社会や集団そして対話における「観音力」の重要性(2) |
観音さまの最大の特徴は人間が持っている「応化力」
「観音さまの特徴は何かといいますと、三十三に変化(へんげ)することと云われています。三十三という数字は、象徴的な数でありまして、『無限に』という意味です。(中略)
観音さまはどうして変化するのかと申しますと、相手に応じるためです。この応じて変化する力を『応化力(おうけりょく)』というふうに云いますが、『観音力』というのは、まさにこの『応化力』です。
相手に応じて変わる。相手が望む状態になるんです。これは、なかなか難しいことですね」
相手が自己中心的で操作的なタイプとしよう。何かにつけて感情的優位に立つことにこだわるようなタイプとしよう。
そういう相手が望む状態は、卑屈に唯々諾々と言うことを聞くことだ。では、そういう状態に私がなることが相手にとってほんとうに良いことだろうか。そんなことでお互いの良い関係が長続きするだろうか。そうではない。
あなたのお子さんをいじめるいじめっ子がいたとする。あなたはお子さんに、いじめっ子が望む状態は黙っていじめられることだから、そうしなさいとは言わないだろう。
ではあなたは、何と言ってお子さんにアドバイスしたり事態に対応するだろうか。
「難しい」とは、状況に身をおいて問題解決するのが難しい、という次元の話ではない。
「難しい」状況をどう観るか、まさに「観ることが自在である」ことが求められ、それが土台にあってはじめて「応化力」が発揮できるのである。
状況に身をおいて問題解決をはかる場合、私たちは、原因Aが結果Bを導くという因果律を前提にし、悪い原因Aを排除するか、良い原因Aを追加するかする機能論を解決策とする。
別な角度から言えば、問題解決が「目的」であり、解決策が「手段」である。
さらに厳密には、「単因論」になる。
悪者はあいつだと排除すべき悪い原因が1つに絞られたり、これさえやれば良くなる筈だと追加すべき良い原因を1つに絞ったりしがちだ。しかし物事の成り行きは、複数の要因が錯綜して悪くなったり良くなったりすることがほとんどだ。多くの場合「単因論」には限界が見えている。
一方、状況を自在に観る場合、私たちは状況の意味を捉える意味論から出発する。
状況そのものが私たちに何かを気づかせたりどこかへ向かわせるという「目的」に達するための「手段」である、と考えることもできる。実際、太古の「部族人的な心性」は超越的な存在を想定してそのように捉えた。
たとえば子供がいじめられていることを「試練」として受けとめるとしよう。
その試練は、いじめられている子供の試練でもあり、親であるあなたの試練でもあり、家族の試練でもあると受けとめることもできる。いじめっ子の親御さんと腹を割って話せば、相手方の親、家族の試練でもあり、子供を抱えた親たち全体の社会の試練でもあると捉えていくこともできよう。
ここで試練Aが存在する時、試練B、試練C、D、E、Fと存在する。
つまりこうした目的志向論的な意味論は、共時性にのっとる。
対話がどんどん試練の意味合いを広め深めていく内に、対話者は自他のいろいろなことに気づいたり共感したりして、対話者同士の関係性が変容していく。
そして、対話による関係性の変容こそが、問題自体を解消させていくのだ。
こうした経過は、最初に問題を決めつけてその解決策を練る枠組みからは決して生まれてこない。
「水に流す」とは、こうした状況の意味合いを共にみつめつつ腹の内、つまりは「身体感覚をともなった情緒性」をさらけだしあう対話をしなければ、きれいさっぱりとはいかない、いわば「禊ぎ」の恊働なのだと思う。
その原理は因果律では説明できない。
おそらく、現代ユング派の分析家アーノルド・ミンデルが創始した、人間関係の葛藤を扱うプロセスワークのようなことを、日本人は「腹を割って話し合いお互いに状況を納得して水に流す」という対話習慣において、太古の昔から温存させてきたのかも知れない。
(注意:江戸時代にはじまる「村寄り合い」の集団対話は日本社会の合意形成モデルとして一般化して今日に至るが、古来から1対1を基本とする自力救済の対話習慣が存続していてそれを長老がお上の権威を背景に束ねたと考えられる。)
だから、前項(1)で述べたように、ここ20年の間に老若男女、世代を超えて「素直に謝る」謝られれば「水に流す」そんな対話習慣が欠落したことは、とても由々しき問題なのだ。
古事記や日本書紀の中で最も多くでてくる言葉が「なる」だそうだ。
「『なる』というのは、漢字で書くと『生きる』『生まれ出る』という、『生』という字に『る』と書きます。
