バブル崩壊以降を振り返りリーマンショック以後の今後を展望する(1) |
日本と世界の時間軸と空間軸を共有するための前提知識
本書は、私が社会人となってからのほぼ四半世紀の日本と世界の動きを振り返り、今後の仕事人生を何を大切にしていかに送るかを考える上でとても良い本だった。
おそらく私と同年代以上の世代にとってもそうだろう。
そして、私より若い世代にとっては、社会に出た時に善くも悪くも当たり前になっていた状況がかならずしもかつては当たり前ではなかったこと、そしてどうしてそのような変化が起こったのかを理解させてくれる良い本だと思う。
著者は「新自由主義」の日本における先兵として、「細川内閣、小渕内閣において、(中略)規制緩和や市場開放などを積極的に主張し、当時の政府与党の政策の枠組みを作る手伝いをした。中でも、小渕内閣で(中略)参加した『経済戦略会議』の諸提言のいくつかが、のちの小泉構造改革にそのまま盛り込まれている」。
そんな著者が今日に至る日本の実情を踏まえて、反省と懺悔、そして今後の展望を述べているのが本書である。
著者の主張は、おおよそ国家に関することの経済学者としてのものであるが、私は本論シリーズで、著者の日本人論と日本文化論を踏まえた企業社会論に注目して検討していきたい。
だが、その前に本項(1)で現代の日本社会とそれに至るまでの政治的経済的な様相を再検討しておくことにする。
国がしなければならないことは山ほどあるが、しかし国だけではどうしようもないことや、国だけがして国民に強制したり依存させては危ないこともある。最後の方でそう著者は述べているが私も同感だ。
私自身のスタンスは、
「企業社会が良くなれば、それと連携して学校社会も地域社会も役人社会も良くなり、ひいては社会全体と国も良くなる」
というもので、まかり間違っても
「国がどうにかしてくれれば企業社会も良くなる、会社も上向く」
などというものではない。
これ当たり前のようだが、最近の企業社会の動向は、そういう考え方を赤ら様に世間にさらしてまったく恥じない企業トップが目につく。
では、私たちビジネスパーソンが企業社会を良くしていくとして、それはどういう手立てによるのか。
それは、
「いま自分の所属する職場や会社の就労環境や仕事の中身を社会貢献的により良いものにする、という営みを日常的に繰り返す」
という現場実践による以外にない。
選挙でどこかの政党に投票しても基本的にはどうなるものでもない。職場や会社の有り方は多様であり国が意図的に方向づけられるのは、制度的な側面だけであり、どのような制度下でもそれをより良いものにする営みをするかしないかは、ビジネスパーソンたちの主体的に連帯する意志によるしかない。
要は、
「すべての人が自分の職場や会社の就労環境や仕事の中身を社会貢献的により良いものにすれば、企業社会の全体が良くなり、それと連携して学校社会も地域社会も役人社会も良くなっていく」
のである。
国にしてもらわなければならない企業社会の制度的大枠というものは確かにある。
しかし、それは国家や企業のためを最優先してすることではない。
国民である就労者や消費者にとって良いことを優先すべきである。
就労者や消費者の犠牲の上に国家や企業にとって良いことを優先すべきでないことは言うまでもない。
とはいえ、理屈ではこのようにシンプル明快なことでも、現実問題として何をどう捉えればそうした方向性の考え方をしていけるのか、となるとけっこう複雑かつ難解である。
本書は、それを優しく解説している点でも良い本だと思う。
しかも解説内容は、単なる経済学の知識の羅列展開ではない。
著者自身が邁進、挫折、転向して経験を通して実感したことだから明快にして説得力がある。
著者は、序章「さらば、『グローバル資本主義』」の終わりに、次章で「転向」という言葉を使っていることについて注意書きをしている。
「私は構造改革そのものを全面否定するようになったわけではない。
しかし、格差拡大を助長し、日本社会が大事に育ててきた社会的価値を破壊するようなことを放置する改革には賛成できなくなった。
その意味においての『転向』である」
