日本語の身体語慣用句の特徴を中国語から探る(9)肩 |
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からつづく。
肩(肩膀jian1bang3)
40.肩のにがおりる 因yin1卸下重任xie4xia4zhong4ren4或huo3放下包袱fan4xia4bao1fu0)感到轻松gan3dao4qing1song1
=重任を終えたり荷物を降ろしたりして気楽に感じる
41.肩をならべる 比肩bi3jian1
旗鼓相当qi2gu3xiang1dang1
=軍旗と軍鼓の数が一致→力量が互角である
不相上下bu4xiang1shang4xia4=優劣がない
42.肩をもつ 偏袒pian1tan3=えこひいきする
袒护tan3hu4=かばう
「リアルな肩」をどうするという動作、どうしたという状態をメトニミー使いする言い回し(<現実換喩系>)を見ていこう。
「肩のにがおりる」と同様の身体語使いの中国語としては「歇肩xie1jian1」(担いでいる物を下ろして肩を休める)があるが、重任を終えて気楽に感じるという意味はない。
ちなみにそういう情緒性を英語では「take a load off one's mind」と言うが、身体語を使わずに「mind」を使っている。
「肩を落す」という言い回しは中国語にはないが、英語には「drop one's shoulders」があり、落胆という情緒性を表現する。
落胆すると肩を落すのは人類普遍の情動反応なのだろう。
「肩をすくめる」という言い回しに似通ったものとしては、
中国語では「胁肩谄笑xie2jian1chan3xiao4」=恭しく肩をすくめて追従笑いをする(谄chan3はへつらう、おもねる)という身体語慣用句がある。「胁肩」は、両肩を持ち上げて控え目に見える様子をつくること(耸起双肩做出恭谨的样子)である。
英語では「shrug」という動詞ないし名詞がある。困惑・疑惑・絶望・驚き・あきらめなどの仕草=ジェスチャーを言う。
shrug offで〜を取るに足らぬものとして無視する、give a shrug(of the shoulders)で肩をすくめる、という言い回しをする。
肩をすくめるのは人類普遍の情動反応だが、それをメトニミー使いするかどうか、メトニミー使いするとしてどのような情緒性を表現するかに文化差がある。それは、ジェスチャーとその意味に文化差があるのに同じだ。
日本語の「肩をすくめる」は、両肩を上げて身を縮こまらせる、恥ずかしい思いをしたときなどの様子が本来である。
中国語の「胁肩」の控え目に見える様子をつくることに近しく、自己抑制的ないし自己否定的な「情緒性をともなった身体感覚=態度」を表現している。
一方、英語の「shrug」の困惑・疑惑・絶望・驚き・あきらめなどの仕草=ジェスチャーからは遠い。それは、どちらかというと他者否定的ないし自己正当化的な「情緒性をともなった身体感覚=態度」を表現している。
「肩を触れ合う」は、日本語では長屋やその借家など狭隘な居住環境で仲良く暮らしたり、小さな飲み屋で隣の客と楽しく語らうようなどちらかと言えば快適な状況を形容する。
しかし、中国語が肩の触れ合いで形容するのは、どちらかと言えば不快な状況である。
「摩肩接踵mo2jian1jie1zhong3」=肩を触れ合いかかとを接する→人が多く押し合いへし合いするさま
などである。
この点では、日本語は英語に近しい。
英語が肩の触れ合いで形容するのは明快に快適な状況である。
「rub shoulders with ~」=〜と親しく交わる、知り合うさま
「shoulder to shoulder」=肩を触れ合って、互いに協力するさま
などである。
身体動作なり身体状態を無意識的な情動反応ではなくて、意識的な感情表現としてする場合ほど、文化的な個性が介在していく。
そして文化的な個性が介在して身体語の抽象度が高まっていくに従って、身体メタファーはよりヴァーチャルになっていく。
日本語には「肩を怒らす」「怒り肩」という言葉がある。
これは「肩」を擬人化していて、怒る「肩」は存在しない。つまりこれは「ヴァーチャルな肩」と言える。
「肩を怒らせる」「怒っている肩」という仮想を、威勢を示したり威圧する態度を示すことの比喩としている。
この比喩の発生回路にも<現実換喩系>と<仮想隠喩系>の2つの可能性が考えられる。
前者は、
実際に肩をそびやかして脅したり「肩で風を切る」ような歩き方をしている人がいて、そういう動作や態度という部分が、威勢を示したり威圧する態度を示すことの全体を比喩する提喩(シネクドキ)となった
という可能性である。
後者は、
「肩を怒らせる」「怒っている肩」という漫画的な仮想が、それと威勢を示したり威圧する態度を示すこととの類似性を捉えて隠喩(メタファー)となった
という可能性である。
「肩を怒らせる」の言い換えとして「しゃっちょこばる」や「 肩肘をはる」がある。
みな「リアルな肩」の様子という部分で「情緒性をともなった身体感覚=態度」という全体を比喩している<現実換喩系>である。
よって、「肩を怒らせる」も<現実換喩系>の発生の可能性が高い。
中国語では「挺起ting3qi3肩膀jian1bang3」、英語では「perk up one's shoulders」で、「リアルな肩」の動作状態を表現する。
それをメトニミーとした情緒性の含意は希薄である。
不思議なのは「肩で風を切る」という言い回しだ。
まず風はいつも吹いていないし、室内では基本、無風である。むしろ、威勢のいい歩き方をする人の肩が風をつくっている、という漫画的な仮想の方が現実味がある。そして、私たちも「肩で風を切る」という言葉を聞いてイメージするのはそちらの方である。
