共生とは利己的な共通利害を超えて共感能力を利他的に拡張すること(10:結論後半) |
ブレインストーミング演習の人間関係に現象していることの構造的理解
発想は無意識が浮上させるものである。
ブレインストーミングの場合、誰かの言った内容に他者が反応して発想が浮上したり、言ったときの物腰や表情から無意識が受け止めた何かに刺激されて発想が浮上したりする。
そして、他者が発想を口にするとまた他の誰かが同じ反応を繰り返す、そういう連鎖が生じる。
この無意識や身体反応の介在が大きな役割をするのが脳嵐と命名されたことの本質だ。
脳嵐が調子良く活性し最高潮に達したとき、アイデアが一気に収斂するだけでなく、誰かが言った一言やした何かを切っ掛けにみんな同時に同じことに気づく「集団的アハ体験」が起るようになる。
この時、自分の考えていることと他者の考えていることが渾然一体となった感覚を覚える。
それは、母親と赤ん坊の<自他未分化>の状態、あるいは「内なる自己」と「外なる自己」が未分化の子供の心理状態に重なる。私が子供時代に体験した「群れ遊び」もそういう心理状態だったような気がする。
ただし、それは自己中心的な子供への退行ではない。
限界的な自我を超越するところが確かにある。
その点、ロジャースが共感的傾聴の条件とした「genuine(純粋)でいること」とも重なるように思う。
「ロジャース学派の現在」(現代のエスプリ別冊)で小谷英文氏は、精神分析の比較的新しい概念、S・A・アッペルバウムによる「心理学的心性(Psychological mindedness)」について、「自分を語り自分を感じ、その自分のよって来る所に思いをはせ、自分が何たるかを知る動機を持った心のありよう」とし、「自我による自己の発見であり、自我が自己のそこかしこの部分を、それを自己として認め自分のものとする時、私たちは自分自身がgenuineであることの快感を覚える」としている。
小谷氏はまた、「genuineということを理解するのは難しい、理解すると言うよりも体現しなければ本当のところ理解しているとは言えない概念だからである」と述べている。
交流分析心理学では、5つの自我要素は、1つづつ入れ替わり出て来るしかない。ところが、集団的な脳嵐状態では事実上、保護的な母親NPと自由な子供FCが一心同体的に存在することになる。
これは、「集団人格」とそれに同化した構成員にとって、「自我による自己の発見」「自我が自己のそこかしこの部分を、それを自己として認め自分のものとする」に相当する。
無意識が意識に発想や洞察を浮上させるということは、両者の連絡がスムーズになっているというこである。
ブレインストーミングの場合、集団の構成員の個々の意識と個々の無意識とが多元双方向でスムーズに連絡してネットワーク化する。
このネットワーク化で重要な役割をしているのが、脳科学が言うミラーニューロンの働きだったり適応性無意識の働きだったりする。
ミラーニューロンは意識では認識できない顔の微細な表情を感知する働きに貢献し、適応性無意識は意識では認識できない何かによる身体反応から直感を生じる。
ここにリアルに人と人が相対する対話において働く、認識論的な人間関係のダイナミズムがある。
ブレインストーミングは、発想や洞察の浮上ということに目的を絞って、このダイナミズムを集中的に活性化しようとする創造的な対話だ。
(参照:「『適応性無意識』が相対の対話を発想や気づきに導く(1) 」)
ブレインストーミングをメンバーが無心に夢中に行うとき、全員が自分の脳に主体を想定するエゴを捨てて、メンバー全員の脳と身体の神経事象のネットワークにトランスパーソナルな主体を想定している。
そして実質的にそれが発想し洞察していると言える。
この時、誰かの口をついてでるアイデアはもはや個人の所有物ではない。
狭量なエゴがつまらぬプライドをかけて固守するような対象でもない。
つまり、誰かの純粋な発言という「外的真実」に対して、他者がそれについての不純な思い込みという「内的真実」を感じ取る、そのような不一致は現象しない。
このように考えてくると、
ブレインストーミングがうまく行って、メンバーの誰も想像しなかったような発想の飛躍ある成果を得る成功体験そのものが、「他者性の取り込みによって<情緒的エロス的関係>を構築する」経験である、
ということが了解される。
