「家康志向の改善」と「信長志向の革新」、その合わせ技の知識経営(6) |
モノ志向をコト志向で捉え直す新しい「ものづくり」の概念
「IT産業というと、ウェブ系の会社が花形だと思われがちかもしれないが、実際は、富士通やNECなどのエンタープライズ系といわれるソフトウエア産業が主流である。エンタープライズ系での、大企業や地方公共団体を相手にソフトウエアをつくる仕事は、欧米系のIT企業とはまったく違うという。
アップルCEOのスティーブ・ジョブス氏やマイクロソフト創業者ビル・ゲイツ氏のような、トップのスタンドプレーに統率される面は薄い。チームワークで黙々と進むのがITカルチャーなのだ。
その視点に立てば、個人が別々に創造性を発揮して新しい世界をつくっていくという欧米とは違った強みを、日本は発揮しうる。
ところが、当のIT産業の日本人たちは、負け続きだという。
それは、自分の持っている宝に気づいていないからではないだろうか」
エンタープライズ系が日本国内の業務用市場でも負け続きであるとして、その理由は何だろうか。
ハードの話としては、日本メーカーのパソコンは、一般民生用だけだと赤字で官需を含めた業務用で利益を出していると聞いた。
エンタープライズ系が業務用市場における営業をハードとそれを使うためのシステムに集中していて、ソフトウエアについてはそれらを売るための副次的な位置づけにしている、ということも一因ではなかろうか。
AV家電やカーナビの業界では、逆に一般民生用で利益を上げていて、業務用ハードとそれを使うためのシステムの事業は主に国内に専念しているケースが多かったように思う。業務用は一般にメンテナンスが重要だからだ。
その業務用ハードは、テレビ会議システムや漁船用ナビゲーションなどの例外を除くと、ほとんど一般民生用をそのまま業務使いさせる、単なるモノの売り先の多方面化だったように思う。
これは事務機業界の、たとえばプリンターが医療業界向けに薬袋印刷に特化するなどの業務用ハードを展開していることと対照的だ。
いずれにせよ全体として言えることは、
どうも日本人は
「モノづくり」して「モノ売り」をすることにばかり専念して、
ソフトウエアやネットワーキングで「コトづくり」して「コト売り」をすることをサボってきた、
ということだ。
「アメリカでは、『視える化』や『改善』といったトヨタ生産方式をソフトウエア化する動きがあるという。
日本的な美点に日本人自らは気づかず、かえって外から見る者のほうがその効果を評価できるものだ。
日本という国で私たちがはぐくんできた文化を、従来のものづくりという視点でけではなく、ソフトウエアやシステムづくりといった視点を加えた『複眼』で見直す必要がある」
タンジュンに言うとこういうことだ。
私たち日本人は、
自分たちの最大のリソースは「モノをつくる技術力」
だと思っている。
しかし、モノ志向をコト志向で捉える「複眼」で見直せば、
「モノをつくる技術を発想思考する力」と「モノをつくる技術を教育指導する力」が根源的かつ最大のリソース
なのだ。
実際、この二つがなければ「モノをつくる技術力」など進歩しないしすぐに絶えてしまう。
この二つの言わば「コトづくり力」を、自社のモノづくりに帰結させる閉鎖系だけでなく、外生化して他社に販売する開放系の事業展開も可能性としてはある筈だ。
アメリカのようにトヨタ生産方式をソフトウエア化するのではなくて、依頼された開発商品のテスト生産ラインを構築して工程管理を計画し実験検証して完成する、またそういうことを職務とする専門管理職を教育する、そんなビジネスを国内外の企業向けに外生化することも可能だ。
トヨタにそれをやれと言うのではない。
会社として残すべき生産部門の有能な功労者をリストラした多くの大手メーカーが、こうした外生化ビジネスによって彼らを温存し、会社のその後にも活かすことができたのではないか、と言いたいのだ。
「現代におけるものづくりには、新しい概念が必要だ。
(筆者注:モノ発想ではなくコト発想をする概念。)
ものづくりを、ありきたりの業種と狭くとらえないほうがいい。
世間でいわれてきたこれまでの『ものづくり』という言葉で片づけてはダメなのだ」
「昔は、日本のものづくりの強さとして、『暗黙知』があった。(筆者注:職人個人の技能の暗黙知と、親方が弟子に見習いさせるなどの技能継承の暗黙知の両方)(中略)