もともとは、お稲荷さんという神様も、『稲がなる』ってなんて不思議なんだろうということで、出来てきましたから、稲という字に『生』と書いたんですね。(中略)
『なる』という言葉は、日本人の古い感覚(筆者注:人類普遍の「部族人的な心性」を展開した日本人の「社会人的な心性」)の中に、非常に広く生きていた。
そこに観音さまっていう方も、どうにでも『なる』人だからですね。それが日本古来の考え方にピタッと合って、宗派に関係なく崇められる存在になったんだと思います」
日本人は「腹を割って話し合いお互いに状況を納得して水に流す」という対話習慣も、そうするといろいろなもめ事がどうにか「なる」という経験則から継続してきたのだろう。
アーノルド・ミンデルの本を読むと、いろいろなプロセスワークの解説があるが、こういうケースではこういういことをこんな形で対話していたらこんなことになった、というレポートが多く、その経験則を整理して方法論としていて、どうしてそう「なる」のかの因果論的解説は乏しい。
ユングと量子理論物理学者デヴィッド・ボームは、因果律だけでなく共時性をも踏まえた科学の再構築を夢想した。
そのボームが著書「対立から共生へ、議論から対話へ」でダイアローグ=対話を重視している。
デヴィッド・ボームは、インドの覚者クリシュナムルティと親交が深かった。そしてクリシュナムルティとともにいることで、「思考」が生み出す問題点を自覚したという。
現在の人類の危機の根本原因を、因果論的な「思考」が必然的に生み出す分裂・対立・断片化に見出す。
そして、それをともに乗り越えて、人と人が連帯していく道を対話の中に見出す。
対話において共時性にのっとって起る現象を、私たちはいま一度精査する必要がある。
その意味からも、私たち日本人は「腹を割って話し合いお互いに状況を納得して水に流す」という対話習慣を、現代的かつ世界的な視座から見直さなければならない。
「腹を割って話し合いお互いに状況を納得して水に流す」という対話習慣は、1対1を基本とする。
ちなみにヤクザの組織抗争「出入り」を終結させる「手打ち式」も、親分対親分の対話習慣であり警察という超越者が参加することなど、同じ起源と構造をもつと考えられる。
しかしヤクザの世界でも合理化の波が押し寄せていて、今はやらなくなったという。
「日本人は漢字が入ってきても、そのまま読まなかったですね。『心(しん)』はもともと心臓の意味ですね。『心(しん)』という字を『心(こころ)』と読んじゃった。なぜでしょうか?コロコロ変わるからでしょう。『仏(ぶつ)』という字が入ってきたら、『仏(ほとけ)』と読んじゃった。「ほどける』からでしょうね。
神様は結ぶんです。神様は高御産巣日(たかみむすび)、『かみむすび』っていうふうに、混沌の中に結ぶんです。結びすぎたら、ちょっとほどいたほうがいいですね。それで、神と仏で『むすんで、ひらいて』っていうことになる。ちょうどいいんです。
『むすんで、ひらいて』、それからどうするんでしたっけ?手を拍つんですね。
『手を拍つ』というのは、古代日本人の挨拶です。『魏志倭人伝』という本の中に書いてあります。皆さん、最近は、神様にしか柏手打たないでしょう。昔は近所の人に会っても、柏手を打ったんですよ」
今はヤクザの手打ち式までがなくなったという。
ところが、私は手打ちが華々しく復活していることに気づいた。
テレビを見ていたら、出演しているタレントたちがお笑いの神が降りて来た時、手を叩いて笑いころげていた。それをみて育った若い世代も同じ仕草をよくしている。
手を拍つという仕草はかなり無意識的でそもそも腹筋に連動した情動反応であるらしく、最近、仕草を極端にわざとらしくすることが一般に普及したという感じだ。
若い人たちの会話が、何かテレビのタレント同士のように芝居がかっていると感じていたら、なんと新入社員研修で吉本興行の指導で漫才をさせる大手企業も出てきた。ほんとうの対話力って、そういうものなのだろうか。
話を本論に戻そう。
「西洋人の持っている人間観-----この中心にあるのが、先ほどの『パーソナリティ』というものだった。『初めにロゴス(筆者注:理性)ありき』というふうに西洋は考えていますから、やむを得ないと思うんですけれども、日本は違うんですね。中国も違いますけども-----、はじめはカオスなんです。混沌としているわけです。
要するに『私』って混沌としているんです。(中略)状況の中でどうにでもなる」
「腹を割って話し合いお互いに状況を納得して水に流す」という対話、
その第一ステージは、「お互いに自分が混沌としていることを認め合う」過程だ。
