考え方=考えるその仕方を考える(2) |
川崎正敏著 洋泉社刊 発
言葉の意味派生の見取り図
序章「『思考』とはなんだろう?」の終わりで、著者は言葉の意味派生のメカニズムを、「カテゴリー論」の延長で羅列してみせる。
◯「『つなぐ』が『つな(綱)』が動詞化した言葉であり、『むき』が『むく(向く)』の連用形が名詞化した言葉であるように、あるいは『相生』が『あい』と『おう(生ふ)』の連用形の名詞化してものとの合成語であるように、語彙は法則的に増殖を重ねて今日に至った」
言葉が品詞というカテゴリーをシフトする意味派生のメカニズム。
◯「ヒトが身体をもち、その身体が大地に垂直に立ち二足歩行をしているかぎり、こことそことあそこ(ひいては『どこ』)、上と下、前と後ろ、右と左という方位をあらわす概念はきわめて基本的なカテゴリーであった。また身体や器物や住居にとって、なか(うち)とそとという区別も同じく基本的だ。人間の世界はこの移動する身体と相関的に形成された」
身体の動作や状態、身体との関係といった身体性が基礎的な言葉をつくる意味派生するメカニズム。
◯「もともとは『表裏』をあらわした『うえ---した』という言葉がやがて『高低(上下)』の意味を併せ持つようになった。方向、位置、場所を示した『うえ』という言葉はやがてそこにいる人を意味するようになり、さらに形式化して一般的な意味をあらわした」
物事を隣接する他のものによって指示する換喩(メトニミー)の機能のはたらき。
喩えにされる言葉の側からすれば意味派生のメカニズム。
◯「目」を用いた身体語「さいころの目」などは、
「原義から派生した二番目の意味は、感覚器としての『目』に『似たもの、たとえられるもの』であり、(中略)すべての視覚的な連想から生まれた隠喩(メタファー)である」
隠喩(メタファー)の機能のはたらき。
喩えにされる言葉の側からすれば意味派生のメカニズム。
◯「目」を用いた身体語「目つき」などは、
「三番目に挙げられた意味は『物を見ること』という行為に変換されている。(中略)すべて『目』のはたらきに関連する換喩の用法である」
換喩がさらに動作、認識などの能力、認識の仕方、認識した様態、認識した体験などの下位区分に意味派生するメカニズム。
◯「『目が合う』、『目が覚める』、『目が近い』など、大半の『目』は『物を見ること』に関連した換喩的用法である。ただし、『目が肥える』『目が回る』『目を射る』『目を盗む』などのように、句全体としては隠喩になっているケースも少なくない」
換喩の言葉が句全体としては隠喩になるなど、言葉遣いによる意味派生のメカニズム。
◯「ものを見るものである目は換喩的にカテゴリー拡張して<洞察力>のようにきわめて抽象的な概念をも表現するようになったし、ひとから着目されるポイントである目は隠喩的にカテゴリー拡張してさまざまな単位としての基準を意味した。
『目がいい』などという表現も、<きれいな目をしている>のか、<視力がいい>のか、<見抜く力を持っている>のか、<基準がはっきりしている>のか、文脈次第でさまざまな意味に解釈できる」
言葉の前後の文脈により解釈が多様化する意味派生のメカニズム。
著者は以上のように言葉の意味派生を例示した上で、こう述べる。
「視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚という五感のすべてが自分の領分を着実に守り通しているだけではなく、カテゴリー拡張しては他の領分に侵入しあい、(中略)奥行きのある知覚と認知の活動を保証し、豊かな言語文化を築き上げてきたのである。
目、耳、舌、皮膚という五官に一対一対応させて、五感のそれぞれを分節して考えるのではなく、そのあいだを縦横に行き来している共通感覚の機能に着目する必要が大いにある」
言葉の意味派生は、この共通感覚による喩えというメカニズムが支えてきた。
人類は、連想を、言葉によって定着してきたと言っていい。
それは連想による暗黙知を、言葉によって形式知化してきたということであり、そこには、言葉をカテゴリー拡張して他の言葉と関係づけつつ、連想を言葉レベルから句レベルへと展開するという思考があった。
「コンセプト思考術」の思考フォーマットの概念空欄は、所定の文法的表現というカテゴリーを前提に言葉レベル、句レベルの連想の大枠を予め構造的に想定しておいた上で、その内容を推量することで、連想を誘導したり整理するものである。
