江戸時代における「日本型の発想思考」の集団独創化を探る(1) |
「知識の社会全体的な共有」と「知識創造の動機の社会全体的な共有」が始まる江戸時代
考えるということは言葉を用いてできることだから、「日本型の発想思考」というものは、大和言葉と時を同じくして成立したと考えられる。
しかし「集団独創」となると、集団が対話して発想することが前提で、単に言葉だけでなく対話するための知識と動機が共有されなければならない。
そして「日本型の集団独創」となると、日本型の知識と日本型の動機が共有されねばならないことになる。
何をもって日本型とするかが重要だが、ここでは深く立ち入らず、中国型でもない、欧米型でもない「集団本意のコンテクスト(文脈)」ということにまずはとどめておこう。
「日本型」の前提でありその表現の目的でもありその伝達継承の手段でもある「集団本意のコンテクスト」がいつどのように可能になったのか。
私は本書を読んで、この問いの重大さに改めて気づかされた。
私たちは、現代社会に身を置きながら、有史以前の部族の普遍的な様相から、有史以後のさまざまな社会の国家政治や庶民生活の様相まで、それについての知識を努力さえすれば容易に「共有」しうる。過去ばかりか、未来の可能性や代替シナリオの知識さえ「共有」しうる。
そんな現代の私たちは、ともすると「知識の社会全体的な共有」、そして「知識創造の動機の社会全体的な共有」が江戸時代に始まり盛んになったことを、気に掛けずに忘れているか知らないままでいる。
さらに、私たちが「知識をもっている方が優位である」と当たり前のように信じているのも、知識を「共有」しうる可能性を弁えているからである。
もし「共有」の可能性がないか、可能性の有無を誰も考えないのであれば、「知識所有の優位性」など誰も想像できない。
「知識の社会全体的な共有」と「知識創造の動機の社会全体的な共有」を盛んにし出した江戸初期の日本人は、「知識をもっている方が優位である」ということを、最初から功利的に受け止められた訳はなく、何か未知のことをもたらす呪術のように受け止めたのではないか、と私は想像する。
当たり前のことだが、知識という概念(厳密には知るという動詞ではなくあくまで名詞)を知っている者が考える「知識所有の優位性」のイメージと、知識という概念を知らない者が想い浮かべる「知識所有の優位性」のイメージでは著しく異なる。以前から「知識」と知らずに持っていた知恵やノウハウと似たようなものだとアナロジー的に捉えたとは思うが、それで捉え切れない想像を超えた働きのある「知識」に出くわせば、それについては呪術か魔法のように捉えたに違いない(それは現代の日本人でも同じだ。たとえば、ある人がITの知識があるとすると、ITの知識がまったくない人は、その知識の中味がどんなものかを分からないのだが、何か凄そうだと感じるし何か良いことをしてくれそうに感じる。呪術か魔法のように捉える、とはそういうことである)。
戦国の世が終わって天下太平の世となった江戸初期の老若男女にとって、幕藩体制のもと社会全体的に一貫性をもって共有すべしとなった「知識」と「知識創造の動機」は、それまでになく新しい生活や仕事や人生を切り拓くとても力強い手立てと感じられた、と考えられる。
本書はこの辺りの経緯についての想像をたくましくさせる良い材料を与えてくれる。
著者は江戸初期からの活字本の歴史と「源氏物語」はじめ基礎的教養とされた書物の普及を概説してこう述べる。
「出版文化の発達によって、原文で読む読者だけでなく、粗筋だけで満足する者、俗語訳を楽しむ人々と、享受者が多層にわたって同心円に増え、さまざまな形で多くの人々に親しまれていった」
ここであっさり触れられているメディア論は重要だ。
たとえば識字率が高くなり書籍が普及した、という紋切り型で語られる現象も重要だが、「知識」が情報化し、その際、想定ターゲットに応じて情報商品化される「マーケット性」に著者は触れているのである。
想定ターゲットとは、原文を読んで学者のように学ぶ「知識人」から、知識人がどんなことを学んでいるかの概要をキーワードとともに知ろうとする言わば「情報人」、そうした知識や情報に無関心で自分の生活や人生に役立つ読み書き算盤を身につけようとする「ノウハウ人」という階層性を前提にしている。それぞれのニーズにあったコンテンツが商品化されていった。
