私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その6=暗黙知をネットワークする<和漢洋の言葉遣い> |
日本語学習する外国人が理解に苦しむ和漢洋の言葉遣い
本テキストは、留学生が日本語を習得する際に直面する困ったことを通じて、ネイティブスピーカーである日本人がふだん意識していない日本語のパラダイム(考え方の基本的枠組み)を客観視しています。
国立大学の留学生センター教授という著者のお立場ならではの示唆にとんだ指摘に満ちています。
たとえば、冒頭の「どう違う?宿屋と旅館とホテル」という項目では、私たち日本人がほとんど無意識に話し分け、聞き分けている和語・漢語・外来語の微妙な違いについてユーモラスに解説しています。こんな具合いです。
「留学生と一緒に蔵王にスキーに行った時のこと。
夜中に我々が着いた時、出迎えてくれた方に『ここがホテルですか』と留学生が尋ねると、『ホテルなどではありません。ちっぽけな宿屋でございます』と答えられたことがあります。
すると別の留学生が『旅館ではないのですか』と尋ねます。その方もさぞ混乱されたことと思います。」
「例えば、次の和漢洋の言葉の違いを、どう説明しましょうか。
店、店舗、ショップ/
台所、厨房、キッチン/
夕めし、晩ごはん、ディナー/
旅、旅行、トラベル(ツアー)/
贈り物、贈答品、ギフト/
本屋、書店、ブックショップ/
健やか、健康、ヘルシー/
飲み物、飲料、ドリンク/
踊り、舞踊、ダンス」
著者がこうした和漢洋の言葉遣いについて「普段何気なく使っている言葉でありながら、説明するとなると、意外に難しいのではないでしょうか」と述べるように、この微妙な違いは、言葉(形式知)にして説明しようとするとどうもハッキリしない。
しかし、日本人同士の間では、こういう時にはこれを使い、こういう時にはこれは使わない、という暗黙の了解が出来ています。
つまり、私たちは和漢洋の言葉使いにおいて、体系立った暗黙知を受発信している訳です。
和漢洋の言葉使いは、書き言葉にすればひらがな、漢字、カタカナになり効率的な概念ヴィジュアル化をしている訳ですが、話し言葉でもその微妙な音感によるニュアンスのネットワークという「暗黙知の効率性」をもっていると言えます。
では、私たち日本人同士が日本語を「話し聞く」というコミュニケーションにおいて、この体系だった暗黙知を受発信するメカニズムは、いったいどのように成立しているのでしょうか?
本論では、ふだん気にもとめないことから根掘り葉掘り検討していきたいと思います。
しかし、人間は母語で思考する以上、それは日本人独特の感受性や表現性、そして発想や洞察と根源的に繋がっている筈です。
まず、日本語の和漢洋の微妙な使い分けがどのような事態をもたらしているかを、客観的に確認しましょう。
それのためには、何に留学生が困惑しているか、を見ればいい。
その前に客観的な尺度を求めて、「コンセプト思考術」がベースとしている、古今東西の言葉に共通した普遍性について復習したいと思います。
それは、中学校レベルの国文法の知識で誰もが分かっていることです。
言葉使いの要素(つまりは概念の要素)には
<モノの機能>
<モノの感覚>
<コトの感覚>
<コトの意味>
の4つあるということです。
<モノの機能>
=具体的な数量と単位、型式、メカニックな機構や化学式、システムや制度で表現される内容
<モノの感覚>
=具体的な形容詞や形容動詞ないし「・・・な」[・・・に」といった形容句で表現される内容 の内のモノに関する内容
ex.冷たいウーロン茶
<コトの感覚>
=具体的な形容詞や形容動詞ないし「・・・な」[・・・に」といった形容句で表現される内容 の内のコトに関する内容
ex.ウーロン茶を飲むとすっきりする
<コトの意味>
=抽象名詞ないし「・・・であること」といった抽象句で表現される内容
私は、次のように考えています。
私たちはおおよそ近代社会に生きています。
それは近代主義のパラダイムに意識的にも無意識的にも制約される世界です。
その基本的な特徴は、視覚による認識と合理主義が直結していることです。
私たちは、これに基づくことで古今東西の物事について、いちおう客観的に分析したり共通の認識をもつことができるとしています。
以上の「言葉使いの概念要素の分類」ということもこのパラダイムにあります。
しかし、言葉の発生はそのような分類とは無関係であった訳です。
倭の時代にもこんな分類を考える人はいなかったけれど、この分類を用いることで、現代から倭語の言葉使いについて、その後の日本語や外国語と比較して客観的に分析したり共通の認識をもつことができる訳です。
