江戸時代における「日本型の発想思考」の集団独創化を探る(3:間章) |
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からのつづき。
江戸時代の政治体制の大枠としての「家康志向」の全貌
「鎖国政策によって国際間の紛争は抑えられ、武力所持の格差で幕藩間の対立関係も抑えられた。そして、法治主義が社会の隅々にまで貫徹していくと、戦時体制はしだいに形骸化し、幕府と大名の関係は参勤交代や儀式、諸普請への動員などに取ってかわられた。
しかし、これらの費用は重く藩財政を圧迫し、負担は領民に転嫁された。(中略)
個々の領内では、藩政をゆるがす有事がしばしば起こってはいた。しかしこれらの一揆では、将軍や藩主に運動の矛先が直接向けられることはなく、政策を立案し実行に移した担当者に向けられたので、一揆が直接国家の体制をゆるがすことはなかった。(中略)
重要なのは、四民(筆者注:第一を天子、第二を諸候、第三を上位の高官=公家、第四を上位の士分、第五を庶民とする「五等」における、第五の庶民がさらに四民=士農工商に分かれる)。この「民」のなかに「士」が組み込まれている点である。
四民の上に天子や諸候が存在し、四民は彼らのためにそれぞれの職務を遂行するのが人倫なのだと教えられているから、百姓一揆は、この四民内部の争いとなり、天子=天皇、諸候=将軍・藩主には波及しない構造になっている」
つまり、幕藩体制とは将軍と藩主という「五等」の「第二の諸候」と幕府を開く際の功臣=旗本直参などの「第四の上位の士分」の話であり、「第五の四民=士農工商」を規制するものである。
ここで、「第四の上位の士分」以上は基本、血統による世襲で厳格な集団を身内で固める「家康志向」にある。
日本人の一般庶民は、戦前から天皇は無条件に良い存在で悪いことがあるのは取り巻きの官僚や軍部のせいだ、と考えてきた。これは、江戸時代の庶民がお上の中でも将軍様や藩主のお殿様は無条件に良い存在で悪いことがあるのは取り巻きの老中などのせいだ、と捉えたことの延長にあるのかも知れない。
だとすれば、「家康志向」には、その集団の頂点に聖なる権威を無意識的に想定する心理的傾向を指摘できる。
一方、「五等」の「第五の四民=士農工商」は近年、身分制度ではなく、職分の分類だったとの理解となっていて、その実態は士農工商ではなくて「武士」と「百姓」と「町人」の三分類だったとされる。秀吉の刀狩りによる兵農分離で職分移動が制限されたことを大筋で江戸幕府も踏襲した。
そして、職分移動を可能とする慣行がいろいろあり例外的に展開した。具体的には、養子縁組、御家人株の買得、武家奉公人からの登用、用人としての雇用(渡り用人)、帰農、武士が刀を捨てるなどである。
つまり、
「第五の四民=士農工商」は、
大筋では「家康志向」なのだが、
例外的な慣行として自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」もあった
ということになる。
ただし、著者は四民の下の中世以前からの来歴をもつ「非人」「穢多」という賎民の存在を指摘して、「この身分制の構造が、士農工商のシステムをより強固なものにしているという点を忘れてはならない」としている。
士農工商は身分制ではなく職分制と理解されるようになったが、「非人」「穢多」に関しては階層差別が厳然とある身分制と言うしかない。
大枠の体制システムの話としては、こう言えるのではないか。
つまり、
「第五の四民=士農工商」以上が体制の根幹をなす「定住民」であるのに対して、
「非人」「穢多」は支配しにくい「非定住民」や支配を逸脱した「定住民」であり印付きの身分とされた
と。
まず「非人」が、「抱非人(かかえひにん)」と「野非人(のひにん)」に分かれた。
前者が支配を逸脱した「定住民」で、近親相姦者、心中の生き残り、盗みを犯した未成年の「無宿者」である。これは家族や親類縁者が金銭を支払うことで平民に戻ることができた。
後者が、支配しにくい「非定住民」で、路上生活者、一般的な「無宿者」である。主に農村部で飢饉や病気などにより年貢が納められなくなり「人別帳」を離れて江戸へ流入した者たちだった。厳しく取り締まり一定の区域に住まわせたりしたが効果なく「無宿狩り」が行われていく。
非人の生計は主に「物乞い」で、非人以外が「物乞い」をすると罪になった。
また非人は、街角の清掃、門付(かどづけ)などの清めに関わる芸能。街角の清掃に付随して紙くずを拾い集めての再生紙づくり。町役の下役として警備や刑死者の埋葬、斬首刑で罪人を押さえつけたり死体処理をしたり、入牢した者が病気に罹った時の看病や少年犯罪者の世話などに従事した。