第一章「なぜ、私は『転向』したのか」で、著者は、日産をやめて留学した1960年代末から70年代初頭にかけてのアメリカ社会の様相に触れている。
アメリカは「世界中の若い学生や知識人に留学資金を提供することで『アメリカびいき』を増やしたが、著者もそれにはまった口だったことから反省している。
「実は当時、アメリカ経済学で主流を占めていたのは、けっして今のような市場原理主義的な考え方ではなく(中略)『新古典主義総合』と呼ばれる考え方であった。マーケットメカニズムを重視する『マネタリスト』と呼ばれる立場と、政府介入を許す『ケインズ経済学』の組み合わせによって資本主義経済は安定的発展を遂げられるという考えであった。(中略)
だがアメリカ経済学は1970年代後半頃から、政府の市場介入を全面的に否定する市場原理主義的な急進的学派(『合理的期待形成学派』)に席巻されるようになり、それがレーガノミックスという形で1980年代以降のアメリカ政府の経済政策を大きく変えていくことになる。
ここで私がうっかり見逃していたのは次の二点であった。
第一は、日本とアメリカでは国の成り立ちも大きく異なるのだから、アメリカ流経済学をそのまま日本に適用しても、それで日本人が幸せになれる保証はなどどこにもないという当たり前の事実である。
そして第二は、留学当時、私を圧倒したアメリカの豊かな社会を支えていたのは、実は市場主義などではなく、総需要管理を政府の役割として重視していたケインズ経済学と、その背後にあった『偉大な福祉国家』建設への強い信念であったという点である。
もっと言えば、当時のアメリカ社会の豊かさや健全な中流階級の存在は、(中略)『新古典派総合』の結果というよりは、フランクリン・ルーズベルト(FDR)が行ったニューディール政策や、平等社会実現のための諸政策、さらには(中略)公共事業を活用した福祉社会建設への強い信念が、戦後のアメリカ社会に根付いていたからであった(中略)。
私はこうした現実を見過ごして、レーガン政権以降に主流となる新自由主義こそが、昔からアメリカ流経済の中心であったかのように錯覚してしまったのだ」
私は、著者のような最高権威が自らの過ちをこのようにオープンかつフェアに告白し反省する、そのような学者を知らない。
学者でなくても、「アメリカ出羽守」と呼ばれた経営幹部にもこうした真摯で誠実な姿勢を示す者は見当たらない。
著者は尊敬すべき人物だと思う。
著者はこう続ける。
「30年代の大恐慌によって『すべてを市場に委ねれば経済は安定的に発展する』という経済思想は破綻を来たした。古典派経済学によれば市場原理に任せていれば、いずれは失業も不況も収まるはずだったのに、大恐慌はいっこうに終息しなかったからである。
この恐慌からの脱出のため、ケインズ経済学を取り入れたFDRは、かの有名なニューディールにおいて大胆な公共事業に踏み切ったが、彼は戦後になって単なる景気対策にとどまらず、所得の平等化など、福祉政策にも力を入れた。
その経済政策の流れが第二次大戦後、30年以上続いたことによって戦後のアメリカは豊かな社会を創り出すことに成功したのであった。(中略)
第二次大戦集結の1945年から、オイルショック直後の1975年にかけてのアメリカは、第二次世界大戦前に比べて圧倒的に所得格差が縮小した『大圧縮の時代』(中略)だった」
「5つの銅貨」という、1920年代に一世を風靡したバンド・リーダー、レッド・ニコルズの半生に基づく音楽伝記映画がある。制作は1959年で、終戦直後の時代にアレンジされていた。娘の脚の病に責任を感じて引退した彼は工場労働者に身を落とす。ところがだ、この工員の家が庭付き一戸建て、小坂明子が「あなた」で歌ったような芝生に映える白い家。私は70年代後半に見たのだが、それでも日本の低所得者の暮らしとは比べようもないほど豊かに見えた。
工員が携行するランチボックスが、今にしても思うとプアホワイトのシンボルだったのだろうが、当時はお洒落なIvy Leagueアイテムにさえ見えてしまった。とても主人公が身を落としたといった裏ぶれた実感は湧かなかった。
それほどに戦後アメリカは豊かな福祉国家だった。