第二ステージは、「相手の混沌と自分の混沌が一体化した状況をともに俯瞰する」過程だ。
第三ステージは、「お互いの混沌と関係性が変容する」過程だ。
第四ステージは、「お互いの関係性の変容による問題の解消を受け入れる」過程だ。
対話の理想的な展開と、ミンデルのプロセスワークからこのように仮説することができる。
しかし、いま解明すべきは、
「腹を割って話し合いお互いに状況を納得して水に流す」、その対話方法論よりも、
なぜこの20年程の間に日本人がそうした対話習慣をしなくなってしまったかである。
それを解明しなければ、対話方法論がいくら正しくても活用できないからだ。
かつては、自分とまったく反対意見の持ち主と腹を割って話し合うことが多々あった。
そして、たとえ妥協点も解決策も見つからないで終わっても、「相手の気持ちはよく分かった。相手の立場なら自分もそう考えたに違いない」などと納得して、その納得が相手との関係性を変容させたりした。
しかし、今はとりつくシマがないのだ。
それも意見が食い違うとか一致するとか以前の問題なのだ。
著者はこんな話をしている。
「最近、若い人と話していますと、たとえば、なにかご馳走しようとして、『これ、美味しいから食べてみたら』って水を向けますと、『僕はそういうのは食べません』なんてつっぱねる。『そういうの食べませんって、食べたことあるのあ?』と訊くと、『いや、ありませんが、そのようなものを食べる私ではありません』みたいなことを云うんですね。どうも、どういうものを食べる人なのかきっちり決まってるらしいんです」
著者は長年の個性教育の成果だと皮肉っていたが、私には若者に限らない老若男女、世代をこえた社会現象だと思える。
以上の話の「美味しい食べ物」を「面白いアイデア」に置き換え、すすめる「試食」を「それを叩き台にしたブレスト」に置き換え、相手を「若い人」ではなく「事業部門のキーマン」に置き換えても話はまったく同じだ。
つまり、「どういうものを作る事業部門かきっちり決まっている」ということなのだ。
社会や組織や集団が機械論化し、その構成員たる人間が機械の部品化してきている。
そして大方の構成員の発想や思考も機械の動きのように制御されているのだ。
それが美味しい食べ物を試食したり、面白いアイデアをブレストしたりという生活や仕事の日々の営みをおしなべてつまらなく貧弱にさせている。
相手が機械のような人間ならば、神様も結びようがなく、仏様も解きほぐしようがない。
「応化力」の呼び覚ましようはないのだろうか。
機械論化した現代社会におけるパラダイム転換発想の意義と意味合い
私は、これまで「パラダイム転換を発想すること」が「目的」だと、当たり前のように思ってきた。
しかし、本書を読んでいて、
「因果論的な思考が必然的に生み出す分裂・対立・断片化をともに乗り越えて、人と人が連帯していく道を対話の中に見出すこと」が目的であって、
「パラダイム転換発想をして対話すること」は手段だったのかも知れない、
と思えてきた。
そして、受講者グループが腹を割ってブレインストーミングした場合、メンバー同士の関係性が変容したことも事実だった。
実際私自身、パラダイム転換発想演習を発想ファシリテーションする過程で、「協調的恊働力がある人となり」の人材を発見し彼らを相互に引き合わせる、ということをした。
(ちょうど年度末までに引き合わせた4人に彼らの恊働の後見を引き受けてくださった古参幹部を加えた5人が、全員そろって最初のミーティングをし盛況のうちに終えたとの報告が昨日あった。今後は彼ら同士の関係性の変容こそが、パイオニア全体の組織知識創造の硬直性を解消していくと期待する。)
機械論化した現代社会におけるパラダイム転換発想の意義と意味合いは、私自身が想像していた以上に大きいのかも知れない。
しかも、パラダイム転換発想自体は「目的」ではなく、組織全体でボームが言うように「議論ではなく対話」を促進することが「目的」で、パラダイム転換発想はその「手段」であって、そこで重要なのは「腹を割って=身体感覚をともなった情緒性を前面に押し出してブレインストーミングする」ことなのだ。
それは、このことではないか!
日本型の集団独創の美点的特徴は「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」にある、
としてきた持論が想い浮かんだ。
なんとここで、
私が10数年バカの一つ覚えでやってきた研修講座「コンセプト思考術」のパラダイム転換発想演習と、私のライフワーク課題の要である持論とが繋がった!