じつは私には、長年の発想ファシリテーター体験から、こういう経験則がある。
ブレインストーミングがうまく行くグループはほっておいてもうまく行くが、
ブレインストーミング自体ができないグループはどうやってもできない。
(能力と言えば能力だが、態度能力の問題である。要はやりたくないのである。その多くは、ロジカルな専門知識を動員したディスカッションしかしたくないのである。しかできなくなっていくから、できないとも言える。)
私は研修講師をするのは2日コースの「コンセプト思考術」だけで、1回の講座に2回の演習を15年以上年、年10回以上やってきた。
その3年目くらいから、メンバーが話し合いを始めた30分くらいの様子をみれば、どのグループがうまく行き、どのグループがうまく行かないか分かるようになった。
しかし、何故自分が分かるのか、その理由は分からない。
後から体験を振り返りメンバーの特徴などを整理して、こういう条件が重なるとうまく行き、こういう条件が重なるとうまく行かないと後づけで説明できる。日常のポリティカルな自我が持ち込まれて云々などだが、それは会社員を対象とした社内研修に当てはまる条件でしかない。
しかし、ブレインストーミング演習を始めて30分後の直感は、そうした条件チェックをしている訳ではないのだ。
これは、マルコム・グラッドウェル著「第1感」を読んで、適応性無意識の働きだと知ったが、私の適応性無意識が何を察知して判断しているのかは分からなかった。
本書を読んで、それが分かった。
私の適応性無意識は、メンバーの「自己不確実状態」を察知していたのだ。
それが微妙な身体感覚(フェルトセンス)を催す、それが私の直感の実相だった。
「自己不確実状態というのは自信のない人、あるいはコンプレックス(筆者注:著者は正確な意味合いを追って詳述)をもっている人、あるいは迷いの状態のときに人々が起こす反応の公式のようなものです。
それをどうやってクリアし『自信のある社会人』となるかは大きな課題です」
私が着想した、「社会化ステップの踏み直しとしての人材育成」、そして「ブレインストーミングという共同行為によって人間関係を<情緒的エロス的関係>において安定化させる演習」は、この「自信のない人」に「自信のある社会人」になる心理的な切っ掛けを与えるものと言えよう。
「とくに青年期は、社会人としての人間関係を保つための自信づけの時期でもあります。
しかし、この独り立ちの時点で、幼少年期からの劣等コンプレックスとか、あるいは何かふとした挫折を経験すると、自信を失うことが少なくありません」
「自己不確実状態には大きく分けて三つのパターンがあります。
第一に、細かくこだわるという強迫症状を示しやすい。
(筆者注:専門的なテーマでのディスカッションには向くが、ブレインストーミングには不向き)
二番目には何事にも傷つきやすく、ひがみっぽくなります。かっとなって暴発しやすい。
(筆者注:こんなことを言っては馬鹿にされるのではないかと思い気軽に発言ができない。自分の発言に対する他者の反応に敏感で、ちょっとした物言いに怒りをおぼえてしまう)
三番目にはひきこもったり退却したりしやすい。決断ができず迷いが多く、結局、戦わずして降りるといったようなことにもなりがちです」
長年の発想ファシリテーター体験からすると、受講者にそういう症状の人がいた訳ではなくて、あくまでブレインストーミング演習の人間関係において、そういう症状的な言動パターンが状況によって出現したということだ。
著者も、
「臨床的には普通の誰でも、自信のない場面では常に現れうる状態です。
日常普遍性のある行動パターンとして考えてよいのです。自己不確実型の異常人格は少ないが、自己不確実状態はいつでもなりやすいということです」
と述べている。
ブレインストーミング演習では、メンバーの誰か一人がそうなるということではない。
グループの人間関係としてメンバー全員がそうした傾向を分かち合うという現象が見受けられる。
そこには、個々のメンバーの優等コンプレックスと劣等コンプレックスの多元相関も重なっている。
つまり、第一の強迫症状的な言動パターン、第二の敏感症状的な言動パターン、第三の退却的な言動パターンが、同じ者から優等コンプレックスを動機として出たり、劣等コンプレックスを動機として出たりして、かつメンバー同士の多元相関的な「CP/AC競合」が展開するのである。
