「適応性無意識」が相対の対話を発想や気づきに導く(1) |
「適応性無意識」
ぱっと何かを見ただけで、ある判断をしてしまう。
しかし、どうしてそう判断したのかを口で説明できない。
どうにか言葉にしても嘘になる、ということがある。
これが「適応性無意識」の働きだ。
そして、これを著者は「第1感」と名づけた。
私がよく体験したのは、クライアントに呼ばれて何らかの課題の解決策やアイデアを求められ、課題を8割方聞いた時にはすでにアイデアが浮かんでいる、ということだった。
タンジュンな課題であれば、なぜそのアイデアが最善なのかも分かってしまう。
複雑な課題であれば、おそらくそういう方向性が答えなのだろうが、どうしてそうなのかは漠然としたままだ。
これは私が特別なのではなく、コンサルタントやデザイナーなど有能と周囲から認められている外部ブレインはみな、じつはそうなんだよね、と認めることなのだ。
同職能の会社員でも、会社への依存性が低い、すぐにも独立しそうなタイプにはそういう人が多い。しかし、会社への依存性が高いタイプで、まずはみんなで資料を集めましょう、スタッフで会議しましょう、その先に最善の答えがあると当たり前のように思っているタイプには、そういう人はほとんどいない。
10年前は、後者のタイプが出す答えを不十分とする、前者のタイプの幹部がいて、私ども外部ブレインを活用した。いまは、後者タイプが出す答えを、やはり後者タイプの幹部が良しとして終わり、外部ブレインに意見を聴こうともしない。
誤解を避けるべく最初に述べるが、優れた「第1感」を発揮できるのは限られた特別の人間ではない。誰でも発揮している。
ただ、優れた方向性では発揮できない状況や状態というものが往々にしてある、ということを著者は、冒頭から具体的事例を上げて解説していく。
私は、本書「第1感」を読んで、
日本の企業の組織や制度が機械論化した実態が今極まっていて、
それが優れた方向性の「第1感」を社員たちに発揮させないでいる、
それが神経事象学的にはどういうことなのか
を理解できた。
結論から言うと、組織全体が「自閉症」になってしまったのだ。
「自閉症」とは人の心を、自己の心の核心を含めて読めない病気だ。
そしてこの、人の心を読み取る感じ取る、ということは、健常者の場合「適応性無意識」が顔の微細な表情の変化を捉えることで成立しているのだが、「自閉症」の場合これができない。
一般的に無意識的に発生する顔の微細な表情筋の動きは、感情を表現していて、リアルに相対する他者にそれを無意識的にか意識的にか認知させる。
被験者にその動きを感情とは無関係に意図的にさせる実験をすると、その動きをした時の感情を創出しもする。つまり、感情→表情、表情→感情という双方向の回路が確認される。
結果、機械のような組織で機械の部品となった人材が人間としての豊かな表情をできないまま仕事をしていると、そうした表情のやり取り自体が、新しいことへの挑戦や仲間との連帯を動機づける社員の感情を抑制している、と考えられる。
ちなみに「自閉症」の人が無意識的に視覚で追うのは、機械的な規則正しい反復運動である。
クライアントに呼ばれて何らかの課題の解決策やアイデアを求められ、課題を8割方聞いた時にはすでにアイデアが浮ぶ。
さて、私はどうするか。
受注条件を交渉して取引を約すが、浮かんだアイデアについてはその席では一切言わないし、浮かんだそぶりも見せないで帰る。
言ってしまっていいことは何一つない。
最悪、お金をもらう仕事にならない相談事に終わってしまうかもしれない。
たいていアイデアの切り口というものは言ってしまえばシンプルだから、なあんだそんなことかと安く値踏みされてしまう。
複雑な課題であれば、どういう手順をふんでこうこうこういう理由からそれが最善のアイデアだと解説することも仕事に含まれるし、そうしないと相手は理解しない。
クライアントは、自分も含めて誰にも簡単に答えが出ない問題こそ難しい、と捉えているから、まずは一緒に難しがることが相手のそれまでの努力と今後の私の取り組みの両方を価値あるものとする。
(最近、クライアント筋の同年輩社員から独立の相談を受けることが多い。ここしばらくは、彼らが独立した後クライアントとの交渉で役立ちそうなことを、こうして折に触れて述べるようにしたい。)
本書の「第1感」の検討に話しを戻そう。
「『適応性無意識』は、フロイトの精神分析で言う無意識とは別物だ。フロイトの無意識は暗くぼんやりしていて、意識すると心を乱すような欲望や記憶や空想をしまっておく場所だ。