これは、私もまた自らの経験を自在に観たことになる。観音さまのお陰だ。
(参照:
「日本的な『話し合い』と欧米的な『議論』、そしてボームのいう『対話』」
(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
(7)その1
(7)その2
(7)その3
「宇宙の『意志の力』にゆだねるという主体性(1/15) 」 )
「応化力」を発揮させる「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」
日本型の集団独創の美点的特徴は「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」にある。
(「縁起」とは、因果律と共時性を渾然一体にする原理のこと。)
<情>を起点にする、とは実際的にどのようなことだろうか。
その答えの一つを著者はこう述べる。
「人のアラを探すのは簡単でしょう。ものすごく得意じゃありませんか、皆さん。普通に目が見えて、普通に頭が働けば、人のアラって簡単に見つかりますよね。でも、同じ能力で人の美点はそう簡単には見つかりません。
どうしてだと思いますか。
やっぱり、好ましいと思いながら見ないと、美点は見えてこない。
これはとても基本的なことなんですけれども、忘れがちなことじゃないかな、という気がします。好意を持って相手を見る。いいところを探そうと思って見る。
人間の頭っていうのは、自由なようで不自由でありまして、(中略)同じ映像を見てたはずなんですけども、人間の記憶に残るものはぜんぜん違う。見る側が気にしているものが、まったく違うからですね。
ということは、いいところを探そうと思ってはじめて、いいところというのも見える可能性が出てくるわけです。(中略)何かの前提があってはじめて、見えてくるというものだろうと思うんです」
「コンセプト思考術」のパラダイム転換発想は、パラダイム、つまり「考え方の基本的な枠組み」その無意識的、無自覚的な前提を脱却するものだ。
しかし、人間の頭にとって不自由な前提は思考にとどまらない。
思考を導く感情、感情を導く情動、情動を導く即座の無意識的な身体反応が思考の大枠を制約してしまう。
たとえば、こんな体験はありませんか。
親しくなった他社の仕事相手とお酒を飲んで話をしていて、以前仕事を一緒にしたその会社の方々の名前を上げて「御社のみなさんは・・・な方ばかりですね」と賞賛した。ところが彼はある名前を聞いて急に嫌な顔をして「あいつは・・・ような奴だよ」と吐き捨てるように言った。
聞けば、彼が部門の異なるその人に会ったことは一回だけで、その時の応対が好ましくなかった、という。
私は、好ましく思っている彼と同じ好ましさをその人も持っていると評価したのだが、彼は、あいつと一緒にしないでくれと言わんばかりだった。
彼は、その人を好ましいと感じる「情緒性」を欠いていた。
その場合、彼にはアラしか見えない。一回だけの、それも冷静に考えればそんなことでその人の全人格を否定できるとはとても思えないようなことを理由に。
しかし彼にしてみれば、事その人に関して「一事が万事」という理屈が正しいのである。
おそらく誰もが、似たようなことを見聞きしたり、ご自身でも無自覚的にやってしまって涼しい顔をしているのではあるまいか。
かくいう私がそうだ。
私の場合、外部ブレインという立場からクライアントに話すことはないにしても、そういう思いで決めつけて、二度と仕事の話をしようとは思わない相手はいる。しかし冷静に考えれば、また異なる案件で話を持ちかければ違う反応をしてくれるのかも知れない。だが、もっと良さそうな反応が期待できる相手に働きかけている内にその人のことは忘れてしまう。
前述した仕事相手の場合、飲み屋での会話に私以外にも参加者がいて、彼らに対するある種の自己顕示欲が働いたことも作用していたようだ。何かにつけて「俺は、俺は」という発言になっていた。
しかしこれは酒のせいとばかりは言えない。
会社の会議の議論でも見かける「競争的な発言」や「攻撃的な発言」の構造でもあるからだ。
著者は「応化力」を土台とする「観音力」についてこう総括する。
「観音さまという方は、この(筆者注:狭量に硬直した情緒的な)前提をチャラにできる方なんじゃないかという気がするんですね。
あるいは、自分の拠り所としているものの見方(筆者注=パラダイム)、これを何回でも変えられる(筆者注=パラダイム転換)という方じゃないか。
長年生きてくれば、私はこういう場面においてこういうふうに動く、こういうことに対してはこういう反応をするし、こういうふうに思う。それはだんだん習慣になってきますよね。
しかし、それでは通用しないときってあるんです。(中略)
そのときに、これまで自分がしたことのない考え方をもつこともできる。それがおそらく、観音力じゃないか、という気がするのであります」
なぜ家電メーカー社員はゼロベースで生活者のことを思わなくなったのか?
