ひらがな=和語が発想を促進する回路を求める(3) |
(2)
http://cds190.exblog.jp/10911183/
からのつづき。
本項(3)では、第二章「かんじる」を検討する。
身ぶりをともなった擬音語・擬態語を発っしてしまう体験が発想を生む
著者は本章で、主として五感を解放して物事を感じ取ることを解説していて、副次的に身体感覚を表現する言葉について解説している。
私は本項(3)で、むしろ後者の言葉について検討し、その関連で五感で感じ取ることも論じたい。
「専門家の研究によると、擬音語・擬態語を使うとき、95%のひとが身ぶりをともなったそうです。動詞の場合は、36%しか身ぶりが出手こないという結果でした(喜多壮太郎『ジェスチャーと言語の進化』「言語」2004年6月号)。
擬音語・擬態語を声に出し、また身ぶりで表現する。ことばによるコミュニケーションは、こんなところから始ったのかも知れません。
そして、擬音語・擬態語はいずれもひらがなやカタカナのような表音文字でしか表せません。
この国に大昔に住むひとたちがまわりの世界に感じ取ったこと、驚いたことを描写しようとしたとき、そこに身ぶりをともなった擬音語・擬態語となる。やがては意味を持たない音のつらなりだけでできる単語も組み合わせていってことばになっていった。
そうした古いことばたちが、文字がもたらされて、漢字の概念語も取り入れていき、日本語というものに育っていったのでしょうか」
ここで私が着目したいのは、「まわりの世界に感じ取ったこと、驚いたことを描写しようとしたとき、そこに身ぶりをともなった擬音語・擬態語となる」という原初的な言葉の成り立ち過程が、たとえば幼児が何かに出くわした様子を母親に伝える時や、大人が訳の分からない事態に遭遇して腰を抜かしあわててそれを人に伝える時など、同じような認知と表現の過程を辿ることだ。
実際に現場でないと経験できないことを体験するということの価値は、体験だけにある訳ではない。
身体的な体験が、身体的な表現を支え、身体的に表現する過程で私たちは自分の認識を他者に伝えるだけでなく自分の認識を深めもしているのである。
だから伝達された他者は、相手の体験を理解するだけでなく、それについての認識を深める過程に同期もする。
「身ぶりをともなって擬音語・擬態語を発する」、そうしてしまうほどに他の言葉遣いでは言い表せない「現場でしか経験できない体験をする」ということは、認識と表現にとってとても重要な鍵となる。
著者は、タウンウォッチングの手ほどきをしている。
「準備のし過ぎ」や「仮説の用意」は禁じ手であり、現場でみつけるものが決まってしまうという。むしろ、ふだん余り気にしていない物事をウォッチングすべきだという。
ふだん余り気にしていない物事は、現場で遭遇しなければ気にかけもしない訳で、それを注目するということは「現場でしか経験できない体験」である。
また、「準備のし過ぎ」や「仮説の用意」は、予めこれからする経験に、それを表現する言葉が用意されているということでもある。そのような体験をしても、その表現は準備資料の言葉遣いになってしまう。ところが、「現場でしか経験できない体験」を身体的に体験すれば、それが身体的な表現を支え、「身ぶりをともなって擬音語・擬態語を発する」ことになる。
この表現に、他の言葉遣いでは表現しきれない何かが含まれている。
私はそれは身体知であり暗黙知であると思う。
「ぶらりと街を歩くなかで、『新しい気配』に気づく。きょろきょろと街の店頭やひとの動きを観察することで、『おやっ、何か変だな』という一瞬を味わうこと。日ごろ、見ないこと、見えないことを見よう、というトレーニングといえばいいでしょうか」
以上は著者によるタウンウォッチングの効用の解説だが、人類はこのような言わば「ワールドウォッチング」をしつつ、何かを考えしようとしては「間違ったり、失敗をしながら、ふらふらと進んでいく。そうした経験が新しい見方を生む」という繰り返しをしてきた。そしてそのたびに新しい体験や発見を表現する言葉を生み出してきたのだ。
新しい言葉は即座に生まれる訳ではない。その言葉に決定するまでは、「身ぶりをともなって擬音語・擬態語を発する」ああでもないこうでもないの対話があった筈だ。その過程でお互いの認識を深め合い共通化させていった。
それが、身体知であり暗黙知である事柄を言葉として掬い取れる部分を共有する言葉化、明示知化ということだ。
