を通した当時の風潮は明らかに短絡でした。そして実際に業績を低迷させていく致命的な誤りでした。
日本型経営はその本来の本質である共同体性ともどもそれを前提にした美点を失っただけで、問題点はまったく解消されませんでした。そのためいわゆるグローバル経営も中途半端なものとなり、結果的に、単に組織が機械論化し人材が機械部品化して内向き、上向き、後ろ向きの言わば「残骸型日本型経営」ばかりになってしまいました。
端的に言えば、組織は機械論化し人材は機械部品化したが、日本型経営の中核にある人間関係の問題性が残存して、組織からも人材からも自由闊達で発想豊かな創造力が奪われてしまいました。
(具体的には、集団を身内で固める「家康志向」に一辺倒化し、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」が排除されて、企業の内外や業界を問わない企業社会の全体で一般的だった「家康志向」「信長志向」の合わせ技という集団や組織の知識創造慣行が喪失していきました。)
失ったものはそれがあった時代を知る者にしか分かりません。
しかもそれの美点と限界を説明できる経験と見識のある者にしか、知らない者にちゃんと伝えることはできません。ない者がすればそれは単なる昔は良かった話になってしまうでしょう。
本論の主旨から外れるのでポイントだけ解説します。
昔あって今ないもの、それは「不確実性にこそ想定外のチャンスや気づきがあるという偶有性をとり込む志向」でした。それが捨象されていって今や「偶有性を排除して確実性を高める志向ばかり」となってしまいました。
つまり、昔と今、同じ創造力とか発想という言葉を使っていても、前提となるパラダイムが変わってしまったのです。だからちゃんとした解説ができないと、創造力や発想は今の組織や人材でもある、昔が良かったというのは当らないという反応になってしまいます。
昔がすべて良かった訳ではありません。
ただ昔はパラダイムが二本立てだった、
確実性を求めて偶有性を排除する改善と、
不確実性にこそ想定外のチャンスや気づきがあるとする革新、
それぞれが人間論的な組織と人材の交流において企業社会の全体において日常的に展開していた
ということなのです。
たとえばテレビやDVDレコーダー、カーナビやオーディオ、さらにはパソコンなどを基幹事業とする情報家電のメーカーでも、組織のフラット化が進みました。
それはイコール、組織の機械論化であり、人材の機械の部品化でした。
おそらくそれが当たり前になってしまった世代にはピンとこないでしょう。そこでまず分かりやすい象徴的な話をします。
たとえば、SONYのウォークマンですが、それは技術者が言わば手慰みで作った遊びでした。それを創業者の一人の盛田氏が面白いと商品化することにした。ここで、技術者が、上司に言われたノルマ以外の遊びを仕事場でしていた、ということが決定的に重要です。じつはこのような知識創造慣行は、ポストイットで有名な3Mでも「アンダーテーブル」の仕事としてあります。それは就業時間の15パーセントを自主研究しなさいというものです。接着剤開発の失敗という偶然からポストイットの商品化に至った会社ならではの企業文化とも言えましょう。つまり、経営幹部が決め込んだ確定論には限界があり、社員の主体性や遊びなどの不確定論にこそ有意義な偶有性を期待できるという哲学が根本にある訳です。
そして、集団志向の日本人においては、集団を身内で固める「家康志向」は確定論に属し、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」は不確定論に属して組織の内外の公的私的のネットワークのもつ偶有性をとり込もうとするものである訳です。
「知識経営」として致命的だったのは、組織内外における自由闊達な主体性による知識の創造性が著しく損なわれてしまったことです。
たとえば、おおよそ<モノ割り縦割り>の事業部門で構成されているメーカーの場合、部門横断的な事業連携や、部門と部門の業際的領域における事業創造が、組織の機械論的フラット化と、部門間や会社内外の異業種間を連携するネットワーカー型のキーマン・ミドルの一掃によって実行不可能になってしまったのです。
結果、メーカーは、モノ割りのデバイスごとに、業界横並びの高性能化と低価格化を抱き合わせで競うレッドオーシャン市場の消耗戦に自ら埋没していきました。