昨年来の世界金融危機でメーカー各業界ともに、モノが売れなくなると考え、政府の財政出動で救ってもらうことばかり受身で期待している。
しかし、大不況の時代でも売れるモノは必ずある筈だ。
一つの大ヒット商品が会社全体を救うということは大企業の場合難しいが、マスの誰もがなびくような大ヒット商品が出にくいのは今にはじまったことではない。
また、中堅大手であれば、特定の生活への質的こだわりをもったカスタマー狙いの小ヒット商品でも、会社の当面を支えることは可能の筈だ。要は、小ヒット商品を数多く打ち出すつもりがあるかどうかだ。
だが、そういう事業部門のさまざまな体制の制約をチャラにして新基軸を打ち出す動きは極めて少ない。
この期に及んでそうなのには、企業社会だけでなく学校社会、官僚社会、地域社会などなど含む社会全体のパラダイムの制約が働いている、と私には思える。
それは、ボームが指摘した「現在の人類の危機の根本原因」である。
つまり、「因果論的な思考が必然的に生み出す分裂・対立・断片化」、この呪縛から誰も逃れられないと決めつけ、逃れようとしていない、ということである。
この現実がある以上、ボームの主張は社会的にはパスされてしまう。
著者はこのことに関連して、「●-----原因は山ほどあって、特定できない」という項目でこんなことを語っている。
「なにか事が起ったとき、原因を一つに絞ろうとする。
これを『単因論』と云います。仏教が最も嫌うところですが、最近はその考え方が非常に強い。
何か変なことが起こった。この教室の雰囲気が変だ。あいつのせいだ-----そういう考え方、ありませんか。
ほんとは原因は一つじゃないんですけど、一つに絞ればそれは楽ですよ」
私がけっこう好きな知的で美しい政治家が、「日本の企業の生産性は悪過ぎる」と批判していた。
残念ながら、こうした発言が「人件費を抑制すればすべてが解決する」という短絡的な「単因論」に繋がっていく。
経営に失敗したからそのツケを就労者に回して人件費を抑制しているのに、いつの間にか「生産性が悪いのは人件費が掛かりすぎていたせいだ」となり「だから経営が傾いた」「二度とそういうことがないようにノルマをきつくしよう」と問題がすり替えられていく。
「何がどう絡んで、こうなるのかっていいうことは、じつに複雑です」
経営の危機や不振も、業界業種それぞれ、大中小の規模それぞれ、どんな事業をグループ化しているのかなど、その企業ごとにいろんな絡みがあってのことなのは明らかだ。
しかし「単因論」の思考が、「世の中全体がそうなのだから仕方がない」とか「アメリカの◯◯マーケティングや◯◯マネジメントをどこも採用しているぞ」とか、短絡的にすべてを十把一絡げにする理屈をあたかも普遍的に通用するかのように正当化していく。
「何がどう絡んで、こうなるのかっていいうことは、じつに複雑です。
お釈迦さまは、それを『縁起の法』で示されましたけれども、簡単に云いますと、
此れ有るとき彼有り、此れ生ずるに依りて彼生ず
此れ無きとき彼無し、此れ滅するに依りて彼滅す
ということです」
文の前半が、Aがある時Bもある共時性
文の後半が、Aが原因になってBが結果する因果律
両者を渾然一体にしているのが縁起
ということである。
共時性は、
「ここで起っていることと、別な場所で同時に起っていることが関係し合うということがある。
そういうことを云っているわけですね」
現代人は科学という因果律で説明できないことを、存在しないとか錯覚であるとする思い癖がついてしまっている。
しかし、象徴的には「心」だが、科学では説明できないことでも、私たちが実感したりそれで生活できていたりすることもあるのだ。だから、すべて科学で説明できるとか、科学で説明できることしか存在しないとするのは、じつは立派な宗教なのである。
そして、本当に人類の最先端の立派な科学者ほど、そのような「科学の宗教性」に与しないでいてくれている。デヴィッド・ボームはその最高顧問に他ならない。(我が母校馬鹿田には逆の立場の急先鋒がいてテレビで活躍している。)
共時性の現象は、一般に「同期」と呼ばれる。
ライアル・ワトソンが著書「生命潮流」で紹介して世界の人々の知るところとなった「幸島のイモ」いわゆる「百匹目のサル」の話もそれだ。海水で芋を洗うサルが登場し島のサルが真似をするようになった。その数がある域値を超えた時、九州本土のサルまでが芋を海水で洗うようになったのだ。
ワトソンは同書で、たしか「鳥の大群が一瞬にして方向転換する同期」も紹介していた。もしある鳥が前に飛んでいる鳥(たとえばリーダー)の後を追って大群が方向転換するなら必ず波を打つ筈であり、この現象は共時性による同期をもって説明するしかない。
