江戸時代における「日本型の発想思考」の集団独創化を探る(2) |
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からのつづき。
「戦乱の世」が終わり「無事の世」になった生活実感
人々が「太平(泰平)の世」と呼び倣わした江戸時代は、内乱もなく国際紛争にも巻き込まれない、古代国家成立以来の「無事の世」だった。
著者は「戦乱の世」を経験した江戸初期の僧、浄心が江戸の見聞を書きとめた「慶長見聞集」の一節を紹介する。
「『見聞集』巻の一、『万民のたのしびにあへる事』は、このような出だしで始まる。
見しは今、三浦の山里に年寄りたる知人有り、当年の春、江戸見物とて来りぬ、愚老に逢て語りけるは、さてもさても目出度き御時代かな、我ごとき土民までもあんらく(安楽)にさかへ美々しき事共を見聞きてのありがたさよ、今がみろく(弥勒)の世なるべしという、実々土民のいい出せる言葉なれども、まったく私言に有るべからず、今の世の人間は三界無庵火宅を去てたのしび(楽しみ)を極める国に生をなせり・・・」
「この『当年の春』とはいつのことか、はっきりとはわからないが、おそらく関ヶ原の戦いが終わって、かなりの時間を経てからのことだろう。
戦国の世が、村に生きる農民たちにとっていかに厳しい時代であったか、そんな気持ちが伝わってくる。戦争があれば駆り出される。村が戦場になれば家は灰燼に帰し、田畑は踏み荒らされる。そして、家族や村人に犠牲者が出る。まさに『三界無庵火宅』という表現そのものの世だった。
そんな不安な日々の連続に比べて、江戸の春は『みろくの世』=天国だったのである」
そして著者は、戦争がなくなるとどのような文化現象が起るのかを物語る、巻之四「童子あまねく手習う事」の一節を紹介する。
「聞しは昔、鎌倉の公方持氏公御他界より東国乱、弐拾五年以前まで諸国において弓矢をとり治世ならず、是に依て時代の人達は手習う事安からず、ゆえに物書人はまれに有りて、かかぬ人多かりしに、今は国治り天下太平なれば、高きも賎しきも皆物を書きたまえり、尤も筆道はこれ諸学のもとといえるなれば、誰がこの道を学ばざらんや・・・」
戦争を知らない子供たちが大人になって開花させた上方「元禄文化」
「元禄文化を代表する井原西鶴(1642~93)も松尾芭蕉(1653~1724)も、尾形光琳(1658~1716)も、みな大坂の陣以後に生まれた人物ばかりである。
つまり、元禄文化を創造した文化人たちは、そのほとんどが戦争を知らない人々ということになる。
逆からいえば、元禄文化は、戦争を知らない人々が創造した文化ということになるだろう」
著者はこう述べた上で、
「こうした観点から元禄文化の質を問うと、何が見えてくるのだろうか。ひと言でいえば、きわめて人間的であるといえるだろう。
その点では元禄期は、『人間開眼』の時代であるといってよい」
と結論している。
忘れてはならないのは、著者が着目しているのは一般庶民である、ということだ。
戦国の世から「無事の世」になって、武士たちは戦争するソルジャーから行政官に転身することを迫られた。
戦争を知らない人々とは、行政官としての日々の勤めしか知らずそれを当たり前にこなし始めた世代の武士でもあったのだ。
「この時期の人々の多くは、(中略)新たな時代への期待感の一方で、急速に確立していく徳川幕府を頂点とする国家秩序のもとで、息苦しさを感じつつ生き長らえてきた。
西鶴も芭蕉も、戦時を生き抜いた人々の背中を見ながら育ち、彼らの大きな影響を受ける環境にあったことは間違いない」
文化というものに着目する限り、著者の言う通り、
「100年ものあいだ、無事の世が続いたことが、新たな文化創造の要因であり、その担い手が町人たちに移った」
「無事の世なるがゆえに、すぐれた文化人を多数輩出できたのであり、その担い手は経済活動を牛耳る町人である」
著者は、「西鶴や芭蕉と近松門左衛門の活躍した時代を比較して、両方とも厳密な意味での元禄時代からずれている」「西鶴の時代と門左衛門の時代の二つの時期に分けるべきだ」と指摘している。
「西鶴の『日本永代蔵』などに描かれる才覚と禁欲でのしあがる新興町人の世界と、義理と人情のはざまで苦闘する男女の姿を描く門左衛門の世界を、同時代の現象として同じく扱うのには違和感があるからである。
西鶴の生きた時代にはさまざまな可能性があったが、門左衛門の時代は商人世界にも身分秩序が貫徹して身動きできなくなり、それが生む悲劇が劇化され感動を呼ぶ時代とみることができよう」
私はここに、元禄期前後の上方の町人世界において、自由に活動する個々が適宜に集団を構成する「信長志向」が弱まり、集団を身内で固める「家康志向」が強まり蔓延した、という経過をみる。
上方、特に大坂は「天下の台所」と呼ばれた年貢米の流通拠点をベースとした経済中心であった。そこで考え合わせるべきは、日本全体の米生産量と人口の推移である。「戦乱の世」から「無事の世」に変わった江戸時代初期は、米生産量が農民の定着化と就農人口の増加により増大し、日本人の総人口は1200~1500万人程度だった。それが米生産量は1600年頃に2000万石、1700年頃に3000万石、天保(1830~1844)頃に4000万石と倍増。総人口は享保(1716~1735)頃には3000万人近くに倍増している。しかし、その間に経済中心が上方から江戸に移ったこと、江戸時代に大規模な見地が行われていないため表向きの石高に変化は少ないが稲作の北限が上がったことで東北諸藩の米生産量が増大したことを考え合わせると、上方の経済成長は江戸のそれより劣って鈍化し限られたパイをめぐって既得権益者の寡占が先行したと考えられる。