そのことは、現在のアメリカ人からしてもそうだ。
今、リーマンショックで家を失った人々が「5つの銅貨」で、彼らの手放した家よりは小さい借家(確か平屋だったように思う)の工員暮らしを見たら、何に心をとめるだろうか。その家の貧相さではなく、再起するセーフティネットの暖かさではないか。
では、単純にあの時代に戻ればいいのか。
著者はあの時代のケインズ経済を顧みてそうではないと主張している。
「戦後、隆盛を誇ったケインズ経済政策による政府介入が1970年代に入ってついに行き過ぎる時代が発生したのである。(中略)
ケインズ経済は景気の安定化という仕事が政府の仕事であると主張するのだが、それならば、景気の良いときには政府はむしろ介入しないで、様子を見るほうに回らなければならないはずである。景気が加熱してきたならば、逆に引き締め政策を採らなければいけないであろう。
ところが、そうはならなかった。なぜならば、景気が良いのに、議員たちは『引き締め』どころか、有権者の歓心を買うために、誰もが喜ぶ公共事業や福祉政策を推進するための計画をぶち上げたからである。ケインズ経済学は議員たちにとって格好の理論的支柱になった。
こうなると、ケインズ経済学が言うところの『景気の安定化』は機能せず、逆に景気過熱と公的部門の肥大という副作用をアメリカ経済にもたらすことになる。実際、アメリカ経済は景気過熱によるインフレと、巨大な財政赤字、さらには、公的部門の肥大という『先進国病』を抱えるようになる」
私たち日本人が忘れてはならないのは、日本の財政赤字が積み増しが強化されたのは、バブル崩壊の後のことだということだ。
バブル崩壊前夜の1990年、日米構造協議で内需主導型経済の推進をアメリカから要請されたのを渡りに船にして、政官業の癒着体制が無駄なコンクリート系の公共事業と無駄使いし放題の特殊法人を乱立させてからのことなのだ。
アメリカは日本に対しGNPの10%を公共事業に配分することを要求。自民党海部内閣はこれに応え、10年間で総額430兆円という「公共投資基本計画」を策定。しかしその後、アメリカ側から「日本の対外黒字の増加を考えれば、公共投資の目標の上積みが必要」との要望があり、1994年に自社さ政権村山内閣で計画が見直され、社会資本整備費としてさらに200兆円を積み増しし、総投資額は630兆円を計上した。こうした一連の投資行動が現在の日本の財政難と無関係な訳はない。
1991年にバブルが崩壊しそれまでの景気過熱によるインフレからデフレ不況に転じた。
当時、ケインズ的な景気刺激策とも看做されたが、社会貢献的でなかったり反社会的であったりする「談合経済」の積み増しは、デフレ抑制や雇用拡大など健全なる経済波及効果をそもそも期待するものではなかった。
ただただ「政官業癒着天国」を拡張して巨大な財政赤字と公的部門の肥大化という「先進国病」を加速させて今日に至る。
著者が日本における先兵として押し進めた「新自由主義」とそれを単純に土台とする「小さな政府論」には難点が多々あったが、「先進国病」を快癒させるための構造改革そのものは、すべき必要性と正当性があったことを忘れてはならない。
日本人はともすると、鬼畜米英からアメリカ礼賛に転じたように、「小さな政府論」から「大き過ぎる政府論」へと「新自由主義」から言わば「新社会主義」を目指すかのような思潮に真逆に振れる可能性がある。
しかし、それでは戦後のアメリカ経済が犯した過ちを、日米構造協議でやらされ、今一度自分たちで繰り返すことになってしまう。
(ちなみに、私が労働組合のひも付きの政党や政治家を信用しないのは、労働組合至上主義と政官業癒着の両者が依って立つ温床と利害を共通する姿を自社さ村山内閣で見ているからだ。
そして、バブルのピークの景気過熱時に莫大な公共投資を強要したアメリカは、それを受け入れたバブル崩壊後の日本経済がどうなるか、戦後アメリカ経済の経験から百も承知していた、ということも記憶しておくべきだろう。反米を看板にしていた社会党がアメリカの術中に自らはまったとさえ言えるのだ。