非人小屋が江戸の各地にあり、そこの頭の支配を受けた。この非人組頭の頂点に「弾左衛門」という人物がおり、その支配下に「頭」と呼ばれる者が4~5人いた。ある種の利権構造を成していて、お上から自主管理を託されていた。
つまり、
お上の管理下で体制に組み込まれた「抱非人(かかえひにん)」が集団を身内で固める「家康志向」であり、
お上の管理が及ばず「無宿狩り」の対象になった「野非人(のひにん)」が、盗賊などの集団行動をとれば自由に活動する個々を集団に構成する「信長志向」だった
と言える。
時代劇に出てくる、無宿者の渡世人が一宿一飯の世話になったヤクザの一家に出入りがあってそれに加勢するのも、後者と言えよう。
「穢多」は「非人」よりさらに下位におかれ、町民の住居からかけ離れた河川の土手沿いなどに一箇所に集めて住まわされた。生まれた子供もその身分とされた。いわゆる「部落」の縁源である。
「穢多」の実態は、非人組頭が統率する最下層であった。「非人」の中でもさらに「素行」が悪く「非人の秩序」を乱す者などがそれとされた。
彼らは、死んだ牛馬を百姓から貰い受けてその肉を食い皮は皮製品などにした。この斃牛馬(へいぎゅうば)の取得権は「穢多」の何よりの独占権だった。その他にも、藁(わら)細工、燈心細工、破魔弓矢(はまゆみや)細工など簡単な手工業的生産に携わった。
ちなみに「穢多」は、「戦乱の世」において戦国大名から鎧や鞍などの武器としての皮製品調達を命じられた長史(ちょうし=村のまとめ役)に皮製品の上納したことに始まる、とされる。
それが「無事の世」になって、その仕事内容が賎視の対象になったのは、賎視の対象になる者の仕事となったからか、それとも仕事内容が穢れ視されたためか、あるいは両方の相乗効果だったのか分からない。
明らかなのは江戸時代の間に明治以後もずっと続く被差別的な身分となった事実である。
思うに、お上が直接的に支配せず、また直接的に徴税しないが、非人組頭を通じて体制の管理下に組み込むにおいて、仕事内容の穢れ視と仕事従事者の賎視の社会的な定着を必要としたのではあるまいか。
つまり、穢れ視と賎視を社会的に定着させないと、仕事への参入者が増えて自由競争になって管理体制も利権構造も崩れてしまう、そのことを体制管理に与した既得権益者たちが嫌ったということである。
だとすれば、「家康志向」には、その集団の底辺に俗なる差別対象を無意識的に想定する心理的傾向を指摘できる。
さて、話題を四民(士農工商)や「武士」「農民」「町人」の職分制に戻そう。
以上、江戸時代の政治体制の大枠として、「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」知識創造体制である「家康志向」のメンタリティは、この江戸時代の職分制において日本人の庶民全体と生活文化の全体に多角的に刷り込まれたことを確認した。
「世襲が定着し、暴政をほしいままにする藩主や無能な藩主が誕生するようになる。それは御家騒動と呼ばれる家中を二分する藩内抗争にまで発展し、藩の存続を左右する事態を醸成させ、時折幕府の介入を招き、取り潰しや減封や転封の憂目をみるに至った。
そのため、主君押し込めなど、藩政をゆるがす極端な事態の発生を事前に抑えるシステムが、許容されていったのである」
「御家大事」が何よりの大義であることは、「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」知識創造体制である「家康志向」に他ならない。
政治体制の大枠において、「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制である「信長志向」の介在する余地はなくなった。
かつての「戦乱の世」では、大名の主君が城を枕に討ち死にすると言えば家臣は従うしかなかったが、「無事の世」では勝手な振る舞いをする主君を家臣が集団合議の上で押し込めにして体制を保とうとするようになったのである。
そして、マグマのように蓄えられた庶民のエネルギーが噴出する場合、それは「信長志向」の思考と行動であったが、維新前夜までは「家康志向」の全体体制の中で部分的に噴出しても吸収なり解消させられてしまうのだった。
現代の企業社会の用語で言えば、中間管理職の集団合議体制が強く、経営トップに強い影響力をもち、集団合議の内容から逸脱する動きを現場レベルで抑えることができた、ということになろうか。これは、共同体性があったかつての日本型経営の会社の様相でもある。
「経済の発展などによって村や町の身分秩序が変容し、四民を構成する士農工商の枠外に、『遊民』という『国土のために用なき』非生産人口が多数生まれた場合、この身分秩序のシステムが崩壊に瀕する」
という、江戸中期の経世家西川如見の指摘に著者は注目している。
