日本語と日本人の思考を特徴づける擬態語について(5) |
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からのつづき。
子音あるいは母音の相対的な差異の関係性として意味が既定されるオノマトペ語群としての体系的な造語メカニズム つづき
この本は項目ごとに、似通った擬音語・擬態語の用例をあげて、どこがどう違うのかその微妙な差異を具体的に解説している。
本書で取り上げた項目には、
他国語では一語で表現する言葉がない概念、つまりはあまり注目されないできた概念を、類似した擬音語・擬態語の差異に見出している、
そんな事例が含まれている。
「大きすぎたり、びしょ濡れだったり、群がったり・・・
第三章『人の行動』を表す擬音語・擬態語」
「ぞろぞろ」と「わらわら」
「『ぞろぞろ』と『わらわら』は、ともに同じようなものがたくさん出現する様子を表します。
でも、その出現の仕方に違いがあります。
『ぞろぞろ』は、(中略)多くのものが(筆者注:人間もふくめて)連なってある方向を目指して移動する様子です。
一方、『わらわら』は、(中略)やはり多くのものが出現する様子ですが、『ぞろぞろ』とは違って、その出現の仕方が乱れていて、統制がとれていないのです。(中略)また、『わらわら』には、『ぞろぞろ』にはない勢いのよさがあります」
英語・中国語ともに、「ぞろぞろ」の訳語はあるが、「わらわら」 に相当する言葉は見当たらない。
「ぞろぞろ」の訳語が、方向性の不揃いな出現を言う場合があるが、出現の勢いのよさまでは含意していない。
英語のtroop(群がる、ぞろぞろ集まる)、come filtering out of(からぞろぞろ出て来る)、
中国語のyong2出来(yong2=手偏に用、yong2chu1lai2、からぞろぞろ出て来る)、gu1gu1容容爬(gu1=口偏に古、gu1gu1rong2rong2 pa2、ぞろぞろうごめく)
である。
何かに「わらわら」出現された時の私たちや、「わらわら」と出て来なければならないような事態となった時の私たちの情緒には驚きや急く気持ちがある。
それを思うと、「わらわら」は日本語に特徴的な「身体感覚をともなった情緒性を表現する擬態語」であると言えよう。
「にゃーにゃー」と「にゃんにゃん」
「『にゃーにゃー』は、『にゃんにゃん』よりも弱々しい声を表します。主に子猫の声を写すのに用いられます。(中略)
それに対して、『にゃんにゃん』は、大人になった猫の声。だから、猫の代表的な声になっているのです。決して弱々しい声ではなく、勢いがあり、盛りのついて猫の声です。そこから男女がいちゃつくことを『にゃんにゃんする』と表現したこともあったほどです。
1984年の『現代用語の基礎知識』には、『若者用語』として『にゃんにゃんする』が出てきます。(中略)
猫の声は昔から、男女関係を暗示するのに大活躍。
平安時代の『源氏物語』では、『ねうねう』と記され、『寝よう寝よう』の意味に掛けて聞かれています。これは江戸時代まで、延々と受け継がれた猫の声です」
1985年に「夕焼けニャンニャン」という番組が、深夜番組「オールナイトフジ」の延長線上で企画・放送された「オールナイトフジ女子高生スペシャル」から派生した。 「女子高生スペシャル」は「夕やけニャンニャン」スタートを前提においた「初期おニャン子決定」という意図も持たせていた。
「おにゃん子クラブ」は、2005年に誕生したアキバ系アイドルの集団「AKB48」をプロデュースした秋本康氏がつくったことは有名。
そしてアキバ系のオタクの世界から、「萌え〜」という言葉が生まれたことは周知の通りだ。
「にゃんにゃん」にしても「萌え〜」にしても、日本語に特徴的な「身体感覚をともなった情緒性を表現する擬態語」であり、若者風俗の気分を方向づけるキーワードになっていることが見て取れる。
ちなみに猫の鳴き声は、英語ではmew、中国語ではmie1(口偏に米)、miao1(口偏に苗)である。
英語・中国語ともに子猫だろうと大人の猫だろうと同じだ。