しかし、それでは立ち行かなくなるという現実があるのも事実だ。
『言わなくてもわかっていた』ことを、だれもができるように明示化していく必要がある。それによって、総合力を高めていかなければならないのだ」
それを日本のものづくりを守るためにやろうと考えれば、その時点で閉鎖系になる。
自社でやろう、業界でやろうというところで終わる。
それでは、自分たちのものづくりの閉鎖系の、モノ発想の中でのコト発想にすぎない。
開放系でコト発想すれば、
日本のものづくりの強さ、我が社のものづくりの強さである「暗黙知」とそれを踏まえた「集団独創」を明示知化し、
体系化してノウハウとして提供するコンサルティングや人材育成、テスト生産ラインの構築代行などを世界に向けてビジネス化しよう、世界に向けた出張技術指導事業だ、
となる。
「生産現場もまた、人間が生きる現場であることに変わりはない。
人間と機械の関係には、計算上の効率や原価率などの数字(筆者注=機能論)を超えた『なにか』がある。
数値化や言語化が容易にできない『なにか』(筆者注=暗黙知)にこそ、生産や経営の要諦はあるのではないだろうか。(中略)
機械はどんどん精密化し、巨大に進化している。人間の介入を許さないかのような迫力さえ感じさせる。だが、どれほど機械が進化しようとも、本質は変わらない。(中略)精密機械や巨大な設備も、人間が活き活きと動かすことが必要である。機械も道具である、という当たり前のことを、私たちは忘れてはいないだろうか。
人間が機械に使われたり、単なる番人になったりするようなことがあってはいけない」
以上の著者の論述は、「機械」を「企業の組織や制度」と置き換えて読むことができる。
重要な示唆を含んでいると思う。
「そもそも私たちの脳は、論理にしたがって整然と作動するコンピューターではない。
それよりもむしろ、たとえるならば炎に似ている。(中略)
たき火の形は、一瞬たりとも同じであることはない。炎は踊り、姿を変え続ける。私たちのまわりには、火のように予想ができない動きをするものが満ちあふれている。(中略)機械もまた、絶対的な例外ではない。そして何より、私たちの身体の中のさまざまなシステム(筆者注:その神経事象は個体の中の閉鎖系にとどまらず、集団の他者と同期したり同化する開放系にある)。(中略)
脳の神経細胞の活動によって生み出される人間の思考や発想には、独自のダイナミズムがあり、カオスがある。
たき火の炎から人間の意識まで、複雑で豊かなカオスこそが生命の本質である。
生命原理に寄り添うということ、人間としての(筆者注:そしてその集団としての)有機的な有り方。それを忘れてしまっては、私たちが本来持っている強みを見失うことになりかねない」
効率的であることが必ずしも有効であるとは限らない
「効率性は、図式と数式だけでは理解できない。(中略)
図式上の最大値が、現実でも最大の結果をもたらすか、それが持続するかはわからない。
生きることには、数字や言葉では表しきれない叡智がある。
いくら数字上で『成功』していたとしても、精神的な満足、幸福が得られるとはかぎらない。
そうした叡智をどこまで具体的に把握しているかは、実践している本人たちには、もしかしたら分からないかも知れない。
ただ、人間性と効率性とが最大化されるところに叡智があることだけは、事実であろう。
そして、効率化は余裕を生む、余裕が生まれれば、新しい創造が始まる」
これを読んで、うちの会社は効率化して、みんな逆に余裕がなくなったよ、と言う人々が多いのではないか。
これは言葉遣いの問題だが、
効率化にも
人間に余裕を生む「いい効率化」と、
人間から余裕を奪う「わるい効率化」がある。
前者が、著者が論じるトヨタ工場が実現している理想形であり、
後者が、チャップリンが映画「モダンタイムズ」で描いた全体が機械論化した工場だ。
私は、効率性と有効性とを峻別し、
「効率的であることが必ずしも有効であるとは限らない」と言おう。
世の中は便利になっていく。つまり効率的になる訳だが、それで失われる有効性もある。
たとえば、新幹線ができて便利になった分、出張が増えて忙しくなった。
同様に、ITインフラが高度化して便利になった分、人と人がリアルに相対して対話する機会が減り、その弊害は少なくない。
では、効率的で、しかも有効であるためには、どうしたらいいのだろうか。
