素直で正直でいられることの安堵と創造性を体験してもらう(1) |
リアルに相対して対話することの大切さの中身を問う
小生が移転して2年になろうとしている伊豆高原には、企業の保養施設や研修施設がことのほか多い。それは不便とはいえ東京から2時間余りでアクセス可能な東海道線沿いで、温泉やゴルフ場などレクリエーション性が豊かで、年間を通じて気候の穏やかな所だからだろう。
最近は中国人観光客も増えていて、静岡空港が開港すればさらなる増加も見込まれる。その中国人も富士山と太平洋を一望できて温泉と海鮮を楽しめることに興味のあるような知的で落ち着いた人々のように見受ける。けっして銀座で買い物してまわるタイプではない。
こうした同じタイプをひきつける土地のオーラというものは古今東西ある。それは、伊豆高原が熱海や伊東市心、湯河原や箱根とも異なる点で、私自身はアメリカ西海岸の芸術や精神文化を重んじるモンタレーやカーメルとの類似性を感じているが、それはあまりに依怙贔屓な夢想なのかも知れぬ。
私の家の近所には、ライオンの研修センターとユニデンの迎賓館がある。
しかし別荘地での研修開催はバブル以降はめっきり少なくなっている。前者は一般企業に貸し出すことで稼働率を上げていて、後者は広大な敷地の豪奢の施設にもかかわらずほとんど使われていない。
ところが一昨日、前者に「ライオン株式会社様」貸切のバスが乗り付けていて、後者のいつも閉ざされている正門が開け放たれ彼方の迎賓館に人けがあった。時期からして新入社員研修ではないかと思う。
新入社員の研修は、彼らを全国から一堂に集めて日常と隔絶した時空で共同生活させたいことと、彼らが都市部での現業から離れてもまだ支障のないこともあって、アクセスに時間のかかる伊豆高原の使い勝手もあるのだろう。
まったく都合のいい話だが、高齢の両親と同居して見守る生活を基本とする私としては、宿泊せずに通える伊豆半島で研修の仕事ができれば、それに越したことはない。
そこで今年度は、受講者に「リアルに相対して対話することの大切さ」を再認識してもらうことの意義をとらえ、宿泊型研修ならではのカリキュラムを工夫してみようと考えた。
そこで本書「アホは神の望み」を読んで、個々人、そして集団において人間が物事を発想思考する理想的な状態とは何かを、科学的にあるいはそれを超える観点から再確認することにした。
ちなみに著者村上和雄氏は、世界的な遺伝子研究の権威であり、科学を超える観点から芥川賞作家、玄侑宗久氏との対談本を出していて、それはすでに本ブログでも検討している。
(参照:
「『心の力』そして『頭で考えず心で思う思考術』(1/2) 」
「『心の力』そして『頭で考えず心で思う思考術』(2/2) 」
「科学と宗教の重なり領域である『暗在系』、そして『縁起』について」)
本書を読み終えて、研修を想定して私が感じた「リアルに相対して対話することの大切さの中身」の最大のことは、タイトルにした「素直で正直でいられることの安堵と創造性を体験してもらう」ということだった。
本論では、それに至る具体的な検討をしていきたい。
著者は、吉本興行とコラボレーションして、ポジティブな遺伝子のスイッチをONにする(タンパク質を生成して生命力や免疫力を増進する)ことに笑いが効果的であることを真剣に研究している。
こう述べる。
「笑いは、相手の不安や緊張をほぐし、心に潤いやおだやかさをもたらす、人と人の心と心をつなぐ、きわめて重要なコミュニケーションの道具なのです。また、大きな声で笑うと、私たちの『命』は揺れます。笑いは『生』の躍動でもあり充溢でもあるのです。
体の免疫力を高めてくれる薬であると同時に、心の安定剤でもある。それに接した人に幸せをもたらす幸福の種であり、私たちの生命力を深いところで活性化してくれる動力でもある。それが笑いなのです」
「したがって私には、人間を最後に救うのは笑いであるような気がしてなりません」
とまでおっしゃっている。
笑いの治癒力については、すでに常識になっているし、昨今のお笑いの多様化と隆盛をみれば誰もが納得する話ではある。
しかし、そこには大きな誤解と落とし穴がある、と私には思える。
たとえば、男性お笑い芸人が美人タレントと結婚するケースが増えていて、なぜかかなり高い確率で離婚している。結婚した美人タレントは、お笑い女性ファンのいわば筆頭、トップランナーとも解釈できるから、そこには現代の人間や社会について何か学べることがある筈だ。