だから、たとえ見えがかりとして声の大きな高圧的なメンバーが場を支配しているように見える場合であっても、それを含んだ人間関係の全体を可能にするには、他メンバーの「優等/劣等コンプレックス×3つの言動パターン」の関与があるのだ。
ここで留意したいのは、理想状態とは、メンバーから自己不確実状態の言動パターンが出ない事や、メンバーが出さない事ではない、ということである。
(以上の事柄は、日常の現業職場のディスカッションの人間関係においても基本的に同じだ。
ただ非日常の研修におけるブレインストーミング演習と異なり、「内なる自己」そのままの「外なる自己」への表出を周囲から抑制されていて自粛する傾向が強い。)
メンバーの誰かに自己不確実状態の言動パターンが出た場合、他メンバーが「NP/FC共生」に取り込んで「CP/AC競合」に陥らないようにする。
メンバー全員に自己不確実状態の言動パターンが多元相関的に出ている場合でも、たった一人のメンバーからでも「NP/FC共生」に繋がる言動パターンを誰かと推し進めていくことが大切だ。
そうした前向きな働きかけが継続することが理想状態だと、私は思っている。
いかなる「共同行為」によって、どうにかして「他者性の取り込みによって<情緒的エロス的関係>を構築する」経験をしつつ、「ブレインストーミングがうまく行って、メンバーの誰も想像しなかったような発想の飛躍ある成果を得る成功体験」に行き着くことを目指すのである。
グループの人間関係においてメンバー全員を変容させることは、確かに2日コースでは難しいかも知れない。飛躍ある発想を浮上させるだけなら、たとえばメンバーの一人が単独で思い着けば済んでしまうのだから、それよりも困難と言える。
しかし、3ヶ月の長期カリキュラムのPMS(パイオニア・マーケティング・スクール)では、実際にそうした変容を示すケースがあった。
PMSは、パイオニア以外からの参加者もいて、共同行為の連続カリキュラムが最終発表会まで目白押しである。
メンバーが運命共同体的な差し迫り方をする中では、人間関係が安定化することは、「他者性の取り込みによって<情緒的エロス的関係>を構築する」必要性を感じてそうしようと働きかけていく意志<意>がメンバーにあればそうなるのだ。
そして、この盛り上げは、部外者である発想ファシリテーターが直接的にできることではなく、私ができることは前向きなメンバーを鼓舞して、ポリティカルではないという意味でニュートラルな<知>の支援をすることだった。
ここで、昔に比べて顕著になってきたグループ全体に共通する現象に思い当たった。
じつは私は演習の最初にメンバーにジャンケンをしてもらい、グループを代表して発表する者を決めてもらう。その際、発表者は、複数の代替案が出てどちらか選択しなければならない局面では、それを決定する権限をもつとルール化する。
しかし、複数の代替案を絞り込めずにスタックしたグループで、発表者がこの権限を発動するケースは極めて少ないのである。
なぜだろう。
ブレインストーミングで<情緒的エロス的関係>を深めたグループ、ディスカッションで<知的攻撃的関係>を深めたグループいずれも、この権限の発動は深めた関係を後退させると感じられるためと理屈としては解釈できる。
しかし、グループの様子を観察した私の直感は異なる理由を導いた。
それは、グループの「集団人格が自己不確実状態にある」というものだ。
集団の表面的な人間関係を過敏に大切にしたり、集団のその時その時の一過的な成果に過剰な完全を求める、そんな「集団人格」が根底にあって、その志向性にそわない事態に直面すると「集団人格」が自己不確実状態になるのだ。
「いろいろ揉めたけれども終わり良ければすべて良し」
「荒削りでいろいろアラはあるが切り口は骨太で良いではないか」
といった、いい意味の気楽さ荒っぽさが10年前の受講者の「集団人格」にはあった。
確かに、現下の機械論化を極めた組織や制度ではそれではやっていけない。
しかし、彼らが代替案の選択に悩んでいるのは、職場の現業ではなくて「演習」なのである。
グループのメンバー同士の人間関係としては、「外なる自己」同士の関係が大人であるにも関わらず、それぞれ「内なる自己」と乖離しているため、「内的真実」と「外的真実」の不一致が多元相関的に現象している。
それが現業職場では表面化することを抑えられていて、抑えのない演習だからこそ表面化すると言えよう。