アメリカ追従の55年体制は、自民党と社会党のなれ合いと小沢一郎氏は言うが、その本質的構造は今もまだ、民主党の政権内部で続いている。亀井静香氏の中小企業救済の徳政令と郵貯資金の国債買い支えに向けた財政投融資廃止分の巻き返しも、自民離脱の亀井氏による一人55年体制と言える。
小沢氏は、小泉改革の「小さな政府」の反動で「大き過ぎる政府」に振れて、それを是正する政策論によって健全な二大政党が再編されると感じているようだ。その時はじめて55年体制を脱却できる。同様の感じ方をしている政治家は「みんなの党」にも「自民党」にもいる。「大き過ぎる政府」に振れる目下の第一弾ロケットでは、官僚主導を改め、社会貢献的でない政官業癒着を払拭する。そうすれば、自民党内部でも圧力団体ひも付き政治家の力が弱まる。小沢氏は今後の政局展開を失敗の許されない最後の挑戦と捉え、第二弾ロケット、第三弾ロケットを遠謀深慮していそうだ。)
人間は「先入観」に騙される、そのレバレッジの「バランス欠如」について
著者はさらに反省を進め、「人間は先入観に騙される」と指摘する。
「私たちが抱いていた『アメリカは自由競争の国、自己責任の国だから世界一豊かになったのだ』というイメージは、実は真実の半分しか語っていないことに気がつく。
というのも、経済活動を自由競争に委ねているだけでは格差拡大が進むなど、社会の安定性が損なわれ、結果的に豊かな社会を作れないからであり、社会全体の『豊かさ』を作り出すためには、政府の『適切な』介入が必要になるからである。
しかし、この点については、私が最近まで誤解していたのと同様、アメリカ人自身も誤解していると思われる。彼らの多くは、戦後アメリカ経済が発展してきたのは、アメリカが自由の国であり、誰にでも成功のチャンスがある『アメリカン・ドリーム』の国であるという神話を信じてきたからである。(中略)
しかし、圧倒的多数は敗北者となって、惨めな生活を強いられる結果に終わる。
アメリカ社会がすごいのは、たとえ確率が小さくても、とてつもない成功者を輩出できることを見せ続けることに成功しているということであろう。
しかし、このような万に一つの『アメリカン・ドリーム』だけでは、アメリカを真に豊かな社会にすることはできない」
著者は、ここで「先入観」というものの恐ろしさを説いている。
「先入観とは怖いものである。こうやって実際のデータを見ていけば、誰の目にも明らかなことでも、『アメリカは自由な国』という固定観念をいったん持ってしまうと、専門家であっても『アメリカは自由な国だからここまで発展したのだ』と信じ込んでしまい、事実が見えなくなってしまうのである。
しかし、彼らが誇る豊かさ、ことに戦後アメリカの豊かさとは、自由な経済活動の成果という面に加えて、政府が積極的に経済に関与して、適切な社会福祉政策、適切な所得再分配政策をとってきたためであり、さらには、日本と同様に労使協調の精神が醸成されたからこそ、社会も安定していたというわけなのである」
たとえば、オバマ政権がGMを救済するに際して、GMの車両価格を押し上げるほどの企業年金負担があったことを知ってびっくりした人は私ばかりではないだろう。なんと日航と同じ構造にあった訳だ。つまり、日米の労使協調の精神に類似するところが大きい一つの証左と言えよう。
先入観が恐ろしいのは、それが事実ではないからではない。
事実であることはあるのだが、その確率の低さと、確率が低いことにレバレッジを効かせて全体主義的とも言えるドグマとして正当化することだ。
「アメリカン・ドリームを達成させる自由の国」という先入観は、ビル・ゲーツやタイガー・ウッズという稀少な事例にレバレッジをきかせて、一気に機会均等と実力主義の世界を正当化する。
その際、本当に機会均等なのか、実力評価が多様な価値観においてフェアにつまりはノン・ポリティカルになされているのかを問うことはない。
機会均等でないと不服をいう者は実力がないに過ぎない。
実力が評価されないと不満をいう者は、基準とする価値観が差別されているのではなく普遍性に欠けるのだと否定されてしまう。
そこには、普遍性に欠ける多様性は認めない、という全体主義的な教条が隠れている。