著者は、仕事をしたり知識創造する主体の「能動性」、「プレシャー」、「わくわくする」、「ハマる」といったキーワードを提示している。
なぜか、それらは「家康志向の改善」を理想形にするものでもあるが、「信長志向の革新」にとっての必要不可欠の条件だ。
「学習とは知識をつめ込むことだと勘違いしている人は少なくない。だが、知識をただ取り込んだところで、自分自身がやせた土地のままでは、なにも育つことはない。
知識をはぐくみ豊かな果実を結ぶには、自らが能動的になって豊かな土壌を耕さなくてはならないのだ。
ましてや『やらされている』と思っていては、成長は望めないだろう。常に自分でやる、ということを忘れてはならない」
改善をやらされてどうにかこなせることはあっても、革新はやらされてできるものでは決してない。目的と手段の両方をセットで刷新しなくてはならなず、そのようなフリーハンドの課題は、自由な意志と抑えられない情熱をもった主体が能動的に取り組むことでしか達成できない。
そのような者でないと、この<場>に臨んで自分が本質的に何をすればいいのか、何をしたいのか発想も浮かんでこまい。
「脳は、高いプレッシャーのもとでベストパフォーマンスを行うときに、報酬系が最も活性化する。
脳の神経伝達物質では、『幸福物質』であるドーパミンが大量に分泌される。
だから、強烈なプレッシャーがかかった状態でうまくやりきることができたときこそ、脳は最大の喜びを獲得できるのである」
組織の顔なじみ同士でやる「家康志向の改善」も緊張感をもって望むべきだ。
しかし、高いハードルをクリヤーするべく集められた見知らぬ者同士がチームとなって試みる「信長志向の革新」は、本人が望もうが望むまいが始めから終わりまで高いプレッシャーにさらされる。
この時、前述の高い「能動性」をもって臨むことでベストパフォーマンスが生まれるのだが、それは後述のワクワクすることの作用でもある。
「危急のときこそ脳が最大の能力を発揮しないと、人は生き抜けない。
台風が来る前、妙にワクワクした経験はないだろうか。(中略)ワクワクするのは、脳が緊張し、集中し、突発時に備えている状態だ。脳が最も活性化している状態ともいえる。(中略)
戦国時代の武士なども、ワクワクしていたのではないだろうか。合戦、寝返り、夜打ちに不意打ちが日常だった時代で、明日をも知れぬ命である。(中略)ワクワクして脳が活性化しているようでないと、逆境を乗り切ることも、闘いに勝つこともできないのだ」
「プレッシャーがかかればかかるほど脳が活性化して力を発揮するという図式は、オーケストラの演奏や舞台でのパフォーマンスにも通じる。(中略)
緊張でヘトヘトになりながら、それでもやりとげる快感は、得がたいものである。しかも、その緊張と喜びを、大勢のスタッフと分かち合うことができる。一度経験してしまうと、まさに『ハマる』という表現がしっくりくる脳の状態になるのだった」
この「ハマる」という脳の状態は、
「家康志向」
(徳川幕府の支配パラダイムは、
共同体内部で身内同士で展開した
秩序維持型=知識記憶継承型の「祭り」である農耕儀礼
を下敷きにした
「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」知識創造体制
にあった)
にとって、その時々の作業をするに不可欠の状態ということはない。
田植えにハマる、稲刈りにハマる、という状態は想像しにくい。
一年を通して農作業をし作物を収穫して、その喜びから農耕という営み全体が好きになり、収穫を増やすための工夫を日夜考えるようになる。そういうハマり方はあるだろう。しかし、その状態がないとその時々の作業ができない、ということはない。
一方、
「信長志向」
(信長が描いた支配パラダイムは、
新秩序導入型=新知識発見導入型の「祭り」である交易
を下敷きにした
「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制
にあった)
にとっては、その時々の活動をするに絶対に不可欠の状態である。
祝祭としての性格をもった「交易」とは、ハイリスク・ハイリターンの遠隔地貿易であり、典型的には前人未到の地への航路を探索しながら行き着くような冒険である。