つまり、現業職場でルールに従う彼らならば、発表者のすべきとした判断を上司がすれば彼らはただ従っていた筈なのだ。
今の集団人格は、「外なる自己」はおとなしく素直でスマートな大人だが、「内なる自己」は自己不確実状態をもった子供である。
一方、
昔の集団人格は、「外なる自己」の大人も「内なる自己」の子供も、おっちょこちょいで荒削りで、未完成ながらも仲間とともに何かを求めていく自己の態度に自信をもっていたように思う。
「集団人格」を支える会社の「組織人格」も変容がこれに並行している。
昔の組織人格は、人間論的であり、非決定論的で、偶有性をポジティブに求めてその場その場で臨機応変な対応をする志向性が旺盛だった。
一方、
今の組織人格は、機械論的であり、決定論的で、唯物論的に確定できることだけを見て、決めたことだけをさせる、それ以外はさせない志向性が旺盛だ。
①強迫症状
②敏感症状
③退却
著者は、「自己不確実状態」を3分類し、それが3過程として推移したり3要素として連携したりするとしている。
今の組織人格はすべて発症している感じだ。
「自己不確実の順序で言うと、強迫的な時期はまだ軽症で戦う姿勢があるので、前を向いています。いろいろな働きかけができます。少しうまくチャンスにぶつかると立ち直ります。
敏感な時期(攻撃的時期)は前へ向くか逃げるか半身の状態ですから、用心深く刺激を避けるようにやるしかありません。
最後の退却---ひきこもりは、もう背中を向けてしまっていますから、働きかけが無理というところがあり、対処が難しい。逆療法に見えますが(中略)不安という風を送ってみることも必要です。
それまで我慢してセラピストが良い距離をとっているうちに、チャンスが流れてきます。(中略)
結局、自信づけ、自立への戦いですから、じっと努力してある距離をもて良い関係をつくり待っていると偶然、(中略)(筆者注:不登校などの場合、悪い方の体験ばかりを思い出すのに対して、何かが切っ掛けとなり)楽しい方の体験を思い出したりして成功します」
昔の集団人格は、「外なる自己」の大人も「内なる自己」の子供も、おっちょこちょいで荒削りで、未完成ながらも仲間とともに何かを求めていく自己に自信をもっていたように思う、
と先ほど述べた。
昔の集団人格は、私が四半世紀前にお世話になったパイオニアの場合とても人間論的で、自己不確実状態にある構成員を他の構成員が陰に陽にセラピストのように支援する、そんな「相互依存」が多元相関的に存在していた。
私が印象深かったのは、日経新聞主催店舗総合見本市「ジャパンショップ」のテーマゾーンの協賛をしてもらった時のことだ。広報課長と打ち合わせを3人でしている席で、部下がこくりこくり居眠りを始めた。課長が小声で私に言った。「彼はロックのボーカルやってるんですが、最近練習がきついらしいんですよ」。私も「そうなんですか」と小声で言って打ち合わせを続けたのだった。そういうことが許されたというより、違和感がなかった。誰もが自分の仕事と生活の両方を自分なりに工夫して頑張っていた。それを抑え込む機械のような「組織人格」ではなかったのだ。なにしろ人々が音楽や映画を楽しむツールをつくる会社だったのだ。
組織や制度は不完全ではあったが人間論的ゆえに、そのほころびを「人間としての関係」が補完することができたのだ。
要は、個々人がいろいろ融通を利かせ合うことができたのだ。
それが、現代の機械論化した組織や制度と、機械の部品化した構成員ではできない。
同じことが企業社会だけでなく、学校社会でも官僚社会でも、地域社会でもそして家庭でも同時並行して蔓延してきたように思う。
ちょうどこうした社会全体の構造が変容した20年、その間、私はパイオニアという会社を外から見続けてきた。
「コンセプト思考術」講座という同じ研修から定点観測もしてきた。
先ほどの話に戻れば、その経験が、受講者グループの「集団人格」の自己不確実状態を感じ取ってブレインストーミングがうまく行くか行かないかの判断基準を私の無意識下に形成してきたのだろう。
「自己不確実状態」は、退却に至るまでは自己完結するのではなくて、他者との人間関係において現象する。
そこで他者の言動についての「外的真実」と、自己の思い込む「内的真実」の不一致が生じて、強迫症状や敏感症状になる。
これと「コンプレックス」が密接に関係している。