「四民の枠内では収まらない雑業層の増大が、身分秩序を動揺させるとみていたのである。
そして、『この四民なきときは、五等の人倫も立つことなし』と、国家の内部崩壊を予言していた。歴史は事実、そういう方向に進んだ」
政治体制を権力闘争としてみていると、幕藩の力関係にばかり、つまりは諸候と士にばかり目が行ってしまう。
しかし、そうした上部構造を動かした土台には、下部構造の大きな変動があったのである。
上部構造はあくまで国土一律の農本主義で商業に対しては武士による管理統制を旨とした。
下部構造は消費都市を拠点とする重商主義で町人と富農が緊密にネットワークし、娯楽や情報が商品化することでその他の商品経済をも発展させた。
つまり、娯楽や情報の商品化に従事する雑業層の増大と、彼らが都市型の商品生産体制と消費社会を牽引するようになっていった。
幕府の政治体制は、雑業層をうまく支配管理できずこの動きに歯止めをかけることができなかった。幕府が浮世絵や歌舞伎を神経質かつ執拗に規制したのはこういう構造的背景からだったと思われる。
一見、現代の日本社会と無関係のことのようだが、現代のメディア状況でもまったく同じことが起こっていて、日本の場合、体制がうまく支配管理している。
いつの頃からかお笑いタレントが朝から晩まで24時間365日、いろいろな番組に登場するようになった。情報バラエティ番組では、キャスターやコメンテイターになるようになった。問題は、政権に批判的な物言いをインターネットなどで発信するお笑いタレントがいくら人気があっても干されてしまうことである。結果的に、政権をバックアップする物言いをお笑いまじりに広め、国民が知るべき時事ニュースがある時でもそれに触れないでどうでもいいお笑いで思考停止させている。そういう役回りを大量のお笑いタレントが日夜果たすようになった。
江戸幕府ができなかった雑業層の支配管理を、現代の日本の体制は巧みにこなしていると言えよう。
江戸を中心に「都市型の商品生産体制」が発展した。
それは、
一つには、江戸の地廻りで生産される安い『下らない物』の新興の流通体系である。(「下り物」を独占する株仲間の流通体系の「家康志向」に対して「信長志向」)
いま一つには、化政期に開花した多色刷り版画の浮世絵をメディアとする情報市場社会において娯楽を提供する情報商品の生産体制である。(集団を流動的に捉えて異質性の適宜な人材で知識創造しようとする「信長志向」)
両者は、たとえば浮世絵に描かれた水茶屋美人の着物の柄と、その柄の着物を生産する江戸の地回りの生産者、という関係性で相乗効果をもって展開する。
ちょうど、現代のテレビの商品CMと商品を製造販売する企業の関係にある。
江戸の雑業層とは、現代で言えばメディア関係者ということで、その社会的な影響力をイメージすることができるだろう。
著者は、幕藩が「戦争によって無駄な浪費をせず、国土を破壊せず、武器の開発に力をほとんど入れてこなかった事実」について面白い指摘をしている。
「農民から収奪した年貢や雑税などは、すべてが幕藩権力維持のための消費にまわされただけではあるまい。領内の安定、領民の安全な暮らし、生産の拡大など、いわゆる公共投資にまわされた部分も少なくはない。
しかし、だからといって国家が変容しないのではない。逆である。
富の偏在はますます大きくなり、社会の矛盾は深刻の度を深めた。貧しい農民たちは、極度の貧窮のなかで、『世直し』をスローガンに国家の転換を希求するに至る。こうして、『御一新』への政治情勢が用意されたのである」
幕藩は、戦争に向けていた公共投資を、治水や街道整備といった土建に向けたので公共が向上した筈だが、逆にそれによって恩恵を受ける者と受けない者で貧富の差が拡大したというのである。
それは、米の余剰生産と米以外の商品野菜や加工品、そして物流網と流通網が発達して、その恩恵を受ける者と受けない者の経済的格差に他ならない。
このように江戸の政治体制と社会状況を振り返ると、現代の日本のそれらと構造的に重なるところが多い、つまりはあまり進歩していないことに驚くのは私だけだろうか。
村は「定住社会」だが、都市には「定住型」側面と「非定住型」側面がある
本項(3:間章)では、ざっくりと「定住社会」と「転住民」ということを江戸時代以前を含めて考えてみたい。
まず「定住社会」についての基本的な確認から入りたい。
村は、田畑に根ざした農業をするから「定住社会」である。
ただし、主役である農民がそこに住み続けるという前提があってのことだ。だから、農民が住み続けることができない村、そして農民を住み続けさせられない村は「定住社会」とは言えない。
その意味では、日本全国すべての民において「定住社会」が一般化したのは江戸時代からと言っていい。日本人のほとんどを占めた全国に暮らしていた農民が、村に住み続けられるようになり、そして村に縛り付けられるようになった。