この空欄記入作業でも、「言葉の意味派生を支える、五感を越えた共通感覚という暗黙知」が鍵になる。
新しいパラダイムを創出するとは古い言葉で新しい物語を語ること
著者は、古事記の国づくり神話を例示してこう述べる。
「国土と神々の生成という民族史最大の『事件』を描写する固有の言葉を創世神話の語り手はもたない。
手持ちの表象と手持ちの言葉を創発の時に投射することで神話的形象はかろうじて生み出された。
ほんとうなら世界の始源(オリジン)を語るためにはオリジナルな言葉で荘厳したい。だがオリジナルかつ固有の言葉をオリジナルな事態にもたらすことは原理的に不可能であった」
これと同じことが、既存パラダイムにある「手持ちの表象と手持ちの言葉」を使って、新規パラダイムの「創発の時に投射する」、つまりは新規パラダイムを「かろうじて生み出す」ということにも言える。
「オリジナルな事態にいちいち対応する言葉をいさぎよく断念することで、言語はコミュニケーションを可能にした。(中略)
われわれはこの一般的で有限な記号を使って、新たに出来する自己の内外の出来事を表現し伝えようという貪欲なコミュニケーションの欲望を抱いている。
この欲望を可能にしたのが『喩』という言語に本質的な思考方法であり表現方法であった」
喩えの句をどうして使うのか、それはそうしてしか表現できない物語を語ろうとするからだ。
つまりは、新しいパラダイムを創出するとは、古い言葉による喩えを駆使してまったく新しい物語を語ってみせることに他ならない。
「転義」の見取り図
以上のような前提をもとに、著者は「喩」(転義)について解説していく。
◯「たとえば、ただ『少年』と言うのではなく、『いつもさめた眼でひとを見る少年」というように、さまざまな言葉で『少年』を修飾することで意味を限定する。これがひとつの工夫である」
物事を一般化する言語の機能を駆使して表現を特殊化する喩の機能。
◯「『イヌ』という音声ないし文字が動物の<イヌ>を指している場合が字義通りの標準的な意味であり、『幕府の犬』などと言われた場合が転義ということになる。
この転義を本質とする言語表現である『喩』は、『換喩』、『隠喩』、『提喩』の三つに大きく分類されている(一般に転義と喩とはおなじ意味でつかわれるが、本書では意味に焦点を当てた場合に転義、表現に焦点を当てた場合に喩と呼ぶ)」
言葉の標準的な意味を転じて新たな意味を作り出す作用。
◯「喩は命名者・使用者の観点に規定される。『うらなり』がひとり坊ちゃんにとっての『うらなり』であるうちは換喩だが、同僚たちもあだなとして使いはじめればすぐに隠喩に転化することだろう」
使用者の世界に対する態度表明の機能。
◯「換喩とは、ある目印になるものに着目し、それを指差すことでその本体を同定(アイデンティファイ)する言葉の用法だと考えられる 。(中略)
ここは『赤ふん』でなければひなびた港の小さなはしけの船頭らしくない」
単語レベルで目印をもってみずからを他から区別する特別の差異を表現する機能。
(従来、空間的な隣接関係として説明されてきた。)
◯「『横綱が髷を落した』、『大関が土俵を降りた』といえば、現役を引退したことを意味する。(中略)
こういう換喩は『原因と結果』、すなわち『時間的な隣接関係』に」もとづく換喩であると説明される」
句レベルで印象的な出来事(目印)によって対象となる事態を表現する機能。
「われわれはなにかの物事をとらえるときに、あるいはその物事を言葉で伝えようとするときに、かならず目印に着目している。
目印となるものはすでに存在しているとはいえ、そこにまなざしを差し向けるのは語り手であり、まなざしが選び出したその目印こそ、語り手の思考対象に対する態度(物の見方)にほかならない」
◯「『赤シャツ』という符丁はたちどころにみんなが納得したのに、『山嵐』のほうはなかなか理解されない。だれのことかと坊ちゃんは聞き返されたりもしている」
あらかじめリンクされているものを目印にする換喩に対して、
いまだリンクされていないものを結びつける隠喩の機能。
「換喩」の見取り図
「隣接関係の意味を分析して、換喩は一般につぎのように下位分類される。
(1)容器と中味(中略)
(2)全体と部分(中略)