庶民向けの書籍には、イラストが多様に多用されたものも多く含まれている。
(本記事を改訂している2016年7月。一年で学習参考書が一番売れる月、新しいタイプの参考書が異例のヒットとなっている。歴史の参考書のページにスマートフォンをかざすとヴォーカロイドが替え歌を歌っている動画が展開するというものや、英語の参考書のページで人気漫画のキャラクターが文法を教えて、ラインのやり取り画面のような体裁で会話を展開するというものである。
時代変わって品変われども、江戸時代以来の認知表現パターンでありその庶民市場対応である。)
たとえば、古代、ヤマト王権中枢において知識が貴族に専有されていた時に、知識は情報化はしても、流通の開かれた情報市場がないから情報商品化されることはなかった。そのことは中世、寺社勢力の境内都市において知識が衆徒に専有されていた時も基本的には同じだ。情報を自らの知識にする努力は読み手側が筆写を含めて一身に引き受けたのであって、書物に読み手側が見て楽しむためのイラストなどないものばかりだった。書き写すしか手段がない時代、文字は誰もが容易に写せても絵はそうはいかない。
江戸時代以前にも市場はあり、社会全体に市場社会という側面はあった。
しかし、社会全体において情報が商品化された「情報市場社会」という側面は希薄だったと言える。
つまり、江戸時代になってはじめて社会全体が「情報市場社会」化して、そこで初めて「日本型の集団独創」のパターンが構成員に合意される形で形成されていったと考えられる。
識字率の向上と書籍の普及が社会全体の「情報市場社会」化を促し、「情報市場社会」化が社会全体の識字率の向上と書籍の多様化をさらに促した、そういう相乗関係があった。
そして、この過程自体に社会や組織本位および集団本位とする傾向が働いたことが、「日本型」の「知識の共有」と「知識創造の動機の共有」を特徴づけたのだと思う。
象徴的にはこんなことに着目すべきだろう。
明示知に関しては、グラフィックとテキストが渾然一体であるのが日本の古書のコンテンツの特徴であること。
西欧の古書では両者は截然と分離している。
暗黙知に関しては、書籍や浮世絵がプロデュースされる体制と過程が、より組織的な創造性を高めるべく工夫された集団志向であること。
浮世絵の影響を受けた印象派だが、基本的に油絵画家として個人志向が当然としても、リトグラフなどでも個人志向が指摘できる。たとえば、ロートレックは、色彩にこだわり何度も色を変えて刷るなど、刷りも制作過程としていた。工房が代行することがあっても画家の指導の下に行われた。
一方、江戸の浮世絵の場合、彫りと刷りの技術向上が絵師のより繊細な線描を可能にするなど、単なる役割分担ではない相乗効果のある恊働が展開した。これをして「より組織的な創造性を高めるべく工夫された集団志向」と言いたい。
江戸の浮世絵の場合、工芸や演芸の制作体制と製作過程の中世的有り方を踏襲している。
まず事業主体の組織なり集団があって、利休や世阿弥のような統べる者が、誰に何を作らせよう誰に何を演じさせようと発案し推進するプロデューサーとなったのである。
役者絵など演劇コンテンツが浮世絵コンテンツに乗り入れて行くが、それはプロデューサーが仕掛けたことである。そしてその前提には、エンターテイメントを主題とした「情報市場社会」があった。
そして同じ構図で、教養本の版元のプロデューサーの前提には、一般教養を主題とした「情報市場社会」があった。
私は本論シリーズで、このような観点から、持論である「家康志向」と「信長志向」が、庶民を中心とした社会全体の「日本型の集団独創」として、いかにしてどう位置づけられていったのか検討していこうと思う。
都市型の生活文化が「情報市場社会」化し「知識創造の場とダイナミズム」が共有された
「著名な平安文学のほとんどは、江戸前期に刊行されている。それは、江戸初期に起った王朝文化への回帰現象と不可分に結びついていた。
戦国期に危機に瀕した古今伝授を守り抜くなど、王朝文化の伝統を維持しようとする雰囲気のなかで、古典を共有するために出版を活用しようとしたからである。
しかし、それが皮肉にも、伝統的な古典解釈の否定と新たなる解釈を生み出すきっかけとなった」