私の検討結果は、
「笑いが大切なのではなくて、自然と笑いを生み出す関係こそが大切なのだ」
という当たり前のことだった。
しかしその当たり前のことがなおざなりにされている。
とにかく笑わせてもらえれば過酷な現実をやり過ごしていける、という刹那的かつ逃避的な姿勢がお笑い需要の高まりになっているのではないか。
お笑い芸人と結婚し離婚した美人タレントたちも、そこを見落としていたのではないか、と思うのだ。
このことは企業社会の職場でも同じだ。
「笑顔で挨拶をしましょう」「笑顔を絶やさぬようにしましょう」と言われる。
しかし本来大切なのは「自然と笑いを生み出す関係づくり」に他ならない。
それをどれだけ経営が考えているか。まったく考えないで、むしろ「自然と笑顔を絶やす関係づくり」に励んでいるのではないか、そう思えるような経営が目立つ昨今だ。
私がここのところ関心を深めている「対話」も、笑顔で対話することが大切なのではなくて、「自然と笑いを生み出す対話」こそが大切なのだろう。
私の研修もそうした対話を重視して、受講者にその素晴らしさを体験してもらえることを最大の目的としていきたい。
経営危機深めるパイオニアの研修を少なくとも半年は離脱することになったのだが、それも、こうした目的意識への転換をはかる良い機会だ。パイオニアへの愛着や期待が大きい分、私自身がどうしても切迫した思いから笑いを絶やしてしまったかも知れないと反省する。世の中全体が未曾有の事態に陥った現在、他のクライアントの研修にもそんな私のままでいれば百害あって一利無しだ。
著者は、プロローグでこうおっしゃっている。
「『苦しいときこそ笑っていられる』ようなアホやバカが、いまこそ必要なのだということを、私はこの本で述べたいのです」
「神の好きなものは『器の大きなバカ』『素直で正直なアホ』なのです。
スティーブ・ジョブスの「Stay hungry, stay foolish」という言葉を挙げて、
「枠にはまった優等生、みんなからほめられるようなお利口さんになんかなるな。
こざかしく、小さくまとまるくらいなら、愚か者であるほうを選べ、それも、常識なんかはじき出してしまう器の大きなバカになれ」
ともおっしゃっている。
これは、パラダイム転換発想をする態度能力のベーシックでもある。
「セレンディピティ」を招き入れる対話と締め出す対話の2つが確実にある
「セレンディピティ」とは、「神からの贈り物、すなわち、偶然による思いがけない成果のこと」だ。
共時性で現象していて、因果律やそれにのっとるロジカルシンキングでは絶対に説明できない。
「『偶然が支配する』場に身を置いていると、研究は魔物だなと感じることがしばしばあります。百年やっても、その偶然が訪れてくるとはかぎらない。やっと一度だけ訪れても、そうとは気づかず見逃してしまうかもしれない。だからといって、最初からもう一度、同じことをくり返しても、同じ偶然がふたたび起ることはまずありえない。
論理性や緻密さを旨とするこの世界(筆者注=科学の世界)もひと皮むけば、実は、こうしたとても不確実な『すきま』があちこちに空いているのです」
科学の研究にしてそうであるなら、生活者の未対応のニーズを掘り起こす新機軸の開拓は増してそうである。
だから開拓が、「セレンディピティ」を招き入れる対話と締め出す対話のどちらをして行われるかで、成否は決まってしまう。
同じ業界同じ専門、同じ会社の身内で、利害と関心を共通させる者同士ですれば、たしかに気楽に和やかに対話できて、笑いも自然と出るだろう。セレンディピティも科学の実験室であるようにはあるのかも知れない。
しかし、異なる業界や専門の異なる常識や物の見方に触れたり、異なる利害や関心の者と協調的に恊働できる可能性を見出す、そんな次元のセレンティピティには遭遇しようがない、ということも確実に言える。
そうした遭遇にともなって生まれる笑いを浮かべることは一生ないのだ。
こちらの笑いは、人間的な葛藤をともに乗り超えてはじめて至ることのできる腹の底から安堵する笑いであり、未来に向けた希望の共有を実感する笑いなのである。
残念ながら、そういう体験のない者にはその言葉に尽くせない実感は伝えようがない。しかし、一度部外者と遭遇し恊働することの大変さと素晴らしさという醍醐味を体験した者は、それを恐れなくなり楽しみにするようにすらなるのだ。