「にゃんにゃん」も「萌え〜」も特定文化メタファーということになる。
「ぬらぬら」と「ぬるぬる」
「『ぬらぬら』も『ぬるぬる』も、どちらも粘液のようなものでおおわれていて滑りそうな様子を表します。
でも、不快感の程度に違いがあります。
『ぬるぬる』は、(中略)滑りそうな事実を述べているだけです。(中略)実際その時感じている感触。ですから、その行為をやめれば、その感触はすぐに消失します。
(筆者注:感性的メタファーの→外部感覚のメタファーの→五感のメタファーの→触覚のメタファー)
一方、『ぬらぬら』は、(中略)直接触っているわけではありません。でも、表面には粘液などが気持ち悪いほど付いていて、光を放っています。(中略)視覚的な気味悪さが入り込んでいるので、不快感が大きいのです」
(筆者注:
視覚的という点では、感性的メタファーの→外部感覚のメタファーの→五感のメタファーの→視角のメタファー
気味悪いと認識する点では、悟性的メタファーの→個別認識メタファーの→特定文化メタファー)
英語の訳語としては、
「ぬるぬる」にslime、
「ぬらぬらしている」にslimy、slippery(道などが滑りやすい)
があるが、後者に、直接触っていないことと気味悪さの含意はなく、前者との違いが不明快だ。
中国語の訳語としては、
「ぬるぬる」に粘液(nian2ye4、納豆など)、粘滑(nian2hua2、すべるようす)、
「ぬらぬら」に又滑又粘(you4hua2you4nian2)
があるが、後者に、直接触っていないことと気味悪さの含意はなく、前者との違いが不明快だ。
英語・中国語ともに、「ぬらぬら」のような一語で「ぬるぬる」とのニュアンスの違いを表現する言葉、つまりは日本語に特徴的な「身体感覚をともなった情緒性を表現する擬態語」は見当たらない。前者と後者のニュアンスの違いを出すためには前後の言葉遣いの文脈によるしかない。
そういうことからも、「ぬらぬら」が悟性的メタファーの→個別認識メタファーの特定文化メタファーと捉えられる。
たとえば、ゲゲゲの鬼太郎に出てきた「ぬらりひょん」は、江戸時代の妖怪絵巻にすでに現れていた、瓢箪鯰(ひょうたんなまず)のように掴まえ所が無い化物である。この「ぬらりひょん」の「ぬら」は「ぬらぬら」と通じている。「ぬらり」は滑らかな様子、「ひょん」は奇妙な物や思いがけない様子を意味し、ぬらりくらりとつかみどころのない妖怪であるところから「ぬらりひょん」という名称がつけられたのではないかとされている。
「ぼとぼと」と「ぼたぼた」
「『ぼとぼと』も『ぼたぼた』も、ともに、液体やそれを含むものが連続して落ちる音や様子を表します。
でも、落下した後の状態に違いがあります。
『ぼとぼと』は、(中略)(出血を表現する場合)落下した血は丸い粒になってまとまっています。
一方、『ぼたぼた』は、(中略)大量に次から次へと滴り落ちて、下で広がってしまう様子です。
こうした両語の意味の違いは、音の持つイメージからかもし出されています。
一般的に『o』からは丸いイメージを、『a』からは大きく広がるイメージを抱くことが明らかになっています。
だから、『o』音を使った『ぼとぼと』は丸い粒のままの落下、『a』音を使った『ぼたぼた』は下で広がる落下を意味するというわけです」
英語の訳語としては、
「ぼとぼとたれている」にbe dripping、
「ぼたぼた落ちる」にdribble、drip、drop、trickle
があるが、前者と後者の違いは量の違いであり、ともに直接的には落下後の状態の違いを連想させない。
中国語の訳語としては、
「ぼとぼと」にpa1da1pa1da1(口偏に拍と口偏に答の反復)
「ぼたぼた」にpa1da1pa1da1(口偏に拍と口偏に答の反復)、一滴滴地(yi1di1di1de)、滴滴答答地(di1di1da1da1de)
があるが、前者と後者の違いは量的にも不明快で、ともに落下後の状態の違いを連想させない。
前項(3)で検討した最初の対比項目、ラーメンの味の「あっさり」と「さっぱり」のように、現象のその時だけでなく後の状態をも一語で表現する擬態語は、日本語に特徴的のようだ。