遠隔地貿易も、定期航路を行き交うルーティン・ワークになれば航行という点では祝祭性が薄れる。しかし今度は、未知の商品を未知の取引相手と商売するベンチャー・ビジネスに祝祭性が移る。
貿易品目の中で古来、ビジネスの祝祭性を高く保ってきたのが武器であり、武器を買う資金の貸し付けだった。なにせ、敵味方として戦争している二者を選択したり二股をかけたりする商売だ。
戦争も交易の一形態とされるが、実際、貿易行為は容易に海賊行為に変更したし、帝国主義が推し進めた貿易は戦争そして植民地支配に発展した。
こうした交易は、その時々の活動においてつねに集団や組織の構成員のベストパフォーマンスが求められ、それは好き好んで遠隔地での冒険にハマった人材によるしかない。
「日本型の集団独創」の2タイプの内の1つ「信長志向」は、
「祭り」である交易を下敷きにした
「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制である。
それが理想形で展開されるためには、
高い「プレシャー」に好んで飛び込むような「能動性」と、
飛び込んだ渦中でもがき苦しみながらも「わくわくする」、
そしてベストパフォーマンスを発揮してやりとげて「ハマる」
そんな人材が必要なのである。
もしあなたが、映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」に出てくる海賊のキャプテンだったら、どんな船乗りを雇うだろうか。
その答えの人材像だ。
「治世の能吏」タイプのキーマンと「乱世の姦雄」タイプのキーマン
三国志の英雄・曹操は「治世の能吏、乱世の姦雄」と呼ばれるが、
「家康志向の改善」には、「治世の能吏」タイプのキーマンが必要で、
「信長志向の革新」には、「乱世の姦雄」タイプのキーマンが必要なのだ。
ざっくばらんな話をすると、
バブルに向かう時期と崩壊の少し後までは、
どの会社にも「乱世の姦雄」タイプのキーマンがたくさんいた。
外部ブレインも、サラリーマンができないような多様な経験の持ち主、つまり「乱世の姦雄」タイプが活用された。
それが長引く平成不況の間にお払い箱になったり影をひそめ、
どの会社にも「治世の能吏」タイプのキーマンばかりとなった。
外部ブレインも、本に書いてあることをより詳しく知っている専門家や社員の専門職でもできることを代行する下請け、つまり「治世の能吏」タイプが活用されるようになった。
会社の方針がみんなこぞって変わった訳はなく、これはある種の社会心理、集団心理の転換であったと考えられる。
オイルショックの後にそのような変化がなく、バブル崩壊の後でそのような変化があったことから、私は終身雇用が実質的に崩壊していき、社員にとっての脳科学でいうところの「安全基地」がなくなり「冒険探索」を積極的にする方向に脳が働きにくくなったと解釈している。
だから、それまで「乱世の姦雄」タイプだった商品開発部長やその後継者と見なされていた同タイプの課長が看板を降ろすかのように「治世の能吏」タイプに変わっていった。
少なくとも会社に残った者はそうだった。
そして今、世界大不況が深刻化するまさに乱世、
競合横並びの「家康志向の改善」だけをしていても各社生き残れないことは明らかだ。
いやでも「信長志向の革新」をしなければならない。
だが、
それを推進する「乱世の姦雄」タイプのキーマンが枯渇していたり、
いても上下左右を「家康志向の改善」に慣れ親しんだ「治世の能吏」タイプが固めていて動きを封じられている、
というのが実態である。
「生きていると、プレッシャーや『しんどさ』とは無縁ではいられない。
人はつい苦しみから逃げようとしてしまう。だが、そこを通り過ぎなければ得られないものがたしかにある。
逆境から逃げずに、立ち向かい、時には耐える。その先にこそ、『発火点』はある」
この著者の言葉を、身動きがとれないでいる「乱世の姦雄」タイプのキーマンと、
その動きを封じつつそれなりの「革新」でお茶を濁そうとしながら、これではこの難局を乗りこえられないと内心分かっている「治世の能吏」タイプ、
その両者に贈りたい。
著者はこんなアドバイスをしている。
「脳は快楽が好きだ。
なにか行動を起こした結果、幸福を感じさせる脳内の神経伝達物質であるドーパミンが放出されて快楽が得られると、脳の回路は強化される。(中略)
こうした強化学習を通して、考え方や行動が変わっていく」