私は、受講者にそうした実感を体験してもらえる研修をしたいと思う。
具体的にはグループ演習によって受講者間の関係性が変容し、それが現業現場はもちろんのこと、異業種異業界の部外者との恊働場においても活用される、そんな研修とそのバックアップ体制である。
著者は「セレンティピティを呼ぶ条件」を3つ挙げている。
すべて共時性と因果律を渾然一体にする「縁起の法則」にのっとっている。
「セレンディピティを呼ぶ条件の一つは、素直で注意深い目です。
(筆者注:これはブレインストーミングの基本だ。)
第二の条件は、ムダを尊ぶ心です。
(筆者注:自分のムダだけでなく、対話相手のムダ、そして対話のムダをも尊ぶ。それは決してムダではない。)
三番目は、その失敗や間違いから『何か』を見出し、つかみとる力(筆者注=真摯な前向きさ)です」
(筆者注:因果律でつかめる機能論のロジカルシンキングばかりでなく、共時性を感じ取る意味論を思い描くイマジネーションが大切だ。それが縁起を活性させる。)」
「間違いや失敗の中にも、『何かを含んだ』間違いや失敗があります。
創造的な失敗といえるもので、失敗にはちがいないが、次の創造に結びつく要素を含んでいます。(中略)
その『創造的な断片』を失敗の海の中から感じとれる直感、読みとれる目。そういうものがセレンディピティを成果に結びつけるために必要になってくるのです」
ここで、著者のような科学者たちの研究活動と、メーカー開発者たちの開発活動の違いは重大だ。
その最大の違いは、前者が科学的真理を追究するのに対して、後者が有望と思われる事業を開発するということだ。
何をして「有望」とするかは、メーカー各社にとって違うし、開発に参加する人材にとっても違う。つまり企業なり個人の個性や欲が介在することだ。それは決して悪いことではない。
ただし、ちゃんとフェアかつオープンなマインドで対話場がコントロールされないと、「素直で注意深い目」「ムダを尊ぶ心」「失敗や間違いから『何か』を見出し、つかみとる力」がまったく根絶やしにされてしまう、そこが重大なのである。
著者は、「実は、硬直化した組織ヒエラルキーや学閥の狭い縄張り意識にとらわれがちな、わが国の学界」、いわゆる象牙の塔は「創造的な対話場」ではないと漏らしている。
同様の構造的な欠陥をもっている日本企業は多い。
著者は、そんな日本の現状において、
「要するに、いい仕事をする人、すぐれた成果をあげる人は、謙虚で控えめで、日が当たろうが当たるまいが、いばることなく、自分の信じる道を尺取り虫みたいにコツコツと歩む」
と述べている。
メーカーにもそういう人材は多くいる。「創造的な対話場」は、創業からつい20年まではそこかしこにあったのだ。
問題は、経営がそれを自覚的に尊重することなしに根絶やしにしつつ、彼らを活かし切る組織知識経営を目指さないまま今に至っていることだ。
トップ主導で会社全体に「仮説→実験→検証→綜合の多発と加点主義による開拓者精神」を喚起しなければ、「素直で注意深い目」「ムダを尊ぶ心」「失敗や間違いから『何か』を見出し、つかみとる力」を活かし切る「創造的な対話場」はけっして保証されない。
私は、日本の企業社会に対して二つの感謝している。
一つは、若造の私を「創造的な対話場」に引き入れて育ててくださり、その後は「創造的な対話場づくり」の仕事をさせてくださったことだ。
いま一つは、創業者が大切にしてきた「創造的な対話場」を根絶やしにする経営、そして「創造的な対話場づくり」を身内でできているつもりとなり、客観的に実効性ある第三者的部外者の支援を拒むようになったクライアントに遭遇したことだ。
お陰で私は、「日本型の集団独創」を支えてきた「創造的な対話場づくり」、中でも所属組織や専門分野の垣根を超えた交流で「セレンティピティ」を招き入れることを重視する「信長志向」の追究と実践をライフワークとすることになった。
結局、「対話」とか「創造性」とか同じ言葉を使って話しても、人々がそこに身を置くパラダイムや動機が、その意味合いをまったく逆のものにしているのだ。そこを、たとえば「家康志向」との対比で明快にしていかなければ、個々人や集団の用語上の合意を踏まえた確かな理解は得られない。