「古典回帰の現象は、文学の世界だけでなく、文化のさまざまな分野で起きていた」
著者は、本阿弥光悦作の「舟橋蒔絵硯箱」が御撰和歌集の源等の歌を表現したものであることや、尾形光琳作の「燕子花図屏風」が「かきつばた」の五文字を句の上に据えて呼んだ在原業平の歌を絵画化したものであることに触れている。
こうした文科省が国宝や重要文化財に指定する系統を「正ベクトルの王朝文化への回帰」とすれば、後の吉原の花魁文化の元である上方の太夫文化は、平安の貴族文化の戯画化、パロディで出来上がっていて、「負ベクトルの王朝文化への回帰」と言えるだろう。
「伝統的な古典の新たなる解釈」は、盛んになる「情報市場社会」化の背景により多様にかつ独創的に派生し変容した。
(こうした集団独創が社会的に同時多発する様相は、現代日本のサブカルチャーのいわゆるアキバ文化の様相と重なる。
日本のサブカルチャーが世界で人気で高い評価を受け続けている最大の理由は、根底的には、こうした「情報市場社会」の創造ダイナミズムが日本社会全体に働いていて、それが一朝一夕に外国に形成されるものではないことによる。)
著者はこう総括する。
「江戸時代とは、共有された知的情報を活用して、古代・中世以来の伝統的な制約や中国文化の影響から解放され、独自の解釈によって古典や中国文化との新たな融合を進め、そこからさらにわが国独自の文化の表現形式を創造した時代といえる」
「江戸といえばすぐに思い出す歌舞伎、浮世絵など、この時代に花開いた文化もまた、日本の古典と中国文化とが不可分に結びつきつつ、それをベースに創造された独自の芸術である。
それらは、多くの人々の願望や知的な欲求にヒットし、共感を得てきたのである。
とくに重要なのは、この新たな文化を、一般の庶民が享受し親しめる条件をつくりだした点にある」
「情報市場社会」化は、「新たな文化を、一般の庶民が享受し親しめる条件」の中核に他ならない。
「江戸時代はその点で、近代の国民文化の基盤となるべき条件を用意し、現在の日本文化の原型を形成してきた時代といえる」
わが国固有の文化と言われる歌舞伎だが、周知のように中国の京劇との間に強い類似性がある。
もともと慶長期の「お国」の「かぶき踊」を起原とし、それが各地の城下町に遊里が作られた娯楽の「情報市場社会」化の進展と相俟って、遊女屋の遊女歌舞伎として全国に広まった。当時最新の楽器だった三味線を看板役者が弾き、五六十人の遊女を舞台へ登場させ、虎や豹の毛皮を使って豪奢な舞台を演出し、数万人もの見物を集めたという。こうした趣向が様式化していく過程で、和漢混交がパターン化していったのではなかろうか。
花魁文化と歌舞伎文化の両方で和漢混交のパターン化が見られることは偶然ではなのだろう。
具体的な和漢混交のパターン化は、中国文化の知識があるだけでなくその文物を輸入できる者の何らかの介在があって可能になった筈である。当時、そのような者は堺などの国際商人に限られていたから、彼らによって和漢混交のパターン化が方向づけられ、それを具体化する文物も流通されたと考えるのが自然である。
私は、和漢混交のパターン化を方向づけたのは特定の個人ではなく、集団的な営みが伝播したり錯綜したのだと思う。
たとえば、花魁の衣装や言葉遣いに象徴される王朝文化のパロディ化は、アキバのメイド喫茶のメイドの衣装や言葉遣いに象徴される欧州貴族文化のパロディ化と、ぴったりと重なっている。
メイド喫茶を最初にプロデュースした人が確かにいたのだろう。しかし、それが個人主義的な展開ではなくて集団主義的な展開をして、多様な隣接分野でお互いの文物を相互乗り入れさせていった。
それと同様の都市型の庶民を対象とした拠点と商品を媒介として娯楽の「情報市場社会」化が、江戸初期の上方でも現象したと考えられる。
(無論、遊郭文化は金銭至上主義で現実の身分社会を転倒した階層社会を形成するのに対して、アキバ文化は言わばオタク市場主義で現実のリアル社会を転倒した仮想社会を形成する、という違いはある。しかし、憂き世を浮き世に転倒させる娯楽の「情報市場社会」化を首尾一貫した時空を形成している点はまったく同じである。)
一方、「日本型の集団独創」2タイプが体系的に一貫して社会全体に定着したのもこの江戸時代の初期だった。
日本型の集団独創2タイプとは、
1つは、
「家康志向」の集団独創