なぜ全体主義的と言えるかというと、彼らが普遍性を認めるものが2種類しかないからだ。
1つは、普遍的に説明と理解が可能な低コンテクストのこと、その筆頭が金融と科学技術と軍事力である。
すべて数字と型式で表現される<機能的価値>であることは偶然ではない。
いま1つは、普遍的に説明と理解が可能な高コンテクストのこと、つまりはキリスト教である。
これがアメリカ人の発想思考の成果を意味づける<意味的価値>の源泉であり共通パターンである。
前者の原理主義的な思潮エネルギーはグローバリズムに向かってきた。
後者の原理主義的な思潮エネルギーは、論題を変えては保守と革新の対立となる国内の諸問題に向かってきた。
ただし前者の金融と科学技術と軍事力のグローバル化の意味づけは、キリスト教の普遍性や自然支配性や布教聖戦のパターンを土台としている。
日本人が発想思考の起点とする<情>という<感覚的価値>が、ともすると<機能的価値>と<意味的価値>を繋ぐ要素として希薄であることは注目すべきだろう。そして、金融と科学技術と軍事力のそれぞれが、そして時には三位一体で暴走してきた。その際、<情>という<感覚的価値>がバランサーないしは歯止めとして働かない場合、「先入観」が「バランス欠如」のまま強迫観念のように強化されてしまう。
著者は、「何ごとにもほどよいバランスというものがある」と言う。
「事実であることはあるのだが、その確率の低さにレバレッジを効かせて全体主義的とも言えるドグマとして正当化する」というのは、明らかにバランスを欠いたやり方だ。
しかし「先入観」の持ち主は、たとえその「バランス欠如」に気づいても、自分はラッキーだから稀少なケースの方になると希望を抱いてしまうし、為政者は抱いて当然のごとく誘導する。
問題は、人間にとって希望は必要であり、希望をもつこと自体は健全であることなのだ。
だから貧困層の多くの意欲的な若者たちが、イラクから無事に帰って大学に学費免除で行けるラッキーな自分ばかりをイメージして徴兵に応じてしまう。
彼らを誘導する軍のリクルーターは、けっして愛国心と国防精神を鼓舞するだけではない。大掛かりなゲーセンのようなところでゲームをさせて、意図的に近代戦についての誤解さえ植えつけている。問題は、人間の希望がこうして国によって食い物にされていることなのだ。
国民が希望を持てない国は、国民に誤った希望を持たせる国に容易に転じる。この点は私たち日本人も他山の石とできない。
「先入観」の怖さがもたらす「バランス欠如」は、経済問題にとどまらない。
人類の歴史、現代世界が抱える深刻な問題のすべてに共通している。
どの国も為政者は国民の生命財産を守るべく安全保障を実践する。
これを個人の家にたとえて、家に誰でも鍵を掛けるし、泥棒にあえば警備会社を雇うことと同じだという理屈が言われる。そして多くの人がその通りだと納得する。
しかし私たちは、家での生活を不自由にするような鍵の掛け方はしないし、家計を圧迫するほどの料金を支払ってまで警備契約を充実したりはしない。
それは「バランス欠如」だからだ。
ところが世界には、「起こったら大惨事になるという可能性」をテコにバランスの欠いた負担を国民に強いる安全保障をずうっと継続している国がある。(日本の場合この文脈で、軍拡ではなくて、アメリカへの軍事支援拡張と災害防止の土木事業拡張をやってきた。)
東西冷戦まではアメリカとソ連がそのリーダーだった。
アメリカはベトナムが共産化するとドミノ倒しのように世界に波及するとしてこれに侵攻した。ソ連はアフガニスタンがイスラム主義化へ転向するのを阻止すべく軍事介入した。イスラム主義化の国内中央アジアへの波及を恐れたのだ。両者ともに過剰防衛だった。ソ連が崩壊したのは民主化によるのであって宗教化が原因ではなかったし、共産化したベトナムは後に自主的に市場経済を導入する開放政策をとっている。
今流に言えば、二つの軍事大国は「ネガティブ思考」に自らはまりつつ、軍事力こそ万能なものと錯覚したのである。
「起こったら大惨事になるという可能性」をテコにバランスの欠いた負担を国民に強いる安全保障をずうっと継続している国は、ソ連崩壊後、アメリカという軍事超大国とこれに敵視される諸国になった。