「他にだれもやらないのなら、よし、私がやってやろう-----生来、ちょっとおっちょこちょいなところがある私はそう決意しました」
これは著者の言葉だが、私の本意でもある。
私は正直言ってこの仕事を自分だけで完成できると思っていない。
その時々のベストを尽くしていけば、完成に近づいていくとは思っている。
その時々の成果を逐次公開していけば、いろいろな人々がそれぞれの現場で応用してくれて、社会全体として完成に近づいていくことを期待している、というのが正直なところだ。
しかし、それでも私には根拠のない自信がある。
本書を読んで、それは「利他的な祈り」がすべの動機となっていることによる楽観なのだと思い当たった。
著者は、「祈り」について第一章「鈍いけれど深い生き方」の最後でこう述べている。
「祈りや思いの医学的効果を傍証的に示しているものに、いわゆるプラシーボ効果があります。(中略)
プラシーボ効果とはつまり『思い込み』の効果でもあり、思いに効果があるのなら、その思いがより濃く凝縮されている祈りにはもっと効果があると考えても不思議はありません。(中略)
西洋合理主義は医学と祈りを水と油のように混じり合わない、対極にあるものと考えてきましたが、実はそれほど遠く隔たったものではないのです。それどころか医学の中にも祈りがある。
たとえば、病気になったことが祈る心を生み、その祈る心が病気を緩和する。あるいは病が気から生まれる一方で、体を治すことで心のあり方も好転していく。そういう双方向の相関関係が十分に考えられるのです」
私にはこの論を敷衍して、
会社という組織と、社員の心のあり方も密接な双方向の相関関係がある、
と考える。
社員個々人の祈りと会社の法人格としての祈りが一致しているのがエクセレント・カンパニーの極意であり、
経営危機を脱することのできない企業は、その大本の人間組織の本質に目を向けないでいる。
「科学と宗教は別個のものではなかったのです。というより、神を研究する神学をルーツとして真理を探求する科学は生まれてきた。科学と宗教は同じ母親から生まれた兄弟にも似た、一つの根をもつ二本の幹なのです。(中略)
それを分離させてしまったのは近代の合理主義ですが、しかしいまでも、(中略)外科医のように手術の前に祈る、つまり科学と祈りをそれほど無理もなく、あたかも理性と感性、主観と客観を並立させるように、自分の中で共存させている人は少なくありません。
私もその一人です」
つまり、真理を探求する科学者や患者を治療する医者も一個人としては、因果律と共時性を渾然一体化する縁起に生きているのである。
まして、商売繁盛を願い、顧客志向であるビジネスマンがそうでない訳はない。
問うべきは、個々のビジネスマンの「祈りの質」であろう。
「利己的な祈り」か「利他的な祈り」か?
あるいは実現達成を祈るのは、「自助」か「互助」か「共助」か、
まったくそんなことは思いもよらない保身と金儲けだけなのか?
である。
本書を読んでいくと、神は「セレンティピティ」という贈り物を「利己的な祈り」に応じて与えることはない、と思える。
これは原理原則であって、自分だけが免れることなどありえないと、誰もが誰に教わるでもなく実は心の底で分かっていることではなかろうか。
それは人類が原初より抱いてきた「人知をはるかに超える何か偉大な叡智」への畏敬の念なのだろう。
それに従ってベストを尽くしている限り、私たちは因果論的な根拠なしに心の奥底に安堵と希望を持てる。逆にそれに従わなければ、いくらロジカルシンキングの完璧な成果をもってしても本人の人間的真価は何も保証されない。保証されるのは、機械論的な社会や組織の中での機械の部品としての効率性だけだ。
「その偉大な何かを私は『サムシング・グレート』と名づけましたが、その時点から、もともとの自分の中にあった科学と祈り、科学する心と祈る心が無理なく交じり合い、共存共鳴するようになったのです」
著者のこの言葉を、私たち企業社会に生きるビジネスマンが受け取る時、
「もともとの自分の中にあった、儲かるビジネスを考える心(因果律の思考)と、世の中がより良くなり仲間との仕事がより有意義になることを祈る心(共時性の想像)が、無理なく交じり合い、共存共鳴する」
そういう対話(縁起)を目指したいものである。
私は自分が講師をする研修を、受講者の方々がそうした思いになってもらえるようなものにしていきたい。