以下、このような展開をした上方と江戸の様相を検討していきたい。
庶民文化における「信長志向」は上方で開眼するも圧殺されて江戸で開花した
「長い無事の世にどっぷり浸った人々の頭のなかに浮かぶのは、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に描かれているように、食い気と色気である。
したがって、そこに生まれる文化は、人間の本性そのものの露出となる」
「しかし、長い無事の世は、たんに悦楽現象だけをもたらしたのではない。
この間の都市民の増大は、消費需要を増大させ、さまざまな産物の生産を促し、農村工業を発展させた。
その結果、農業のかたわら手工業や商売に手を出して収益を上げ、田畑を増やしていく豪農とか有徳人と呼ばれる農民が生まれる。だが、その一方で、彼らのまわりに田畑を手放した貧農も多数生まれはじめた(筆者注:貧農世帯の子供たちが丁稚奉公や女中奉公に出されて城下町の下働きを支える就労者となっていった)」
著者は、世情のありさまを嘆いた「世事見聞録」の一節を紹介している。
「当世かくのごとく、貧福かたより勝劣甚だしく出来て、有徳人あればその辺りに困窮の百姓二十人も三十人も出来、たとえば大木のかたわらに草木の生い立ちぬるがごとく、大家のかたわらには百姓も野立ちかね、自然と福有の威に吸い取られ、困窮のものあまた出来るなり・・・」
豪農あるいは有徳人、そして彼らとネットワークする新興町人の「信長志向」による活発な活動は、社会的に弊害ももたらしたことは忘れてはならない。
弊害を除くべく幕府が「家康志向」で株仲間を組織し、その自治に対して厳格に統制するという間接統治をする訳だが、そのすべてが否定されるべきではないと思う。
経済的な格差拡大と貧困の拡大を防ぐために統制は必要であり、武家政権には統制の手段がそれしかなかった。
「本百姓中心の秩序が崩壊したところへ自然が猛威をふるう、村はすでに救済能力を失って幕府も諸藩も打つ手がない。これが1780年代に起きた天明の飢饉である。
田畑を失い、村での暮らしができなくなれば、農民は欠落する。そして、自分の労力を売って暮らしを立てるために、『繁花の福有』の地とみえた、膨大な消費人口が滞留する都市へ移り住む。
しかし、きのうまで百姓仕事をしてきた欠落人には、元手(資本)もなければ手に職(技術)もない。江戸でできる仕事も限られる。『新規に商売を始める事自由ならず』と入り込む余地などほとんどない。まず裏店(うらだな)を借り、仕事といえば、『青物売り、肴売り、すべて棒(棒手ぼて)振りと唱うるもの、日雇(ひよう)取り、駕篭かき、軽子(かるこ)、牛ひき、夜商い、紙屑買い、諸職手間取りなど、すべてわが精力を練り、骨折り業にて世を渡る』というように、ものすごくきつく、しかも雨が降れば収入が途絶えるような仕事ばかりだった」
こうした都市への流民に対し幕府は旧里帰農令を出すが誰も帰ろうとしない。
「どんなきつい仕事でも百姓仕事に比べれば、なんのことはない。川向こう(隅田川東岸)の新興地本所・深川に行けば、安い裏長屋もあれば仕事もあり、なんとか『その日暮らし』の生活はできる。(中略)
『店借(たながり)』と呼ばれるこのような暮らしの人々が、江戸の人口の大半を占めるようになったとき、どんな現象が起こるのだろうか。
(筆者注:100万人都市の)江戸は、何十万という貧しい人々の暮らしに見合った経済構造へと転換する。
上方からの高価な『下り物』より、江戸の地廻りで生産される安い『下らない物』でいい。その結果、特権的な株仲間が独占していた『下り物』をベースにした流通体系にほころびがではじめ、安い地廻り物を扱う株仲間外の商人たちが、幅をきかせはじめる」
上方からの高価な『下り物』とは主に買い回り品で、江戸の地廻りで生産される安い『下らない物』とは最寄り品である。
前者は上方からの仕入れルートが既得権益化した株仲間による独占、つまりは「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」知識創造体制、つまり「家康志向」だった。
後者は江戸の地廻りの野菜や味噌醤油などの加工食品の納品ルートを開拓すべく恊働する豪農や卸問屋といった株仲間外の商人、つまりは「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制、つまり「信長志向」の者たちだった。
特権的な株仲間が独占していた上方からの『下り物』をベースにした流通体系は、上方の茶道や華道の家元が江戸に移転したこととも重なる。
家元は、象徴的な本拠を上方に温存したままネットワークの展開拠点を江戸に移転した「転住民」であった。そして同時に、茶道や華道の家元は門人がそれに用いる道具という買い回り品の『下り物』の斡旋者や箱書きなどによる価値保証者だったから「交易民」でもあった。
『下り物』が上層限定の流通体系とすれば、江戸の地廻りで生産される安い最寄り品の『下らない物』の自然発生的に新興して発達していったのは上層と下層の全体を対象とした流通体系だった。
後者が薄利多売の市場とすれば、前者は厚利少売の市場ということになる。
後者の薄利多売の典型は江戸市中で毎日消費される商品野菜である。京野菜など都市近郊で商品野菜が生産され都市部で流通することは古来あった。しかし、江戸という世界随一の100万人都市になっていく巨大市場を前提することで高次元化していく。
具体的には、