(本論のカタカナ言葉の検討では、世界の共通語としての英語を想定します。
あるエリア独特の方言やスラングの英語ではなくて、あくまで共通語としての英語です。
その特徴は、「言葉使いの概念要素」の4分類が画然としているということです。)
たとえば、<コトの意味>の概念要素である「キャピタリズム」=「資本主義」は、「資本主義のクオリア」といういわく言いがたいものをもって把握されています。
つまり資本主義にもいろいろあって、何を思い浮かべるか個人差のある暗黙知を含んでいる。
しかし、「資本を主なる義とすること」という大まかな捉えとしては客観性を持ちます。だから、共通認識として世界中に通用してもいる訳です。
この場合、日本語の資本主義も、英語のcapitalismと一致した概念としてそうな訳です。
<モノの機能>の概念要素である「ベルトコンベエア方式」は、「ベルトコンベアー方式のクオリア」といういわく言いがたいものをもって把握されます。
同様に、個人差のある暗黙知を含んでいる訳ですが、「流れ作業の方式」という大まかな捉えとしては客観性を持ちます。だから、共通認識として世界中に通用してもいる訳です。
この場合、日本語のベルトコンベア方式も、英語のconveyor belt styleと一致した概念としてそうな訳です。
ところが、和漢洋の言葉遣いで微妙なニュアンスをネットワークする日本語の場合、以上のようにある言葉が4概念要素の1つだけを担っているとは言い切れないのです。
たとえば、英語でhotelは宿泊機能を提供する所ということから<モノの機能>で説明できます。
ちなみに宿に相当するinnはsmall hotelのこととされます(英国では主に地方にある古い造りのものを言いますが、それは世界の共通語ではありません)。小さなホテルとしても、小ささも数値化可能な<モノの機能>という同じ概念要素に留まります。
一方、日本語の「宿(やど)/旅館/ホテル」で、宿(やど)はけっして小さなホテルのことではありません。
<モノの機能>という1つの概念要素では説明できないニュアンスを持っています。
「宿(やど)」は、英国のinnに直訳されますが、innでは表現しきれないニュアンスを、和語の他の言葉と連携して、また漢語や英語の類語とコントラストをもって含んでいます。
つまり、
日本語の「宿/旅館/ホテル」の場合、「宿」「旅館」「ホテル」という言葉=概念それぞれに、言葉遣いの4つの概念要素<コトの意味><コトの感覚><モノの感覚><モノの機能>が他2者との相対的な差異のネットワークとして備わっている、
ということなのです。
特に和語の「宿(やど)」は、<コトの感覚>と<モノの感覚>の微妙なニュアンスが、他2者との相対的な差異を際立たせる形でネットワークしている。
具体的には、「情緒性」に関わる<コトの感覚>や、「身体性」に関わる<モノの感覚>です。
そして「宿/旅館/ホテル」のそれぞれのニュアンスは、「店/店舗/ショップ」「台所/厨房/キッチン」「夕めし/晩ごはん/ディナー」「旅/旅行/トラベル(ツアー)」のそれぞれのニュアンスと相互に連携している。
その一つ一つの他2者との差異ははっきり言葉(形式知)にして個別的に説明できないものの、全体の連携したニュアンスのネットワークとしてはしっかりある。
しかし、これは私たちが母語として日本語を使い、母国の生活文化として日本文化に慣れ親しんできたから、当たり前のように認知し表現できている事柄です。
留学生が日本語に感じるトホホ、つまり日本語の理解が容易ではない特徴とは、客観的に説明すれば以上のようなことなのです。
和漢洋の言葉遣いによる暗黙知のネットワーク、その本質と起源は何か
この和漢洋の言葉遣いによる<コトの感覚>と<モノの感覚>の「全体の連携したニュアンス」とは、「木を見る西洋人 森を見る東洋人」で著者リチャード・E・ニスベット氏らが科学的に検証した仮説、
「東洋人は状況依存的であり文脈を理解することに強い関心をもっている」
につながり、日本人はそれをさらに先鋭化させていると言えましょう。
(参照:「西洋人と東洋人では注意し記憶することが異なるという事実」)
先ほど、近代主義の基本的な特徴として、視覚による認識と合理主義の直結を上げましたが、日本語の1つの言葉が基本的な4概念要素の1つで説明できないという事態は、つまるところ近代主義の文脈から漏れ落ちる発想思考を、日本語の言葉遣いが不可避的に含むということを意味します。