(3)原因と結果(中略)
(4)具象と抽象(中略)
さらにいくらでも細分化することはできるのだが、
産地と産物(中略)、場所と機関(中略)などは(1)に、
製作者と作品(中略)は(2)あるいは(3)に合流させてかまわない。
(1)と(2)が空間的な隣接関係、
(3)が時間的あるいは因果的な隣接関係、
(4)がレヴェル間(たとえば心身関係)の隣接関係であるが、(中略)
グレイゾーンがあるのはやむを得ない。
ただし、(1)、(2)、(4)はともに非対称的な関係であり、(3)も不可逆的な関係であることはポイントだ。(中略)横並びの対等な関係(すなわち同一カテゴリー・レヴェル上のカテゴリーどうし)では換喩にならないのである。(中略)
目につく容器や目立つ部分は目印になりやすい。しかし部分を全体で表現する逆の例も少なくない。(中略)いずれの例においても重要なのは全体の機能であるから、その全体が目印になっているものであった。またいちいち細かく言う必要はないところでは、全体を目印にしたほうが分かりやすく経済的だ。(中略)
この全体で部分を表現する換喩の場合には、もはや部分のイメージはすっかり全体のイメージに包みこまれている。これが部分で全体を表す場合との大きなちがいと言えようか」
換喩という言葉遣いは、そのまま私たちの思考の仕方である。
たとえば私たちは、自家用あるいは業務用のふつうの自分で運転する自動車のことを「クルマ」という。業務用でもトラックやバスのことは「クルマ」とは言わない。また交通手段として電車ではなくタクシーで行こうという時もわざわざ「クルマで行こう」とはあまり言わない。
よくよく考えると、「クルマ」とは車という部分で自動車という全体を喩えている。こういう基礎的な換喩表現は状況に応じて意味を変容させていく。時代的にもケースバイケース的にもだ。
同様の換喩表現に、「ケータイ」がある。
もともとは携帯電話のことを略してそう呼ぶようになった。しかし、携帯するものとしてはウォークマンの方が早くまた普及していたのだから不思議と言えば不思議だ。(ウォークマンも不思議だ。SONY以外の製品もウォークマンと呼び慣らされていた。)
どうも時代を画するような普遍性のある商品には、基礎的な換喩表現が現象して状況に応じて意味を変容させていくようだ。
「ケータイ」はもはや電話するものではなく、メールをしたり、音楽を聴いたり、動画を観たり、ゲームをするものだ。最初は「電話」という言葉を略しただけだったが、本当に使い勝手として電話することが省かれるようになってしまった。
携帯HDステレオでウォークマンを出し抜いたiPodだが、iPhoneでケータイ化したのは流石だ。「ケータイ」がカテゴリー拡張していく動向を先取り的に自らに取り込んだ訳だ。
たとえば、「パソコンする」という言葉は、ある時期まで「オフラインでパソコンする」ことと「オンラインでパソコンする」ことの両方を下位分類としていた。
それが、インターネットが一般化するに従って、「ネットする」という言葉が、「パソコンでネットする」こと、「ケータイでネットする」こと、「Wiiでネットする」ことなどなどを下位分類とするようになっていく。
気がつけば「パソコンする」という言葉が死語になっていた。
そういう状況で、「オンラインでパソコンする」こともできるパソコン(デスクトップ型とノート型を下位分類とする)のパラダイムを脱した、「パソコンでネットする」ことを専らとする低価格ノートパソコンが人気を博してきた。
このように、語彙のカテゴリー化の推移を説明できるということは、語彙のカテゴリー化の推移を予測したり仮説すれば、新しい商品やサービスのコンセプト(概念)を抽出できる、ということに他ならない。
たとえば、「パソコンする」という作業をあらわした言葉は、その成果を受発信する「メールする」という言葉に時間的に隣接してきた。
それが、「サイトにアップする」という作業ですべて済むようになると、「パソコンでアップする」のか「ケータイでアップする」のか「専用端末でアップする」のかが下位分類として浮上してくる。
つまり、時間的な隣接関係が解消したために、空間的な=手段の隣接関係が浮上してきた訳だ。
これも語彙のカテゴリー化の推移を予測したり仮説すれば、新しい商品やサービスのコンセプト(概念)を抽出できる、ということである。