「コンプレックス」という言葉は、日常会話では「自分の悩みである欠点」というような意味で使われるが、学術的にはまったく違う。
「コンプレクスというのは直訳すれば『複合』という意味です。(中略)一番普通に使うのは、たとえば劣等感という意味の劣等コンプレックスっです。
劣等の観点あるいは他との差の観念と感情が結びついたもの、つまり複合したものが劣等コンプレックスです」
だから、コンプレックスには、優等の観点と感情が複合した優等コンプレックスもある。
たとえば、日本人の女性には太っていることだけで負い目を感じる人や、痩せているだけで鼻を高くしている人がいるが、それらは劣等コンプレックスであり優等コンプレックスである。
飢餓があるアフリカに行けば、価値観は逆だから、痩せている女性に劣等コンプレックスを感じる人がいて、太っている女性に優等コンプレックスを感じる人がいる。
もしそれだけの個人の自意識の問題で済むなら、コンプレックスの問題は笑って済ませられる。
しかし、そうは行かないのは、それが人間関係の問題に直結するからである。
たとえば、強迫的にダイエットに専念し、随分やせたのにまだ頑張る女性がいる。
聞けば、もっと痩せないと馬鹿にされるのではないかと過敏になっていたりする。
無理したダイエットがたたってリバウンドしたら、自暴自棄になって家に引きこもってしまった。
以上は自己不確実状態の経過である。
この時、他者の自分に対する視線や、一次集団の他者の自分に対する思いあるいは彼らとの競争心や彼らに対するプライドなども作用している。つまり、他者との人間関係が前提にある。
実際に、そうした女性をデブだとなじるいじめっ子がいる場合もあろう。いじめっ子とは、自己の優等コンプレックスをもって、他者の劣等コンプレックスを誘発したり助長して楽しむ卑劣漢に他ならない。
ここで彼女は、
自分が太ってしまったら、という「外的真実」に対して、他者が自分を◯◯◯◯◯と見下すネガティブな「内的真実」を想定している。
逆に、
自分が痩せさえすれば、という「外的真実」に対して、他者が自分を◯◯◯◯◯と認めるポジティブな「内的真実」を想定している。
以上は自己起点の展開だが、他者起点の展開もある。
嫉妬やひがみが典型だろう。
隣家は金持ちだから、という「外的真実」に対して、貧乏なうちの者を小馬鹿にしているのではないかというネガティブな「内的真実」を感じ取り、<ちくしょう>と思う。
上司は高学歴だから、という「外的真実」に対して、学のない自分を相手にしないのではないかというネガティブな「内的真実」を感じ取り、<悔しい>と感じる。
コンプレックスとは、欠点と思う事実ではなく、あくまで事実と感情とを「結合」する捉え方だ。
だから、事実と感情とを「結合」する捉え方しかできない人は、もし実際に隣家の金持ちがほんとうに貧乏人を小馬鹿にする人だったり、上司の高学歴者がほんとうに学のない人を相手にしない人だったりすると、彼らの言動の一挙手一投足に自分とのネガティブな関係性を「内的真実」として見出すようになってしまう。隣家と上司のすべて全人格が許せない、不快だと感じるようになっていく。だが、隣家と上司は、何かをした訳ではないのである。何かをしたとしてもそれに過剰な意味を見出したのは本人なのだ。
コンプレックスが強い人は、しょせん価値観の違う他人だから仕方ない、近所付き合いは最低限にして庶民派のこちらのお隣さんと付き合おうとか、上司として対応するが友達になるつもりはないで済まないのだ。
これは劣等コンプレックスの持ち主だけの話ではない。
仮に隣家と上司が優等コンプレックスの持ち主だとすると、より金持ちの隣家に嫉妬したり、成金を馬鹿にしたりするだろうし、上司はより高学歴なエリートに嫉妬したり、エリートでもないのに出世する者を馬鹿にしたりするだろう。
コンプレックスは大なり小なり誰にでもあるが、他者との人間関係を歪める所まで行く人と行かない人がいる。
他者との人間関係を歪める所まで行く人の場合、それは、誰もが関係を解消できない親子関係に由来するコンプレックス、ないしはその影響下にあるきょうだい関係に由来するコンプレックスの可能性が高い。つまりは、他者に対して未解決のコンプレックスを再生する形で「内的真実」を感じ取ってしまうのである。
その特徴は、「共同行為」が無かったり少なかったりするのに、過去の僅かな言動について感じ取った「内的真実」をきわめて長い期間、生々しく維持することだ。だから、それが何かの切っ掛けで爆発した時は、その勢いに隣家と上司はびっくりしてしまう。