固定的な生産力に対して消費力の方が厚利少売でも適応した旧来市場に対して、
成長する消費力に対して生産力の方が増産する形で薄利多売で適応する新規市場に高次元化していった。
買い回り品の『下り物』の上層限定の流通体系は、これとは違う意味で高次元化する。それは市場が全国ネットワーク化するということである。
上方の茶道や華道の家元が江戸に展開拠点を移すことで、全国諸藩の江戸詰めの武家上層と上方から進出した豪商ら町人富裕層とに対応することで、その先の諸藩や全国の主要取引先をもネットワーク市場化したのである。
つまり、消費社会の重心が上方から江戸に移るにおいて、町人世界では上方の既得権益の寡占化した「家康志向」から、新たな考動で機会を開発する「信長志向」への転換があった、と言える。
そして、それは旧型の特定都市圏の供給者側主導の経済圏から、新型の全国都市圏の需要者側主導の経済圏への高次元化、ネットワーク化であった。
このような市場のパラダイム転換は、「戦乱の世」から「無事の世」の幕藩体制となったことが大前提だった訳だが、おおよそそれを可能にしたハード面とソフト面がある。
ハード面は陸路海路の効率的な広域物流が可能になったことで、特に江戸と大坂を結ぶ東海道をはじめとする主要街道が人馬と情報の往来幹線として整備されたことが大きい。
ソフト面は江戸、大坂、京都の大都市をはじめ各藩の城下町が消費拠点および商業拠点として発展したことで、各種の印刷物を含む大量の情報の流通が可能になったことが大きい。それには、貨幣の実物を持ち運ばなくてよい金融の決裁媒体や、身分に関係なく誰もが利用できる手紙の通信媒体や、浮世絵や書籍といった情報満載の印刷媒体の流通が含まれる。情報流通が高度化・大量化するとともに、流通する情報自体が商品化ないしサービス化していった。
こうした交通や金融や情報のインフラの高度化という大前提を踏まえて、さらに上方を中心に展開した様相から、江戸を中心に展開した様相への大きな変容があった。
それを一括りにして整理すると、一般庶民の生活文化の高度化、そしてそれと並行した消費都市とその需要に対応する生産地ネットワークを前提した「情報市場社会」化ということである。
この大きな変容の過程をもっとも象徴的に示しているのが浮世絵である。
上方では古来からの延長で彩色の肉筆画が盛んで、版画は単色刷り(墨摺絵)で線分の筆致は太い細いのある肉筆のニュアンスを残すものであった。それが江戸では、版画ならではの肥痩のない細い線分になっていく。多色刷りの技術が飛躍的に向上して絵師の描いた髪の毛の一本一本までが再現された。それは、美人画であれば髪の結い方、髪飾り、着物の柄、着物の着こなし、下駄、その鼻緒などを細密に描いてファッション情報化していたことを意味する。単色の墨摺絵ではそうはいかない。
肉筆画が武家上層や富裕商人しか所有できない高級品であるのに対して、版画は一般庶民が買える普及品である。上方では、版画は肉筆画の廉価版でしかなかったが、江戸では、版画は一品生産の肉筆画にはない目的を見出していく。量産品だから可能な目的、社会全体で情報受発信する情報メディアとなるということである。
特に江戸で水茶屋の看板娘が美人画の題材になったことが重要である。
一般庶民の町娘たちが彼女たちをファッションリーダーとして注目し、浮世絵は現代のファッション情報誌になっていた。
無論、美人画にあるのと同じ簪を意中の町娘に買い与えて気を引く、そんなブランド品プレゼント的な常套手段をとるオヤジもいた筈だ。
江戸は出稼ぎの流入によって下層人口を拡大していった訳だが、その内、妻帯して子供を作り定住する者は一部に限られ、大半は独身のまま郷里に帰るかどこかで生涯を終えた。つまり、独身男性の人口比率が顕著に高かった。そういう所では当然、風俗産業が盛んになる。
浮世絵の春画そして美人画はその種の需要に対応するものでもあった。
つまり、岡場所のようなリアルな風俗産業に対して、浮世絵を見て仮想するヴァーチャルな風俗産業だったとも言える。下層の貧困層ほど後者の需要があることは言うまでもないだろう。
こうした「情報市場社会」の側面は、現代日本の独身男性を中心とした需要に対応する、ポルノ系のアニメやフィギュアと重なる。
(これを改訂している2016年、格差社会の拡大が社会問題となり、ワーキングプアーは結婚を諦めている、ワーキングプアーにとって結婚は贅沢だ、と言われるようになっている。
ワーキングプアは男性だけでなく女性も含み、中間層家庭の高学歴者も含む点が違うが、江戸に流入した出稼ぎ層とその拡大に構造的に重なる面を認めることができる。
出稼ぎ層のほとんどは下層の労働力として使い捨てにされた訳だが、ワーキングプアの多くが正規社員になれなかった者でその後、派遣社員のままに留まることと重なる。)
庶民文化のエネルギーは、
「戦国の世」から「無事の世」となった江戸時代初期、上方において「人間主義が開眼」して「信長志向」が町人文化の様々な可能性を切り拓いて活発化したが、
やがてそれは、上方市場のパイのゼロサム化において既得権益が体制化し、身内が可能性を限定して独占する内向きの「家康志向」が蔓延して圧殺された。
それが、江戸が一極集中的な情報受発信のネットワーク拠点となって全国がネットワーク型の「情報市場社会」化をしていくにつれ、再び「信長志向」が町人文化の新たな次元の可能性を切り拓いて活発化した、
と江戸時代を俯瞰できる。
たとえば、松尾芭蕉の上方から江戸への移転がこの俯瞰的経過をなぞって象徴的である。