著者は、女子寮で学生が暮らしはじめると生理の周期が一致してくる、という例を上げていた。
これは女子寮生の間では昔からよく聞かれたことで、神経事象学では入門者向けの常識に属している。
「生理が重なると、便利なんです。一緒に子育てできるから」というのが生物学者の理由づけだそうだ。
おそらく、鳥の大群が一気に方向転換するのも、群れからの脱落者が出ないとか、遅れた鳥が補食されない、といった理由があるのだろう。
著者は、ホタルの点滅の周期も一致していて、関西の周期と関東の周期は違い、関西のホタルを関東につれていくと周囲に同期する例や、メコン川のホタルの一塊の大群の点滅が同期している例も上げている。
以上は、現象としてはよくある生物の生理的な「同期」だが、人間の認知にも「同期」はあるのだろうか。
ウィリアム・ベンソンは著書「音楽する脳」で、人間は言葉を話す前に音楽していた、と主張する。ここで「音楽する」とは発声や音を立てることによる「同期」のことで、それが歌や踊りや演奏になっていき、その過程で言葉が生まれたとする。
この過程に、生物の生理的同期から人間の認知的同期への展開がある。
また、脳科学で言うところの「ミラー・ニューロン」は、これによりサルはヒトが食べているのを見ただけで、自分が食べ物を食べている時と同じ脳内反応をしてしまう、というものだ。人間の場合、相手の表情を無意識的に真似るニューロンであり、私たちは相手が笑ったり泣いているのを見るとつられて笑ったり泣いたりし、その身体反応から楽しくなったり悲しくなったりもしてしまう。同期は共鳴、共感に繋がっている。
この過程にも、生物の生理的同期から人間の認知的同期への展開がある。
よく耳にする日本語の言い回しに「あいつと俺は同じ釜のメシを喰った仲だ」というのがある。
言いたいことは、同じ会社に勤めたことなのか、それともよく社食で一緒になったことなのか、そうではないだろう。そうならそう言う筈だ。
結局、「あいつと俺は経験を共にして同じような物事の感じ方や考え方をするようになった」ということが言いたいのだと思う。
同じような言い回しに「同じ屋根の下で暮らす」というのがある。
これも、「寝起きを共にした者同士でないと分かち合えない暗黙知を共有する」ということに眼目がある。
ナレッジマネジメントや知識創造という専門分野でよく言われる「場」という概念も、
ナレッジワーカーがリアルに相対することではじめて現象する「生物の生理的同期から人間の認知的同期への展開」が含まれてしかるべきだ。
しかし実際には、「暗黙知を明示知化する」のに不可欠なのが「場」であるとはするものの、「場」で何がどう現象しているか、現象するべきかその原理原則をこの専門分野は語らない。
その最大の理由は、この専門分野が日本発で生まれながら、物事を脳裏で考える際使う母語であるところの「日本語と日本文化の鍵と鍵穴の関係」を重視せずに、あくまでグローバルに通用する方向ばかりに方法論化したことがあると思う。
私はそれが不満で、ディスプレイ業界で展示空間論を追究した30年前から、<ルーミング>対<メッセージング>という対立概念を重視してきた。
(参照:「<メッセージング>と<ルーミング>」)
詳しくは前掲記事を読んでもらいたいが、日本人の発想思考、そしてそれを支える「日本語と日本文化」は明らかに<ルーミング>志向なのである。
そして<ルーミング>志向の日本人ならではの知識創造を支える「場」が成り立っている。そこはまさに「日本型の集団独創」の場だ。具体的な空間としては、管理職も平社員も一緒の大部屋が典型的だ。
一方、<メッセージング>志向の欧米人ならではの知識創造を支える「場」も成り立っている。具体的な空間としては、経営者とスタッフが幾つものモニターを睨んでいる作戦司令室が典型的だ。
日本型の「場」の原体験を、欧米型の「場」に置き換えてグローバル化することは簡単にはできない、またそんな必要もニーズもないと昔は思われたから、「日本人としての原体験」と「グローバル化すべき方法論」とを分離してしまった訳だ。グローバル化とはあくまで「因果律にのっとる機能論」でなければならない。
しかし、現代世界を救おうとするボームの対話論に、「場」の「日本人としての原体験」は「共時性にのっとる意味論」において明らかに気脈を通じている。
たとえば、「グローバル化すべき方法論」とはSECIモデルだが、日本人の集団独創の実践者からすれば、実践した集団独創を後付けでSECIモデルで説明することはできても、SECIモデルの順序に従えば集団独創ができるというものでもない、となる。