やや苛烈な事例で解説したが、コンプレックスが原因で人間関係を歪めないまでも、人間関係を不安定化させ自分の精神的健康を一時的に損ねる程度のことは誰にでもある。
そして、劣等/優等コンプレックスが、自己不確実状態に結びつき、社会化ステップにおける他者性の取り込みと相互依存の歪みに連なっている。
これが深刻化すれば心理的な病と言えようが、誰でも普通の人がもっている性格の一側面である。
会社が社会化ステップの踏み直しの場となる、あるいは仕掛けを提供する、と言ってもできることは限られている。
また、研修やOJTだけでなく企業そのものが教育機関でもあり、企業活動のすべてが人材育成活動でもあるべきだと私は思う。機械論化した組織や制度では人材を機械の部品と捉えてそういう考え方はとらないが、すでに誰もそれはがおかしいと思い始めている。だから早晩、エクセレントな会社から組織と制度を人間論化して行くだろう。
そこで企業ができることは何かというと、「社員が自己を革新する機会と場を与える」ことだと思う。
現業でそうすることが何よりの人材育成だが、原理原則は研修も同じだ。
どちらも知識偏重で済まされる訳がない。
唯物的な機械論で済む訳がない。
私は、2日コースの「コンセプト思考術」講座というただ一本のカリキュラムを依頼に応えてしている。
そのブレインストーミング演習を、より実り有るものにしたい。
当面はそれが私の課題である。
著者は、「あとがきにかえて」の冒頭でこう述べている。
「人間関係では良い意味でも悪い意味でも、ストレスに溢れています。
人間関係が無い状況で、つまり他からのストレスを避けることで安定しようとする<孤独指向>の人もいますが・・・・。
人の中で安定的に存在できる人は他からのエネルギーを取り込んで、あるいは他者によって自分の隠れた才能を開発され、自分の存在の意味や能力を高めます。他と組むことで人間がケチくさくできていないことがわかります」
いわゆる「人本主義」の土台となる「人材戦略のパラダイム転換」は、
「会社が就労者に社会化ステップを前向きに踏んでもらう場になる、あるいは仕掛けを用意する」
ことを課題とする
と述べた。
この課題を一言で言えば、人材に
「人の中で安定的に存在できる、他からのエネルギーを取り込んで、あるいは他者によって自分の隠れた才能を開発され、自分の存在の意味や能力を高められる人間」
になってもらうということだ。
その一端を担う人材育成カリキュラムとして「ブレインストーミング演習」を位置づけて、
「ブレインストーミングを、喰い違いを共生資源と受けとめる<情緒的エロス的関係>を形成するためにする」
という発想転換をした。
その主旨も噛み砕いて言ってしまえば、著者の言う
「人の中で安定的に存在できる、他からのエネルギーを取り込んで、あるいは他者によって自分の隠れた才能を開発され、自分の存在の意味や能力を高められる人間」
になってもらうことだ。
会社の社長ならば社員にそう訓示を垂れれば済むのだが、私は演習のカリキュラムやインストラクションのノウハウを体系化した上で実践しなければならない。
だから小難しい雑学をしては、過去の経験と照らし合わせて、いろいろな仮説を回収している。
しかし、そういう作業をしながら私が思うのは、私自身も知らなかったような自分の能力を引き出してくれたり、自分の存在の意味や能力を高めてくれた人々が周囲にいたことである。
そういう人間で自分もありたいという気持ちが、今の自分を支えているように思う。
東京から伊豆に移転し、高齢の両親を見守りながら仕事をする日々。
他者との関わりは圧倒的に希薄になった。
それでもできることを精一杯やってはいるが、むしろそれでもできているのは、過去にもらった恩の有り難さと、受け継いだものをどうにか現代化して伝えたいという気持ちだ。
思えば、私の恩師もそういう気持ちで私を含めた次の世代に接してくれていたのだと思う。
今日は皆既日食だった。
日本で見られる次の皆既日食は26年後だという。
私は80歳になっているが、その時、私は自分のライフワーク課題をやり終えていたいと思う。
社会が戴いた四半世紀の恩義に報いるには同じ年月がかかると思わねばなるまい。
良い思い出が励ましてくれるのだから、じっくりとあせらずやっていこうと思う。