(徳川幕府が実践した発想思考パラダイムは、
共同体内部で身内同士で展開した
「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」知識創造体制にあった。
秩序維持型=知識記憶継承型の「祭り」である「農耕儀礼」に原形を求めることができる。)
いま1つは、
「信長志向」の集団独創
(信長が実践した発想思考パラダイムは、
共同体が他の共同体に対して展開した
「個々の独創を放任しておいてそれを適宜に集団に組織する」知識創造体制にあった。
新秩序導入型=新知識発見導入型の「祭り」である「交易」に原形を求めることができる。)
である。
(集団独創の2タイプについて具体的に補足するとこうである。
「家康志向」の集団独創は、
集団の構成員の全員が同じ情報を共有し、誰かのアイデアや工夫が共有されて定型として蓄積継承されていく。
たとえば、盆踊りの踊りや郷土料理などがこちら。現代では、企業の生産現場のカイゼン活動、職場の飲みニケーション、そしてキャバクラ嬢のアゲアゲ・ファッションなど。
みんなでわいわいやっている内に決まって行く、うまく行けばみんなで喜び、失敗すればみんなで嘆くが、みんなという共同体は永続的で基本的にその構成員は同じままで留まる。
「信長志向」の集団独創は、
新しい交易地や新しい交易品を開拓するべく、ルーティンの移動ではないベンチャーな転住をする交易において、リーダーが主要な情報と知恵を占有し、適材適所に配置した人材に責任と自由裁量を分担させて目的を達成する。新知識の導入と新手法の創出が加速する。
たとえば、商家の興廃に関わる新機軸についての意思決定とその遂行がこちら。現代では、ベンチャーの起業家と新興企業の経営者の活動、そして銀座のクラブの実力派ホステスの店移りや独立など。
基本的にリーダーが一人で熟考して決め、協力を求めた人材の内で応じる者だけがついていき応じない者は離れる。失敗するも成功するもリーダーと応じた者の自己責任であり、共同体の構成員は入れ代わりあり共同体も解消しうる。)
まず、平和な定住社会を大前提とする幕藩体制の基本原理として家父長制の「お家至上主義」が士農工商その他に改めて一貫して据えられて、朱子学がその精神的支柱となったことで、集団を身内で固める「家康志向」が社会全体のすみずみまで体系的に精緻化した。
それは、江戸時代の270年を通じて日本人の血肉となり、無自覚的に自然体で反応してしまう身体知や他者が口にしない意図を慮ることができてしまう暗黙知となっていく。しかし、そもそもは武家諸法度や武家商家の家訓、茶道家や華道家の一子相伝の口伝書などのコンテンツの原則を規定した明示知が土台ないし起点となったと考えていい。
こうして社会全体において集団を身内で固める「家康志向」が一辺倒化する。しかしそれでは、基本的には血統による世襲制度で実力主義ではないため立ち行かない事態がいろいろ発生する。
その筆頭が、幕藩の家臣が「お家」に割り当てられた家職を世襲するに際して嫡男がいない場合や嫡男が家職を担う実力がない場合で、婿をとったり養子をとって対処した。これは、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」の例外的かつ一過的な採用と言える。
商家においても同様の対処がなされた。
さらに、集団を身内で固める「家康志向」が一辺倒化すると、さまざまな組織が硬直化するだけでなく、社会全体が膠着化する。
すると事態を打開するために、一部の有志たちによる自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」が展開した。
幕府が財政危機を迎えると、将軍が異例の出世をした実力者に幕閣の中枢を担わせることで事態打開をはかる展開があった。幕末の動乱期には、本来、外様であった薩摩を幕政に参加させるなどの展開があった。百姓の長男に生まれた二宮金次郎が武家や藩や幕府直轄領の仕法(財政再建)を託されたことは有名である。
こうした武家社会における「信長志向」の展開は、おおおよそ一過的な例外であり、抜擢された実力者の一代限りの功績として終わったり、抜擢した将軍が亡くなると実力者が失脚したりした。