彼は、伊賀国の農業を生業とする名字をもつ家に生まれ、仕えた侍大将の嗣子とともに北村季吟に師事して俳諧の道に入り関西で活動していた。それが1675年に江戸に下り、神田上水の工事に携わったとの説がある。つまり、出稼ぎの肉体労働者に混じって江戸の暮らしを始めたというのである。そして1678年に職業的な俳諧師である宗匠となり、1680年に深川に草庵を結んでいる。
彼も、情報発信のネットワーク拠点として自由闊達に変貌しつつあった江戸に移転し、最終的には江戸の本拠から俳句の新開地を切り拓く遍歴に旅立ったのであった。
松尾芭蕉もまた俳句を創作しながら移り住むという意味で「転住民」であり、遍歴した地でインスピレーションを得て俳句をプロダクトして独自のルートで発信流通させるという意味で「交易民」であった。
彼は、俳諧の世界の庶民文化のエネルギーの変容を身を以て示した体現者であったと言えよう。
「野暮」が咲かせた江戸の華「化政文化」と現代の日本社会との類似性
「株仲間商人の没落は、彼らがパトロンだった遊里吉原を衰退させた。その結果、吉原は『戯作の学校』としての役割を終えた。
幕府の寛政の改革での風俗取締り強化の影響もあり、吉原を舞台にした『粋』と『通』を競う『洒落本』のような文芸は衰えた。そして、山東京伝らにかわって登場したのが、十返舎一九であり式亭三馬、為永春水だった。
一九と三馬・春水が描く小説の舞台は、裏長屋であり、岡場所と呼ばれる私娼地の世界だった。そこは江戸の町人人口の大半を占める『その日暮らし』の『店借』層の世界であり、読者もまたそこに住む男女たちだった。
同じことは、江戸っ子がもっとも好きな芝居の世界にも及んだ。(中略)
文化・文政期(1804~30)の文化の主役は、吉原で蔑まれた野暮たちである。
野暮が咲かせたのが化政文化といえるだろう」
遊里吉原が活況を呈した時代を、昭和のバブル期に重ねれば、バブル崩壊後の平成不況が文化・文政期に相当する。
それはその時代を社会人として生きた私の実感でもある。
一番しっくりする実感は、バブル期までは社用族の銀座のクラブ遊びが下世話な世間の憧れだった。それが長引く平成不況で会社の経費で遊ぶことができなくなって社用族がマイナー化し、可処分所得が比較的に高い自前で遊べる男女によるキャバクラ遊びやホストクラブ遊びがとってかわって下世話な世間の憧れになっていった。
面白いのは、階層変化だけでなく「情報市場社会」化ということも顕著に重なることだ。それは男性客向けにホステス情報が発信されるといった古今にかかわらずある類の話ではない。遊女番付があるように風俗嬢を網羅的に紹介する情報誌があったりする、その手の話ではない。
バブル期まで銀座のクラブのママはそれなりに凄い人がいるという話題にはなったが、彼女たちが特定のライフスタイルを社会に発信するということはなかった。
それに対して、キャバクラ嬢は、全国区で特定階層のファッションリーダーとされ、キャバクラ嬢の教科書とされた情報誌を一般女性も買うようになった。
遊里吉原の花魁を番付の頂点とするようなその筋の玄人のファッションを一般の素人の町娘が真似たいと思う訳はない。
町娘が真似たいと思ったのは、岡場所という玄人の異界と自分たち素人の世界の重なり領域にいた水茶屋の看板娘である。
一般的には、現代のいわゆる「会いに行けるアイドル」に比定されるのだが、私は構造的に捉えて「風俗嬢でもなくかといってただの若い女性でもない境界人であるキャバクラ嬢」に比定する。
少し詳しく説明したい。
岡場所とは、そもそもは公娼吉原に対するところの非公認の遊郭として成立した。経済階層として一般的である庶民に支持されたのは吉原ではなく岡場所の方で、一般庶民の男女の生活文化に多大な影響を与えている。
幕府公認の遊郭ができて江戸市中で私娼を置くことが御法度となったが、実際には、品川、千住、板橋といった江戸近郊の宿場には準公認の飯盛女が置かれていた。江戸市中にも依然として私娼が置かれていた。その代表的なものとして湯女がある。湯女とは、風呂屋抱えの遊女のことでソープ嬢の縁源となるのだろう。湯女風呂が栄えたのは江戸初期で、江戸城下の土木工事に従事した出稼ぎ男性の需要に対応して始まったのかも知れない。
やがて吉原の日本橋から浅草への所替があり、その交換条件に江戸市中に散在する二百軒余りの風呂屋が取り払われる。遠い浅草に客を呼ぶには近い所に湯女風呂があっては商売にならないという申し立てだった。このため江戸市中に公然とした私娼が見られなくなったことを契機に非公認の岡場所が成立することになった。
岡場所の起原は茶屋とされる。取払いとなった風呂屋が「茶たて女」と称する遊女を茶屋に大勢抱え置いた。それは深川の門前仲町に茶見世ができたのと同時期という。後に、護国寺門前音羽町や根津権現、谷中感応寺など多くの江戸近郊の寺社門前地を中心に茶屋町が建てられていく。
ここで注目されるのが、岡場所は非公認の遊郭であるために取締りの対象になるが、江戸の人口に対して圧倒的に少ない同心や岡っ引きでは対応できず、新吉原の者が私娼を発見した場合に町奉行所へ訴えて取締りを依頼するという方式である。「茶たて女」の出現で新吉原は「殊之外衰微」し率先して取締りのお先棒を担いだのである。
岡場所の取締りは幕府と公娼新吉原がタッグを組んで江戸中期にまで続いたが総じて効果はなかった。
表向き「茶屋」である岡場所への幕府の町触による規制は、申告制で総量規制をして給仕の女を二人までとしてその他には妻子も置いてはならないとすることから、茶屋女一切が禁止されるにまで至った。これは、幕府が茶屋を密売春の場と認識していたことを示していて、現代のソープランド=公衆浴場という建前の発想に重なる。