「現実におもむく前に、あたまで考えてしまう。
たまには、そうした貧乏性をやめてみましょうというのが、タウンウォッチングの精神。街の雑踏にもてあそばれながら、仮説もなしに歩き回るのは、不安でもありますが、何かをみつけたときの喜びは大きいものがあります」
前項(2)で、「方向的イノベーション」と「交差的イノベーション」に触れた。
復習するとこういうことだった。(「メディチ・インパクト」フランス・ヨハンソン著 ランダムハウス講談社刊より)
「方向的イノベーションとは、ある製品を明確な次元に沿って、おおむね予測可能な段階を踏んで改良することを指す。イノベーションと呼ばれるものの大部分はこの方向的イノベーションであり、その例は私たちの身の回りにたくさん転がっている。(中略)この場合の目的は、既成のアイデアに改良や調整を加えて発展させることにある。その結果はおおむね予測可能であり、比較的短期間で達成することができる。
人も組織も年がら年中、専門知識や専門化のレベルを上げることによってこの方向的イノベーションを行っている。アイデアの価値を無駄にしたくなかったら、方向的イノベーションを欠かすことは絶対にできない。交差的アイデアもいったん確立してしまえば、特定の方向性に沿って発展することになる」
「他方、交差的イノベーションとは世界を新しい方向に向かって変えることだ。そこでは通常、新しい分野を拓く道が築かれるため、イノベーションを行った人びとは自分の創造した分野のリーダーになれる可能性がある。交差的イノベーションはまた、方向的イノベーションほど多くの専門知識を必要としないため、思いもかけない人物によってなし遂げられることもある。
交差的イノベーションはラディカルではあるが、規模の大小は選ばない。(中略)
交差的イノベーションには次のような特徴があるといえる。
・驚きや意外性に満ちている
・これまでにない新しい方向に飛躍する
・まったく新しい分野を拓く
・個人、チーム、あるいは企業にとって自分の自由にできる空間が生まれる
・追随者を生む、すなわちイノベーションを行った人はリーダーになることができる
・その後何年、何十年にわたって方向的イノベーションが生まれる源泉を提供する
・かつてなかった形で世界に影響を及ぼす」
「方向的イノベーション」志向は、「現実におもむく前に、あたまで考えてしまう」を組織的に行うことである。ある方向で用意された言葉遣いで説明しうることでアイデアを求める。
一方、
「交差的イノベーション」志向は、多様な人の行き交う交差点である「街の雑踏にもてあそばれながら、仮説もなしに歩き回る」ことに似ている。
偶有性を積極的に取り込み、交差点という「現場でしか経験できない体験」を多発させる。異なる知の体現者同士の交流を身体的に体験すれば、それが身体的な表現を支え、「身ぶりをともなって擬音語・擬態語を発する」ことになる。この表現に、既存の言葉遣いでは表現しきれない身体知や暗黙知が含まれている。
知識創造の学者たちは、知の成果ばかりをみて後づけで異なる分野の知の融合や綜合を着実なものとして解釈する。しかし、世の中に起っている現象はもっと不確かであり、ほんのごく一部が確かな成果に結びついている、というのが現実である。
発想思考の促進現場にたつ私にとって確かなことは、最初はたった一人の個人の頭の中で、無意識が浮かべた発想の断片から、あるいは洞察の断片からイノベーションは萌芽している、ということである。
個人の発想や洞察の欠片を言葉にして、自己そして他者と対話することで認識を深め知識化したり知識として共有していく。こうした言わば人間論的な過程が、特に「交差的イノベーション」には不可欠である。
交差点での偶発的な出会いや出来事は人々の無意識と意識に有意義なインプットになり発想思考のアクセルになる。交差点という場を用意することが、何よりの発想ファシリテーションなのである。
身体感覚を表現する言葉が思考の質を見定めている
「味覚とことばは、口のなかにあるこの不思議な生き物(筆者注:舌のこと)を仲立ちにして、つながっているともいえます。(中略)
味覚は、生存のために食べ物をより分けるための感覚なのでしょう。
ものごとを判断する基準として、味にまつわることばがよく使われます。
『きみの考えは甘いね』『辛口のご意見、ありがとうございました』『苦い教訓だけど、のみこまなければ』『甘酸っぱい思いが胸にあふれて』