さらに、いろいろな「白物家電」「情報家電」そして「クルマ」や「家」という言葉は、「エコ志向の製品」と「エコ志向ではない製品」を下位分類とするようになり、前者が台頭してきた。
それが、後者が不人気となり下位分類が意味を成さなくなると、「エコ志向の製品」という言葉の方が上位カテゴリーに浮上して、「エコ志向な白物家電」「エコ志向な情報家電」そして「エコ志向なクルマ」や「エコ志向な家」が下位分類となる。
今後予測されるのは、「白物家電」「情報家電」そして「クルマ」や「家」を横串しする「エコ志向なネットワーク製品」と「エコ志向ではあるがネットワークはしない製品」という「家族的類似性」の差異に焦点が当たってくることだ。
語彙のカテゴリー化として納得性があれば、それはそうなる可能性が高いということだ。
本論シリーズで私が繰り返して言いたいことは、
現代の複雑なマーケティング論も、その骨子はタンジュン素朴なカテゴリー論として語れてしまう、
ということである。
ちなみに「コンセプト思考術」では、以上のような語彙のカテゴリー化の現状把握と動向予測の作業を2軸3軸の「概念ポートフォリオ」を使って図示図解してする。
思考も理解もより明快かつ具体的になる。
「現代言語学の一大源流であるソシュール言語学によれば、この記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)との結びつき(筆者注:たとえば『アカ』という音声と<あか>という意味の結びつき)はなんら必然的ではなく、『恣意的』な関係にすぎない。(中略)
ともかくいつの頃からか日本語共同体では<あか>を『アカ』と呼ぶような習慣が出来上がったのである。だが習慣は『第二の本性』であるから、その言語の使用者にとっては恣意的どころか必然的と意識される(筆者注:たとえば『ケータイ』と言えばあの機器のことと意識される)。(中略)
喩のなかでも換喩の目印と本体という結びつきは、言語記号の記号表現(音声的な目印)と記号内容(意味という本体)との結びつきにほとんど同型であると言っていい」
携帯はケイタイと読むのに「ケータイ」という音声になったのは目印性が強化されたと解釈できる。
日本語共同体において、ある音声が連想させるイメージという共通感覚がある。目印性はそれによって選択される。ケイタイではなくて「ケータイ」になったことも、ケイタイとの音声的差異がカタカナ表現とセットで有意味だったからだろう。
「換喩の原理は、モノとコトの境界を越えて、また文法では品詞と呼ばれる言葉の機能分類を飛び越して、意味を派生させ、関連する物事のネットワークをつくりだした。
意味を派生させるということは、確定した領分から未知の領分に触手を伸ばし、その領分の茫漠とした事物の想念にはっきりとした概念をあたえるということだ」
ちなみに「コンセプト思考術」の思考フォーマットは、話し言葉の文法的分類による4概念要素を用いた6つの記入空欄により構成されていて、意味派生と関連する物事のネットワークについての想念をはっきりした概念構造なり起承転結のある物語にすることを促すものである。
著者は、ここで修辞上の換喩表現と、言語の意味派生上の換喩表現について論じる。
後者が思考の原理であるとすると、前者はその活用という位置づけがあり、あわせて私たちの思考の方法論とすることができる。
「たとえばモノを意味したカテゴリー名がそのはたらきを意味するようになるとき(筆者注:斎藤緑雨の『筆は一本、箸は二本』。文筆業では食べてはいけぬことを表現)、この転換を『現実世界における隣接関係』にもとづく転換であると説明することはできない。
モノがコトに、あるいはコトがモノに変換するのはあきらかに意味世界における転換であるからだ。
しかしこの放射状に(非対称的に)意味を派生させるはたらきは、そのはたらきの本質において転義における換喩のはたらきと変わりない」
マーケティング論では、高度成長期にテレビ、冷蔵庫、洗濯機が「三種の神器」と言われた。
これは「テレビ、冷蔵庫、洗濯機」というモノが、「人並みの文化生活をおくる」というコトに、前者が後者の「必需品」という意味を媒介に転換されたということである。
前者のモノが原因で後者のコトが結果という隣接関係が一般化されたと言ってもいい。