摘発を記録した「書留」によると、17世紀後半に、築地、新寺町、白山、浅草観音寺中智楽院門前。本所、芝。麻布市兵衛町、深川八幡、下谷、赤坂とすでに散在していた。18世紀初頭には、江戸の端々において「おどり子綿摘又は目見奉公人」などと名付けられた私娼や茶屋遊女がいて、三十五カ所に及ぶ岡場所が全体的に把握された。四宿(品川、新宿、板橋、千住)をはじめ雑司ヶ谷、四谷、青山、浅草、鉄砲洲築地、本所、深川、谷中などの江戸周辺部から日本橋、京橋、神田という中心部の町家に広く分布していた。8代将軍徳川吉宗による享保の改革のあった享保年間、享保三年(1718)に岡場所として繁栄した内藤新宿を廃駅にしたが効果なく、享保五年(1720)には、寺社方支配地六ヶ所、四宿を含む代官所支配地六ヶ所、広範囲の町方支配地三十一カ所、合計四十三カ所の岡場所が上がっている。幕府の威厳回復にまずまずの成果を上げたと言われる享保の改革だが、こと公娼制度と岡場所の取締りには限界を示した。
岡場所の最盛期は、18世紀後半で、10代将軍徳川家治の側用人から老中格になった田沼意次政権の時代である。
新たな岡場所が成立したり、旅人が減少したことを理由に飯盛女の人数制限が撤廃され、品川宿には五百人、板橋・千住宿には百五十人という総量が許可された。享保年間に廃駅となった内藤新宿が再興され、同様に百五十人が許可された。これにより準公認の四宿が再び繁栄することになる。
しかし、意次が失脚して松平定信に政権が移って政策が急転換し、寛政の改革によって五十カ所以上の岡場所が取り払われた。
このため江戸の岡場所は大打撃を受けたが、定信の失脚の後の文化・文政年間(1804〜1829)に再び繁栄を迎えた。いわゆる「化政文化」の時代である。
この時、岡場所は深川、本所、音羽、根津、三田などの江戸周辺部のみで、寛政改革で取り払われた場所や中心部の町家に存在していた岡場所が再興することはなかった。
この化政期の岡場所の様相が、「化政文化」の「情報市場社会」化の特徴を象徴している。
つまり、化政期の岡場所の繁栄とは、それまでの岡場所の経緯を照らせば明かなように、経済的な繁栄ではなく生活文化的な繁栄だった。
それは空間的には縮小し経済的に対象階層が下層化して人口的には拡大した繁栄なのだから、空間的・物理的な世界よりもく時間的・精神的な世界が優った。
つまりはリアルな体験消費よりもヴァーチャルな情報消費が優った。
茶屋娘で最も有名だったのが谷中の笠森稲荷前にあった茶店、鍵屋の看板娘、笠森おせんである。
明和(1764〜1772)の三美人の一人と言われ、唄に歌われ、浮世絵のモデルになり、芝居のモデルになった。
そのような看板娘であるから当然「私娼」ではない。現代の「会いに行けるアイドル」に比定される、と一般的に説明される。
いつの世にも、セックス重視の客がいて、仮想恋愛重視の客がいる。接客する側にも店の業態や本人の意向によって、セックスの売り手がいて、仮想恋愛の売り手がいる。それらがお互いに融通無碍に錯綜しているのが繁華街の男女の実相である。
だから、谷中の茶屋の看板娘と、谷中の表向き「茶屋」が抱える茶屋女の「私娼」とは、記号的な連絡があった。それはどこかが一致していてどこかが違うという形で認知表現されるもので、その識別は男女のケースバイケースの関係性において微妙に合意される暗黙知に属する。
現代で言えば、タンジュン素朴なメイド喫茶のメイドと、裏メニューならぬ裏コースのあるメイド喫茶のメイドとは、路上で一見しただけでは容易には判別できない。警察や地元商店街組合の目が光っているから後者もそれと分かりやすい格好をする訳にいかない。
結局、水茶屋の看板娘やアイドルは、看板娘やアイドルという営みを実際にしていることでしか、管理、自主管理のいずれの「私娼」ではないことを証明することはできない。
このように考えてくると、笠森おせんは単なる美人だったのではないことに気づく。
会いに行って接客してもらえる美人であるだけでは情報価値がなく体験価値しかないのである。
谷中の寺社門前地にいながら「私娼」ではないという情報価値が構成されている。
彼女目当ての客には、ただ彼女を見るためにだけきた仮想恋愛重視の者と、女郎買いのついでに寄った本来はセックス重視の者がいたのだろう。そのような環境でこそ玄人にない素人の魅力が引き立ったと考えてよい。
ちなみに明和の三美人とは、笠森おせんの他、浅草寺奥山の楊枝屋の柳屋お藤、浅草観音境内の伝法院の付近の二十軒茶屋の水茶屋の蔦屋お芳である。
すべて岡場所のある寺社門前地の茶屋の看板娘である。それはたまたまだったとは考えにくい。
本来セックス重視の女郎買いのついでに寄る客の集客を店主が狙って雇ったと考えるのが自然だろう。そして、浮世絵や歌舞伎の人情話になった段階から、それを見た仮想恋愛重視の客も押しかけるようになったという展開なのだろう。
こうしたことの全体が「情報市場社会」化という展開の具体的な実相である。
ここで留意しておきたいのは、
寺社門前地の岡場所や水茶屋、そして飲食店の茶屋やラブホテルの茶屋が混在する繁華街という多様な店(見世)の女と客の男が錯綜していてる時空で、
水茶屋の店主がアイドル的な看板娘を置き、その美人に注目した当時のプロデューサーや表現者が彼女たちを題材にした唄や浮世絵や歌舞伎を創作した。
こうした自然発生的な集団共創こそが、まさに日本型の集団独創2タイプの内の1つ自由に活動する個々を適宜に集団を構成する「信長志向」であった。