現在はイランと北朝鮮である。
そして我が国は、第二次大戦の敗戦以来、東西冷戦時代を通じて、さらにその終結後の現在も、アメリカという国(国民ではない)の考え方と感じ方、そして仮想敵国の設定を我がものとしてきている。つまり、パラダイムをアメリカと共有してきている。
そのパラダイムは、安全保障についても経済政策についてと同様に、「事実であることはあるのだが、その確率の低さにレバレッジを効かせて全体主義的とも言えるドグマとして正当化する」明らかにバランスを欠いたやり方だ。
安全保障とはリスク管理だという。それは正しい。
しかし、だから「万一のことに備える」という。それは「適切なバランスを保って」という条件付きで正しい。
ところが、この条件が無視されてしまう。
歴史的事実として、アメリカそしてソ連という軍事大国がやってきた軍拡競争や代理戦争は、過剰防衛によって戦争の火種と戦争そのものを世界に蔓延させることでしかなかった。
この「バランス欠如」のパラダイムについては、核武装に走る北朝鮮もアメリカも同根なのだ。
家に入る泥棒は、見知らぬ他人であるのが一般的だ。
ところが、安全保障の仮想敵国は、あっそれってうちの国のことだと分かる相手だ。
「万一のことに備える」のは、泥棒よけは徹頭徹尾守りだが、軍事では「攻撃こそ最大の防御」である。軍隊や兵器に守りと攻めの色分けはない。備えを拡大すれば、相手はそれを攻撃能力として看做して自らの備えを拡大する、その双方繰り返しが軍拡競争になる。
これが泥棒と仮想敵国との分かりきった違いだ。
一見、単純明快な理屈は、分かりきったことを省いていれば、そこには「先入観」を巧みに利用して「バランスの欠如」を隠蔽する意図が隠れていると見ていい。
備えが攻撃能力であり、備えを肥大化することそれ自体が仮想敵国との関係を軍事的緊張に導いて行く。
極東でそれを未だにアメリカと北朝鮮がやっている。
北朝鮮はその認識があるからアメリカとの二国協議を要求している。
アメリカもその認識があり北朝鮮と二人で孤立するのは嫌だから、六カ国協議で巻き沿いと保証人を必要としている。保証人として北朝鮮に近い中国とロシア。軍事的な巻き沿いとして韓国、経済的な巻き沿いとして日本だ。核拡散という「恐怖」によって、自国民と日本人と韓国人の「ネガティブ思考」と「軍事力期待」を煽りながら。
アメリカの産軍共同体は、北朝鮮というならず者が頑張ってくれている方が良いと思っている筈だ。ならず者がいなければ警察官はお払い箱だからだ。
中国が軍事力を拡大してアメリカに対抗していると盛んにPRする向きがあるが、アメリカ国債を買い支えている中国がなぜアメリカと戦争をすると考えられるのか。
産軍共同体は、つねに軍事的恐怖を呼び起こして、軍事市場を活性化させ続けていると考えれば分かりやすい。
ちょうど昨夜、太田総理の番組で、ある落選自民党元議員がこんなことを言っていた。
「将来、第三次世界大戦があるとすれば、それはアメリカと中国の戦いだろう。民主党は中国を含む極東各国で安全保障条約を結ぼうとしているが、もし第三次世界大戦になりアメリカが核を落とすとしたら日本だ。だから、そのためにアメリカとの安全保障を強化しておくべきだ」
まさに「先入観」の「バランス欠如」のオンパレード発言だ。
こんな理屈に恐怖を煽られて納得する国民もいるから「先入観」は怖い。恐怖に煽られた「先入観」は連鎖反応していく。
あり得ないことではない、しかし確率は低い。しかし一番問題なのは、確率の低い最悪の将来を常にネガティブにイメージして過剰防衛に向かうよりも、確率の低い最悪事を確率ゼロにする明るい将来を実現する努力をした方がいい、というポジティブな想像力を恐怖が人々から奪うことなのである。
軍事力と戦争可能性しか考えない者ほど、経済関係や外交関係の発展成熟がもつ多様な価値と可能性を軽視したり捨象する。
古今東西そういうタイプは必ずある割合でいるが、専門家志向の知識偏重社会の現代日本ではよりその影響力が増している。
気がつけば、アメリカという国は基軸通貨ドルが使われる「金融資本主義」をグローバル化し、アメリカ軍ないしはアメリカ製の兵器やIT装備が世界中に出ばっていくべき「テロとの戦い」をグローバル化した。