次に都市はどうだろうか。
忘れがちなことだが、都市にはそもそも「定住型」側面と「非定住型」側面がある。
前者の主役は定住する「定住民」であり、後者の主役は移動する「移動民」と転住する「転住民」である。
移動する「移動民」と転住する「転住民」との違いは微妙だが整然と分けねばならない。
「移動民」は、拠点となる「定住社会」が前提としてあり、拠点間を行き来したり、どこかへ行っては拠点に戻って来るを反復する。分かりやすいのは遠洋漁業の漁師だが、母港に定住している家族は「定住民」であるが本人は「移動民」である。遠隔地を陸路海路で巡回する運輸業者も同様だ。一方、沿岸漁業や近隣地を行き来する運輸業者はほぼ毎日帰宅するから「定住民」と捉えていいだろう。
微妙なのは住所不定の者で、分かりやすいのは旅回りの一座だが、芝居小屋をたてる城下町などの「定住社会」を拠点としてそこに短期間滞在して移動することから「移動民」と捉えたい。
この点、同じく「定住社会」を拠点としてそこに長期間居住しては移り住む転勤族は「転住民」と捉えたい。
「転住民」は、短期的な定住を所を転じて繰り返す。某かの拠点の構築や運営に携わり、そこでの役目を終えれば他所に転じる。「転住民」は、目前の見えがかりとしては「定住民」となんら変わりない。また、拠点を転じるのをやめてその所に留まれば「定住民」になってしまう。
「戦乱の世」の大名とその家臣の多くが、居城を転じて転戦した「転住民」や、居城を追われて零落した「転住民」だったと捉えられる。
「無事の世」の藩主とその家臣は領国と居城を定められて「定住民」となるも、幕府による封地替えや御取り潰しになる者もあり建前的には転戦「転住民」であったとも言えよう。
このような「定住民」「移動民」「転住民」の概念を念頭に、まずは中世の寺社勢力の拠点であった「境内都市」を振り返ってみよう。
「寺院の内部には、①学侶、②行人、③聖(ひじり)、の三身分がある。
①学侶は教学の研鑽、『学』を本務とし、世俗の貴族・武士・富裕民の出身であり、寺内でも特権を主張する。学侶・衆徒(しゅと)・学匠などと呼ばれる。(中略)
②行人は『行』、寺院や朝廷の公式行事の場で雑役を勤める下級僧侶で、武士より下の身分に出自を持つ。半僧半俗で、世俗の百姓身分に対応し、学侶より一段下位とされる。(中略)
(筆者注:①②は形式的には直接的な「祝祭経済」「祝祭消費」の担い手とされる。)
③聖は定住地を持たない無縁の人の典型である。寺に定住せず全国を遊行するものが多く、本寺による人的管理はほとんど及ばないけれども、寺院の信仰と権威を背負って、寄付を募り参詣の勧誘をし、その廻国は参詣者の増加につながり、寺社経済は結果として潤う。だから境内都市は聖のコントロール基地となってはいないが、彼らが広義の寺僧であることは間違いない。山伏も聖と同じである」
(「寺社勢力の中世-----無縁・有縁・移民」伊藤正敏著 より)
①学侶と②行人は「定住民」であり、定住しないとできない仕事をしていた。
彼らにとって境内都市は「定住型」であった。
一方、③聖は「定住地を持たない無縁の人の典型」つまり「移動民」であり移動しないとできない仕事をしていた。
彼らにとって境内都市は「移動型」であった。
おそらく境内都市は、両者の顔をゾーニングによって保持したのだろう。
こうした1つの都市が空間や時間の切り分けによって異なる顔をもつことは、古今東西において見出される重要事である。(私は企業組織も、このように都市的であるべきだと考えている。)
だから、これは「定住型」都市、あれは「非定住型」都市とタンジュンに仕分けできるものではない。
古代には、政治体制において「移動民」はしっかりした身分役割をもっていた。
天皇や朝廷に海水産物を中心とした御食料(みけりょう:穀類以外の副食物)を贄(にえ)として貢ぐ慣習があり、律令制のもと租庸調などの税とは別に贄の納付が定められていた。これを貢納する贄人を初めとする非農業民は、従来「無主」にして「公私共利」の地とされた山野河海の利用により生業をたてていた。
この非農業民の中に生産や貢納のために「移動」をもっぱらとする民がいた。
「定住民」の稲作民に租庸調などの税が課され、漁撈民と非稲作民に贄(にえ)が課された。
そして「非定住民」である「移動民」に、後者の贄(にえ)を徴集して回り貢納する役割が課せられた。
私は、
贄人のような役割は、旬の海の幸と山の幸の初物を神に奉納する天皇の直接の配下としての律令制以前からあり、後世の供御人に引き継がれた
と考える。
贄人は、平安時代には律令制の解体、荘園公領制の成立とともに、荘園領主による制約を受けるようになる。
やがて彼らは有力寺社などに生産物を貢納することを理由に、これらに隷属する神人となって「定住民」化していった。