そして、誰かが笠森おせんを見出し、誰かが柳屋お藤を見出し、誰かが蔦屋およしを見出し、それぞれの立場で店に雇ったり、インスピレーションを得て何かを創作したり、その成果である唄や浮世絵や歌舞伎を商品化し、それが都市型の「情報市場社会」の時空において競合しその競合が情報消費者としての一般庶民の話題となった。
自然発生的な外向きの集団共創としての「信長志向」は、多様な表現分野が隣接して現実的にビジネス分野が密接に連携しうる可能性を背景としていることが分かる。
このことは、生活文化を創出して提供する送り手側の構造として、情報市場の起点をリアルな体験においた江戸に対してヴァーチャルな仮想におく現代とすれば「アキバ文化」にそのまま重なる。
(一方、生活文化をライフスタイルとして消費する受け手側の構造として、江戸時代と現代に構造的な重なりを見てとれる話がある。
ただし、それは、下町の祭りで町内の人間が同じ半纏を着て神輿を担いで隣町の人間と競うような「家康志向」の集団恊働である。それは内向きの画一性への相互規制を土台としている。以上、検討してきた、自然発生的に何かユニークなものを創出する外向きの集団共創とは真逆の方向性のものである。
これを改訂している2016年、中間層が崩壊して、ごく一部の上層と残りの大方の分厚い下層という所得階層構成になった格差社会で、「マイルドヤンキー」と呼ばれる階層が存在感を増している。
それは、全国一律に拡大している生まれ育った地方地元で暮らし人生を完結しようとする階層で、家族でエグザイルをファミリーワゴンでかけてイオンモールに行くといった画一的な消費パターンを示すという。
現代の地方都市郊外の分厚い下層に消費されている「マイルドヤンキーの生活文化」は、江戸周辺部の分厚い下層に消費された「化政文化」に構造的に重なるところが多い。
このような構造的な相似性に着目して、元禄時代に比定されるバブル期の後の、化政期に比定される平成不況期の始まりに、女子大生や女子高生による援助交際が社会問題化したことが思い出される。
それは、援助交際という自己管理型の「私娼」が一般的な若い女子学生の間にも出現したことを意味する。江戸時代にも空間的な公的規制(御触)とは無関係に自己管理型の「私娼」もいて、現代の年齢的な公的規制(道徳)を無視した自己管理型の「私娼」の存在に重なる。
またバブル期にあった女子大生ブームは平成不況期には女子高生ブームに低年齢化し、新宿などのキャバクラでも女子大生や専門学校生のバイトキャバ嬢が減って高校卒業してなる専業キャバ嬢が増えた。この低年齢化した専業キャバ嬢たちがお互いに競い合うようにしてキャバ嬢ファッションの様式性を形成していった。そして、特に地方都市とその郊外の一般女性に彼女たちをファッションリーダーとして憧れる者がが出てきて、ある種の流行現象が続いた経過が、水茶屋の看板娘をファッションリーダーとして一般町娘が憧れた「化政文化」と重なる。
「元禄文化」を象徴する吉原の花魁のファッションは一般町娘が自分もしたいと思う類のファッションではない。そしてその様式性は彼女たちが考案した訳ではなく、江戸初期からの伝統を踏まえている。それに対して「化政文化」を象徴する浮世絵に描かれ歌舞伎で演出された水茶屋の看板娘のファッションの様式性は彼女たち自身が少しずつ寄ってたかって考案したものである。そして、彼女たちを、一般的な飲食店や商店で接客に従事する町娘たちがファッションリーダーとして憧れた。
キャバクラ嬢の教科書とされたファッション雑誌「小悪魔ageha」の創刊が2005年だから、同年に20歳だったキャバ嬢は2016年現在、31歳ということになる。キャバ嬢を隠退して結婚して実家や地元に帰って子供をつくったとすれば、ちょうど「マイルドヤンキー」と呼ばれる階層に参入した者も少なくないのではないか。
ちなみにその特徴は、以下のように説明されている。
・EXILEが好き
・地元(家から半径5km)から出たくない
・「絆」「家族」「仲間」という言葉が好き
・車(特にミニバン)が好き
・ショッピングモールが好き
・生まれ育った地元指向が非常に強い(パラサイト率も高い)
・郊外や地方都市に在住(車社会)
・内向的で、上昇指向が低い(非常に保守的)
・低学歴で低収入
・ITへの関心やスキルが低い
・遠出を嫌い、生活も遊びも地元で済ませたい
・近くにあって、なんでも揃うイオンSCは夢の国
・小中学時代からの友人たちと「永遠に続く日常」を夢見る
・できちゃった結婚比率も高く、子供にキラキラネームをつける傾向
・喫煙率や飲酒率が高い
江戸の裏長屋や岡場所の残った江戸周辺地と、現代の首都圏郊外や地方都市はともに「中心」に対する「周縁」ということでは一致している。
そして、「周縁」を生活圏とする江戸の「野暮」と現代の「マイルドヤンキー」には、以下のように具体的な共通点が顕著に認められる。
①固定化された格差社会を背景としている
②行き場が生活圏としているそこしかないこと
③現代の多種多様な広がりや深みをもつ「情報市場社会」の中で、生活圏で完結する仮想世界に留まりそれを充実させる暮らしで人生を全うする
(一般的には、空間的に生活圏に留まることが強調されるが、家族でディズニーランドに行ってパラパラを踊るなど、遠隔地でも仮想世界を充実し共有を強める非日常世界に行くべく生活圏から離れることにはむしろ積極的である。追ってその象徴として伊勢参りを検討する。)
江戸の「野暮」は、
①借家や借り店しか持てない無産階級で大工や髪結いのように手に職がない
江戸に親がいても相続資産や継承する技能がない