考えることは、あたまのなかの働きですが、その考えが良いか悪いかということになると、味を判定するからだに近いことばが活躍する。この仕組みは不思議です。
ひらがなで表せる味覚の評価語が、思考の質を見定めているのです」
思考はコトだから、その質を評価する味覚の評価語、「甘い」「辛い」「苦い」「甘酸っぱい」は<コトの感覚>の概念要素である。
定性的な評価の内、身体知や暗黙知の含有率が高く、けっきょくどのように「甘い」「辛い」「苦い」「甘酸っぱい」かは本人なり体験を共有した当事者間でしか理解できない、ということが着目される。
仮に漢語を使って、「きみの考えは楽観的に過ぎる」「批判的なご意見、ありがとうございました」「過酷な教訓だけど、のみこまなければ」「青春期のような思いが胸にあふれて」などと表現すると、当事者でなくても誰でも具体的ニュアンスが理解ができる(あるいはできたような気になれる)明示知になる。定性的評価をプロトタイプとして共有しているから理解するのだ。
ちなみにここで言うプロタイプとは、たとえば私が「カエル」と言えばみなさんが「ああカエルだな」と想像するような共有知識のことである。そういう意味合いで「楽観的」「批判的」「過酷」「青春期」は構造のはっきりしたプロトタイプを表現している。(たとえば「楽観的」は「悲観的」の反対語として位置が分かる。)
しかし、「甘い」「辛い」「苦い」「甘酸っぱい」は、味に関して言うならば身体感覚に裏打されたプロトタイプを表現しているが、思考の評価語としては構造のはっきりしたプロトタイプを表現してはいない。本人なり体験を共有した当事者間でしか理解できない、身体知や暗黙知の含有率が高いのである。(たとえば、味覚としての「甘い」は「辛い」の反対語としての位置が明快な訳ではない。「甘辛い」という言葉がある。こうした味覚にたとえた思考の評価は、構造のはっきりしたプロトタイプを表現しているとは言えず、どうしても当事者だけが身体知や暗黙知としてその正確なニュアンスを理解することになる。)
「味覚と大切にすることは、深く考えることにつながるでしょう。
そういえば、味わいを確かめるときの顔つきは、何事かをじっくりと考えているときと似ている」
「味わい深い考えは、ひとのこころを動かす」
と著者が言う時、それは身体知と暗黙知を豊かに含みそれを他者にも予想させる思考のことだと思う。
「ごつごつ。ざらざら。すべすべ。こうした質感を『触る』こと。それは現場に行かないとできません。
触ることは、考えること。
そこには、抽象的なことばをつらねていく思考とは違ったたくましさがあります。からだの底から納得した上で、ことばが浮かび上がってくる。ひらがなで表されるような肉体化されたことばたちです」
モノを触った質感の印象の表現は、<モノの感覚>の概念要素である。
それは、他の概念要素を連携する働きをする。
たとえば、「ふれる」「なぞる」「たたく」「つく」という様々な触れ方を表す動詞は、抽象的な物事についても使われることがその一例である。
「触れることの大切さは、自分のからだについても当てはまります。実際に手で触れるというよりも、内臓感覚(筆者注:フェルトセンス)と呼ばれるもの。いいかえれば、からだの内側に触れる方は、自分のからだと対話する上でも欠かせないものでしょう。(筆者注:適応性無意識はフェルセンスから導かれる。天才的投資家ソロスが背中の痛みで株価の暴落を予知するなど。)」
つまり内臓感覚ないしフェルトセンスは、内臓ないし身体につての感覚であり<モノの感覚>であるが、何かの現象なり事柄についての予感や印象、つまりは<コトの感覚>と繋がっている。
よって、こうも言える。
日本人独特の<モノの感覚>についての認識の仕方や表現の仕方は、日本人独特の、<コトの感覚>と繋がっている。
この両者の概念要素の繋がり方から、日本人らしい発想や洞察を導くことができる。
(コンセプト思考術のパラダイム転換発想も、以下に示すようにこのことを重視している。 )
このことについてのヒントを著者はいくつか提示していて、みなじつに示唆に富んでいる。
「辞書を引いてみましょう(『三省堂国語辞典』)。(中略)
『いろ[色]』ということばがのっているページに当たりました。となりのことばは、『いろあい[色合い]』。そのまたとなりのことばに目がいきます。
『いろあげ[色揚げ]』。意味は、『古い布をもう一度染めてうつくしくすること』。この説明に何かこころが浮き立つ感じがします。『古い布』を『もう一度染めて』『うつくしくする』。この三つの要素があたまを刺激します。年配のひとが増えていくいまの世の中で、『色揚げ』ということばが持つ魅力を思ったのです。