対して適応性無意識は強力なコンピューターのようなもので、人が生きていくうえで必要な大量のデータを瞬時に、なんとか処理してくれる」
「『高度な思考の多くを無意識に譲り渡してこそ、心は最高に効率よく働ける。
最新式のジェット旅客機が<意識>的なパイロットからの指示をほとんど必要とせず、自動操縦装置で飛ぶのと同じだ。
適応性無意識は状況判断や危険告知、目標設定、行動の喚起などを、実に高度で効率的なやり方で行っている。』」
本ブログに長年お付き合いくださったパイオニアの関係者であればご存知のことがある。
それは、ブログを立ち上げる前、今から5年程前に私は「このままではクルマ関係の事業部門を残して他の基幹事業部門はすべて撤退することになるだろう」と予言した。
あえて予言というのは、予測というには余りに根拠が微細な定性的なことだったからだ。
人間論的には多大な影響をもつと感じたが、それが経営にどう影響するかを科学的に説明することはすぐにはできなかった。
私の予言を聴いた社員のほとんどは、業界の動向や会社の諸事情を勘案して「まずそうはならないだろう」と判断した。そしてその後の私の提案提唱もすべて無私軽視していった。
この経緯とまったく同じ構図の逸話が、本書の冒頭で述べられている。
世界有数の美術館が専門家集団や専門機関の調査を総合的に駆使してもある贋作を見抜けなかった一方で、初見のぱっと見で見抜いた優れた鑑定者たちも多くいた。
ただここがポイントなのだが、彼らの言葉による審美的な説明はまったくもって科学的ではなかった。
そして結末は、巨額な費用で買い取られた贋作と思しきものが、いまも真贋の両論併記で展示されている、という話だ。
パイオニアが巨額な借財をかかえて産業再生機構からの公的資金を誘致するような事態にあるいまも、ここ5年間のパイオニアの経営判断は、その時点時点ですべて正しかったと言い張る幹部がいることと、私の5年前の外部ブレインとしてのぱっと見でいまのようになることを正確に予言したこととの対峙に、ぴったりと重なる話なのだ。
本論では、以後「発想ファシリテーションに役立つ適応性無意識の働き」に集中するので割愛するが、会社員ではなく外部ブレインだからこそ求めらる態度能力とも密接に関係するので、独立を考えている人には是非、読んでほしい逸話だ。
ぱっと見で「第1感」が発揮されるというと、何か継続性に欠けるような誤解を与えるが、そうではない。
「第1感」は、つねに自律的に働いている。
ただ、最初の出会い頭では、圧倒的に情報量が少なかったりとにかく瞬時の判断が求められることから、「第1感」だけが集中的に発揮されるのである。
具体的に、こんな例解が述べられている。
4枚のカードが用意される。赤いカード2枚、青いカード2枚で、めくると1枚ごとに何ドルの勝ち、何ドルの負けと書いてある。青いカードを引いた方がトータルでは勝って行くように書いてあり、このことを被験者はカードめくりを続けている内に気づいて行く。無論、個人差はあるのだが、普遍的な反応がある。
それは、なんとなく「青の方がよさそうだ」と漠然と感じ始め、やがてそのルールを考えつき発見する。その感じ始めに先だって、手のひらの汗の出方が変化しているのだ。つまり、赤いカードに対するストレス反応を示すのだが、なんとなく「赤は危ない」と意識しはじめたのが50枚後だとすると、ストレス反応はなんと10枚目くらいから出ているのだ。
これが「第1感」である。
だから、本書冒頭の贋作の美術品をぱっと見で見破ったのは優れた鑑識者の話だったが、じつはプロはプロなりの発揮をするが、一般人も一般人なりの発揮をしているのである。
私は、さきほど「態度能力とも密接に関係する」と述べたが、要は、自分の一般人としてのあるいはプロとしての「適応性無意識」の働きを活用する態度と、抑圧する態度がある、ということなのである。
美術館の依頼でじっくり鑑定した専門家集団や専門機関の人々にも、「適応性無意識」は常に働いているが、それを抑圧する態度をとっている、あるいは状況にあったということだ。
「私たちの脳は、まったく異なる二つの働き方をするらしい。
まずは意識的な働き方。
経験に学び、情報をたっぷり蓄積し、整理してから答えを出す。論理的で、確実なやり方だ。しかし結論が出るまでに時間がかかる。カードを80枚もめくる必要があった。
もうひとつの(筆者注:「第1感」を用いた)やり方は、たいして時間がかからない。カードを10枚めくれば十分だった。手に汗がにじんできて、なぜか赤のカードには手を出さなくなる。