「切る」という言葉が使われているが、「バットが空を切った」というような切り方は「肩」ではできない。また、無風では風を切れないだけでなく、暴風でも切りようがない。
またこんな思いもよぎった。
「肩で風を切る」動作ならば、日本人に多い「なで肩」の男でもできるが、
「肩を怒らす」は「なで肩」の男には無理な相談だ。怒らせたつもりが「なで肩」でなくなるくらいだ。
私はこんな想像をしてしまう。
「肩で風を切る」「肩を怒らす」は「怒り肩」の人の様子のメトニミーとして発生したが、それが一般に普及するに際しては、「衣服の肩」のイメージが働いたのではないかと。
具体的には、江戸時代の威圧的に威勢をはった武士の正装である裃(かみしも)の「肩衣」である。
「肩衣」ならば、「なで肩」でも「怒り肩」然と「肩を怒らす」ことができる。身体が怒りに震えれば「肩衣」の先も震えたろう。
また「肩衣」ならば、先が尖っているから「肩で風を切る」という表現がしっくりくる。
一般庶民の間で言葉が定着するには、語源からすれば誤解であっても何がか強く連想されることが必要である。
「肩で風を切る」「肩を怒らす」の「肩」を裃の「肩衣」とする論は、私の思いつきに過ぎないがそれなりの説得力を持ってしまう。
ちなみに、「肩衣」の両胸部には武家のメンツの象徴である家紋があり、家系を鼻にかける奴に限って胸を張って家紋を見せつけるようにして城下を歩いたり町人に対したりした。そうした様子を江戸の町人が「肩で風を切る」「肩を怒らす」と揶揄した公算も高い。
次に「ヴァーチャルな肩」をどうするという動作、どうしたという状態をメタファー使いする言い回し(<仮想隠喩系>)、どちらかというと抽象的な表現内容の言い回しを見ていこう。
「肩に掛かる」がそれだ。
我が社の将来は君たちの双肩に掛かっている、などと入社式の社長の訓示で言われた人もいるだろう。
この双肩は漢語だから中国由来と考えられる。
中国語では、「全家的生活全担chuan2dan1在我的肩上jian1shang4」(家族の生活がすべて私が肩の上に担っている)というまったく同じ言い回しがある。
「肩」は負担を担うべき責任のメタファー(比喩関係が類似性)と言える。
「肩代わりする」(借金などを代わって返す)
の「肩」も、返済責任を代わって担うということでこれである。
「肩をもつ」(対立しているものの一方の味方をする、ひいきをする)
の「肩」も同じような解釈ができる。
中国語では「A总是向着B」(AはいつもBの味方をする)、「支持zhi1chi2」と身体語を用いない。
英語では「take sides with(the side of) ~」とやはり身体語ではなく「side」(方)を使う。
「肩をもつ」には、単に賛成したり支持したりすることには含まれない「身体感覚をともなった情緒性」が感じられる。
極端な話、その言動に賛成しかねるところがあっても支持するような味方の仕方、加勢の仕方のニュアンスである。
「肩をもつ」の意味の、ひいきする、というのがこのニュアンスである。
贔屓は、漢字音では「ひき」で、長音変化して「ひいき」となった。
贔屓(ひいき)の「贔」は貝(財貨) を三つ合わせて重い荷を背負うことを意味している。「屓」は鼻息を荒くすることを表す。
この二語が合わさった「贔屓」は、鼻息を荒くして力んだり、力を込めるという意味で用いられ、転じて、特定の人を助けるために力を入れたり、目をかける意味となったという。
すでに「肩」が負担を担うべき責任のメタファー(比喩関係が類似性)であることに触れたが、
助けたり目をかける特定の人のそんな「肩」をさらに支えてやろう、というのが「肩をもつ」ということになる。
英語の場合、「shoulder」が負担を担うべき責任のメタファーだけでなく、負担を担うべき責任者のメトニミーにも展開している。
日本語の「肩越し」( 前にいる人の肩の上を越して物事をすること)、
中国語の「隔着ge2zhe0某人的mou3ren2de0肩膀jian1bangg3」(誰それの肩を隔てて)
は文字通りの意味しかない。特段の情緒性が介在してこない。
しかし、英語の「be looking over one's shoulder」は、びくびく(戦々恐々と)しているという情緒性を表現している。
ここには、「shoulder」の持ち主が頼りにされているという前提がある。
そしてこのことは、
「cry on one's shoulder」=人に同情(慰め)を求める
でも同じで、
さらに、
「a shoulder to cry on」=悩みを聞いてくれる人
では、「shoulder」が頼りにされる人=負担を担うべき責任者の比喩になっている。
すがりつく「shoulder」という部分が、すがりつかせてくれる人という全体を比喩するシネクドキとなっている。
「get the cold shoulder」=冷たく(よそよそしく)扱われる
「give ~ the cold shoulder」=冷たく(よそよそしく)扱う
では、
負担を担うべき責任のメタファー「shoulder」が 「cold」であるとは、「冷たいあしらい」ということである。
「暖かい扱い」を期待して当然のような状況で「冷たいあしらい」を受けたとすれば、日本語の「肩すかしをくう、くわす」に近しい。
「put one's shoulder to the wheel」=(仕事などに)努力(協力)する
この「the wheel」は西部を目指した開拓民が協力して押したような荷車のことらしい。
「put one's shoulder to the wheel」は、努力(協力)して負担を担うべき事のメタファーになっている。
「(10)胸」
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へつづく。