布であるところが嬉しいと感じました。ひとを布にたとえて、それを染め直す。そのことで、うつくしくなる。これは、高齢化社会の消費者ニーズとしてもとても大きいものでしょう。
『いろあげ』というかたちで、音のきれいなひらがなで表せるところがいいのです」
「『いろっぽい[色っぽい]』でふと目の動きがとまりました。口に出して、この音をいってみます。『いろ・・・っぽい』。『ぽい』は『ある傾向が強い』ことを示す接尾語ですが、『ぽ』という音が、前半の『いろ』と結びつくと、とても魅力的です。
『色っぽい』。これは、ひとを表すことばですが、企業だったらどうでしょうか。とても技術に強そうなイメージを持っているのですが、『色っぽくない』会社があります。信頼性は感じるので、業務用に一括購入するといった場合には、とくに支障はありません。ただ、自分用に買うとなると、いまひとつ何かが欠けています。
たとえば、ブランドについて書かれた本で考えるとします。このたぐいのものはアメリカの翻訳が多いのですが、理屈は理解できても、ブランドというイメージづくりの根っこにかかわることばの問題などは伝わってきません。
もちろん原著においては、『色っぽい』に当たるような英語における『やわらかいことば』で、イメージづくりの微妙な手加減のコツが語られていることも多い(筆者注:ラテン語由来の英語は日本語における漢語の位置にあり、これを避けたりする)のです。ところが、日本語に訳したときには、翻訳者が妙な厳密さにこだわるためでしょうか、小難しい漢語だらけになっていることが少なくありません。
残念ながら、そうした漢字熟語だけに頼って考えていると、とくに生活に密着した商品・サービス・情報を生み出す力は弱くなってしまいます」
私たちは、ひらがなのもつ語感にもっと注意を払うべきだろう。
語感は五感に通じ、日本の風土と文化における身体的な経験に裏打ちされている。
「国語辞典のひとつである古語辞典を読むのも楽しいものです。(中略)
日本語でものを考えるとき、古いことばはとても刺激になります。ひらがなで表せる、こころの深いところに根ざしたことばが現代人にも迫ってくるものです。(中略)
『おもひあつかひ[思ひ扱ひ]』ということばに出会いました。『心配してあれこれ世話をする』ことだそうです。
『おもひありき[思ひ歩き]』は『心の中であれこれ思いをめぐらす』こと。歩くといういい方がいいですね。
『おもひがは[思ひ川]』は『恋しさのやまないことを、絶えない川の流れになぞらえた語』。
考えにつまったら、机の上で散歩に出るのはいい方法です。辞典はことばの旅をさせてくれます」
タウンウォッチングならぬ、日本語の世界のワールドウォッチングをすることで、私たち日本人ならではの物事に認識の仕方や表現の仕方を知ることができる。
『心配してあれこれ世話をする』『心の中であれこれ思いをめぐらす』は、ソリューションとして捉えることができる。
「コンセプト思考術」では、ソリューションやシステムはモノではないが<モノの機能>の概念要素とする。
「おもひあつかひ[思ひ扱ひ]」「おもひありき[思ひ歩き]」という言葉遣いは、それを聞く者に、どのような場でどのような当事者たちがどのように「心配してあれこれ世話をする」「心の中であれこれ思いをめぐらす」のかを推量させる。それが当事者ならば、具体的な情緒性としての<コトの感覚>を導き出す筈だ。
そういう身体知や暗黙知を前提するところがひらがなの慣用句にはある。特に古語の場合、現代の日本人が失っていて、しかし人間の心は昔とさほど変わっていないから依然確固として存在している情緒性へのニーズが見て取れる。
もし「おもひあつかひ[思ひ扱ひ]」「おもひありき[思ひ歩き]」を、「観察して支援する」「多様に思索する」といった漢語に置き換えたならば、こうした現場に介在する当事者ならでは分かる身体知や暗黙知の存在を感じさせる表現や感じとる認識はできない。
どうも「ひらがな」の言葉遣いは、現場で当事者として体験することではじめて理解できる身体知や暗黙知を前提としていて、そのことが物事を「あたまとこころ」「知と情と意」がしっくりする形で伝えたり感じとったりさせるのではなかろうか。
(4)
http://cds190.exblog.jp/10925168/
へつづく。