SECIモデルは、エーザイのようなグローバル企業が、知財と研究開発人材を重視する組織知識創造をITインフラを駆使して行う場合などに有効とは思う。しかし、小グループの集団独創にはあまり役に立たなかったり、小グループ本来の自由で自発的な創造性をむしろ縛ったり非効率化する嫌いがある、と私の経験からは思える。
組織知識創造を企業全体で推進する場合、SECIモデルという枠組みは有意義であり、「共同化」「表出化」「連結化」「内面化」の各作業過程ごとに小グループの集団独創の「場」が位置づけられる。しかしその「場」との関連で各作業がどうあるべきかはナレッジワーカーに任されている。各作業過程ごとに「場」が変容すべきなら、そこでの「対話」の有り方や進め方もそれに応じるべきなのだが。
主題は「知識経営」であり、知識創造組織の中枢が、SECIモデル全体の循環を監督する、経営者と経営スタッフのいる作戦司令室に想定されている。だから、現場作業や対話の有り方や進め方といったディテールに入り込まない。対話を方法論化するとなれば、エスノメソドロジーやメタ言語など学際的支援が必要になる。
一方、日本のエクセレントカンパニーの知識創造組織の中枢は、たとえばセブンイレブンの全国のミドルを一堂に集めて会長とともに対話する全体会議であり、そこでの発表内容を準備するナレッジ拠点化した現場店頭である。
業界一早くPOSを導入し単品管理を創始し常にITインフラを先行してきたセブンイレブンだが、そのデータの分析意図は極めて<ルーミング>志向だったと言える。
誰もが同じように全国一律に読み取れるデータの分析意図が、低コンテキスト(低い文脈性、たとえば数字の量的側面)を前提とする<メッセージング>志向とすれば、セブンイレブンのそれは様々な仮説と検証を繰り返した高コンテキスト(高い文脈性、数字の質的側面や物語性)を前提として、単品ごとにそれを売り買いする現場店頭をTPOを踏まえた「場」として読み切ろうとするものだった。
ここで、「全体会議での発表内容を準備するナレッジ拠点化した現場店頭」が、店長以下のパートを含めたスタッフたちが「同じ釜のメシを喰う」「同じ屋根の下で暮らす」のと同じような「場」になっていて、「生理的同期から認知的同期への展開」をしていたことが決定的に重要なのである。
これを競合他社は何年たっても真似することができないでいる。
セブンイレブンの競合他社を引き離す事業効率は、本部の商品開発や店舗指導の賜物だという意見がある。しかし、頭がいい人が本部にいるだけで加盟店全体の経営がうまくいくほどコンビニ事業はタンジュンではない。
「ナレッジ拠点化した現場店頭」を「場」として支える人材の育成と活用のノウハウ、そこにこそセブンイレブンの優位性があり、それが本部の商品開発や店舗指導の優位性の源泉になっている。
逆に競合他社は、つねに本部の商品開発や店舗指導の強化ばかりをはかっているから、いつまでたってもセブンを抜くことができないのだ。
そして、この因果律だけでは説明できない諸々は「科学」ではないから、セブイレブンの「科学」を分析するビジネス本では触れられないでいる。
著者はこんなことを語っている。
先ほどの女子寮の学生の生理の「同期」の話の続きである。
「応化力-----相手に応じて変化する力というのは、もともと、われわれの中にあるんです。(中略)
近しい、好ましいと思うと、なおさら同期が促されるようですね。
いちばん生理が近づくのも、仲良し同士なんです。好ましく思っていれば、体そのものがシンクロしていくっていうことが、ある。
この子をなんとかしたいと思えば、まずこの子に同調をしなければ、引っ張っていけないでしょう。(中略)
相手の好みにまず同調して、シンクロして、そうして引っ張っていく。これが観音の力です」
セブンイレブンは、まず各店舗がその地域の顧客の好み=特性に事細かに同調しようとする。次にそうした各店舗にエリアマネージャーを通じて本部が事細かに同調して指導する。それだけなら競合他社もやっているのだが、各店舗の店長とスタッフが主体性をもって働くように導いているところが傑出している。そこに本部の店長に対する、店長のスタッフに対する観音力が活性しているのではないか。
本部の人間が妙なエリート意識をもっている場合、各店舗をただ言うことに従わせるだけの存在として見る。
すると店長もおざなりの経営をして、スタッフも主体性なく店長に言われたことをこなすだけの人材にとどまる。つまりは、店頭現場が知識創造の場、集団独創の場にならない。これが観音力が活性していない状態で、競合他社には明らかにそうと分かる店舗が多い。
「なぜパイオニア社員はゼロベースで生活者のことを思わなくなったのか?」
最後にこの答えを述べておこう。