一方、都市庶民よりなる町人社会における「信長志向」の展開は、ちょうど現代日本の文科省管轄型のメインカルチャーに対してアキバのサブカルチャーがそうであるように、武家社会へのカウンターというニュアンスが色濃い。そこでは、一部の有志たちによる自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」が継続的に展開した。
その一部が現在にまで至っている。たとえば、娯楽の絵図や読み物などの出版は、出版社たる版元が適宜に作家を抜擢したり編集者が企画して作家を組織した。それは現在の出版業界の恊働慣行にもなっている。特に、若い時に出会った編集者と作家が恊働を繰り返して仕事人生を歩んでそれぞれの力量を向上させていくといった業界慣行は、欧米由来ではなく、江戸時代に育まれたものと思われる。
また、歌舞伎役者や浮世絵師や落語家の屋号の襲名である。
当該分野の「情報市場社会」化が進むにつれて血統による襲名も出てくるが、血縁者が実力を伴わないでは擬似的な「お家」である屋号一門が廃れてしまう。そこで屋号一門が認める実力者の襲名が残っていく。
こうした庶民による「信長志向」の展開は、都市部における芸能分野に限らない。
たとえば、鎖国下の江戸時代に日本独自の発展をした数学、和算である。
和算の発達には「遺題継承」と「算額奉納」が鍵になっている。
「遺題継承」とは、書物の巻末に解答をつけない問題集を出版して解答を募る、というものである。
「算額奉納」とは、問題を絵馬にして神社仏閣に奉納し、大勢の人々に見てもらって研究の成果を問うものである。これを運営する者はある種の家元制度にあったが、卓越した研究成果を報告するのは実力者であったから、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」と言える。特に江戸の芝の愛宕山神社の算額論争は和算の発展に寄与したばかりか江戸庶民の注目の的となった。ちょうど現代の将棋や囲碁のファンがプロの対戦に注目するような感じだったのだろう。
「算額奉納」は、四代将軍徳川家綱の時代(1670年頃)には、高度な問題を絵馬にして神に奉納する風習が始まったといわれ、風習としては文化文政期(1804~1830)に最も盛んだった。明暦三年(1657年)に、福島県の二本松の町家に家塾の看板として算額が掲げた記録があったり、同じく福島県の白河市の堺明神に算額が奉納された記録があることから、江戸時代初期にはすでに地方まで広がりを見せていたことが分かる。
ちなみに、私が戦国時代の武将の名を冠してネーミングした両志向だが、江戸時代は平和な時代だったから、ともに平和裡な組織や集団の知識創造原理を指すことは言うまでもない。
また、私は日本人の集団独創の2タイプとして両志向に着目したが、追って日本人の集団志向の2タイプであることが判明していった。その起原は古く、その原形は古事記の神話の中にも見出すこともできる。本論の主題ではないので深く立ち入らないが、たとえば、「信長志向」は交易民や転戦民などの転住民とその転住社会の原理であり、大国主命、古代史の政治・外交・技術面で活躍した渡来系の人々、平清盛、織田信長、一向一揆、堺などの国際商人、坂本龍馬(亀山社中)、勝海舟(海軍操練所)などにそれに則った考動スタイルを見てとることができる。
けっきょく、古来、日本型の集団志向として両志向があり、江戸時代になって幕藩体制において城下町等が都市化し日本全体が「情報市場社会」化して、社会全体に体系的に一貫した日本人の集団独創の2タイプとなったと考えられる。
「家康志向」は武家社会の原理として成熟化しその支配が及んだ庶民社会の「体制的な原理」ともなっていった。
一方「信長志向」は、武家社会の支配に対抗する町人社会の原理として、既存パラダイムの硬直性に対して新規パラダイムへの革新が図られる際に自然発生的に働いた。
これが私の江戸時代を概観する仮説である。
ある階層が他の階層に対抗する場合、そんな両者にも最低限の知識と知識創造の動機の「共有」が必要である。
最低限の共通知識がなければ、こちらの言動が相手に対抗とさえ理解されない。
また最低限の共通動機がなければ、そもそも対抗という競争の理由が発生しない。
江戸初期における日本の古典文学をはじめとする知識は、江戸庶民にとって武家社会に知的に対抗する上で必要不可欠な対抗者と共有すべき知識だったと言える。