会社にあわせて「治世の能吏」タイプできたキーマンも、「乱世の姦雄」タイプに変わることはできる。
しかし、そのためには、考え方も行動も変わらなければならないことは自明だ。
実際の考え方も行動も「家康志向」のままで「信長志向の革新」を目指すことは不可能だ。
「信長志向」にあって「家康志向」にない態度能力は何か。
それは、著者が重視している「偶有性」に積極的にワクワクしながら身を委ねる、ということだ。
他者の未知の考えを聴いたり、異業種異業界と恊働してはじめて知る情報に出会う、
ということはその態度能力を解放した帰結にすぎない。
「偶有性」を嫌いそれを最小限にとどめるようとする人材では、得られる<場><チャンス><人>が限られ、本人の想定外の<知>に遭遇しないことは明らかだ。
身内の人間同士でも、初対面で初めて話をすれば初めて聞く考え方やアイデアに出会うだろう。
しかし、それは井の中の蛙の「偶有性」に過ぎない。
家電業界の人の考え方は、医療業界の人から見れば、同じパラダイムとメンタルモデルに制約されていることが一目瞭然なのだ。
さらに大切なことを、著者の論述の文脈で言うと、
同じパラダイムとメンタルモデルの者同士の切磋琢磨は、さほど苦しくないのである。
苦しいとしても、それはつまらぬエゴのぶつかり合いによるもので、集団全体の創造性には貢献しない。
逆に、大して苦しくないからそこでとどまろうとするのは「治世の能吏」タイプだろう。
自分たちとは異なるパラダイムとメンタルモデルの者との出会いこそが、祝祭性ある交易である。そこにほんとうの有意義な苦しさがある。
その苦しさは、自分を変え集団全体を変容させるという意味合いの創造性を孕んでいる。
「乱世の姦雄」タイプは、その可能性を直観的に感知していて追い求めざるを得ない。
「脳の仕組みからいえば、勇気は勇気を生み、臆病は臆病を育てる。
うまくいくかわからない困難なことに挑戦して成功すれば、不確実なことに挑戦する、いわば『勇気の回路』が脳内で強化され、自然とチャレンジ行動がとれるようになる。(中略)
苦しいことをやりきった人を、『一皮むけた』『人が変わった』と表現することがあるが、その意味ではたしかに人間として変容が起こり、より強靭な精神力や能力が身につくのである。
問題が起こったら、原因が見つかるまであきらめずに探す、まずやってみる、さらに、徹底してやるということが、成長をもたらすのだ」
以上のことは、「家康志向の改善」でも「信長志向の革新」でも同じだ。
だから、「治世の能吏」タイプは「家康志向の改善」ですでに一皮むけた人材なのかも知れない。
もしそうなら、この難局において、また一皮むけるつもりで「信長志向」の考え方と行動に対してストレートな「能動性」を持ってほしい。
ストレートであれば自分に積極性がなくてもいい。自分がすぐには「乱世の姦雄」にはなれないようなら、「乱世の姦雄」の他者の協力を仰いでほしい。その行為から「信長志向の革新」における部外者との恊働が始まる。苦しさは一人で背負うのではなく分かち合えばいい。
もしこの難局の求めに応じてその分かち合いができないなら、あなたは「乱世の姦雄」タイプになれないどころか、ただその足をひっぱるだけのタイプだろう。
さらに集団や組織の全体最適を度外視するのだから「治世の能吏」でもない。
「臆病の回路」と「勇気の回路」、それぞれに正当化される現実がある
「不確実な状況で不安を乗り越えて挑戦し、成功した体験が一度でもあると、それによって『不確実な状況で挑戦する』という脳のルートが強化され、積極的な行動が自然ととれるようになる。
一方、チャレンジを避けてなにごともなくすんでしまうと、『臆病の回路』が太くなってしまい、いつも挑戦を回避するようになる。
『見つかるまで探す』『わかるまでやる』というと、一見乱暴な精神論のようだが、脳科学的には間違っていない。
それを実践するときに、フォロー体制や環境整備(筆者注:安全基地のこと)が欠けている場合は単なる精神論に墮するという危険は避けなければならないが、安易に妥協せずに結果が出るまでやり通す執念が脳を成長させていく」
いま企業社会で難局を乗りこえることを課題としている方々からは、終身雇用や、挑戦して失敗しても挑戦を評価するような体制、さらには挑戦をさせてくれる経営判断がないために、何もできないでいる、という話をきく。