「テレビ、冷蔵庫、洗濯機」が普及してしまうと因果関係的な隣接は解消する。今度は「カー、クーラー、カラーテレビの3C」が「新・三種の神器」と言われた。それらのモノが原因で「人並みの文化生活をおくる」というコトが結果という新しい隣接関係が一般化された。
対象主体をマスからセグメントされたコンシューマーへ、そして特定のこだわりをもったカスタマーへと展開しながら生活テーマを多様化させつつ、こうした新しい因果関係的な隣接の一般化が繰り返されてきたし、これからもしていくのがマーケティングである。
そういう意味では、マーケティングは、言語の意味派生上の換喩表現を原理としつつ、その活用をする修辞=レトリックという側面が否定できない。
一方、マーケターの思惑とは無関係に勝手にユーザーたちが「ケータイ」と言い出しそれが一般化する動向は、言語の意味派生上の換喩表現の原理がそのまま現象していると捉えることができる。
おそらく有能なマーケターとは、世間で自然発生している言語の意味派生動向を捉え、それを踏まえて世間を動かす修辞を発想する者なのだろう。
「意味を派生させる換喩的な運動とレトリックとしての換喩表現とを比べてみると、換喩原理には、みずから派生・分離する方向(筆者注:自然発生的な言語の意味派生動向)と、他のレヴェルのカテゴリーと結合する方向(筆者注:意味づけによる言語の結合操作)というふたつの方向性が見て取れる。
したがって換喩の機能とは、機能的な線に沿って意味をずらし派生させるはたらきであると同時に、異種のカテゴリーどうしをつなぎあわせることで意味のネットワークを張り巡らす運動であると言える」
ここでマーケティング論としては、
「機能的な線に沿って意味をずらし派生させるはたらき」とは、ハードやソフトのメーカーやオンウェブ・サービス企業が機能を進化させる方向に重なり、
「異種のカテゴリーどうしをつなぎあわせることで意味のネットワークを張り巡らす運動」とは、マーケターが商品化ないしサービス化による価値形成を意味づけ的に方向づけることに重なる。
「カテゴリーをつなぎあわせると言えば、なによりそれは文の構成原理である。(中略)
文の場合には文節した個々のパーツ(カテゴリー)は一列に結び合わされるけれども、換喩表現の場合には目印を意味する記号は本体を意味する記号を覆い隠している(筆者注:目印の記号は明示知で、本体の記号は暗黙知の含有率が高い。たとえば「生唾を飲んだ」という身体語の換喩が表現する本体の記号、その意味する体験のニュアンスは本人しか知らない暗黙知である)。
しかし分離されたカテゴリーを結合するという原理において、文を構成する統辞(シンタックス)(筆者注:言葉の繋ぎ)の働きと換喩のはたらき(筆者注:概念要素の繋ぎ)とは同一であると言ってよい(また意味派生の場合も、新たに開拓された意味領域を元のカテゴリー名がカヴァーしていると考えられる)」
「ヤーコブソンは、
『隠喩–––相似性(similarity)---選択(selection)---代置(substitution)』という系列と
『換喩–––隣接性(contguiity)---結合(combination)---結構(contexture)』という系列との
二項対立によって、人間のすべての記号操作を説明しようとした。
統辞(syntax)(筆者注:言葉の繋ぎ)と範列(paradigm)(筆者注:言葉の置換え可能な選択肢)という直角に交わるふたつの軸で文の構造をとらえただけではなく、
談話や夢の進行においても、ひとつの話題から他の話題へと
相似性に沿って進行する隠喩的な方法と
隣接性に沿って進行する換喩的な方法とが
あると考えた」
談話や夢が「進行する」とは、リニアーに概念を「結合していく」ということであり、統辞であるから、範列の選択を隠喩的にするか、換喩的にするかということか。
著者は、カテゴリーという概念同士のつなぎあわせには3つあり、
ネットワークの網の目を「放射状」に移動してつなぎあわせるのが換喩、
異なる領域を「水平」に移動してつなぎあわせるのが隠喩、
場所をそのままに「垂直」に移動してつなぎあわせるのが提喩、
としている。
これは文の構成原理としては、統辞が同じ主語述語の文法にのっとるとして、範列の選択をどのやり方でするかということになる。
これについては、隠喩と提喩について検討したのち精緻に整理したい。