こうした現代の和漢洋の言葉遣いの源流は、倭語の特性が日本語に温存された過程にありました。
松岡正剛氏は、NHK人間講座「おもかげの国うつろいの国」でこのように述べています。
「ここで注目しておくべきなのは、経典や漢文書のような漢文的文脈からは片仮名が、万葉仮名で書かれた和歌や文章などの和文的文脈からは平仮名(男手を通して女手となる)が、それぞれ別々に派生してきたこと、そのわずかな変化や派生を、当時の日本人の一部の才能がきわめて重視して、これを発展させようと思い立ったということです」
日本語のいわゆる「女言葉と男言葉」という体系だった特徴もこの時以来のものでしょう。
ある女言葉のニュアンスが他の女言葉と相互に連携し、同義語の男言葉と相対的な差異を保つことで成り立っているネットワーク構造は、和漢洋の言葉遣いと同じものです。
しかし、こと言葉の「性」に関する事柄は、欧州各国語に男性名詞、女性名詞があり男女の代名詞に対して異なる動詞遣いがあることに重なるもっと根源的な事柄なのだと思います。
私は、女の人が話す言葉、男の人が話す言葉という以上に、男女問わない一般的な言葉遣いが交わされる状況において、ユング心理学でいう「アニマとアニムス」を立ち現せる働きに注目します。
たとえば、女性でも「ますらおぶり」の男性原理のニュアンスを、男性でも「たおやめぶり」の女性原理のニュアンスを言葉遣いにおいて、言葉の選択として盛り込むことができる訳です。
私は真鍋かおりがなんか好きなのですが、彼女が「俺」という言葉を使った時にしびれました。
英語なら、「I 」しかない訳で「わたくし」から「おいら」まである日本語を話す日本人に生まれて良かったと思いました。
冗談はさておき、この眞鍋かおり事件で、私はかつて滝行をした時のある経験を思い出しました。滝行に向かう前に小さなお堂で般若心経を修験者の男女に挟まれて3人で唱えたのですが、唱え終えたら急に女性の方が男言葉を使う滝の神様になってしまいびっくりしました。
「シャーマンは両性具有のニュアンスをもっている」ということを重視したい。
倭語の特性として「シャーマニズム的な言葉使い」が中核的にあり、
それが漢字の導入によって、干上がった田んぼに雨を降らせるシャーマニズムの<自然経験主義の段階>から、「いまここにあるパラダイム」を「これからよそからくるパラダイム」に転換させる<知識創発主義の段階>に飛翔した。
この<知識創発主義の段階>に達した「シャーマニズム的な言葉遣い」こそが、
外来語とその本来指し示すところの文化文明を融通無碍かつ自己流に吸収してしまう日本語そして日本人の発想思考の特徴の淵源ではないか、
つまり現代にまで至っているのではないか、
と私は思うのです。
ちなみに、中国語も「私」は「ウォ=我」しかない。
つまりここに、同じ東洋の言葉として日本語を、同じ東洋の文化として日本文化を一括りにできないポイントがある。
話者が男であろうと女であろうと、女の仮面、男の仮面を言葉の選択によって被ることができるという言葉使いは、まさに日本語だけが温存した「シャーマニズム的な言葉使い」であった、
と思うのです。
そして漢字の導入で、卑弥呼のようなシャーマンが、それまでは話し言葉が届くところまでしかその呪力を及ぼせなかったものが、書き言葉によってはるか遠くまで、そして自分の死後のちのちまで及ぼせるようになった。
そして、詔という文章によって、両性具有の仮面を、男であるか女であるかする人間が落ち度ない完璧な形でその文脈を用意周到に構成して、人々のパラダイム(考え方の基本的枠組み)の転換を意図的に仕組んでいくことができるようになった、と言えましょう。
ちなみに、尊敬語、謙譲語的な言葉の選択肢は、中国語にも「ニイ=あなた」に対して「ニン=あなたさま」とありますが、「男っぽい言葉の選択肢、女っぽい言葉の選択肢」が全体として連携しているということはありません。
男女機会均等が育児問題を含めて、中国共産党下で大胆かつ短時日の内に進めることができて、現代の日本で理念は先行するもののまだまだであるのは、こうした言葉の構造的制約が無意識の壁を作っていためである、という可能性も無きにしもあらずです。
以上検討してきたことを整理しかつ推論を付け加えると、こうなります。
日本人同士で流通する暗黙知は、特に<コトの感覚>(情緒性)と<モノの感覚>(身体性)の微妙なニュアンスのネットワークを表現する和漢洋の言葉遣いによって体系立っている。
それは、「東洋人は状況依存的であり文脈を理解することに強い関心をもっている」ことに繋がるが、日本人はさらにそれを和漢洋の言葉遣いによって性的にかつ感性的に先鋭化させたと言える。