まさに著者の論述でいう、フォロー体制や環境整備、つまり安全基地がない状態だ。
しかし敢えて言おう。
「信長志向」を推進した「乱世の姦雄」は、戦国時代の武将も、遠隔地貿易の航路を切り開いた冒険商人も、遠くに居城や母港があったが、現場近くに安全基地と言えるようなすぐに取ってかえせるものは何も無かった。
唯一あったとすれば、生死をともにできる仲間であった。
なぜ生死をともにできるような仲間を持てたか。
それは共通する何かを信じていたり命よりも大切にしていたからだろう。
そういう何かがある人間は、共通する何かをもつ他者に任せることができる。
というか、積極的にそうしなければ大義を達成できないのだ。
そこが、俺が俺がと自分がしなければ気が済まない人間との決定的な違いである。
俺が俺がタイプはコントロール可能な身内者だけですることにこだわる。
そして、利害を一致する類友と向き合うばかりで、幅広く人材を取り込み軍様を高めて<知>の版図を広げることなど関心がない。自分も類友の仲間も、一致した利害のためにしか動かない人間だからだ。
人間誰しもエゴだとすれば、エゴの質が低く量が少ない。
本我でも大我でもなく、小我に囚われている。
著者が述べる日米の大学の研究組織事情は、日本の企業社会の様相を客観的に正視させてくれる。
「アメリカ人のある大学教授に、そもそも大学とは年間十ヶ月しか雇用関係がないのだと聞いてびっくりしたことがある。夏期休暇中の二ヶ月間は、そもそも雇用関係がないのだから、なにをしようが勝手なのだという」
ということは、大学教授の賞味期限は一年で、毎年チェックしてベストの人材にしている、ということになる。
本書の他の部分によると、研究費などもそうで、それまでの実績でもらえるのではなく、こういう研究をしたいというプロポーザルが審査されスポンサーがつけば手に入るシステムなのだそうだ。ノーベル賞受賞者が研究費をもらえず学界発表の最中に泣き崩れたのを著者は目撃したそうだ。
私は、アメリカの大学教授も自分とまったく変わらないフリーランスなんだなと思った。
そして、オープンにプロポーザルが求められフェアに審査される状況が羨ましい、と感じた。
先程の話でいうと、バブル崩壊の後くらいまでは、企業には「乱世の姦雄」タイプのキーマンがいて、サラリーマンにはいないような「乱世の姦雄」タイプをいつも求めていた。別に面識もコネもなくても提案をすると聞いてくれて、評価されば仕事を任された。
食客三千人を擁した孟嘗君のような経営トップや重役がほんとうにたくさんいた。彼らの薫陶を受けた事業部門長や部課長もそれぞれの力量で同様に外部ブレインを擁していた。
私自身も、日経ビジネスの対談記事を読んであるコンビニエンスのトップに提案書を郵送し、後日面談してプロジェクトを託されたことがある。社長直轄の総合コンサルタントという名刺をもたされ、その後5年お取引いただいた。
アメリカの大学教授同様、毎年プロポーザルとお見積もりを提出して年間契約を更新したのだ。
それが世の中「治世の能吏」ばかりになって、事情は一変した。
要は、私がアメリカの大学教授を羨ましいと思うような状況になったのだ。
「日本の大学院では、各大学院生が先輩からのプロジェクトを踏襲するか、自分のプロジェクトを囲い込んで、ずっと同じことを続ける傾向が強い。
一方、アメリカの大学院の人間関係はプロジェクト・ベースで流動的だという。
たとえば、大学院生があるプロジェクトでプロトタイプをつくるために、学部学生を動員して二、三ヶ月で仕上げてしまい、あとは解散するというような研究するというような研究スタイルで進んでいくのだと聞く」
これは、
「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制
つまり
「信長志向」
に他ならない。
「仕事の必要に応じて、臨機応変にチームを組んでいくのではなく、『ある組織に所属する』こと自体が価値を持つ日本。学生は履歴書に穴を開けまいと学部三年生のころから就職活動をする。
フリーランスの人は、『組織に所属していない』からと、部屋を借りるのにも苦労する。まさに村社会、談合社会の日本」
これは、
「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」知識創造体制
つまり、
「家康志向」