②江戸の中心部から外れた川向などの下町に暮らす
江戸に親がいても頼れず、郊外や地方からの出稼ぎ者は出身地に帰っても居場所がない
③お金がさほど掛からない時間消費型の仮想に浸る娯楽を充実
たとえば浮世絵のようなヴァーチャル・コンテンツや町内みんなで町内の顔役などから寄贈された同じ法被を着て神輿を担ぐなど
現代の「マイルドヤンキー」は、
①大都市に出たが定住できなくて地元に戻ったりそもそも大都市に出なかった非富裕層
家業があっても先細りで従事できず地元で自立できる専門職能もなく低収入のサラリーマン化
②生まれ育った地元の狭い人間関係(世間)の中で自分なりの安定したポジション(分際)を
アイデンティティとして確保維持できる内界に暮らし
アイデンティティを脅かす外界にでない
③ショッピングモールでの休日行動に象徴されるように
大都市市心の高コストの消費やマイナーなタコツボ型の趣味やスポーツや娯楽を回避して
地元で可能な全国一律にメジャーな低コストの趣味やスポーツや娯楽、要はテレビ文化に密着する生活文化に集中する)
著者はこんなことを述べている。
「戦争がなくて武力を使わない、こんな世が長く続くと、女性の役割が大きくなり、発言力を増すという現象が現れる」
江戸時代といえば封建的で家父長制が一貫した時代である。
しかし、江戸落語にはしっかり者の女房や亭主とやりあうかかあ天下の上さんが出てくる。
妻帯するのは日銭の稼げる大工などの一般庶民の中ではエリートなのだが、現代で言えば、夫が正社員ではあるがその給料だけでは先行きが心もとないので共稼ぎしている妻という感じだ。さらに亭主が定職につかずにふらふらしていて妻が髪結いで日銭を稼いでいればどうしたってかかあ天下になる。
こうした家庭内の男女の力関係はケースバイケースだが、世相として女性の存在感が増したということが戦後昭和にもあった。
昭和20年代の戦後復興期には「女性とストッキングが強くなった」と言われた。
私が体験的に実感したのは昭和40年代以降のことである。
バブル前夜までの私の10代から20代にかけての時期の若者ファッションを振り返ると、最初はアイビーとかヤンキーなどの男性ファッションに女性ファッションが倣う構図だったのが、テクノファッションやテニスウエアやゴルフウエアを普段着にするファッション、そしてニューファミリーと呼ばれた若い夫婦のペアルックなど総じてユニセックスのファッションの男女同一の構図となり、さらにアニエス・ベー・オムのように男性ファッションが女性ファッションに倣う構図へと転換した。
バブル崩壊後の平成不況期、私が40代の1990年代後半には、ギャルに似た意識をもつ男性「ギャル男」なるものが出現した。
そして「空白の20年」の終盤、私が50代の00年代後半にはギャルサー(ギャルの集うサークル)という女性部族さながら特異なファッションの群れが出現し、社会人女性の間では女子会なる集いが一般化していった。これらは、女子に同調的な男子のアプローチを嫌って閉め出す閉鎖性が共通する構図となっている。
さすがに男性人口が多く、妻帯者でも独身のように遊べたバァッチェラー文化の江戸ではこうはいかなかった。
しかし、「情報市場社会」の都会的なダイナミズムにおいて、女性が情報発信者となり女性が情報受信者となる回路がすでに大いに息づいていたのは確かだ。
同じ水茶屋の看板娘の浮世絵を見ても、男性ははだけた裾からのぞいた白い足に目が行くだけだが、女性は髪型から履物までのファッションのディテールを情報として受信したのだった。
「三馬の『浮世風呂』には、『女湯の小説』と自称する『女湯の巻』にいきいきとした女性たちの会話が描かれ、たいへんな人気を呼んだ。
そして、春水『梅暦シリーズ』(中略)や柳亭種彦の合巻『ニセ紫田舎源氏』は、間違いなく女性を読者として意識して描かれたものであり、その内容は彼女たちを一喜一憂させるものだった。庶民の女性を読者に想定して書かれた小説なんて前代未聞である」
現代のレディーズ・ゴミックの台頭と重なろうか。
現代の女性向けコンテンツと江戸の女性向けコンテンツとの大きな違いは、江戸の作家が男性だったのに対して現代の作家は女性であることである。
そうした送り手側の違いはあるものの、
受け手側の情報受信者の女性の台頭現象が、江戸の元禄期に対するところの化政期、高度成長期に対するところのオイルショック後の時期、バブル期に対するところの「空白の◯◯年」期でみられるのは偶然ではなく、構造的な背景の共通性の帰結である。
伊勢参りの伊勢講の「家康志向」、伊勢御師と伊勢商人の「信長志向」
著者はこんなことにも触れている。
「文化・文政期(1804〜1830)は、世界の気候がちょうど小氷期のピークにあたっていた。日本でも(中略)3回にわたって大坂の河川が凍りつき、京坂を結ぶ三十石船が欠航する事態が起きたり、九州でも11月に大雪が降るなど、厳しい寒波にしばしば襲われた。(中略)コレラの第一回の世界的流行(パンデミー)の余波が日本にも上陸し、長門の下関湊から東海道を北上した。『とんころりん』と呼ばれて恐れられたが、打ち手はなく、多数の病死者を出した。幸い箱根の手前で冬を迎えたので、江戸での流行はまぬがれたが、インフルエンザ(流行風邪)などの世界的流行には、鎖国などはほとんど無力であった」
著者は、「都市社会に住む孤独な住人たちは、個人的な祈願に傾斜しがちである」として、神仏案内所の刊行に触れてこう述べる。
「病や災いから逃れる護身・除災の神々への参詣もまた増えていった。