そしてたとえばテレビが典型ですが、消耗戦を有利に勝ち抜けるアジアの新興企業に圧迫されっぱなしとなっていきました。
ちなみに、最近(2010年2月)になってやっとテレビ関連でも、ユニークな優位性によって脱競合するブルーオーシャン戦略を展開するメーカーが出てきました。それは、そのような事業創造ができる知識創造体制がやっと確保されてきた、ということです。
たとえば、NHK番組「メイド・イン・ジャパンの命運」で、東芝のスーパー半導体セルプロセッサーが組み込まれたテレビ(2016年時点では、東芝のテレビ事業はファブレス化して国内販売に特化)と、JVCケンウッドの「自社生産にこだわらず、技術を中国メーカーに譲って製品を作らせ、そのライセンス料を企業収入にしていく」テレビ連携するパーツ(独立デバイスの核ともなる)を紹介していました。
後者のレポートに出てきた50代の開発キーマンのようなタイプのミドルが、かつてはどの業界のどのメーカーにもいたのです。
前者のレポートでは、100人のプログラマーを雇ってスーパー半導体を活用するテレビ用プログラムを開発する40代の統括技術者が出てきて、「日本は手間暇かかることをこつこつやっていくしかない」という主旨の発言をしていました。これは、開発目標が決まれば後はプログラマーを延べ人数で沢山つかって開発できる、という体制でフラット組織的で機械論的と言えます。なぜなら、臨時雇いのプログラマーはもとより、統括技術者も代わりがいくらでも利くからです。代わりが利かないのは、「スーパー半導体セルプロセッサーを組み込んだテレビを開発しよう」と決断した経営幹部だけです。
登場した統括技術者の「日本は手間暇かかることをこつこつやっていくしかない」の発言ですが、それで中国に勝てるのは、典型的には京セラのセラミックのような現場技術者の暗黙知の練り上げが必要な開発テーマであることに注意しなければなりません。これは一朝一夕に中国が真似して人海戦術で対応できない公算が高い。しかし、プログラマーを延べ人数で沢山使うということでは中国も同様にできる訳です。東芝のセルテレビの場合、アナログテレビ時代からの老練な50代の技術者が登場し最終的なテレビの映りのチェックをしていました。そこには練り上げられた暗黙知が必要です。しかし、これはすでに中国に技術移転されたアナログテレビのチェック知識であり、中国にも同様のチェックができる中高年技術者はいる筈です。
つまり正確に言うと、「日本は、先行して、手間暇かかる新技術開発をこつこつやって、特許を取っていくしかない」という前提を踏まえて、次のことが重要なポイントと言えます。
それは、「スーパー半導体セルプロセッサーを組み込んだテレビを開発しよう」と決断した経営幹部は、現場の統括技術者の経験者か、あるいは彼らの話に耳を傾けて市場を創出する可能性を判断できる人材だということです。このような経営幹部は経営知識だけを勉強してきたMBA修了者が一朝一夕になれるものではありません。グローバリズムの低コンテクストな机上論で判断し意思決定するアメリカ型の経営者ではないのです。
開発キーマンのミドルがその他大勢の中間管理職とともに一掃されてしまったことは、こうした技術と市場の両方を見据えてその繋ぎ方を考えて具体化するタイプの経営幹部が育たなくなったことを意味します。
先端技術の漏洩を防ぐためにブラックボックス・パーツ化は当然ですが、それだけではリバースエンジニアリングによる開発キャッチアップを防止するに過ぎません。
その点でケンウッドJCVも同じなのですが、こちらの新型パーツは、中国のEMS企業に圧倒的な低価格で作らせてデファクトスタンダードを先行取得、類似パーツが出てくる余地を最初から潰してしまうものです。
つまり、中国と競合するのではなく、生産を得意とする中国と役割分担して戦略的にコラボレーションしていくということです。
そして、これが展開できるためには、中国のEMS企業との交渉に自ら当たっていた50代の開発キーマンのような「技術と市場の両方を見据えてその繋ぎ方を考えて具体化するタイプ」のミドル人材が自然と実力を養って活躍できる環境のある知識経営体制がなければなりません。
経営トップが戦略目標を打ち出し現場がそれに向けたノルマをこなしていく、そういう機械論を繰り返すだけでは、人材も育たないし、事業の可能性も広がらない。それで成長可能性を拡大していける訳がありません。
こうすればできるという開発構想を進言し自ら試行錯誤しながら具現化を模索していく開発キーマンが不可欠なのです。