に他ならない。
「そもそも組織に所属することを重視する発想のないアメリカの立場から見れば、日本の文化は奇異に映るだろう。
日本のアカデミズムの沈滞も、具体的になにを研究するかではなくどこに所属しているかを重視するおうなメンタリティに由来している。
『世界に通じる普遍的な文化を必死になってつくる』という気概が欠けているのである」
なぜか、「内向き、上向き、後ろ向き」だからである。
それは創造力の希薄化した会社の性質だと思っていたが、学界もそうだった。
私はこう解釈している。
制度的には、「日本型の集団独創」の2タイプの内の1つ「家康志向」ばかりが日本社会において展開してきた。
そして企業社会において終身雇用がある間は、一所懸命頑張れば報われるという安全基地が保障されていた。それがセーフティネットになっていて、それなりの集団的自由があり、集団からの逸脱者を含めて成果を上げていた。
大学の研究室は、今ほどの産学恊働は盛んでなかったが、変わり者の研究者やその研究成果も受け入れてくれる企業があって、みんなのほほんと研究を楽しんでいた。
つまり「家康志向」の美点が息づいていた。
しかし終身雇用が崩壊すると状況が変わっていく。
安全基地を失いリストラ圧力にさらされるようになった社員そして企業研究者は、機械論化していく企業組織の歯車でいることを甘受するようになる。
その影響が就職活動や産学恊働を介して学校社会にも至る。
大学の研究組織は、著者の述べたような世襲制の家元制度的な様相を拡大蔓延させ、かつてのように変わり者の研究者をうろちょろさせている余地をなくした。そして産学恊働で学内の家元制度が先輩のいる専門分化を進めた企業にまで拡張した。
私は建築学科の出身で建設業界の学閥のことを見聞きしてはそういうのも仕方ないか、談合土建国家だからと思ってきたことを反省する。
知識立国たる日本の大学の研究組織までが、家元談合状態では情けない。
「家康志向」の汚点ばかりが残り汚泥のように広がってしまった。
「家康志向」の汚点は官庁役所でもっと酷いのだから、日本の知識創造中枢はこれからいったいどうなってしまうのだろう。
「 山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」
気がつけば、企業社会でも、学界でも、学校社会でも、官僚社会でも、
「コト割り横ぐし」の提案が「モノ割り縦割り」のパラダイムと闘っている。
みな苦戦していて、このままでは良くないことは誰もが分かっている。
なのに芳しい進展がみられない。
これは<知>の問題ではなく<人>の問題であり、
<人>の理性の問題ではなく感情の問題なのだろう。
「モノ割り縦割り」のパラダイムには、強固なメンタルモデルが付着している。
この家元の下で談合していれば食べていける、というものだ。
しかしこのメンタルモデルは、個々人の脳には奥深い快楽をもたらさない。
そんな個人の集まる集団、組織、社会は前向きな創造性を活性化するだろうか。
きっとここが、現代の日本人にとっての正念場なのだろう。
かつて軍国主義下の日本で、戦争反対、戦争はもういいと言えば非国民扱いされた。
周囲から白い眼で見られ村八分にされ、憲兵隊に連れて行かれもしただろう。
しかしいまは、経済状況が悪化するだけだ。
でもそれが、今の私たち日本人にはすべてになってしまっている。
どうしてか。
助けてくれる安全基地がなく、
生死をともにするような目的もないから深い絆で結ばれた仲間もいないからだ。
さてどうするか?
がすべての日本人に問われている。
まさに難局における難問である。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」
著者も本書で引用している。
一身を犠牲にするだけの覚悟があって初めて、活路も見出せる、という意味だ。
空也上人の作と伝えられる
「 山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」
に由来する。
「浮かむ瀬」は原歌では、仏の悟りを得る機縁、成仏の機会の意だが、
ことわざとしては、窮地から脱して安泰を得るという意となる。
「自分を大事と思って、我に執着していてはなかなか道は開けてこない」
と諭している。
私はこのことが「日本型の集団独創」のベーシックであると思う。