しかし、重要なことは、いずれも戦勝や戦陣での無事を祈願する信仰ではなく、生活苦や病魔など、きわめて個人的な不安からの解放を願った信仰であった点で、無事の世ならではの現象であったといえるだろう」
私が注目するのは、伊勢参りとお伊勢講である。
「無事の世」となって、五街道をはじめ交通網が発達し参詣がより容易となった。巡礼の目的が来世の救済から現世の利益が中心となり観光や娯楽も含むようになった。米の収穫量が増えて農民も現金収入を得るようになり、商品経済の発達により現代の旅行ガイドブックや旅行記に相当する本も発売された。庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限があったが、伊勢参りはほとんどが許された。
町人との関係では、伊勢神宮が祭る天照大神が商売繁盛の守り神であるため、商家では子供や奉公人が伊勢参りをしたいと言い出した場合、親や主人はこれを止めてはならない。また、親や主人に無断で旅に出ても、参詣した証拠のお守りやお札を持ち帰ればお咎め無しとされた。他藩の領地を通るのに必要な通行手形も伊勢参り目的にはほぼ無条件で発行されたという。
伊勢までの旅費は相当な負担で庶民が用意するのは困難だった。そこで生み出されたのがお伊勢講である。みんなで積み立てたお金でくじを引き当てた者たちが代表で伊勢参りした。
「お伊勢講」は神社の氏子の協同体としても働いていて、江戸時代に畿内から全国に広まった。この講の仕組みによって貧しい人々でも一生に一度は旅行できた。一度引き当てた者はくじを引く権利をなくすので当りが行き渡ったという。
この伊勢講のメカニズムは、集団を身内で固定する「家康志向」である。
一方、伊勢参りを言わば販売促進したのが、外宮に祀られている豊受大御神を広める御師だった。
当初は、おそらく中世の諸国を遍歴した聖を縁源とする布教と勧進を目的とする者として、もともとは農村部で伊勢暦を配り豊作祈願をしその年に収穫された米を初穂料として受け取って生計を立てていた。それが町人が台頭して伊勢参りの団体客を受け入れる体制が一大旅行レジャー産業となっていった。団体客は、自分たちの集落や町内を担当している御師の経営する宿屋に宿泊。豪華な食器に載った伊勢や松坂の山海の珍味などの豪勢な料理や歌舞でもてなされた。御師が伊勢神宮や伊勢観光のガイドも勤め、参拝の作法を教えたり、伊勢の名所や歓楽街を案内した。
集落や町内を代表した団体客は、最新の柄の織物や新しい品種の農作物や農具を持ち帰り、最新の音楽や芸能が関連する品物や口頭、紙に書いた旅行記によって各地に伝わった。一説には、これが土産の始まりであるという。
御師は、団体客が関心をもつ見聞を広めるツアーコンダクターとして事前に旅行計画を立てて受け入れ準備を整え、旅先の現地でガイドやコンシェルジュとなった。
こうした御師の活動は、伊勢参りの団体を適宜に順序立てて適切な旅行計画で受け入れることから、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」だったと言える。
伊勢国はもともと交易主義の信長が重視した伊勢商人の拠点だった。御師の全国に展開した営業網を利用して一種の為替を発行して貨幣の代用として流通させたのが、御師の拠点、伊勢山田で始まった「山田羽書」だった。日本最古の紙幣とする説もある。
山田羽書は幕府発行の通貨との引き換えを約束した兌換性を有した。この山田羽書の影響を受けて、伊勢各地の羽書が発行され、伊勢の羽書を統括する「羽書株仲間」が結成され、最盛期には39組404名で構成された。大坂など上方や周辺部の民間紙幣の発行や藩札の発行にも影響を与えたという。
羽書の中心であった伊勢山田と伊勢御師は山田奉行の保護下にあり、寛政の改革(1790)までは規制の対象から外されていた。
よって「羽書株仲間」は、その発生段階では羽書の信用を共同する御師同士の組合を本質とし、幕府の公認を得た利権の独占を意味するものではなかったと言える。
こうした伊勢商人の他に先駆けた羽書の積極的な発行は、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」であったと言える。
ちなみに、寛政の改革で、伊勢山田における都市自治の制限と山田奉行による市政支配が徹底され、羽書の発行もその管理下に置かれ、幕府貨幣との兌換に必要な手当金の上納が命じられた。このため、山田御師や羽書株仲間は発行の利益を失ったばかりか幕府からの重い賦課の対象とされた。
一方、紀州藩の支配下にあった松坂で発行された「松坂羽書」は幕府支配の対象外とされ、そこには地元の為替組とともに松坂発祥の豪商三井組も発行に携わっていた。
呉服店と両替業を家業とした三井組は江戸に進出する。越後屋三井呉服店(三越)を創業(1673)。その後、幕府の公金為替で両替商としても成功し幕府御用商人となり屈指の豪商となった。
「戦乱の世」までの初期豪商は、大名と結んで戦時用物資の調達にあたった貿易商人だった。
これに対して「無事の世」に台頭した豪商は、特定の専門商品を売買して城下町や江戸で商業活動を行う「近世本町人」と呼ばれる者だった。三井、鴻池、住友などで、近江商人、京都商人、伊勢商人などであった。
一説には、三井財閥の先祖は伊勢商人で慶長年間、武士を廃業した三井高俊が伊勢松阪に質屋兼酒屋を開いたのが起源という。
いずれにせよ、「近世本町人」の考動タイプは、発生段階において「信長志向」だったと考えられる。
(3:間章)
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へつづく。