「家康志向の改善」と「信長志向の革新」、その合わせ技の知識経営(5:間章) |
「分かち合う日本の文化」と「分かち合う日本型の集団独創」の可能性
著者は、終章「日本を新時代に導くために」の終わりをこう締めくくっている。
「トヨタが世界企業になる上では、『万葉集』以来の『分かち合う日本の文化』が大きな力を発揮した。(筆者注:分かち合いの知識創造活動自体は、大枠としては、日本列島の四周から集った民族がそこで共存する歴史の中で培われはじめた、と考えられる。)
まだまだ、日本の中には私たちが気づかないすばらしい価値(筆者注:暗黙知の体系)が埋まっている。
しかし、それらのかけがえのない原石は、村社会の中で談合していたのでは(筆者注:「問題らしきものが垣間見えても、見て見ぬふり」していたのでは)磨かれずに曇ってしまう。せっかくの種が、芽を出さずに腐ってしまう。
いまの私たちに必要なことは、私たちの思想そのものを、グローバルな行き交いの中に思い切って出して、鍛え、磨き、そして世界の人たちと分かち合うことではないか。(中略)
日本の可能性を(筆者注:具体的な挑戦を実践して)見きわめること。
そして、それを『贈り物』として世界に差し出すこと。
その勇気さえあれば、日本の未来はかぎりなく明るい」
まったく同感である。
私が「日本型の集団独創の促進方法論」の実践的追求をライフワークとした信念もこれであった。
一人の人間が心の安らぎをえて豊かな人生を送るためには
<知><情><意>のバランスが不可欠であるように、
現代の世界も
欧米的な<知>起点の発想思考
日本的な<情>起点の発想思考
中国的な<意>起点の発想思考
それぞれの過不足を理解しあって互いに協調すべきである。
私の考えの中核は、
「日本型の集団独創」の世界に誇れる美点とは、
因果律(機能論)にのっとった欧米的な<知>起点の発想思考と
共時性(意味論)にのっとった中国的な<意>起点の発想思考とを、
縁起にのっとった日本的な<情>起点の発想思考で調和的に統合するところである、
という捉えである。
ここで<情>とは、人と人が<場>を介してリアルに相対してはじめて受信発信できる暗黙知(身体知や行動知を含む)を踏まえた感覚論の総体をさす。
そしてこの美点がまた、近代以降の「家康志向の改善」と「信長志向の革新」の両方の理想形を導いている。それを「日本型の集団独創」とする所以である。
(参照: 「日本型の集団独創のポイントは、肌で感じ取る日本語と現場相対の触れ合い(年度末総括)」)
次項(6)では、以上の観点から、また現下の世界大不況が長引く状況を踏まえて、第三章「ひらめきのルートを鍛える」の項目「自分の宝に気づく」以降の検討をしていきたい。
ちなみに、私の歴史認識を披露しておくと、こうなる。
◯ベルリンの壁が崩壊しソ連が崩壊、中国が資本主義化した時、
特定の<意>=イデオロギー(意味論)を一元的な基軸にすえた全体主義が崩壊した。
◯そしていま、アメリカ型グローバリズム、一国大国主義を雛形とする、
特定の<知>=軍事力と科学技術と金融市場(機能論)を普遍的な基軸にすえたネオコンサバティズムの限界が世界各国で露呈しはじめた。
このように見ると、昨年来の世界金融危機とこれに続く世界大不況だけが、歴史の流れにおけるイレギュラー・バウンドではないことが見えてくるのではなかろうか。
私は、敢えて日本文化や日本政府の出番だとは言わない。
正確をきして「私たち日本人がやってきた集団で独創する発想思考の出番だ」と言いたい。
因果律にのっとった<知>(機能論)と、
共時性にのっとった<意>(意味論)とを、
縁起にのっとった<情>(感覚論)で調和的に統合する。
その成果を世界に押しつけるのではない。これは日本軍がアジア諸国でやって大変な被害を与え怨恨を買ったことである。
その考え方のプロセス、知識創造方法論を世界に提供できる
いな、それぞれの国の言語と文化に翻訳して提供すべきだと考える。
(参照: 「コンセプト思考術中国語版(8) 閑話休題」
<意>の中国、その若き国際人の活躍によせる大きな期待
我对<意>的中国年轻的国际人抱有很大期待)