かつてパイオニアがオーディオ・メーカーであった頃、社員はオーディオ好きであった。
そして社員は自分と同じオーディオ好きの生活者を好ましいと感じ、言われなくても寄り添い「同期」した。
しかしウォークマンが世界でヒットしたあたりから事情が変わった。
メーカーの売上を支えるのは、ウォークマン好きではなく音楽好きになったのだ。
だが、社員が音楽好きである限り、音楽好きの生活者とも「同期」できた。
パイオニアの場合、この段階がカーオーディオに相当する。
メーカーの売上を支えるのは、カーオーディオ好きではなくドライブ好きになり、
社員がドライブ好きである限り、ドライブ好きの生活者とも「同期」できた。
この段階までは、セブンイレブンのような組織知識創造や人材育成活用の特段の工夫がなくても、社員はそれぞれの立場で観音力を活性させることができた。
ところがカーナビで事情が一変した。
カーナビはタクシーやトラックにも搭載されるコモディティ商品になっていき、ハイエンド・ブランド「カロッツェリア」といえどもその範疇にとどまった。
その範疇を脱してライフスタイル商品になる方途としては、高級ブランド車に標準装備されるしかなかった。
しかしこの段階で、社員がただドライブ好きというだけでは、利用者に個人的な好ましさを感じて「同期」することは困難になった。
プラズマのハイエンド・プランド「KURO」にしても同じことが言える。
いまKUROの生産中止を受けて、ハイエンド・プラズマ好きがネット上で商品探しに躍起になっている。彼らになら社員のハイエンド・プラズマ好きが個人的な好ましさを感じて「同期」することができたかのようだ。
しかし、よくよく彼らの書込みを読むと、生産中止で品薄となって騒いでいるだけの消費者が多く、彼らはいまより高性能低価格のプラズマがでれば何の抵抗もなくブランド・スイッチする筈だ。だから彼らは稀少価値好きと分類される。生産中止にならなければ買わなかったり買うにも騒がなかった人たちだ。
他の人たちは、KUROを買ってこうして使って楽しんで満足している、と書込みするたとえばホームシアター映画鑑賞好きや大画面ゲームプレイ好きである。そんな彼らには社員は同じ◯◯好きでないと「同期」できない。それも、なまじの映画好きやゲーム好きが時々大画面でも見ますよしますよ、程度の◯◯好きでは話にならないのだ。それは、オーディオ・マニアにオーディオ開発者が「同期」していたニュアンスを思い起こせば分かるだろう。
いまパイオニアではKUROのマーケティング&マネジメントの失策への批判をよく聞く。
私は敢えて、「では、どうすれば良かったのか」その答えこそ大切だ、と言いたい。
それこそが残存事業の活性化策に繋がるからだ。
また、世界大不況に直面して、それでも売れる新機軸の打ち出しをどうしていくか、経営危機にあるパイオニアの場合それはまさに起死回生策だが、それにも繋がる。
他事業部門の済んだことの批判だけしても何にもならない。
「人の振り見て我が振り直す」、その余地は多々あると私は思う。
私は、
特定の生活への質的こだわりをもつカスタマーを想定し、
社員が個人としてもそうした生活者を好ましいと感じて「同期」しうること、
それがマーケティング&マネジメント成功の鍵だ
と思う。
私個人の生活感から「同期」しうる生活者に向けた具体的なアイデアは、すでに本ブログで紹介したから省く。
ここでは、深刻化する世界不況を見越して、将来不安を共有する社員と生活者とが容易に「同期」しうるテーマを例解しておきたい。
これは不況だからこそ需要が高まる確かな成長市場である。
◯ 低生活費と情報快適性を極める「独居シェルター家電」
単身生活者は老若男女ともに拡大していく。
しかし経済不安はあり、
ミニマムな生活費で快適な情報生活を送りたいという欲求は高まっている。
社会不安が高まれば独居のセキュリティについてもより神経質になっていこう。
以上のことに個人として同感する男女の独身社員ないし単身生活に憧れる社員は、
想定カスタマーに好ましさを感じて容易に「同期」できるだろう。
「独居」でも孤立せずにITでネットワークするミニマム住宅や、
移動生活のできる電気自動車*とすることがポイントだ。
*
◯ 自給自足と健康増進をはかる「家庭菜園家電」
老後住むところを確保すれば、あとは最大限自給自足できれば、
健康的な運動と栄養バランスを保ちながら
出費を抑えて心やすらかに暮らせる。
以上のことに個人として同感する中高年社員は、
想定カスタマーに好ましさを感じて容易に「同期」できるだろう。
そして観音力を活性するマーケティング&マネジメントを集団独創できるに違いない。
以上「二 ふたたび観音力ということ *いのちは自ずと同期する」を検討した。