この時点で、「非定住民」であり続けた「移動民」のほとんどは、身分役割の政治体制の後ろ盾を失って荘園や寺社を渡り歩く「遊行者」に限定されていった。寺社の言わば勝手連である「聖」もこの仲間として捉えることができる。
11世紀初め、内廷経済を充実させるべく山野河海に設定されていた御厨を直轄化するという政策がとられると、蔵人所とその下部組織である御厨所の所管となった御厨の住民が供御人と呼ばれるようになった。その延長線上で12世紀半ばの神人・供御人制が確立したと見られている。
彼らは、貢納物の原料採取・作業・交易をする場を求めて移動・遍歴する「移動」を必要としていたため、関銭・津料などの交通税を免除され、自由に諸国を往来できる権利を得ることとなった。また、聖なる存在として国役の免除、給免田の付与なども獲得した。
この時点で、政治体制において一部の特権的な「移動民」の身分役割が回復している。
天皇直轄の通行特権を有する供御人は、天皇直轄の情報収集や国際交易の担い手にもなったと考えられる。
天皇家の御厨は畿内近国に限られており、特権を獲得した供御人やその統括者は西日本における武士の淵源となったとする見解もある。
供御人は、軍事的な自衛力のある交易者であり、自分たちの権益を犯す者には天皇の権威を背景に武力に訴えることもあったろう。
つまり、武士とはそもそも武力サービスを移動販売する「移動民」だったと捉えれば、彼らが武士の淵源であるとして自然である。
一方、炭供御人、氷室供御人など様々な手工芸品を扱ったため、貢納物を超える生産物は諸国往来権を持つ彼ら自身により流通経路にのせられ、商人としての活動も行っていたと見られている。
ということは、
「移動民」という概念が先にあって、
その移動しながら提供する商品サービスによって武士や商人が派生した
と考えるのが自然である。
私たち現代人は、店を構えられない商人が行商をしていると捉えがちだが、歴史的にはそもそもは生産者から買い回った物を売り歩く行商が展開していて、境内都市の門前町や戦国大名の城下町などの発達とともに店舗売りの商店が発展していったのだ。
つまり、
商人世界そして武士世界では、歴史的には「移動民」が「定住民」化している
のである。
供御人は、南北朝時代以降、貢納品の独占販売権を取得し座と同様の活動を行ったが、その特権の源泉であった天皇家の権威喪失とともに聖性を失い、一部には大商人として成功する者が出た反面、被差別民の起源のひとつともなった。
戦国時代に入ると、戦国大名らによる大名領国制のもと楽市・楽座などの経済政策が執られ始めると、特権的な供御人は急速に減少した。
この時点で、政治体制において「非定住民」である「移動民」は確固たる身分役割を失った。
社会において存在感を保ったのは一部の大商人と境内都市の聖である。
前者は、堺のような自由都市を拠点とする富豪へと「定住民」化し、その商社的組織の配下に「移動民」としての仕事を担わせた。
後者は、境内都市が鉄砲や武具の軍需生産拠点となり、軍需装備品のセールスマン化していく。彼らは戦国大名からすれば敵味方に関係なく高値で買い取る方に売りさばく武器商人であり、敵に味方の内情を知らせるスパイともなるコンサルティング・セールスマンでもある。信長が領内の聖を殲滅したことの背景にはそういう事情もあったと考えられる。けっきょく信長が武器製造拠点や対抗勢力拠点となるすべての境内都市を攻撃したため、中世を通じて武家、公家と勢力を三分してきた寺社勢力の全体が力を削がれてしまった。
以来、江戸時代そして近代と、自らの拠点をもたない「移動民」としては「遊行民」だけとなり、彼らは「定住社会」を体制原理とする社会においてもっぱら差別的に位置づけられてきた。
境内都市の聖が主役となった「非定住型」都市の側面も、空間的な切り分けを失って代わりに、定期市や祭り、旅人による参りや巡りという時間的な切り分けにおいて仮設的に出現するものとなっていった。
城下町は、「戦国の世」には、城をバックアップする拠点であり、戦局に応じて交易や輸送をする「移動民」が主役の「非定住型」都市の側面が前面に出ていた。
それが「無事の世」になって、城をバックアップする内容が軍需から経済になると、地勢学的な発展方向に応じて、交通や交易の要衝ならば主役が「移動民」だから「非定住型」都市の側面が強化され、人口の集中する定住者向けの消費拠点ならば主役が「定住民」だから「定住型」都市の側面が強化された。
(ただし江戸城下の日本橋のような消費拠点は、藩を国に置き換えれば多国籍企業のような大商人とそのお得意様の各藩の江戸詰めの奥方や上級武士という主役が「転住民」であり、「転住型」都市の側面が強化された。