話者が男であろうと女であろうと、女の仮面、男の仮面を言葉の選択によって被ることができるという言葉遣いは、まさに「シャーマニズム的な言葉遣い」であったが、和漢洋の言葉遣いによるニュアンスのネットワーク構造に重なる。
このことは、和漢洋の言葉遣いが、それを共有する集団において、集団が依存すべき状況を構成員がともに仮想して具現化するという呪術性を発揮させていることを推論させる。
実際、戦中は勇ましい漢語の羅列が戦意を高揚し、戦後そのことの反省から当用漢字制定の動きが起こった。
また現代でも、マーケティングやITのカタカナ言葉が既出の概念を焼き直しただけのバズワードとして登場してはその時々の業界ムーブメントを煽動していることは、まさに「集団が依存すべき状況を構成員がともに仮想して具現化するという呪術性の発揮」と言えまいか。
日本人はよく、ある極からその対極へと大きく振れる民族性、を指摘される。
律令国家から国風文化へ、尊王攘夷から開国文明開化へ、鬼畜米英からアメリカ礼賛へ。
そこには、「集団が依存すべき状況」を決定するパラダイムを縦横無尽に仮想しうる日本語のもつ呪術性が貢献しているのかも知れない。
こうした日本語の特徴は、世界共通語としての英語ならば直接的にできる近代主義的な画然とした概念要素の分析や構築をやりにくくさせることや、男女機会均等を進ませにくくするなどの弊害も多々あるが、
私は、
微妙な情緒性と身体性のニュアンスという暗黙知をネットワークする言葉遣いが、アブダクション(推量)を含む創造的な仮想を豊かな可能性の広がりをもって展開させている、
という創造性を重視したいのです。
こうした日本語独特の創造性には、和漢洋の言葉遣いだけでなく、日本語が特徴的に多様であり私たちが日々多用している擬態語や身体語慣用句も貢献しています。
私は、
「日本語そして日本文化には、身体性をともなった情緒性を尊重しそれを起点にする発想思考を独自にネットワーク化するという文化的遺伝子が一貫している」
と見ています。
あたなが男だとして、もし女ならばと推量する。
あるいはその逆。
あなたが「ますらおぶり」でやっていることを、もし「たおらめぶり」でしたらと推量する。
あるいはその逆。
あなたが和語系で考えていることを、もし漢語系あるいはカタカナ英語系で考えたとしたらと推量する。
あるいは逆に、あなたが漢語系、カタカナ英語系で考えていることを和語系で、
というふうに、
意識的にも無意識的にも言葉で物事を考える以上、こうした認知全体の可能性は級数的な広がりをもつ訳です。
認知は、当然、意識による思考ばかりではありません。
無意識による注意という第一歩から、発想、洞察そして世界観の直観にまでに至ります。
「言霊」。
言葉には本来呪術的な要素が宿っていると言われますが、それは人間の脳と身体が本来的にもっている、対自的そして対他的さらには相互交流的な創造性の言い換えに過ぎません。
たとえば、児童が親に絵本の読み聞かせをねだり、目を輝かせて聞き耳をたてるように聞き入って空想の世界に遊んだりすることでもある。
卑弥呼による詔の朗誦が民に対してもつ効果は、親による読み聞かせの子供に対する効果と心理学的には同じです。
精神療法のアクションメソット(活動による方法)に心理劇(ロールプレイイング)があります。使用される技法に、「役割交換法(ロールリハーサル)」という自分と登場人物の役割を交換する方法、「鏡映法(ミラー)」という外から客観視する方法、「二重身法(ダブル)」というもう一人の自分を登場させる、というものがあります。すべて、自分自身や自分の状況や可能性を客観的に仮想するための方法です。
詔の朗誦も絵本の読み聞かせもざっくり言えば、話し手が聞き手の想念においてアクションメソッドを駆使する話法と言えるのではないか。
この話し手と聞き手が同じ集団に帰属したり同じ秩序に依拠する場合、私たちの言葉遣いは意識しようとしまいと「集団が依存すべき状況を構成員がともに仮想して具現化するという呪術性の発揮」をしています。
それは、語用論というジャンルで言われる「モダリティ」のことに他なりません。
「モダリティ」とは、何がどうしたという命題についての情報ではなく、それを「どのような話し手が、どのような発話態度で話しているのか」という状況についての情報です。
その表現の有り様に日本語の言葉遣いの大きな特徴の一つがあります。
それについては、「『わきまえ』の語用論と日本型集団独創の関係を探る」(シリーズ)を参照してください。