「めきめき」と「めっきり」
「『めきめき』と『めっきり』は、ともに変化が著しい様子を表します。
でも、変化の方向性が違っています。
『めきめき』は、(中略)『頭角をあらわす』『上達する』などの良い状態に変化していく場合に用います。
一方、『めっきり』は、どちらかというと、悪い状態に変化していく場合に用います。(中略)『痩せ細る』『寒くなる』など好ましくない方向への変化が際立っている時に用います。
でも、こうした使い分けは、現在でのこと(筆者注:今でも『めっきり春めいて』などという表現あり)。これらの語が生まれたばかりの時代には、区別ははっきりしていません。江戸時代には、『めきめきと年よる人(中略)』(俳諧撰集『あなうれし』)のように、『めきめき』を『年をとる』という好ましくない状況への変化に使っています。また、逆に『めっきり』を、『めっきり薬も廻り(中略)』(浄瑠璃『心中宵庚申』)のように、良い方向への変化に使ったりします。現代になって、『めきめき』と『めっきり』は、意味の分担をしたのですね」
英語の訳語としては、
「めきめき」にremarkably、rapidly
「めっきり」にvery much、a lot、remarkably
があるが、前者と後者の違いは量的にも不明快で、ともに変化の方向性の良し悪しを連想させない。
中国語の訳語としては、
「めきめき」に顕著(xian3zhu4)、迅速(xun4su4)
「めっきり」に顕著(xian3zhu4)、急劇(ji2ju4)
があるが、前者と後者の違いは量的にも不明快で、ともに変化の方向性の良し悪しを連想させない。
私見では、「めきめき」には変化の継続するニュアンスがあり、「めっきり」には変化の終結したニュアンスがある(「すくすく」と「すっかり」のように)。そのことが、変化の方向性の良し悪しのニュアンスに転化していったのではなかろうか。
良くにせよ悪くにせよ、変化する主体ないし変化を認識する主体に喜びなり哀しみなりの情緒を発生させる以上、「めきめき」と「めっきり」は日本語に特徴的な「身体感覚をともなった情緒性を表現する擬態語」と言える。
以上、日本語に特徴的な「身体感覚をともなった情緒性を表現する擬態語」を、英語・中国語との具体的な比較をしつつ例解した。
一方、日本語に特徴的な身体語を用いた慣用句として、「身体感覚をともなった情緒性を表現する身体語を用いた慣用句」がたくさんある。
ちょっと想い浮かぶだけでも、
「目が覚める」 迷いが去り正しい姿に立ち返ること。
「鼻高々」 いかにも得意げであるさま。誇らしげなさま。
「口惜しい」 思うようにいか なかったり大切なものを失ったりして残念に思うさま。
また、いまいましく思うさま。
「破顔」 顔をほころばせて笑うこと。
「肩の荷を降ろす」 重圧から解放される重い責任や負担を負わなくて よい状況になること。
「腕がなる」 技能や力を発揮したくてじっとしていられないでいること。
「後ろ指をさされる」 当人の知らないところで悪口を言われること。
「腰を据える」 落ち着いて事に当たること。
「尻が軽い」 行いが軽々しい。軽はずみであること。
「手を握る」 力を合わせて事にあたる。また、仲直りすること。
「足を洗う」 悪い仲間から離れる。好ましくない生活を やめること。
などある。
日本語に特徴的な「身体感覚をともなった情緒性を表現する擬態語」と「身体感覚をともなった情緒性を表現する身体語を用いた慣用句」が多様に存在し私たち日本人が日常的に多用することは、
いかに日本人は古来、「身体感覚をともなった情緒性」を重視してきたかを物語っている。
自分の情緒性を重視するのであれば、必ずしも身体感覚を引き合いに出さなくてもいい筈だ。
身体感覚を引き合いに出すのは、身体感覚を言わば共通言語として他者の情緒性を重視した、つまりは個人よりも集団の人間関係を重視したためではなかろうか。
「身体感覚をともなった情緒性を表現する身体語を用いた慣用句」については別途の記事シリーズで検討したい。