ちなみに宿場町は城下町の外に隣接するものであり城下町には入らない。旅客や物流者のためのターミナル的に「移動型」都市の側面が強化された。)
江戸には「定住型」「非定住型」のどちらでもない「転住型」側面が満ちていた
大都市江戸は、「定住型」「移動型」両者の側面に加えて、「転住民」が主役である「転住型」都市の側面が、大坂や京都にはない大胆さをもって発展した。
全国諸藩の江戸詰めの武士上層、
上方に象徴的なメッカを保ちつつ全国ネットワーク拠点としての江戸にシフトした家元、
地方から江戸に丁稚奉公に出てきて年季明けて地方に帰る一般的な奉公人、
地方からの出稼ぎや喰いあぶれた流入民、
成功裏に定着できたがまだ江戸で三代続いて町内身内と看做されない者など、
彼ら「転住民」のすべてによって、江戸城下の中心部と川向うなどの周縁部と江戸近郊とがネットワークする都市経済圏が成立していた。
地域社会や組織や集団が「転住者」を積極的に受け入れて活用する、という町人のメンタリティと商人世界のパラダイムが形成されていった。
それは、「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制である「信長志向」の自然発生的な同時多発とその暗黙知としての綜合共有を展開していく。
現代では「東京人」という概念がある。それは「江戸っ子」とまったく重ならない概念である。
彼らのほとんどは自分か親かが地方から上京して大学で学ぶなり企業に就職するなり自営業を起業するなりして「東京人」になった人々である。
必ずしも「江戸っ子」のように代々受け継ぐほどの資産や家業、そして受け継ぐべき義務がある訳ではない。資産があっても売却して「転住」が容易にできる人々である。逆に言えば地域の人間関係が希薄なので何かあれば「転住」を余儀なくされる人々でもある。
江戸はもともと葦の生い茂る低湿地帯を埋め立てて作った城下町で、徳川将軍はじめ「転住民」が「定住民」になることで成立した。
「江戸っ子」も、もとは「転住民」で成功裏に定着して三代続いて「定住民」化した者がそれと認められた。
首都圏に暮らすいわゆる「東京人」の大方は、「江戸っ子」のような「定住民」ではなく、「江戸っ子」になる以前の「転住民」、あるいはなれないで地方や近郊に離脱した「転住民」と重なる。
しかし、首都圏に暮らして東京に通勤通学する「東京人」も、都心の一等地に暮らして都心ですべてを住ませるハイソな「都会人」も、一般的にそういう認識はない。みんな、自分は「定住社会」に暮らす「定住民」である、と漫然と自負している。だが実態は「転住社会」に暮らす「転住民」なのである。
都市部に暮らすサラリーマン世帯は持ち家だろうと借家だろうとほとんどが「転住民」と言っていい。ほとんどの世帯が、孫子の代までそこで暮らしていると言い切れる根拠も言い切るほどのこだわりも無いのではないか。
そこが下町の地元民で神輿を担ぐようなコミュニティの、家業が三代続いたことが条件となるような「江戸っ子」と「東京人」との大きな違いである。
その点、若い人は感受性が鋭い。田舎もなく直接見た事すらない農業をしようと「Iターン」を目指す若者たちが増えている。
彼らは、自分たちの根無し草的な現実に向き合い「定住民」ではないことを実感していて「定住民」になろうという明確な意志を持っている。
信長が体現しまた重視した「転住民」とそれを活用する「信長志向」
「定住民」の典型は、集団で定住して共同によって灌漑を整え種まきから刈り取りまで手間ひまかけることで収穫量を増やすことができる稲作を営む農民だ。
(集団の共同性、田畑の人工性、労働の集約性が低くなればなるほど集団で定住しなくてもできる農耕となる。山間の焼畑農耕などは、あるエリアを巡回する山の民の「移動民」が個々に片手間ですることができる。)
「移動民」の典型は移動しなければできない狩猟や交易や輸送の現場仕事に携わる者だ。
(文化人類学的には、「交易」には行商から海賊そして戦争までが含まれる。彼らは某かの拠点間をルーティンとして反復的に移動することでその生業が成り立つ者である。
これが、某かの拠点を構築すべく、あるいは拠点ネットワークを運営すべくある拠点に中長期的に滞在する者となると「転住民」であり、「移動民」とは働き役割に大きな違い出てくる。)
このような観点からすると、鎌倉時代、平時は本領で農耕をしていていざ鎌倉となれば戦陣に馳せ参じた御家人は「移動民」である。
源平合戦にも登場する、普段は漁業や海運をしていていざとなれば海賊や水軍に豹変する海民も「移動民」である。
彼らには、本領や母港という帰るべき本拠があり、そこに家族が「定住民」として「定住社会」を営んでいた。
「転住民」には、最終的な転住地となる本拠はあっても、それは常に帰るべきまた代々受け継がれるべき本拠という性格のものではない。