しかもその構想内容は、経営トップから現場の技術者まで誰もが思いつくような内容では、世界中の競合他社も考えるものですから、単に自らレッドオーシャン市場に埋没するものでしかありません。
その企業だからできる脱競合のブルーオーシャン戦略が構想される必要があり、かつそれを編み出す開発キーマンが自然と育つ環境として知識創造体制がなければなりません。
当然、社員の一人一人が主体性としての個性を活かして、自主研究をしたり、個人の資格で勉強会に参加し異業種異業界の多様な立場の人々と半分オフィシャルに交流したりといった、偶有性をとり込む不確定論を組織的に持ち込むということが有効となります。こうしたことを排除していけば、どの会社でも同じ専門分野の技術者や同じモノをつくる開発統括者の発想は大して変わらなくて当たり前です。そしてすでにそのような結末が、家電量販店頭の似たり寄ったり横並びの製品群を見れば明らかにある訳です。
社員一人ひとりが企業家として多様多彩な主体性を発揮して、
事業課題をどんどん考案して部門部署専門の垣根なく話し合い、
同時にそれを達成するための社内外のネットワークも構築しいき、
最終的に具体的な事業戦略を経営にボトムアップしていた、
そのような中長期的な人材育成を同時進行させた人間論的な体制こそが
「本来の日本型の知識経営の本質」だったのです。
(ちなみに、「根回し」なる慣用句も、こうしたボトムアップの知識創造体制があっての言葉遣いと、単なるトップダウンのノルマの達成を恊働するための言葉遣いでは、まったく意味合いの深みが違ってきます。前者は意を介して協力してくれという暗黙知を共有する人間論ですが、後者は手続きとして明示知を共有する機械論に過ぎません。)
<ミドル・アップダウン・マネジメント>の実際、「家康志向」と「信長志向」
こうした「本来の日本型の知識経営の本質」を、本書の著者は、日本型の「知識経営」の中核である<ミドル・アップダウン・マネジメント>の知識創造のメカニズムが達成しているとします。
本論では、それがどのようなものか全貌を具体的に把握できるように、「コンセプト思考術」がベースとする言葉使いの4つの概念要素を踏まえて明らかにしたいと思います。
<ミドル・アップダウン・マネジメント>の知識創造のメカニズムには、
「その2」で論じたエドワード・T・ホールが提唱した<モノクロニック>と<ポリクロニック>と、
「その3」でとりあげた<メッセージング>と<ルーミング>と
が重要に関わっています。
企業社会の現場論としては、
<ポリクロニック>な知識創造体制
<ルーミング>な知識創造環境
この2つが不可欠であることを理解することが大切です。
(それらは、かつてはビジネスパーソンの誰もが皮膚感覚で実感していた、特に人と人の交流に関わる暗黙知と身体知の体系でした。
その多くがITに置き換わり組織の多くが機械論化し人材の多くが機械部品化した後は、かつて説明する必要のなかったことから説明しなければなりません。
しかし、そうなってしまったのは、大切なこと、有効なことなのにもかかわらず、正確に説明できるような自己理解に欠け、また次の世代に分かりやすく説明して継承しようとしなかった怠惰の結果です。
本論では小生の理解ではありますが、ポイントをはしょることなく解説しようと思います。)
本書では、第二章/組織的知識創造理論の第二節/組織的知識創造モデルで、
「この節での関心は個人レベルの知識創造に留まることなく、個人の集合としての集団、集団の集合としての組織という多層レベルにわたる全体としての知識創造にある」
とした上で、以下の表2-1/情報の形式的側面と意味的側面との対比 を提示しています。
<形式的側面> <意味的側面>
新奇性=
(1)”おどろき”はない (1)”おどろき”があり、
何かが”見え”てくる
(2)意味所与 (2)意味生成
既成の概念/範疇の反復 新しい概念/範疇の創造
変動性=
ロー・コンテクスト(普遍的) ハイ・コンテクスト(特殊的)
一般的であり静的関係性にある 場に特殊的であり動的関係性を
つくる
方法論=
(1)演繹的・分析的 (1)帰納的・全体的・発想的
hands-off(ムダを省いた hands-on(体験、直観)、
抽象化)、モデル メタファー
(2)直列処理的で (2)並列処理的で
経時的または因果的 共時的または関係的
(3)冗長性を避ける (3)冗長性をつくる