実に手っ取り早いが、あいにく自分には「判断した」という意識がない。なんらかの判断があったらしいことは、手のひらの汗といった間接的な(筆者注=身体的な)現象で確認するしかない」
私のパイオニアの経営危機の深刻化の予言、というか最初の5年前の予感は、おそらくその前の15年の同社に携わった経験による何らかの暗黙知を土台にしたのだと思う。私は松下やソニーでも同じような判断ができたとは思わない。この会社はこういうことでうまく行く会社ではない、という直感だった。「こういうこと」がどういうことかは漠然としたニュアンスでしかなかったが。
だからこのケースは、美術品の真贋を経験豊かな鑑識者たちが見たケースに近く、カードめくりのケースに遠い。
ただ、私と同様に、否むしろ社内でもっと実感豊かにそれまでの年月を体験してきた社員がいた訳である。
彼らと私の違いは何だろう。
社員は総じて、昔のやり方よりも新たなやり方の方がすべて正しく良い筈だという確固たる前提に立って意識的な働き方だけをした。
一方、社外ブレインの私は、昔のやり方も新たなやり方も熟知している訳ではないし、多くの現場に顔出ししている訳ではない。だからいつも、なんとなく漠然としたニュアンスを感じ取っているに過ぎない。
つまり、そもそも「第1感」を用いたやり方しができずそれを先行させて、それを踏まえた仮説をたくさんもっていて、時々入ってくる内部情報で仮説を検証したり、再構成するといった意識的な働き方を後からしてきた。5年前の予言の時もそうだったのだ。
幸か不幸か、後から入ってきた情報は私の予言を裏付けるものばかりだった。
大きな展開があった手前手前で私が打ち出したアイデアもその時々の「第1感」を用いたやり方をしていたから、ずうっと意識的な働き方だけを精緻な内部情報や業界データに照らして継続してきた社員からは、単なる思いつきにしか見えなかったようだ。
確かに、思いつきなのだが、「第1感」を用いた思いつきという仮説は、意識的な思考によって検証する価値はあるものだった。それを無視軽視だけした対応の動機には、ロジックは皆無であって、陰湿な排除や不作為の攻撃をするネガティブな感情だけがあった。
ある時から自分たち社内の人間のパラダイム(考え方の基本的な枠組み)、という、意識的な働き方の限界に気づいた人たちは多かった。しかし、それを反省しなかったり、土壇場になるまで反省しようとしなかったのは、「適応性無意識」の抑制の問題ではなくて、感情という意識による抵抗でしかない。
創造的な態度能力の欠如、そしてそれを上下左右、様々な地位職能の社員がそれぞれに放置したと言わざるを得ない。
結局、そこで何がそうさせていたか、何がそういう事態を変えさせなかったか、というとそれは極めて人間論的な問題であり、それを私の「第1感」は5年前から感じ取っていたのだ。
経営論や事業戦略論という地平での警鐘や提唱は、それを言葉を使って事業主体の知的フレームで通じる「物語」にする作業でしかなかった。
様々な地位職能の社員がそれぞれに、社外ブレインへの協力要請をする意味はない、と確かめもしないで思い続けた。
そして最後の土壇場になって、私の予言は正しかった、私が適宜なタイミングでしてきた提案提唱に耳を傾けるべきだったと後ろ向きで言われても何の意味もない。
結局、彼らは自分の縄張りで自分の感情が気持ちよくいられるという、低いレベルのプライドを常に優先したということなのだ。
このような利己的な意識をもつ限り、どのようなTPOでも「適応性無意識」は世のため人のためになる方向では発揮されようがない。
たとえば、私という外部ブレインをぱっと見て、その提案内容をぱっと見て、こいつは自分の保身には有利に働かないと、ある意味的確な判断を彼らの「適応性無意識」がしたとも言えるのだ。
著者も、美術品の真贋をめぐる逸話において、美術館が真贋を見抜けなかった最大の理由をこう解説している。
「ひとつには、人が『科学的』データを信じやすいという事情があるだろう(筆者注:数値データを重んじる経営企画や事業企画に相当)。(中略)
しかし最大の理由は別にある。
ゲッティ(=美術館)側に、この彫像は本物であってほしいという熱い願望(筆者注:身内で立案した事業戦略が最善であってほしい、そうでないとは言われたくないという感情に相当)があったのだ」
もう一度、正確に言い直しておこう。
「第1感」は常に働いている。
「しかし無意識の判断のすべてが正しいという保障はない。(中略)
ときとして、直感的なひらめき『第1感』を曇らせる何かが存在する」
本書はどのような時に、第1感が狂うのかを解説していく。