その後文化の中心が上方から江戸に移り、史実と仮想を織り交ぜた戦記物の読み物や歌舞伎が江戸庶民の人気を博した。その土台としているのが日中の故事史実であったり武士の精神的支柱である論語の道義であったりするのも、文字通りカウンター・カルチャーとしての依拠するところと言える。
著者は、米価高騰に対して江戸の黒塀に張られた「御蔵米取りの御家人の一首」と称する以下の狂歌を紹介している。
「天智天皇
秋の田のかりほの稲の出来すぎて わが衣手に質をおきつつ
(筆者注:本歌は「秋の田のかりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」)
持統天皇
春すぎて夏来てみれば米値段 次第にやすくあたまかく山
(筆者注:本歌は「春過ぎて夏 来るらし 白栲の 衣干したり 天の香具山」)」
その上でこう述べる。
「この作者が、武士身分の不満分子か浪人かなどは問わない。問題は、この狂歌を読んだ庶民である。
つまり、庶民のあいだでは百人一首のかるた遊びが流行していて、すでにこの程度の古典は深く浸透していると作者が判断して、この狂歌を読んだという点にある。
逆からみれば、平安文芸を代表する百人一首くらい誰でも知っていて、それをベースに政治や社会を揶揄する狂歌という新たなジャンルが誕生し、古典が形を変えて暮らしのなかに生かされているのである」
(こうした「本歌取り」の狂歌で政治や社会についての批判が受発信される様相は、
たとえば、太平洋戦史を踏まえた「沈黙の艦隊」(かわぐちかいじ)のような漫画・アニメが受発信される現代の様相と重なる。
「情報市場社会」の論題ニーズは多様でほとんど現代と変わらないと言えよう。)
町人として商売や職人仕事に打ち込むようになった庶民は、知的エネルギーの多くを情報化した知識の受信と発信に振り向けるようになった。
内向きな同業者同士の競争という地平では、同じ商品やサービスでも評判がいいものが売れるのだから、いい評判を情報化しうるモノづくりやおもてなしを切磋琢磨するようになる。
町人階層全体としての外向きな地平では、支配階層である武家社会へのカウンター・カルチャーへのこだわりを先鋭化させてる形で切磋琢磨するようになる。
「江戸時代の文化史で取り上げられてきた尾形光琳の絵画や松尾芭蕉の俳諧などを、彼らの作品の芸術性の高さから描くだけではなく、鑑賞し楽しんだ側、つまり受け手の側から描いてみると、光琳や芭蕉の創造した芸術が、人々のどのような世界にまで浸透していたのかがわかり、彼らの芸術が日常の暮らしを豊かにしていたことを理解できるだろう」
日本語と日本文化は「鍵と鍵穴」の関係にある。
江戸庶民はこの関係の全体をひとつの仮想あるいは共同幻想の「知識創造の場」として共有していたと言える。
そして、それは「情報市場社会」という経済メカニズムでもあった。
庶民社会において、文化創造の競争は、イコール市場競争でもあったのだ。
こうした文化的かつ競争的な創造性をもった「知識創造の場」を庶民ふくめた社会全体が共有することができたのには、どのような背景があったのだろうか。
著者は、中世、鎌倉・室町時代と大きく異なる特色を4つ上げている。
「そのひとつが、二百数十年も戦争がなかったこと。
第二に、それにより村人たちが定住生活を営めるようになったことである。
そして第三に、突如、三都(筆者注:江戸、大坂、京都)を含めて全国各地に城下町などが続々と誕生したこと。
最後に、士農工商という強固な身分制度が貫徹したことである」
著者は本書において、「職分制国家」と言われる江戸時代をそこに生まれた民間社会の歴史として描いていく。
「職分制」は送り手側の職能分類だが、そこで規範となった価値観や態度能力は、世間という受け手側の期待と満足に応えることを当然の使命とするものである。
著者の論述は、「コンセプト思考術」で言うまさに「受け手側のコト実現の論理」が庶民全体の良識になった原点を探っていく。
「定住社会」化と「情報市場社会」化がキーワードになる。
「家康志向」と「信長志向」との相互関係が明らかになることも期待したい。
次項(2)では、「プロローグ/無事と士農工商の世」を検討する。
(2)
http://cds190.exblog.jp/11402930/
へつづく。