(最小有効多様性) (ノイズ・ゆらぎ・カオス)
(4)人間的相互作用を必要としない(4)人間的相互作用を必要とする
(コンピュータ・ネットワーク) (ヒューマン・ネットワーク)
「ここで組織的知識とは、特定の組織の行動を決定する、その組織に固有の認知的・手法的な諸能力を意味する。特定の組織において、組織観念やパラダイムないしパースペクティブ、組織のドメイン、戦略、製品概念などは、主として組織の認知的能力の形式化されたものであり、組織の技術、特許、マネジメント・ノウハウ、データ・ベースなどは、主として組織の手法的能力が具現化されたものであるといえよう。」
という正しい指摘をあっさり付け加えています。
これは、
「組織観念やパラダイムないしパースペクティブ、組織のドメイン、戦略、製品概念など」は目的論の文脈にあり、
「組織の技術、特許、マネジメント・ノウハウ、データ・ベースなど」は手段論の文脈にあり、
両者は峻別すべきであるということです。
この指摘をここで付け加えることで、
<形式的側面>を重視することが手段の自己目的化につながりがちであり、
<意味的側面>を重視することこそ目的の確認や再生につながることを、
この後の論述を前に読者に想起させているようです。
私はこうした考え方に大いに賛同します。
表2-1/情報の形式的側面と意味的側面との対比が、基本的に
ロー・コンテクスト(普遍的)で一般的であり静的関係性にある
<モノクロニック>×<メッセージング>と
ハイ・コンテクスト(特殊的)で場に特殊的であり動的関係性をつくる
<ポリクロニック>×<ルーミング>との対比
に重なります。
エドワード・T・ホールを下敷きにしているのではと思われるところです。
<ミドル・アップダウン・マネジメント>の知識創造のメカニズムには、
<ポリクロニック>な知識創造体制と
<ルーミング>な知識創造環境と
が不可欠である。
このことを示す典型的事例を以下に上げておきましょう。
すべて<ポリクロニック>で<ルーミング>な「場」が組織知識創造の要となっていることに気づくでしょう。
◯トヨタの職場集団によるカイゼン活動
◯ IYグループの課長以上が全国から東京本社に全員集合する会長会議(隔週)
アルバイトやパートまでが戦力化して単品管理による売り上げ予測しての商品仕入れ、仮説を立てての商品展示
◯キャノンの臨機応変な多品種少量生産を可能にした一人で組み立てる屋台生産方式
◯ドモホルンリンクル再春館製薬所の本社オフィス
全本社部門が円形の大スペースに集合配置されていて、
何か問題が起こると「認識一致の太鼓」が叩かれ関連部門責任者たちが中央対話スペースに
集合
◯ニトリの本社オフィス
全本社部門が長方形の大スペースに集合配置されていて、
みな同じ方向に机が羅列している
前記再春館と好対照のバリエーション
◯正社員比率75%のスーパー、オオゼキの個店主義の売り場
商品分野ごとの担当者がバイヤーであり、かつ独自のレイアウトをし価格、陳列、売場
作りを行う個店店主
著者は、
「知の創造についての私の理論の基底にあるのは、暗黙知と形式知のダイナミックな相互作用が知識創造の基本であるという仮説である」
と述べて、
「それを組織的に行うマネジメント原理を本書では、トップダウン、ボトムアップという西欧で生まれたパターンに対してミドル・アップダウンと呼び、その内容を展開した。
ただし、ここでいうトップ、ミドル、ボトムというのは職位ではなく機能であり、組織的知識創造を三層の相互作用で捉えることが重要であることを意味している(中略)
人口知能で一部使われている概念を利用すれば、
セマンティック・カタリスト(意味の触媒者=トップ)、
ナレッジ・エンジニア(知識の触発者=ミドル)、
エキスパート(専門家=ロアー)
と言えるかもしれない。」
とミドル・アップダウン・マネジメントを提唱しています。
「コンセプト思考術」のベースである言葉使いの4つの概念要素に照らすと、
「暗黙知」 =<コトの感覚>+<モノの感覚>
「形式知」の内の「言語知」 =<コトの意味>
「形式知」の内の「科学知」 =<モノの機能>
ということになります。
これを踏まえると、ミドル・アップダウン・マネジメントのメカニズムは、以下の図表のように解説することができます。(クリックしてポップアップしてください。)
3階層それぞれについて解説します。