そして日本は、アメリカの経済政策的、軍事政策的な盟友として、「先入観」による「バランス欠如」も共有してきている。
今、国の政策レベルで、このままアメリカの枠組みでいくか、それを是正するかが論じられている。
経済政策については、かつての日米構造協議のような形での圧力はないだろう。アメリカ主導の金融資本主義がリーマンショックで反省されているし、日本の経済大国の地位はその成長性という観点からすでに中国にとって代わられている。
問題は、軍事政策についてだが、これが国内と対米で中心的な論点になるのは、政権交代劇の第二弾ロケット以降ではなかろうか。
目下、是正を進めたい民主党政権に対してアメリカがどのような姿勢にあるのかは、おそらくオバマ大統領が来日しても分からないだろう。
産軍共同体は想定する大枠に追随してくれた自民党政権の復帰を望んでいるが、オバマ大統領は表面的には産軍共同体と前政権に比べれば多少なりとも距離を置いているからだ。
しかし、ブッシュ家とビンラディン一族が親交深かったというお国柄である。国民皆保険を進めようとしたクリントン国務長官も、すでに対抗ロビイスト勢力に与しているとさえ言われるお国柄である。アメリカ国民でさえ誰も水面下のマグマのようなダイナミズムを知る由もない。
すべて起こった出来事をもとに後から憶測することだけが許されている。
産軍共同体の本音が同時中継で見えることがあるとすれば、常にアメリカ政府の軍事行動という形をとる。
日本人がそれを見て事態を正確に理解する時は、可能性としては、日本が日米安全保障条約をやめようとするか、やめずに中国とも日中安全保障条約(米中が対立する際の中立を明記、韓国も含めた極東同盟)を結ぼうとするか、日本自らが核武装を目指すか、どこの国とも軍事同盟を結ばずに非武装中立に徹しようとする(考え方としては国連軍を世界の警察官にする)か、いずれかの意思表示をした時だ。
しかし、第二次大戦後、仮想敵国をシフトさせながら、アメリカに共有させられてきた「恐怖」は今や日本人自らが主体的に抱くものとなっている。しかも潜在的には、そもそも敵国だったアメリカへの「恐怖」があり、それがアメリカから離反するすべての可能性をその検討を含めて必要以上にネガティブにイメージさせている。
巷間よく「喧嘩しなければ本当の関係は築けない」というが、本当の関係性は喧嘩をしてみないと分からない。日本は戦後、アメリカとまともな喧嘩をしないできている。
親分子分の関係でした喧嘩は親子喧嘩でしかない。それも親離れ子離れできない、端からみれば内輪もめに過ぎない親子喧嘩だ。
いま、政権交代しても外交の継続性を尊重すべしとも言われるが、それは一度親分子分になった日米関係は、ずうっとそのまま維持すべきということでは決してない筈だ。
そろそろ日米安全保障条約は「親分子分の杯」ではない、ということを国民の意志として再確認し世界に明示しなければならないと思う。
そうしなければ日本はいつまでたっても「普通の国」にはなれない。
このような観点に立つならば、アメリカも北朝鮮も軍事問題については「日本=アメリカの子分」パラダイムに立っている現実を理解して、このパラダイム自体を非軍事的な方法で解消する努力をすべきと思う。
具体的には外交と経済ということだが、日韓関係の強化を踏まえた日中韓の関係強化が鍵になると思っている。
私は、日本人論と日本文化論を踏まえた企業社会論は、中国韓国との経済関係を草の根的に、つまりは現場職場の恊働において強化する上で、まず日本人自らが自覚的に理解する必要があると思う。
その上で相手側の民族論、文化論との相互理解を深めることが、社会貢献的な恊働活動を促すことができる。
日中韓のユニークで独自の世界貢献をする経済関係の強化をすることが大切で、それを、これまで通りアメリカのグローバルスタンダードの枠組みでやっていく愚は避けるべきだ。
次項(2)から、こうした現代国内外の諸状況を踏まえた上で、日本の企業社会に論題を絞り、著者の日本人論と日本文化論を検討していくことにしたい。