戦国大名の中で、転戦拠点としての居城を移しつつかつ家臣に一族郎党従えた転住を命じつつ上洛したのは信長だけだった。信長は、家臣に一族を本領に残して「定住民」とすることを許さなかったことで「転住民」性を徹底させた。
ちなみに秀吉が行った唐攻めは、信長の遺志を継いだものと言われるが、信長であればまったく違う戦い方をしたのではないかと思えてならない。
秀吉は、名護屋城を本拠とする「移動民」型の進軍で朝鮮半島に攻め込み兵站を長く間延びさせて行った。
信長ならば、名護屋城を本拠とせずに、まず釜山に本拠を建設することに注力したのではないか。それは軍事拠点であると同時に、現地の朝鮮人商人をとり込んだ交易拠点であった筈で、それによって兵站拠点ともすることができた。その上で朝鮮半島を陸路海路で北上する「転住民」型の転戦を可能にし着実に支配領域を拡大できたのではないか、と思うのである。
中世、織豊政権前夜まで、寺社勢力において人数と存在感を増していたのは「移動民」である聖だった。
信長というと比叡山の焼き討ちを想い浮かべるが、それも交易主義の信長にとっては、延暦寺の権勢を背景に年貢米の運搬や京の公家や諸国の受領に貸し付けを行い京の高利貸しの主力にまで成長していた日吉神人との対立が問題だったと思われる。
そもそも「神人」は、律令制下の「贄人」が律令制解体によって零落した者であり、もともとは聖と同類の「移動民」であったのが寺社に隷属して「定住民」化した者である。
そして、「定住民」化した神人の中にあって日吉新人は特異な存在だったのではないか。つまり、比叡山の日吉大社 から分霊された祭神を祀って日本各地に建立された日吉神社のネットワークを巡回する、金貸しと債権回収を兼務する「移動民」だったのではなかろうか。
日吉神人は、平安時代の院政期から室町時代まで、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っていて武装集団でもあったようだ。要は、現代のサラ金のように暴力的な取り立てをしていたのではなかろうか。
たとえば、信長の家臣の所領とした土地が日吉神人が担保としておさえていて年貢米が上がってこないといったことから係争が多発する。信長は多発する係争を一気に大本で解決するには日吉神人のバックである延暦寺を叩くしかない、そのような経過だったと想像する。
神社に隷属した芸能者・手工業者・商人なども「神人」に加えられ、やがて「神人」が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった。
(一般に「移動民」と芸能との関わりが指摘されるが、私には、当初から芸能の「座」という「知識創造の場」と「知識創造の組織」のセットが、「定住社会」と対極にある「移動社会」の拠点としての意味合いをもっていたのではないか、と思えてならない。
「坐」とは、「定住社会」からすれば「異界との重なり領域」であり、「坐」という拠点に出入りしたり「坐」同士を行き来する者は、「聖性をおびた異形の者」だったのではないか。
この「異界との重なり領域」を拠点として「聖性をおびた異形の者」が活躍するというパターンは古今東西に共通している。現代世界では、ロックバンドやゴルファーの最高峰がツアーをすることなどである。日本の大相撲も巡業というツアーであって、現代ではそこに世界各国から最高峰の力士が参加している。)
また、信長が自国領内で殲滅した聖は「移動民」だった。
また、信長が苦戦して長く敵対した一向一揆は、武士、農民、商工業者などによって形成された宗教的自治であるが、これは勢力としては戦闘的な「転住民」だった。
私が着目するのは、信長自身が徹底的な「転住民」であったことだ。
上洛するまで領土を拡張しながら居城を移して、家臣の単身赴任を許さず家族を伴うべしとの命令も下していることはすでに触れた。
それに加えて、交易主義の信長は、交易拠点として発達していた地域とその商工勢力を支配し、城下が交易拠点として発達しうる所に居城を移していた。つまり軍事だけでなく経済を含めた勢力全体として「転住民」であろうとした。
私は、信長の寺社勢力との対立の背景には、信長自身と同じ成長ダイナミズムをもった自立的に拡張する経済の「転住民」勢力としてのバッティングがあったのではないかと考える。
寺社勢力は中世最大の経済セクターであり、ベースとする境内都市はハイテク先進拠点であり、鉄砲はじめとする軍需装備品の製造販売拠点であった。諸国を巡回する聖というスパイでもあるようなセールスマンを多数擁する、戦国大名の趨勢の鍵を握る成長著しい政商でもあった。