まずセマンティック・カタリスト(意味の触媒者としてのトップ)が、事業や業務という<コトの意味>を目的論であるテーマ(文脈)として言語知(形式知)で打ち立てます。またこれに基づく先導的ないし象徴的な行動をとります。つまり行動知(暗黙知)を展開します。
次にナレッジ・エンジニア(知識の触発者としてのミドル)が、事業や業務の目的論をいかに手段論に繋げるかというプロセス(手順)を行動知(暗黙知)で模索します。これは事業や業務に関わる暗黙知が集中する<コトの感覚><モノの感覚>を場において捉えようとする活動です。上層からの目的論を言語知(形式知)としてブレイクダウンしつつ、下層に向けて手段論を科学知(形式知)として方向づけます。
最後にエキスパート(知識の適用者・開拓者としてのロアー)が、事業や業務の具体的アウトプットという<モノの機能>に上層からの手段論の方向づけを受けて落とし込みます。
前出のナレッジ・エンジニア(知識の触発者としてのミドル)はさらに、最後のエキスパート(知識の適用者・開拓者としてのロアー)が多様な主体性を発揮した<モノの機能>の成果の内の商品化や市場創出に繋がるものピックアップして、商品化や市場創出の方向性を魅力的な<コトの感覚><モノの感覚>を盛り込み、かつ受け手にとっての意味合いや経営にとっての意味合いを明快化し、セマンティック・カタリスト(意味の触媒者としてのトップ)に向けて目的論を言語知(形式知)としての方向づけとともに上奏します。
以上のような3階層間のコミュニケーションは、何らかの場におけるミドルによる上下層との行動知(暗黙知)のやり取りによって展開します。
その際、2つの情報ブリッジがメディア(媒体)として働きます。
情報ブリッジAは、本書の言うところのコンピュータ・ネットワークが代行できる「形式的側面」を流通させる科学知の情報システム、つまり「数と機能」重視のITであります。
情報ブリッジBは、本書の言うところのヒューマン・ネットワークに依存する「意味的側面」を流通させる言語知の情報システム、つまり「観念と意味」重視のCI(コーポレート・アイデンティフィケーション)であります。
これを顧客や社会という受け手側の受け取り方を重視して展開するのが、コーポレート・ブランディングということになりましょう。
ITがそのまま場になる訳でもなく、CIやブランドがそのまま場になる訳でもないことは論を俟ちません。
場とはそこに居合わせて交流する人間の関係性が醸成するものです。
セマンティック・カタリスト(意味の触媒者=トップ)、
ナレッジ・エンジニア(知識の触発者=ミドル)、
エキスパート(専門家=ロアー)
の3機能を担った人間がどのように交流するかで情報ブリッジのメディア性(媒体性)の実質が決まります。
蛇足ですが、<ミドル・アップダウン・マネジメント>は人間同士の行動知(暗黙知)のやり取りがエンジンになりますから人間論的な組織と主体性としての多様な人間性を発揮する人材を前提します。よって、機械論的な組織と機械部品化した人材では、原理的に<ミドル・アップダウン・マネジメント>の本来の創造性を発揮することはできません。機械論とは、人間のもつ多様性や偶有性の不確定論を排除し、機械のような画一性と必然性の確定論だけに一辺倒化するものです。
ここで、
著者を筆頭にする<知識創造論の識者たち>が、
意識的にか無自覚的にか、集団を身内で固める「家康志向」を前提にしていて、
企業内のおおよそ縦割りの上下関係に重なる3機能の関係性だけを論じている
ということを指摘しなければなりません。
私は、それに対して、
自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」を前提にした
企業内の縦割りを横断した連携や企業内外の恊働という縦割りを横ぐしする横繋がりの3機能の関係性を捉えて全体を補完します。
おおよそ一般的なのは、
①セマンティック・カタリスト(意味の触媒者=トップ)同士の横繋がり
②ナレッジ・エンジニア(知識の触発者=ミドル)同士の横繋がり
③エキスパート(専門家=ロアー)同士の横繋がり
です。
ます一般的に分かりやすい例を上げれば、無印良品の「モノづくりコミュニティ」http://www.muji.net/community/のような、いわゆるプロシューマーと呼ばれる創造的な顧客に商品づくりのアイデアを求めたり、コラボレーションを希望するメーカーに持ち込み企画を求めたりするものです。