いち早く鉄砲を採用した信長がこれを放置する筈はなく、配下に取り込もうとしたのは当然のことで、その点は信長の堺の進攻支配と同じ意図があった。つまり、堺同様の軍需物資生産流通拠点である境内都市を抑えれば軍事上、競合する大名に対して圧倒的に有利になる。軍門に下らなければ壊滅させるしかない。
寺社勢力は「自存自衛の自治体」であった。
そのような寺社の所領に、大名からの支配を逃れた武士、農民、商工業者などが流入すれば、領国経営は成り立たなくなり、大名が天下を競って対外的に戦う土台が揺らいでしまう。
その危険性を現実にしたのが一向一揆であり、その一大拠点である石山本願寺が信長の最大の強敵となった。
石山本願寺は、言わば大阪城の前身であり、その城下町ならぬ寺内町は交易拠点でもあったと考えられる。交易拠点でもあることで兵站が充実したがゆえに信長が11年かけても落とせなかった。
信長にとって寺社勢力は、どちらが生きるか死ぬかの対立者だったのではないか。
石山本願寺の跡に秀吉が大阪城を築いたが、発案は信長であり本能寺の変の時には作事が行われていたという。
信長は、支配下においた堺と一体で大阪湾岸を国際交易拠点化しようと構想していたのだろう。それと伊勢湾岸の国内交易拠点とは、京都に近接する琵琶湖畔の安土城を中心とする中継的交易拠点が結ぶ形になる。
信長は、自身が徹底的な「転住民」勢力として交易を重視して天下統一に向かっていた。
だから天下統一を果たした暁には、武士を戦士から行政官に転換させるのに並行して、寺社勢力で商工業に従事していた職人や聖を、宗教色のない国内産業人に転換させるつもりだったのではないか。
すでに唐攻めを計画していた信長が、国内資源をなるべく損なわずに活かす形で結集することが海外侵攻の戦力になると考えて当然である。
当初は信長に対抗した堺だが、堺の国際商人の中には信長に取り立てられて大名になった者もいた。信長は社会全体の職能構造を、鍵になる職能人をTPOに応じて「定住民」にもなれれば「移動民」にもなれる「転住民」とするという切り口で再編しようと目論んでいたのではなかろうか。
信長は、「移動民」や「転住民」から成る「自存自衛の自治体」を形成していた堺の国際商人や境内都市の商工者を、自らの支配下において統合的に再編することを狙ったのだと思う。
信長が大航海時代の遠隔地貿易への参入と朝鮮半島への侵攻を構想していたと別々に論じられるが、両者は一体で、極東の一大経済産業圏を目指す構想だったと考えられる。
そして構想実現のためには、国際経済人や国内産業人を育成し統合的に組織し連携させることが不可欠であった。
無論、以上は信長短命にして誰も真偽の分からない仮説に過ぎない。
周知のように実際の歴史は、秀吉が家康の勢力を挫くべく、小田原攻めの論功行賞として先鋒をつとめた家康に北条氏旧領の関東を与える。 家康は江戸を居城と定め、譜代大名に関東要所に封地を与え、新田開発を競わせ天下を狙える基盤固めに入る。朝鮮出兵を免れて勢力を温存。その後秀吉は朝鮮出兵中に死去という展開になる。
家康の開いた江戸幕府は、農本主義、幕藩体制の「定住社会」を構築していく。
結果的に、
幕藩体制と身分制度を前提とする「定住社会」を安定的に運営維持するに不可欠な
「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」知識創造体制である
「家康志向」が、
法治行政において事細かく明示知体系化され、日本人の血肉にしみこんだメンタリティとなって今日に至る。
一方、
TPOに応じて「定住民」にもなれれば「移動民」にもなれる「転住民」の先鋭的な職能人を抜擢活用するに不可欠な
「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制である
「信長志向」は、
政治体制の大枠から明示的な制度として排除され、個別的な自然発生を繰り返す主体が担うだけの暗黙知に留まり、信長の継承者秀吉でさえ制度化する形で受け継ぐことはなかった。
秀吉政権の人事政策としては、
側近石田三成の重用が集団を身内で固める「家康志向」
千利休に曰く言い難い役割を期待したのが自由に活動する個々を集団に構成する「信長志向」(利休は信長に仕えていた。)
と言える。
秀吉が開催した北野大茶会(きたのだいさのえ)では、「茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜1つ、釣瓶1つ、呑物1つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること」という触書が出された。これは「信長志向」だった。
政治は「家康志向」、経済文化は「信長志向」という合わせ技だったと言えようか。
(4)
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へつづく。