無印良品は、製造直売企業で、もともとは旧西武流通グループという小売りグループの一員として出発しています。よって、顧客ニーズに近い売場を知識創造の現場としていたので、顧客に発想してもらおうという形で外部の協力を得ることに開放的でした。
これは、モノづくり自体としては、多様な外部協力者のナレッジ・エンジニア(知識の触発者=ミドル)化と言えましょう。
また、その成果として新しい商品づくりの方向性を打ち出すモノづくりコミュニティ自体としては、外部協力者との恊働拠点のセマンティック・カタリスト(意味の触媒者=トップ)化と言えましょう。
次に一般的な事柄として指摘したいのが、
日本型の集団志向の知識経営<ミドル・アップダウン・マネジメント>との関係で、また日本の企業社会全体の創造性ということを考えた時に鍵となるのが
②ナレッジ・エンジニア(知識の触発者=ミドル)同士の横繋がりである
ということです。
前出のテレビを例にすると、アナログの時代にはモノづくりはイコール、ハードづくりでした。しかしデジタルの時代にはモノづくりにソフトづくりが不可欠となってきました。すると、ICチップのプログラミングの技術者が鍵になってきます。すると、そういう外部の専門家集団の協力を得たり、内部に専門部門を作って連携させたり、場合によっては異なるデバイスを連動させるべくプログラミング部門を媒介にして他デバイス部門とも恊働することになります。このようなことに主体的に対応できるネットワーカー型のキーマン・ミドルが不可欠になってきます。
そのような人材が育たず、またそのような人材の協力を外部に求めることがなければどうなるか。そのメーカーは、自分たちだけでやってきた従来通りの枠組みの中で自分たちだけでできる商品や事業しか開発しない、ということになるのは明らかです。
逆に、ネットワーカー型のキーマン・ミドルが多様な経験をして多様な成果を達成する形で育った企業は、多様に変化し分化する市場に対応していかに自社の資源を特化し、いかなるパートナーシップによって社外の資源をとり込んでいくかという経営戦略を構想できるトップを輩出させていけるのです。
日本型経営というと、今では古式ゆかしい古くさいもののように聞こえますが、集団を身内で固める「家康志向」を前提にトップの経営戦略とエキスパートの現場意見とを媒介するいわゆる中間管理職型のミドルだけではありません。
自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」を前提に社内外の横繋がりを発想力と人脈と行動力で活かすネットワーカー型のキーマン・ミドルが自由闊達に活躍していたのでした。
ネットワーカー型のキーマン・ミドルの特徴は、専門的な知識が深いとか発想が個性的という科学知=明示知ではありません。それはエキスパートの特徴です。
ネットワーカー型のキーマン・ミドルの特徴は、持ち前の行動知(暗黙知)で上下の縦関係と内外の横繋がりで人と人を繋ぐことによる「場」の創出力です。
行動知は行動からしか生まれません。だから経験によってしか培われない。
それゆえに、企業は多様な主体性を発揮する人材が多様な人間論的な「場」を創出することを積極的に促しその成果を受け入れ活かすことが必要になります。
経営にとって重大な課題が託されその成果を経営に役立てるという前提のもと、意欲的で創造的な人材が交流すれば、自ずとその「場」は、
どのような明示知をどのように繋げるかというその筋の専門家であれば誰でも検討がつくような低コンテクストな<メッセージング>にとどまらず、
どのような暗黙知をどのように繋げるかというその「場」に居合わせて者にしか共有されない高コンテクストな<ルーミング>を醸成します。
それは、自由に活動する個々が適宜に連携しながら多様な課題を同時進行で解決しかつその成果を連動させていく、まさにポリクロニックな<ルーミング>となります。
そこには、モノクロニックな<メッセージング>ばかりの機械論的な知識創造の「場」にはない、当初の集団知識創造の課題やその達成手段の想定にはなかった有意義な偶有性をとり込む不確定論が息づきます。
原理的に、機械論的な確定論は減点主義に向かい、人間論的な不確定論は加点主義に向かいます。
知識創造と一言で言っても、前者は与えられた課題の処理を繰り返し、後者は課題自体の創出を繰り返していきます。
果たして、現実的に一つの企業を成長させる脱競合のブルーオーシャン戦略としての成長戦略を招来する知識創造体制はどちらなのでしょうか。